4:別れと来訪
クララはすっかり意識を失っていた。
彼女は何かにうなされしきりに顔をしかめる。体からは大量の汗が噴き出しているためドレスも肌にぴたりと張り付いている。
ただ無垢であったはずの少女の姿に、ルーシーはその双眸に暗い影を落とす。
「駄目だったのね。彼女は耐え切れなかった。元々この子に会うまでは、人間なんて……特に子供なんて大嫌いだったから、はじまりが酷かった」
――――でも、それでも離れたくないほど特別で
ルーシーはその言葉を飲み込む
クララのほかにも稀に、彼女の姿に気づく者がいた。
そんな時は記憶を消してそのまま眼前から消えてしまうか、真実を告げ血にまみれたこの旅の安息の場所として、たまに寄らせてもらうかのどちらかに一つを選んでいた。その選択権は彼女にあったが、ルーシーの様子を天使の監視役から聞かされた神が、「もし、真実を告げられて耐え切れなかった場合、記憶を消してすぐさま立ち去ること」という掟を定めたのだ。
ルーシー自身が、自ら自分の正体を曝すようなことは、彼女の神への忠誠心からしてありはしない。しかし、人間に混じって生活をしながら堕天使を狩り続けることはとても困難で、時には異形だと気づかれてしまう場合もあるのだ。
「ジェイル、早く記憶を消してあげて。それと、〝今日誕生日の可愛いルーシーちゃん〟とかかわった全ての人の記憶からも消すから、ちょっと大掛かりになるかも。やってくれる?」
「仰せのままに、ルーシー様」
いつのまにか元の笑顔に戻ったジェイルは、クララを抱えながらルーシーに頭を下げ、新しい閉鎖空間二つを作った。
家具や壁紙、小道具まで淡くやわらかい色合いで、しかしどこか異質なものを感じさせる一つ目の部屋には、中心に大きな天蓋のついたベッドがあった。
二つ目の部屋は白と黒と紅だけで構成された優雅で冷たい印象の部屋だった。
ルーシーが二つ目の部屋に消えるのを見届けると、彼は腕の中でぐったりとしている少女を一つ目の部屋に運び、ベッドに寝かせる。
ジェイルが袖を捲り上げて左右を見渡すと、化粧台の上にのった巻物をとり、床に広げた。
一度に大量の記憶を消すのは、見落としがないように慎重に行わなければならないため、一字一句唱え間違わないように術のかかれた神聖な紙を使うのだ。金の文字が這いつくばるようにして、所狭しと並んでいるそれに一通り目を通すと、クララを一瞥して、また術に目を戻す。
そして、ゆっくりと術を唱え始め、両腕を滑らかに動かして記憶のデリートをはじめた。
そうしてジェイルが仕事を始めたとき、ルーシーは一人、ベッドの上で大の字になっていた。
神の側に付いたものらしからぬ漆黒と純白と紅蓮の入り混じるその部屋は、彼女の趣味だった。
白い天蓋に大胆に刺繍された紅と黒の薔薇に視線を走らせ、端から端まで熱心に見つめる。今は何も考えたくなかった。
しかし、考えたくないと思えば思うほど脳は活発に動き、眸を閉じてもまぶたの裏に様々なことが浮かんでくる。
「じっとしてちゃ駄目ね」
思いきり勢いをつけて立ち上がると、クローゼットへと進みドレスを脱ぎ捨てる。
先の戦いでも汗一つかかなかった彼女は、そのままゴシック風のワンピースを取り出して着替える。そして洗面所へ向かうと、大きな鏡に映る自分の顔に血が付いているのを見つける。
どこも痛まず、怪我をした様子がない自分を見て「エドの血だ」とわかる。途端に吐き気がせり上がってきたため、急いで顔を洗うとすっかり化粧の落ちた自分の顔を見つめて、ため息を吐く。
しかしジッとしていればまた瞳に涙がたまる。
ルーシーは泣くことは嫌だった。自分でまいた種であるというのに、情けない声を出してどうするのだと、無理やり気合を入れる。今、記憶が消えるまでの時間、一番つらいのは他ならぬクララなのだ。
となりにあるタオルで顔を軽く拭き、化粧台の前に座る。
黒や赤を選んで、まぶたや唇にのせる。自分が本来してきたメイク。
一年の間に忘れてしまっていないことを確認すると、幼い顔が経てきた年の数だけ大人っぽく妖艶に見えるのを、自分の顔でありながら不思議そうに見つめる。
ジェイルが記憶を消し終わったそのとき、彼女は次の街へと移動を始める。
堕天使のいないこの地に留まる理由は、何一つないからだ。
十二歳のとき、戦闘能力のために犠牲にした「成長」の影響は今も解けておらず、床に届かない足をぶらぶらとさせる。すると、この部屋に一つしかないドアが控えめに叩かれるのが耳に入った。
「ジェイル?今日はやけに早いわね。今開けるわ」
椅子から飛び降りると、ゆっくりとした足取りで扉まで向かい、そしてその扉を開く。
「こんばんは、ルーシー様」
その声が鼓膜に届いた瞬間に全身に鳥肌が立った。
冷や汗が首筋を伝い、ドアノブから上がろうとしていた視線が思わず止まり、不自然にあたりをただよう。
百年の時を生きてきた彼女だが、天界・下界では何百年と生きることは当たり前のことである。目の前に見えている純白の服に身を包む彼も、もう何百年と六つしかない大天使の座に座り続けている。
そして、威圧的で敵意の感じられる空気を纏ってルーシーに微笑みかけている。
ぎこちない動きで首を上げて、真っ黒なワンピースの裾をつまみ持ち上げた。
「……こ、こんにちは。今日はどうしたのですか?アリステア様」
「ええ、そろそろ状況報告として天界に上がってもらいたいのです」
「そう、だったのですね。も、もうそんな時期でしたか」
ルーシーはアリステアのことを少し……いや、とても苦手に思っている。彼は神に直接天界から追放された堕天使だけでなく、その子供や孫も、要するに全ての堕天使を穢れているとしている。
それは、突然変異で堕天使を狩るためにこの世に産み落とされたルーシーとて例外ではなかった。
口元には笑みが浮かんでいるが、その鋭い眼光にはあからさまな侮蔑の色が混じっていた。
いつもは傲慢で女王様のような態度をとることさえあるルーシーも、アリステアの前では緊張で静かでおとなしい少女へと変わる。
「そうです。我らが父は私に貴女を呼びに行くように命令をしました。ですから私はここにいます」
まるで、勘違いするなとでも言いたげにわざわざわかりきったことを繰り返す。
「さあ、早く用意をしてくださ」
「あ、待ってくださいませんか?ジェイルが今手を離せない状況で……」
そういえば、大げさにため息をつき、まだ若々しいその顔を歪める。
「いいですか?それが終わり次第至急天界へ来てください。父は貴女を待っておられます。神を待たせるなど、これだから堕天使は!付き添っているジェイルの哀れなことよ!!」
「いい加減にしてください、アリステア様」
自らの後ろに、長身の彼が姿を現せばアリステアは慌ててジェイルの方を向く。
ジェイルは次期大天使候補といわれており、訓練所での兄弟子であったアリステアの溺愛っぷりは天界でも有名になっている。
そんな彼が現れたことに若干の安堵感を覚えながらも、彼が来たという事はクララの記憶から自分が消えたのだという事を意識して表情が暗くなる。
しかし、アリステアも、アリステアに隠れてルーシーの姿を見ることが出来ないジェイルも彼女の表情の変化には気づくことはなかった。
「ジェイル、何を怒っているんだい?それより、修行なんてわざわざあちこち飛び回るものじゃないよ。私のところへきなさい!こんな穢れたものの……」
「アリステア様、いくら貴方様でもそれ以上言えば私は許しません」
視線を鋭くするジェイルに、何故だかわからないといった様子でしゅんとするアリステア。その脇を通ってルーシーの元へたどり着いたジェイルは、そっと彼女に手を差し伸べる。
伸ばされた手を力なくつかめば、クララの居る部屋へと向かう。
「何をしているんだ?」
「少しだけ時間を上げてください」
ジェイルが扉の前で手を離し、気を使って二人きりにしてくれた。中央のベッドの上に横たわるクララはすっかり落ち着いていたが、その瞳は閉じたままで直ぐ側にたっても目を覚ますことはなかった。
その体はあたたかいが、まるで生気が感じられない。心臓が鳴り、脈が波打っているというのに死んでいるようだった。
自分の頭の片隅でちらつく少年の姿を、無理やり意識の奥底に埋めてチョコレート色の髪を撫でる。
額にそっと口づけをして、久しぶりにできた友達に別れを告げる。例えそれが仮初めの姿だったとしても、信頼しあったことがあるという事実は何も変わらない。
扉の外からの催促の音は聞こえない。
ジェイルがアリステアを止めてくれているのだろう。
しかし、何時までも迷惑をかけ続けるわけにはいかない。後ろ髪をひかれる思いだったがクララに背を向けて歩き出す。
キィ
「お待たせしてすみません。いきましょう」
強い決断をしたその瞳の光は、美しくもどこか儚かった。




