おやすみアンネスター
始発組は自分の他に数人。毎日固定の顔触れではあるが、それぞれが適度な距離感でバス座席に座わり、他人のまま窓に額を預け瞼を閉じる。
イヤホンからはサブスクのシャッフルで最近の人気曲が流れている。どれもリズミカルなメロディに全振りしていて歌詞なんてまったくわからない。日本語かすら断定できない。つまるところ、音楽よりも各停留所のアナウンスの方が耳に届いている。
あと二十駅のところがあっという間にあと十駅。イントロの合間に九駅。アウトロを掻き消すエンジン音。赤信号に停車。青信号に発進。慣性の法則により重心がぐらりぐらりと揺れる。揺りかごに乗ってるようで眠気を誘うも、眠りに落ちることもなければはっきり起きているわけでもない微睡みの中。通学途中の微睡みはどうしてこうも気持ちいいんだろう。ただ、空調が頭の一ヶ所に直接当たってそこだけ寒い。そこ以外は暑い。夏ってどうしてこうも不快なんだろう。そのうちに熱い空気が等間隔で鼻先をかすめる。これは……呼吸か。
はふはふとやけに荒い、けれど弱い吐息がかかっていると気付きうっすら瞼を開き顔を上げる。そこには黒い毛並みに白い犬歯の犬の顔があった。ピンクの舌がマズルから真横にほんのり垂れ、イヤホンを外せば「クゥーン」と消え入る声がようやく鼓膜に届いた。つり革に掴まっていなければとっくに俺を下敷きに倒れていただろう。
立ち上がり、腕を引く。半袖シャツの夏制服からスラリと露出した腕は人の皮膚で人の腕。人の指に人の爪をしていた。
「倒れる前に座った方がいい」
椅子を押しつけるように自分と犬頭の位置を交換し着席させ、お茶のペットボトルを手渡す。なにか言いたげな視線を受けたが、クゥンと思考を言葉にできてないし本気で危なげだったので気にするなと問答無用で頭を撫でた。撫でたのはつい、事故みたいなもんだ。だって犬の頭をしてるからさ、犬の元飼い主として、つい自然と手が伸びてしまったのだ。さらりとした柔らかな毛並みで大変心地良かった。
「学校の駅でちゃんと起こすよ。ほら、少しでも長く休みな」
大変心地良い手触りにもう頭を撫で、つり革に掴まり重心を預ける。犬頭はお茶をがぶがぶ飲んで、先程の俺のように窓に頭を預ける。マズルはそんなに長くない。三角の垂れ耳は大きめ。触りたいなぁと思うのは、昔飼ってた犬と頭が同じ犬種だからだろう。コイツのことが気になって気になってしかたないのもつまり俺が愛犬家だったから。
――……やばい、連絡先、絶対知りたい。
のちにクラスメイトからなれ初めを尋ねられた時、俺は実直にこう答えたね。
『弥一郎の毛並みにさぁ、あのとき、顔埋めたいって思わせるくらい手のひらが恋しちゃって』
たぶん今恋したわ。マジかぁと無表情の内面は葛藤の嵐で肩を貸し、鞄も二人分を持ってそいつを保健室に連れて行った。クゥンと鼻から鳴る切なげなうめき声に庇護欲が刺激され、結局一時限目をサボり弥一郎のベッドサイドで愛しい造形をした顔を眺め堪能しまくった。俺の下心にまったく気付いてないない犬頭は迷惑をかけたと垂れ耳をさらに垂れさせる。
「ごめんね、まくべくん……」
「日本の夏はマジで暑いから仕方ない。でも我慢するのはよくなかった。救急車呼ばれたくないだろ?」
しゅんと項垂れる顔も半端なくカワイイ。トスッと実体のない矢じりが心臓を貫通する。俺はこいつのためならきっとなんでもするんだろう、という根拠のない自信が血の代わりに溢れ出してる感覚がある。それでもポーカーフェイスできてるあたり我ながら自分がとても気持ち悪い。
「明日も天気予報じゃ晴れだ。席、譲るから、ちゃんと俺のところに来いよ?」
「いいの……?」
「だめな理由こそないだろ。……もう友達だし?」
「と、ともだち……!」
「真吾でいいよ、ヤイチロー」
シンゴくん、とはにかみに露出した犬歯が眩しい。犬の顔をしていても弥一郎は表情豊かで、むしろポーカーフェイスとは無縁の素直の権化みたいなやつだった。友達になってくれて嬉しい、と尻尾をパタパタさせてくれているならお世辞でもなんでもなく本心からそう思ってくれているのだ。ただ、実際友達でいられた時間は少ない。その夏のうちに告白され、オーケーを出した。なんと俺が告白された側だ。素直の権化なので、疑いようもなく弥一郎は俺を好いてくれているということ。俺って今日死ぬのかな? と一週間毎日死期を悟り続けた。だってこんなことあっていいのか? 弥一郎は愛するアンネと同じ、黒いラブラドール・レトリバーの頭をした獣人だ。
◇
買ってもらったばかりの靴より、使い慣れた泥だらけのスニーカーの方がいい。水溜りを目掛け着地して、土に湿った畦道を転げるのだ。アスファルトを眺め歩くくらいなら、いつでもそこにある空や木々へと顔を上げた。鳥の鳴き声に誘われるまま足元不注意で振り返り、木漏れ日の揺れに風を、プランターに成った果実に虫の軌跡を眺めた。
散歩を共にする愛犬は急に走り出すこともなければ三歳の幼児が突然抱きつきに来ようとも動じないお姉さんだった。小学校帰りに決まって家の庭から連れ出し、彼女が隣に居てくれる安心感を胸にどこへでも走り回った。聞き慣れない鳥の声を耳にするたび空を見上げ、当たり前に足元をお留守にした結果コンクリートに膝や手のひらを擦りむく。
痛みに涙こそ膜を張るが、泣きわめくことはない。
この子がいるから大丈夫。この子がいれば足元なんて見なくても歩ける。それで転んだって、怪我をしたって、いいのだ。血は鉄棒を握ったあとの手のひらのにおいに近いとか、コンクリートは予想外に熱いとか、だから犬用の靴があるだとか、そういうことを知るのも楽しかったから。
幼いころから今現在でも、俺の精神的支柱は、愛犬のアンネがその役目だった。犬は全般好きだが、その中でも洋犬派かもしれない。
膝の皮が剥け血が出たって、手の皮膚に砂利が突き刺さったって、寄り添うよう彼女がそこにいてくれるのなら滲む涙は手の甲をほんの少し濡らすだけ。
アンネ。間久部アンネ。間久部真吾の愛犬。
皮膚は白いが、毛並みは真っ黒。いや、少しだけ顎に白髪が生え始めていたが、そこが可愛くて堪らないからよくキスをした。
「真吾はアンネが本当に好きね」
「だってかわいーから!」
母の言葉に破顔し大きく頷く。大好きなアンネとの散歩は、アンネがいればこそ、そこに風の囁きや虫の羽ばたきがなくとも楽しかった。アンネがいれば。アンネさえいれば。もちろん友達と遊ぶ放課後だって楽しかったが、家族と友人を比べるのはおかしな話だ。
学校から帰ったいつかの夕陽、アンネとの散歩中に火球が落ちていくのを見たことがある。願い事が三回以上唱えられるような、特大の流れ星だった。
あのときはただただ興奮した。ひとしきりアンネを抱きしめ、そしてリードがピンと張ってしまうほど引き摺るように走り家に帰ってから、顔を真っ赤に両親に感動を話すのだ。すごい、だとか。きれいだった、とか。語彙力なんてものはまあない。興奮するうちにアンネも遠吠えを始めるから子どもの俺はもっと興奮して、きゃあきゃあ飛びはね両親を困らせた。
今では少し、苦い思い出でもある。
生命の七割が絶滅するレベルの大きさの隕石が地球に衝突する確率は、世界から犬と猫が半分の種類も消えて、その中に毎日散歩に連れて歩いたうちの犬も含まれていた確率と、どれくらい差があるんだろう。
それらがいっぺんに来る確率は、いったいどれくらい……。
死んでくれていたなら骨だけは残ったろうに、姿形も残さず消えたんだから、消化不良もいいところだ。
あんなにもふたりではしゃぎ楽しんだ翌日、朝起きてみると、アンネはすでにどこにもいなかった。
からっぽのハウス。いつもテーブルとソファの間で寝ていたのにそこにもいない。噛むと音の鳴る小さなラグビーボールの形をしたおもちゃが転がっていて、手に持ちプギュプギュと鳴らしアンネを呼び寄せてもフローリングに響くカツカツという爪音が聞こえることはない。
――思い出すだけでだめだ。
いなくなってしまったアンネを想い、ぐずぐず泣いて、泣いて、泣き続け表情が涙と共に抜け落ちるように消え去った小学校低学年の俺を想うと可哀想で仕方ない。
三日三晩泣いているうちにニュースのアナウンサーが淡々と獣人が発見されましたとか言うのだ。テレビに写る愛犬の種族の顔をしたニンゲンを見て、こいつらが現れたからうちの犬が消えたんだと、愛犬を探した飼い主たちは感覚で理解した。
――うちの子は、もう、帰ってこない。
獣人の出現は世界を賑わせたニュースだった。数年くらいは大騒ぎすべき現実だったのに、三日もしないうちに、今度は隕石のニュースが世界を激震させる。
最悪だろう。
犬猫の話題は獣人の話題に潰されて、獣人の話題は隕石に潰された。
『計算によると小惑星の衝突まで十年から二十年の猶予が……』
ニュースは毎日隕石について報道し、気付いたときには人間と獣人が共に暮らす終わりかけの世界が出来上がっていた。
◇
現代なのに世界は不思議に満ちていた。遅くとも約十年後には隕石との衝突が控えてる世界なんだから、そりゃあ、どんなことだって起きる。
犬猫は数種いなくなるし、動物園にいるような動物だって年に何種かぽつぽつ消えて、どこか見覚えのある造形の獣人がひょっこり現れて。夏虫や秋虫の鳴き声が少し減り、獣人のような虫人が出てきたってすんなり「そういうこともあるよな」で納得できる。
世界は現代ファンタジーにカテゴライズされたのだ。地球の生命、種をいくつか保存するためにどっかのエイリアンが犬猫と獣人を取り替えたんだ、とか路上演説で耳にしても「ありそう」と思えてしまう。人間より上位の存在が人間と動物をツギハギして遊んでるんだとかの話も「なくはないかもね」で頷ける。それか異世界転移。磁場が専門的な用語でアレして世界が破けてとかそんな感じ。これも「あるわなぁ」と思えてしまう。だって隕石は実際に地球に落ちてくるんだから、そういうファンタジーの可能性だって捨てきれない。
もちろん科学者はそのファンタジーを科学で解き明かそうと目を輝かせるが、解明される前に隕石に吹っ飛ぶことになることは予想に容易く、実に残念である。
「はぁ……」
恋人の部屋のベッドの上で、我が物顔で枕を奪い見慣れてきた天井にため息を吐く。
「どうしたの?」
「当事者してるSFがサイエンスフィクションじゃなくスペースファンタジーで悔しい。や、違うわ。若干悔しい」
「宝くじで四等が当たったって感じかな。当たったこと自体は嬉しいんだよね」
「そう、そうなんだよ。俺のこと理解しすぎでは? 弥一郎愛してる」
「っ、尻尾、いうこときかなくなっちゃうよ……」
「いいじゃん。好きって言ったら嬉しいって尻尾が返事してくれんの。俺は表情に乏しいけど、本当にそういうのすごく嬉しくて、俺にも尻尾があったらぶんぶん振っちゃってただろうし」
性行したばかりの腰は重いが、腕を伸ばしベッドに座っていた弥一郎のその腹に抱きつく。古賀弥一郎は犬の顔をした俺の恋人だ。
「真吾くんは無表情の分、言葉でも行動でも示してくれるから尻尾がなくても気持ちは伝わってるよ」
腹に、胸に頬擦りをしながら首筋までのみに広がるふさふさの毛並みに顔を埋め呼吸すると、弥一郎はくすぐったげに笑い俺の頭を人の手で撫ですく。
――布団を干したときより、ずっと心地いい太陽の匂いがする。
最近ケモノ臭いぞと父に新しい石鹸を寄越されたことは、弥一郎には内緒だ。
もっと大きく、例えるなら猫で肺を満たすように弥一郎を吸うと、見えてはいないが頭上で大きな口が犬歯を露出させ苦笑するのがなんとなくわかる。それでもすぅはぁ繰り返すと、垂れた耳の付け根をぴくり動かし、体毛と同じ黒色の湿った鼻でため息を吐く。
呆れや諦めではなく、あとできみの匂いも嗅ぐからね、と優しく、それでいて熱情の溶けた、許しの吐息である。つまり間久部真吾と古賀弥一郎は、自分で言っちゃあなんだが、バカップルなのである。
未知の生物を前に、困惑しているのは人間だけじゃなく獣人や虫人もだった。保護や、人権運動、土地や国籍問題。様々な問題が世界で勃発し、同時に隕石に備え略奪行為も起きているとか。そんなワールドニュースが溢れているんだから、むしろ地球に新しく仲間入りした知的生命体には深い同情を禁じ得ない。こんな世界滅亡前の悲惨的情勢時になんて可哀想な取り替えっこをしてくれたんだエイリアン(仮)。
カモの親子の引っ越しや、花火大会の開催に、なんか食べずらそうだけど美味しそうでもあるフルーツサンドの紹介だったり。せめて、そういったほのぼのとしたローカルニュースばかり見せ、天気のいい日に町をぶらぶら歩いたり、人としてのささやかな日常を共に、袋小路の未来に向かって穏やかに歩んでいけるなら、そっちの方がずっと健全だろう。俺はそう信じているし、信じているから実際そうした。
弥一郎の背に回している腕にぎゅっと力を込め、さらに密着する。体温を分け合えばセトロニンが分泌される。この獣人が、俺の得た健康なのだ。
「真吾くん、今日はなんだか甘えんぼさんだね」
「そうだな。もう一回してもいいくらいには甘えたい気分。する?」
「する!」
素直な肉欲に僅かばかり口角を上げ、上半身を起こし弥一郎の両肩に手を乗せる。
顔面毛むくじゃらの弥一郎が愛おしいように、ヒトとして獣人よりも圧倒的に毛の少ないこの顔を、弥一郎は好きだと言ってくれる。だから、実際に食われているかのようなキスだって嬉しかった。
国や民間は獣人そっちのけでシェルターを作り、リアルタイムでSF小説にあるような地下都市を急ピッチで作ってる。そのうちマイナンバーでも使ってシェルター入り抽選も行われるのだろう。映画でよく見たし、普通に外れて終わることも想像に容易い。
世界がこんなことになって、老人たちは子どもを可哀想の象徴にした。
やりたいことがあったでしょう。
夢があったでしょう。
きみたちの年代の未来はもう全部おじゃんになりますね、と断言するように報道するから、家電量販店のテレビコーナーの前で中指を立てたこともある。勝手に決めつけんな、バーカ。
隕石の報道があった年に生まれたなら長くても二十歳まで生きられるし、なら行きたい人は学校に行き、お金が必要だから人々は相変わらずに働くのだ。
あと十年から二十年で終わりますなんて猶予がありすぎて、世界は十年経ってもそんなに変わらなかった。残り長くても十年前後、最新の計算では八年後とかネットで見たけど情報規制検閲対象その他もろもろでやはりはっきりとはわからない。わからないが、富士山はまだ噴火する様子を見せないし、気付けば西之島はゆっくり年単位で噴火を繰り返しその面積を着実に増やしてる。日常なんてそんなものだ。ベランダから望遠鏡を覗いて「どれが地球に直撃すんのかわかんねーや」なんて言える日々の星空は、十年前と変わらず綺麗なのだから。
獣人は、人間にあまり好かれていなかった。
突然現れた人間同様の知能を持つ生命体かつ人間が一方的に憧れてた高次元の存在――宇宙人――とは程遠い、馴染みやすい見た目にはどちらかと言えば好かれる要素しかないのでは、と思うのだが、恐怖の薄い見た目を前に威張ってしまうおバカさんの声が異様に大きいみたいだ。
ネットで見る限り獣人の精子・卵子は人間の卵子・精子と受精できないらしいので、国も宗教も取っ払ったときに人類皆兄弟と呼べる中に獣人は入っていない。獣人も突然この地球に出てきてしまって可哀想だ。おのれエイリアン(仮)。
必要な資源は地下室に。とは言え地下室付きの家ってこの国にはあんまりない。国策としてシェルターはちゃんと作られているものの、地震大国と地下建造は相性が悪い。隕石が落ちる場所によってはどこかのシェルターは秒で潰れるだろう。こればっかりは運だ。ディザスター映画のように上手くいくわけがない。でも、主人公が隣のシェルターに居たからこっちのシェルターが潰れましたなんて主人公補正を甘んじたくもない。
――主人公になりたい。
それがだめでも気にしないから主人公にはなれないだろう。
――真吾くんが好きなので、僕と付き合ってください。
でもあの時の弥一郎は児童文学の主人公だったな。
毛むくじゃらの顔だから赤面してるなんてわからない。けどあの時の弥一郎は間違いなく赤面してた。緊張で手のひらは汗ばんで、声はどこか臆病に上擦っていた。抱きしめてやりたくなったし、抱きしめた。そんなことを思い出しながら今日も今日で何度目かわからない回数、弥一郎を抱きしめる。
「なに考えてるの?」
「弥一郎のこと。ストレートに良い告白だったなと」
「だって……世界が終わるんなら早く好きだって言わなくちゃ、後悔するじゃん……」
事後トークの好感度も完璧の愛おしさ。主人公の素質あるわ。
日曜の自宅デートも日が沈み終わりを迎える。帰るのめんどくせぇけど明日は月曜。クラスメイトの出席率はフィフティフィフティ。このご時世真面目に学校通ってるやつなんて少ないが、だからこそ内申点は取っておきたい。大学行きたいし。
「雨降ってるね」
「アメダス曰く今夜はどこもかしこも雨だってさ」
「駅まで送るよ」
「帰りたくねぇー……。弥一郎連れて帰る。泊まって?」
「ぅぐっ……、誘惑するのやめて……」
表情も抑揚もなく「はは」と笑い、相合傘に肩が濡れないよう腕を絡め引っ付き歩く。
弥一郎が好きだ。気持ちいいことが好きなところも素直で可愛くて良いと思う。ただ、だから付き合ってるわけじゃない。世界が終わる瞬間に一緒にいていい理由が「家族恋人」の呼び名の響きさえあればあとは無条件に許されるなら、俺はそれになりたかった。
もちろん友人でもいいとは思うのだが、俺が憧れたのは「ディープ・インパクト」だ。ハルマゲドンやボルケーノ、ダンテズ・ピークも好きだが、隕石由来で滅亡する現実を前に人生の教科書にする映画と言えばこれしかない。
心の安寧を優先して金ローじゃ二度とディザスタームービーは放映されないし、配信サイトもいつ外圧を掛けられるかわからないから映画のDVD買う主義でよかったと心から親に感謝した。
「……家まで送ってくれるなら父さんに弥一郎紹介するけど」
「え! 手土産とかなにもないんだけど!」
「顔ひとつで十分だろ」
きっと、アンネはもう居ないと諭されるか、同性愛は呑み込めても異種恋愛なんて未知すぎてエイリアンを見る目でドン引きされるかのどちらかだろう。後者なら弥一郎の獣人となりを前に折れてくれると思うが、前者は俺が頑張らねばならない。弥一郎はアンネの犬種の顔をしているが、アンネじゃない。そもそもアンネはフィールドタイプの顔つきで弥一郎はショータイプだ。アンネは美少女美魔女だったが弥一郎はコロコロしててカワイイ。まったく違う。けど、それを理解させることは、きっと対数関数の計算より難しい。
火球を見た瞬間の胸の高鳴りを覚えてる。あの時はアンネを抱きしめすごいすごいと捲し立てた。弥一郎を初めて見た日のことも、だから忘れはしない。恋自体はバスでしたが、同じ高校に通ってる犬獣人なんてチェックするに決まってるだろ。俺は自分の奇異の視線を弥一郎に向けていた時期を自覚しているし、反省してる。
――アンネじゃないな。
失礼すぎるあの落胆を笑って許してくれる弥一郎だから世界の終わりまで一緒に居たいのだ。
結局駅で今日は解散。電車が来るまではぴたりと寄り添いいちゃつくバカップルをする。
「それじゃあまた明日ね。真吾くん、好きだよ」
「俺も弥一郎のこと好きだよ。顔と体のバランスがいい」
「獣人なら誰でもいいみたいな言い方だなぁ」
「見た目が好ましいだけじゃ恋は続かない。弥一郎だからだよ」
拗ねながらも尾を振る弥一郎はやはり世界一カワイイ。愛しい。俺のイマジナリー心臓は今までの累計胸キュンに原型も残らないほど慕情の弓矢に射抜かれ肉片になってる。
耳の付け根を撫で機嫌を取る。犬の顔をした首元から下は人間のかたちをした男を、こんなにも好きだと思う。だからまあ、見た目は最低限大切だ。頭が人間で体が犬だったら中身が弥一郎でも恋はできなかったろうな、と確信してる。子どもの頃に観た「マーズ・アタック!」はそれくらいトラウマだ。そんなやましい気持ちを見透かしながらも自分の見た目が好みに刺さってよかったと呑み込んでくれる弥一郎が恋人で本当によかった。幸福のプラマイゼロ理論を信仰しているわけではないが、まだ自分の死期を疑ってしまう。そうやって、曖昧なセーフラインで好みに生きてる。それのどこが悪いんだろう。全人類の権利や背景を考慮なんてしてられるかよ。自分と繋がってる人のことを考えるので忙しい。
弥一郎と一緒にいるだけで奇異の目で見られる。暴力で遊びたいヤツとか酔っ払いとかが難癖付けて殴ってくることもある。俺が一人になったのを狙って異端者狩りをしてくる輩もいた。それで短期入院したこともある。ワールドワイドに見ればまだこのローカルは平和だが、それでも危険がないわけじゃない。これが世界の終末なんだなぁと思うし、終末関係なくそういう輩は居るわなぁとも思う。
「じゃな」
「うん」
一日を一緒に過ごしたあとの別れが苦手だ。十年後じゃなく数時間後に隕石が落ちてくる展開になったらと思うと怖くて震える。死ぬことよりも、また看取れなかった、なんてことになるのが怖いのだ。
俺は一般人だ。ディザスタームービーみたいな主人公が家族と再会するまでの苦難はなくていい。遠慮する。けどあの日の火球より大きな、流れ星として空中で燃え尽きることのできない隕石の衝撃に苦難なんて主人公やモブ関係なしに当たり前についてくる。
獣人はシェルターへの入場許可が降りない。
二重螺旋の構造が違うから。
虫人なんて獣人よりも冷遇されている。
見た目が人じゃないから。かと言って犬でも猫でもないから。
顔が動物で、昆虫で、卵子と精子が結ばれないから。
そんな、個人の力じゃどうしようもないことで誰かたちは誰かの存在を拒絶してる。まあ、俺だってそういう人間に中指立てるし、お互い様なんだけど。
「犬クセー」
暴力がないだけまだマシな攻撃的通りすがり一般人に中指立てて電車に乗る。彼女とデート中に足くじいて転んでコンクリに膝の皮砂利に擦って血ぃ出ろ、と三回唱えながら。
誰か知らない人をこうやって陰湿に恨んだりするときに、無性にアンネに会いたくなる。
俺はこんな人間じゃなかったはずで、もっと無知で幸福ばかりに目がいくお子さまで、肉欲も知らないまま年を重ねて、あいつに下ネタはだめだなんて友達にすら守られているような、そんな人間だったはずで。
卑屈になってしまった自覚から逃げられない。陰鬱で、湿気ってて、くそみたいだ。膝まで泥中に沈みっぱなしで歩いてる感覚がある。けど、こんな俺でも、隕石が降り注ぐ日は弥一郎の隣にいる。それを未来の楽しみに感じてる。
全部吹き飛んでおしまいになるのなら、世界の終わりを眺めるより、互いを見つめ、強く抱きしめ合う。
犬くさい? 家族距離で嗅いだこともないくせに好き勝手言いやがる。弥一郎のほとんどは人間だ。アンネとは全く違う匂いが切ない。けれどふさふさのあたたかな毛並みに、言葉にできないほど、弥一郎を好きだと思う。そういった素晴らしいひとときのうちに終わるなら、結構この人生ハッピーエンドだろう。
――まあ、弥一郎は嫌がるだろうけどな。
嫌がってシェルターに行けと怒るから、じゃあひとりでどこかの屋上に寝そべってひとりで死ぬよ、なんてしおらしく言ったら、ようやく隣に許してくれる。
きみはバカだ。その湿った声を、俺はきっとこの上なく愛しく思うだろう。
こんな時代じゃ誰もがアンニュイで、卑屈で。変わり映えのしない日々をローカルニュースに耳を傾け生き長らえてる。いつ終わってもいいように。世界の悲しみに過剰に泣いたりしないように。
寝る前に空を見上げる。雨は明け方まで続くらしいから星なんて見えないけれど、日課として星に声を掛ける。
「おやすみ、アンネ」
寿命はとっくに過ぎている。だからエイリアン(仮)の根城や、あるいは神様がいる世界、磁場がどうのとか平行世界、宇宙の果てまでくまなく探したって、きっときみはどこにもいない。俺のイマジナリー心臓同様、彼女はイマジナリーの星になったのだ。
それが悲しくて、寂しくて。
同時に、アンネの代わりも弥一郎の代わりも他にはいないのだと、ひどく安心する。
携帯端末で弥一郎にメッセージを送る。これも日課だ。
ほどなくして返信が来て、良い気分で眠りにつく。
「おやすみ、弥一郎」
「おやすみ。また明日ね」