2:記憶の修復
振り向いてから「しまった」と思っても、それはもう過ぎたことで、今更どうにも出来ないことだった。
口元を押さえて、驚きのあまり立ちすくむ彼女を見て、紅蓮の瞳の持ち主は嘘ではなく、今度こそ本当に涙を流しそうな顔をした。
三人の男女が立つバルコニーに、満月の光が降り注ぐ
「ルーシー様、貴女の言うとおりにいたします。お話しますか?それとも記憶を?」
問いかける彼の声は、優しさを帯びていた。いつも、この時だけだす声。
「話しましょう。この子は今までの子の中でも特別よ?幼いこの子には酷なことかもしれないけれど」
その言葉を聞いて、彼、ジェイルは指を鳴らした。
ぱちんという音と共に、聞こえるのは風の音のみとなった。
閉じられた室内への扉の向こう側では、今でもパーティーが行われている。グラスを片手に話し合う人たちで溢れていた。
しかし、その話し声が聞こえない。これだけ近いガラス一枚の距離であるはずなのに、どこか遠く届かない世界に来たかのようだ。
そんな中、怯える眼鏡の少女に向かって、もう一人の少女が声をかけた。
その少女は、ドレスも同じで控える執事も同じ人なのに、先ほどとはまったく違う顔をしていた。瞳だけでない。顔自体が完全に別人のそれだった。すくなくともクララの知る人ではなかったが、顔以外は確かにずっと仲良くしてくれた友人なのだ。
「驚かせてごめんね、クララ。」
一歩、足を踏み出してクララの頬に触れようと、ルーシーが手を伸ばす。
「ひっ」
また、小さく悲鳴を上げてあとずさるクララ。
その反応に力なく手を下げ、悲しい笑顔でまたバルコニーの縁へと戻るルーシーは、そっと口を開いた。
「ごめんなさい、でもわかって。いきなり言われても信じられないかもしれないけれど、貴女の知っていたルーシーは死んだわ」
目を見開くクララは、訳もわからず一歩下がってガラスの扉に背中をつけた。
「一年前に、貴女の知っている友人は死んだの。そして一年間、私は死んだ彼女のふりをしていた。きっと意味がわからないでしょうね。そうよね、突然こんなことをいわれても困るわよね。でも貴女にだけ、記憶を戻してあげる」
そういった彼女は、静かに月を見上げた。
すると目をつぶり、美しい声で歌を歌いだした。
物悲しい旋律にのせて、閉鎖された空間の中紡がれた言葉はルーシー自らの両手を剣に変え……紅蓮の翼を生やした。
「ああああぁぁぁああぁぁぁあぁあああああああ!!!!!!!!!」
痛みだった。
クララが翼と腕の剣を目にした瞬間、全身に強い痛みと悲しみが襲った。
そして映像が頭の中いっぱいに流れ込んできた。
海だ。視界いっぱいに広がる青くて大きな海。それをルーシーとクララはがけの上から見ていた。
やわらかい笑顔で何かを話しかけられるが、クララには聞こえなかった。口も、腕も足も、自分の体なのに動かせない。それらは勝手に動いて、聞こえない彼女の言葉に返事をしていく。
延々と続く崖と、三メートルほど離れた位置からおしゃべりを楽しむ二人。あたたかい太陽の下でのあたたかい時間……。
しかし……しかしそれは、クララがルーシーの後ろに舞い落ちてきた黒い羽根を見るまでの平穏だった。
その羽を見た瞬間、クララは、動かせない自分の体と意思の中で全てを思い出していた。
もっと海に近づこうと、崖の方へと足を進める彼女と自分に、いやだいやだと脳が悲鳴を上げる。全力で否定して、能天気な一年前の自分を蹴り飛ばして体を動かしたくなる。
でも、彼女が体をコントロールすることは出来ない。
記憶の中に落とされた彼女には、どうしようもできないのに、足掻き悶え苦しむ。
ルーシーの笑顔に、涙で視界がかすむ。結末を唐突に思い出した〝今の〟クララが過去の記憶の中でどれだけ、だめよと伝えても、口がそのとおりに動くことはない。
彼女が思い出したとおりに事は進んでいく。
止まらない記憶。思いっきり叫ぶ。届くことのない絶叫が小さなクララの体内で響く。
そして、青い空が黒い羽で覆われた。
大きな黒い羽を広げた男が、ルーシーに〝降ってきた〟
そしてルーシーは笑顔のまま倒れて、海に落ちる寸前で止まった。その上にはルーシーに降ってきた男が乗っていた。下敷きになった彼女は、その衝撃で潰れていた。
おかしな方向に折れ曲がった両手。潰れた腹部からは夥しい量の紅が溢れ出す。地をそめ、木々や花々に染み渡っていく。
血の海の中から、立ち上がる黒い羽の男。
そして、その男の正面に降り立った、両手を刀に変形させた赤い羽の……天使。
そのときのクララが呆然とそれを見つめ、〝今の〟クララが小さい体を捩じらせながら叫び続ける中
で二人の堕天使は激しく攻めあった。
常人には見えることのない速さは、クララの目には残影となって映った。影が激しくぶつかり合って、どさっという音と共に狂った笑い声が辺りに響いた。そしてその笑い声を発した黒い天使は、そのちょうど七秒後、ぴくりとも動かなくなった。
その黒い天使が死んでから、視界は一気にクリアになって、声も聞こえるようになった。ただ、自分を操れないことは変わらなかった。そんな中紅い羽を持つ天使はクララにやっと気づいたようで、眉を寄せてから近づいてきた。
「……貴女、お名前は?」
「あ…………あぁ」
当時の彼女の口が動き、声にならない声を発する。
中で絶叫を上げている彼女も、声にならない声をだした。
その天使の顔は、バルコニーで妖しく紅蓮の瞳を輝かせていた、ルーシーだった。亡骸になってしまったルーシーと、一年のときを共に過ごしたルーシー。二人の「ルーシー」がクララの前にいる。
クララの頭はパニック状態だった。記憶が一度に戻った混乱に加えて、目の前で友人が死んでいる光景をもう一度見させられるという残酷な仕打ち。
それでも記憶の中の時は進み、紅い天使は亡骸を見つめて、問うてくる。
「この子、お友達かしら?」
「ルー……シー?」
クララは指差された方向にある一つの肉塊を再度見つめなおした。
やっと頭が追いついてきたのか、顔から一気に血の気が失せる。
「あら?おかしいわね。私は貴女に名前いってない気がするのだけど。ねえ、どこで……」
「ルーシー?……ルーシー!ルーシー!!!いやっ、いやぁぁ……」
「ああ、この子の名前もルーシーって……」
「やだっやだぁぁ!!血が……!止まって!お願いだから止まって……」
酷くひしゃげたその亡骸を抱えて、狂ったように叫ぶクララを見て、翼を生やしたルーシーは面倒くさそうに眉間にしわを寄せた。
しかし、何かを思いついたようで、ニヤッと唇の片端を上げるといつの間にか彼女の後ろに立っていた燕尾服の男――ジェイルに声をかけた。
「ねえ、ジェイル、この子黙らせて。いいこと思いついちゃった」
「御意」
ジェイルは泣き叫んでいるクララに近づくと、後ろから軽くクララに触れた。
その瞬間、彼女の膝は落ち、声もでなくなった。
――――気を失ったのだ。




