3:狂気と悦楽
記憶の中で意識が落ちた瞬間、クララはまた、夜風が吹くバルコニーへと戻ってきていた。
「どうして……そんな……嘘よ、嘘。ルーシーちゃんが死んだなんて、ありえない。……今のは私の勘違い。違う、ちが……」
「嘘でも、間違いでもないの。わかってるでしょ?クララ」
ゆっくりとした足取りで、ジェイルに向かって歩いていくルーシーが、クララの言葉をさえぎる。
いつもの笑顔でも、嫌なことがあった時にする眉間にしわの寄った顔でもない。とても悲しそうで、今にも大粒の涙がボロボロと落ちてきそうなほど、寂しさに歪んだ顔。
ただ、言葉にならない言葉をつぶやき続けるクララに、彼女はもう一度向き直り、ジェイルの隣で話し始める。
「あのね、クララ、私は堕天使といってね、神様に嫌われた一族の生まれなの」
「堕……天使。堕ちた天使……。でも、でも」
「いるの、本当に。神話の中の出来事じゃないの」
「羽……。ああ……あれは本当にルーシーちゃん……?」
痛みに耐える様な表情で、頭を抱えながらもルーシーの言葉に返事をしていく。
しかし返事をしているといっても、クララの目は虚空を捉えて、決して前を向くことはない。
「そう、私よ。あのね、私は堕天使だけど、神様に機会を与えてもらった堕天使でね、この紅い羽はその証拠なの」
「機会……?」
「私は堕天使と堕天使の間に生まれた突然変異の子だったの。沢山の黒の中で、私だけ紅い目と羽を持っていたのよ。五歳になって、三ヶ月経ったある日、神様が私の脳内に話しかけてきた。『お前が何故、紅い目と羽を持つのか教えてやろう』と……」
彼女は語った。自分の姿を。
強大な力を持つ堕天使の父親と、美しく才に満ち溢れた母の間に生まれたルーシーは、生まれつき紅い羽と瞳を持っていた。その妖しい見掛け故に疎まれていた彼女の、五歳の誕生日。その日に彼女は「神からの声」を聞いた。紅い目と羽の秘密を知りたければ、天界に来るためにその家をでなさい。地と下界を繋ぐ鎖がある場所で、天からの使者を待ちなさいと。
冷たい床で、一人過ごす誕生日に哀しみを感じていた彼女は、その言葉に従って家をでた。途中何度も見張りに見つかりそうになりながら、必死に走り続けた。そして、彼女は初めてみた白い羽の天使に連れられ、天界を訪れる。
そこで彼女は、とても美しく慈愛に満ちた瞳をする青年に出会う。それが「神」だった。そして、彼女は歌によって様々なものを操ることができることを教わり、沢山の堕天使を消滅させることを頼まれる。
「それから、もう百年以上が過ぎた。堕天使の数は減少しているけれど、まだまだ消滅には程遠い。ただ滅するだけの日々に飽きた私は、貴女の死んだ友人に成り代わって人間ごっこをすることを思いついた。クララと会って話すことを重ねるたびに、何てことをしちゃったんだろうって思ったのよ?何て取り返しの付かないことを……と」
「ルーシーちゃんは……戻ってこないの……?」
今まで黙っていたクララが、唐突に口を開く。
「戻ってこないわ。彼女は死んだの」
静かに、何度もクララに告げた言葉を繰り返す。
再確認した言葉に、既に血の気がうせていた顔が、益々青くなっていく。大きな瞳にいっぱいいっぱい涙を浮かべ、その涙がこぼれる瞬間に膝が落ちる。
ルーシーがクララに近寄ろうとすると、後ろからそっとジェイルに抱きしめられた。
「いけません、ルーシー様。彼女が自分で乗り越えられなければ記憶を消すというルールは、どんな者にも分け隔てなく執行されるべきものです。お辛いのはわかりますが、控えてください」
「ジェイル、わかってる。ごめんね」
「謝らないでください、私は…………」
バサ、バサ、バサ、バサ
哀しみに満ちた空間に、突然風が吹いた。
「チッ、こんな時に厄介な」
ルーシーが乱暴に吐き捨て、もう一度小さな声で歌い、すっかり元に戻っていた両手を再度刃に変える。
彼女の獲物のお出ましだった。
「すっかり忘れていたわ。一匹取り逃がしてたんだった」
「また察知できなかった……申し訳ありません、こやつは今までの雑魚とは違うようです。いけますか?」
「もちろん。私を誰だと思っているの?」
クララが膝を落とし、絶望の表情を浮かべた顔を両手で覆っている時、黒い天使は閉鎖されたその空間に割り込んできていた。
唇の片端を上げ、あざ笑うような表情を浮かべるその黒い羽の天使は、ルーシーを一瞥すると機嫌をよくして笑みを深めた。
そっと、クララをかばえる位置に移動しながら、ルーシーも笑みを深める。
黒い堕天使よりも、欲深く傲慢に紅い瞳に光を宿らせて、獲物を見つけた彼女は唇を舐めた。
「シンガー、やっと会えタ。われらが父が僕にも機会をくれタ。貴女と戦えるなんて夢のようでス。
貴女との戦いは、死と隣り合わせの危険な、しかしとても刺激的な快楽を味わえると言ウ。僕、期待してたんですから、楽しませてくださイ!!」
狂った声を上げるその姿は、幼くして成長の止まったルーシーよりも若く、そして中性的で妖しかった。
羽をたたむ様にしてバルコニーの柵の上へと降り立った彼は、まだくつくつと笑い声を漏らしている。
「貴様、どうやって私の作った閉鎖空間に入った?」
ジェイルがいつもの笑顔をすっかり消して問いかければ、目の前の堕天使は笑い声をぴたりと止めて、ジェイルを真っ直ぐ見つめた。
「聞きたいですカ?そうですカ!!では、教えてあげましょウ。我らが堕天使の王は、いつまでもやられっぱなしでいることに飽きたという事でス。貴方達のなぞを謎のままにしておくのを止めたのですヨ」
「……それは、私の術を見破ったという事か?」
「フフフ……いつまでも有利で居られると思ったら大間違いなのでス」
自慢げに語った彼が、また笑みを深めれば、その右手に巨大なランスが現れる。
「貴方、お名前は?私はルーシー。シンガーじゃないわ」
余裕の表情を浮かべながら、ルーシーは彼に問いかけると、低音で音を紡ぎ始める。
「自分で話しかけたのに、歌い始めるとハ……なんともマイペースな人ですネ。私達の間では貴女はシンガーと呼ばれていル。貴女の名前がどんなものだとしても、私は堕天使の誓いにかけてシンガーと呼ばせていただきまス」
彼が言い終えるまでに歌の一節を歌い終えたルーシーの両手には彼と同じくランスが握られていた。
「私にマイペースと言ったけれど、貴方も名前を言っていないわ。シンガーと呼びたいのならそう呼べばいいけど、自分を消滅させる相手の名前くらい、知っておいたほうがいいとおもったの」
「おやおや、それはどうもご丁寧ニ。ですが、残念ながら僕は消滅などしませン。しかし貴女がそれほどまでに僕の名前を知りたいのなら教えて差し上げましょウ。僕の名はエド。これでも第三部隊の隊長を務めているのでス」
隊長という言葉に、ルーシーはわずかに顔をしかめた。たった五年しかいなかった下界だが、隊長と言う名の付く者には特に差別されてきたからだ。
しかし、今思うと彼らは正しかったのかもしれない。百年経った今、ルーシーは堕天使を裏切りこうして神のために戦っているのだ。
「ふーん、隊長?じゃあ少しは手応えがあるはずね。久しぶりに楽しめそうだわ。ジェイル、クララのそばに居てあげて」
「しかし……」
「いいから言うとおりにしなさい」
「…………わかりました」
ジェイルが渋々首を縦に振るのを見て、ルーシーはランスを構えた。
腰を落とし口を開くと、また歌を歌い始めた。
彼女は歌によって様々なものを操るが、それは何も人だけには限らない。元々は古代語を話すことによって人を操る力を生まれつき持っていた彼女だが、神に教えてもらったメロディーにのせることで物も操ったり召喚することができるようになっていた。
先ほどランスを出したときよりも低く重く、暗い音を奏でれば、エドの顔から笑みが消える。
ズズッという音をたてて、岩が持ち上がっていたからだ。
エドを囲むようにして浮かんだ岩は、どれも重く先がとがっているものばかりだった。
そして、ルーシーの歌っていた歌がぴたりと止んだ
「――――ステイラ」
ガンッ
正面から襲ってきた岩を槍で弾けば、今度は右から細かく鋭い石が飛んでくる。
「クッ」
その一つが腕を掠めれば、二の腕に小さな切り傷が出来る。しかしそれに構っている暇はなく、今度は大岩が両サイドからエドを襲う。
「フフフ、油断していましたヨ。今度は……僕から行きまス」
エドがそう呟くと、ルーシーの視界から消える。
「どこを見ているのですカ!!!」
一瞬目を見開いたルーシーに、自ら叫び声を上げれば直後に上から物凄い風圧が彼女を襲う。咄嗟に持っていた槍を頭上でクロスさせれば、上空から落下して重さを増したエドの槍が圧し掛かる。
「反射神経は中々のもののようです……ネッ!」
嫌な金属音があたりに響く。
ルーシーの口は動き続け、岩は彼女の思うとおりにエドを襲う。空中を飛び回る岩の間をぬって、二対の白い槍でエドを激しく攻め立てるが、長さのある彼の武器にことごとく止められる。
しかし、ルーシーの口角は上がっていた。楽しそうにふふっと笑い声を漏らすと、エドから飛び退き十メートル程はなれた位置に着地する。
降りた地で目をつぶるルーシーの歌はいつの間にか高音になっており、先程まで轟音が鳴り響いていた土地に美しい旋律が刻まれる。
エドはすかさずルーシーの目の前に飛び込み、首元を目掛けて突くが突然現れた太い木の枝によりそれを阻まれてしまう。
ミシミシとなり木に埋まった槍を勢いよく引き抜き、もう一度、今度は頭蓋に向けて突くがまたもや反対から現れた木に阻まれる。
「自然が味方とでも言いたいのですカ?僕はそんな…………」
ガッ
エドが何かを言おうとした瞬間に、木が弾ける。
その破片に視界を奪われない様に慌てて後ろに飛び退くと、その中心に白い光に包まれたルーシーが現れた。
そして、そのルーシーの紅の羽が――――――――四対になった
白い光が段々と薄れていくと、エドはぞくぞくとするような殺気を感じた。
それは恐ろしくも美しく、危険な快楽だった。思わず目を細めて乾いた唇を舐める。
「これのことですカ……。体の心からゾクゾクしたものがせり上がってきまス!」
エドの全身に鳥肌が立ち、恍惚とした表情を浮かべると槍を構える。
「あら、そう?私もなの。この技を使うといつもよ。ねえ、エド、楽しみましょう?」
まるでダンスをしているようだった。
滑らかで繊細に、組み合い離れそしてまた火花が散る。
二人の姿は影となってしか捉えることが出来ず、衝撃音さえも遅れて聞こえる
そして二分程打ち合った末にルーシーが受け止めた槍を、思い切りつき返すと、エドの体が後方に大きく飛んだ。
轟音を立てながら大きな木に衝突すると、よろよろと立ち上がる。その表情は相変わらず恍惚としていて、頭から流れ出る自分の血液を口に含みそのまま飲み込む。
「……自分の血さえも甘美に思えル。最高ですネ。これほど心地いいものだったなんテ。しかしこれはまずい。フフフ……また出直してきますヨ」
「なっ……まてっ」
よく見れば頭だけでなく、腹部も真っ赤に染まっていた彼は、閉鎖されていたはずの空間から逃亡しようと舞い上がった。
ルーシーも一気に舞い上がりそして加速するが間に合わず、滲むようにして暗闇へと沈んでいってしまった。
「ジェイル、早くといて!!」
「いけません、ルーシー様。今術を解いてしまえばクララ様のこの姿が見つかってしまいます」
「ちっ!」
エドの消えていった空間を鋭く睨み付けると、イライラとした様子で地に下りる。
握り締めていた純白のランスを手放して、紅い翼を折りたたむと、羽はその背に消えていく。
クララにもう一度目を向ければ、意識を失ってジェイルの腕に抱かれる彼女が視界に入る。
きつく鋭かった目が和らげば、先程までの怒りの表情とは打って変わって辛そうに顔をしかめた。




