1999年9月平日2:大人の世界、男の世界
西岡の自宅の近所には、中規模の工務店があった。工務店の隣と向かいの広大な区画が工務店の土地で、工務店の経営者一族が住む本宅は新興宗教の支部になっていた。しかし、工務店の評判は必ずしも良くない。経営者一族は家庭に問題を抱えていて、それは地域で主婦たちに知られていた。その他にも、本宅の新興宗教が必ず早朝の時間帯に太鼓で騒音を起していて、地域の人々と軋轢を起していた。減反と離農の進んだ時代に、早朝から太鼓は迷惑でしかなかった。また、西岡は一度だけ直接、工務店の悪行を目撃した事があった。工務店は社屋で大型犬を何頭も飼養していて、その犬の吠える声がしてすぐ、工務店の社屋から若い女の人が走って出て来た事があった。犬が吠える前に言い争う声があり、向かいのアパートへ入って行ったその女の人を、工務店側は大型犬による威圧で追い払ったのだ。込み入った事情があったのかもしれないが、仮にも大型犬を人に向ける所業から、西岡は工務店側の「悪」を感じ取った。ただし西岡は、その新興宗教に悪いイメージは持たなかった。工務店の本宅が支部になっているその新興宗教は県の内外に活動範囲が広がっていて、いつもどこかで合宿型の研修を行っていた。拍子木を打ちながら集団で街を練り歩く姿はコロナ前までたまに見かけたが、悪い印象のするものではなかった。また、その教団は合宿研修を通じて啓発とか人格改造、断食、身分行為の相手のマッチングを事業として営んだり、DVや家庭内暴力に身体を張って介入したり、みさき公園で教団の支配地域の小学校の子どもたちと仲良くなったことがあったりもして、工務店の大型犬の件と新興宗教を結び付けて考える発想が西岡にはできなかった。
瀬黒の親の工場の主な取引先が、西岡のよく知るタコ焼き屋さん(商店街にあり、醤油味のタコ焼きを祖母がよく買っていた)の隣の精肉店だったのを西岡が知ったのは、その精肉店の店頭で店長らしき男の人が瀬黒に声を掛けた日の事だった。精肉店の店長らしき男は、この精肉店全体のトップの人が選挙に出るからと言って、瀬黒と西岡に政治への興味を聞き出そうとしていた。瀬黒はそつなく中立の立場を表明していた。西岡は、難しい話は分からないのみで通した。本当に、総理大臣の名前がオブチという愉快な名前である事ぐらいしか、西岡は政治について知らなかったし、政治の話とは活字や映像になっている物の内容だけを指すのだと、西岡は本気で信じていた。
この精肉店のトップの人の親族は別の街で建設業を営んでいて、その建設会社の定番の下請けの一つが、前出の工務店なのを、西岡はこの日の晩に祖母から聞いた。
(瀬黒は大人相手でもヒラメにならないし、カッコいいな)と西岡は暢気に羨んでいた。
この日に観たビデオの事を西岡は思い出せない。個室ビデオ店に行かなかったのかも知れない。