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忘れられた童話たちは、まだ終わっていない  作者: 水月 りか
第一章:赤ずきんのいない森
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第1話「待ち人来たらず」

 あらゆる物語には、語られなかった裏側がある。

 わたしはそれらを見てきた。

 わたしはそれらを記録してきた。

 わたしはそれらを—守ってきた。


 これから語るのは、誰も知らなかった物語。

 あるいは、誰もが知っているはずの物語の、誰も知らなかった続き。


 ーーーーーーーーーーーーーーーー


 森の中、一本の古い樫の木の根元に座り込んだ灰色の影があった。

 それは大きな狼だった。


 朝露に濡れた草の上に座り込み、狼は木漏れ日の中で目を細めていた。

 時折、耳が動く。森の中の小さな物音に反応し、毛並みがわずかに震える。

 しかし、彼が本当に待っている音は、別のものだった。


「今日も来ないか」


 低いつぶやきが、森の静寂を破る。

 このセリフは、もはや彼の日課となっていた。

 毎朝同じ場所に来て、同じ言葉を呟く。そして待つ。


 彼が待っているのは、赤い頭巾を被った少女。

 物語の通り、おばあさんの家へ向かう途中の少女。

 しかし、その少女は今や現れなくなって久しい。


 狼の視線が、森の中の一本の小道に向けられる。

 そこは昔、少女が通っていた道。今では草が伸び、ところどころ苔むしている。

 誰も通らなくなった道は、少しずつ森に飲み込まれつつあった。


「どうして来なくなったんだ?」


 狼は自問する。最初の頃、彼は自分が彼女を怖がらせたからだと思っていた。あの日、彼は少女を驚かせようと、先回りしておばあさんの家に忍び込んだ。それからのことは、多くの物語が語る通り—彼は木こりに腹を切り裂かれ、石を詰められ、川に投げ込まれた。


 だが、その続きは誰も知らない。

 狼は死ななかった。

 なぜなら、この森の物語では、彼はただの狼ではなかったから。


 彼は灰色の毛皮の下から石を取り出し、自分で傷を癒した。そして再び森に戻ってきたとき、すべてが変わっていた。


 赤ずきんは二度と森に姿を現さなくなった。おばあさんの家は静まり返り、木こりたちも姿を消した。森は少しずつ、人間の気配を失っていった。


 狼は立ち上がり、伸びをした。

 彼の体は人間のように二本足で立ち、少し前かがみになって歩き始める。

 毎日同じコースを巡回するように歩く。おばあさんの家へ続く道、小川の傍、森の入り口近くの開けた場所。


 森の奥から風が吹いてきて、樹々がざわめいた。枯葉が舞い落ち、狼の毛皮に一枚、二枚と付着する。

 彼はそれを払うこともなく、前へ進む。


「最近の子どもたちは森に来なくなったね」


 声は突然現れた。大きなフクロウが樫の木の枝に止まっていた。

 古い知恵を宿す森の番人。彼がめったに口を開くことはない。


「ああ」


 狼は短く返事をした。


「怖がるからな」


「本当にそれだけかい?」


 フクロウは首を傾げた。


「それとも、物語が変わってしまったのかな」


 狼は立ち止まり、フクロウを見上げた。


「物語が変わる?」


「むかしむかし、あるところに…」


 フクロウは語り始めた。


「一人の少女が住んでいました。彼女はいつも赤い頭巾を被っていたので、村の人々は彼女を赤ずきんと呼んでいました」


「知ってる話だ」


 狼は不機嫌そうに言った。


「ある日、少女は病気のおばあさんを見舞うために森を通り抜けることになりました。そこで彼女は…」


「狼に会った」


 狼は自分自身のことを語るように言った。


「いいえ」


 フクロウは静かに言った。


「この物語では、彼女は誰にも会わなかった。なぜなら、彼女は森に行けなかったから」


 狼は耳をピクリと動かした。


「どういう意味だ?」


「物語は時に変わる」


 フクロウは羽ばたきながら言った。


「同じ始まりでも、違う道筋をたどることがある。この森の物語は、もう書き換えられてしまったのかもしれない」


 そう言って、フクロウは大きく羽ばたき、森の奥へと飛び去っていった。


 狼は一人残され、静かな森の中に佇む。


「物語が変わった…?」


 彼の周りで風が強まり、枯葉がさらに舞い上がる。

 まるで森全体が、何かを告げようとしているかのように。


「なら、俺はどうなるんだ?」


 狼は空に向かって問いかけた。


「赤ずきんのいない物語の中で、悪い狼は何をすればいいんだ?」


 答えはない。

 ただ森の静けさだけが彼を包み込んだ。


 その日も狼は、いつものように森の中をさまよった。

 小道を歩き、小川のほとりで水を飲み、開けた場所で日向ぼっこをした。

 そして夕暮れ時、彼は決心した。


「おばあさんの家に行ってみよう」


 太陽が森の向こうに沈み始めるころ、狼はゆっくりとおばあさんの家へと向かった。

 かつて彼が忍び込んだあの家。赤ずきんとの物語が始まったはずの場所。


 道はさらに荒れていた。木の枝が道をふさぎ、野生の草花が足元を覆っている。

 それでも彼は進んだ。どこかに答えがあるはずだと信じて。


 遠くでフクロウの鳴き声が響く。


「物語は変わる…物語は変わる…」


 狼は立ち止まり、夜の闇の中で耳を澄ました。


「でも、終わってはいない」


 彼は再び歩き始めた。

 森の記憶の中に埋もれた物語を探して。


(つづく)

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