おみいの招き猫
昼めし時の賑わいも引いて、あらかたの片付けが終わり、お袖は水を張った桶を手に店先に出た。柄杓で打ち水をしようと言うのである。
今日も暑い夏の盛り。夕立ちも降らず、涼をとるにはこれしかない。傾いた陽から、熱が押し寄せてくる。
「おねえさん」
小さな声が聞こえた。お袖は水をまく手を止めて、声する方に顔を向ける。年の頃なら十ぐらいの、色褪せた赤い着物を着て、裸足で立っている女の子がお袖に向かって縋るような目を向けていた。
お袖は柄杓を桶に入れ、女の子と目線を合わせるように、しゃがんだ。
「なあに?」
声をかけると、女の子はぼそぼそと話し出した。
「あたし、もう、三日も何も食べてないの。おねえさん、何か食べさせてください」
お袖はできるだけ優しい声で答えた。
「それは気の毒に。お昼はもう仕舞ったけど、食べるものならあるわよ」伏し目がちな女の子。そして「あたし、お金が無いの」
「…あら」
「その分、働きます。皿洗いでもなんでもします。お願い」
お袖は女の子の肩に両手をおいて、頷いた。
「分かったわ。とにかく、中へお入りなさい」
お袖は立ち上がってめし屋浜木綿の暖簾に手をのばす。その間も、女の子に話しかける。
いったいぜんたい、どうして三日も何も食べていないのか。女の子はふっくらと白い頬の可愛い顔をしているが、身体は痩せている。つぶらな瞳は力なく弱々しい。
「そうねえ、おにぎりにしましょうか、おみおつけもあるわ。鯵の干物を炙ろうかな。そんなところでどう?」
女の子の背中をそっと押すようにして、店に連れて入る。
言った通りにおにぎりを、店の奥の席に座らせた女の子の前に置いた。女の子は夢中でおにぎりにかぶりつく。机を挟んで向かいに座ったお袖は、おみおつけと炙った干物の皿を並べる。
「ねえ、聞いてもいいかな」
女の子は食べるのをやめて、お袖に不安げな眼差しを向ける。お袖は穏やかな声になるように気を付けて、言った。「あんた、名前はなんて言うの?」
「みい」
「おみいちゃんね。あたしはお袖」
おみいは固まったように、黙ってお袖を見つめている。お袖は明るく声をかける。
「食べて食べて! 足りないなら、まだあるから」
再び食べ始めたおみいを、お袖は優しく、また心配そうに見つめた。
「ここはね、あたしのおっかさんとおとっつぁんが始めた一膳めし屋なの。今はあたしと手伝いの人で昼はめし屋、夜は居酒屋をやってるの」
お袖はおみいから目を逸らせて、店の中を見回した。(あたしが店を手伝い始めたの、おみいちゃんくらいの頃からだわ)
居酒屋には新吉という料理人が来て、酔客でなくても納得できる味のものを出している。新吉は二十四、お袖は二十二。同じ長屋で育った幼馴染みだ。
お袖の両親が始めた頃は、もっと小さな店だった。煮売屋に毛の生えた、というものでその頃は、三好町の長屋に住んでいた。無口でちょっととっつきにくい千蔵と、ちゃきちゃきした陽気な働き者のおちか。手堅く客を増やし、この店に移ったのは七年前のことだった。
「悪いな、遅くなっちまった」
のれんをかき分けて、新吉が入って来る。小作りだが、整った顔の肌が人形のような、男前である。茄子紺の着物に、銀鼠の帯。色足袋に塗りの下駄。お袖は新吉を見るとつい、吹き出しそうになる。鼻垂れ泣き虫小僧が、今ではこんなに洒落のめしている。おかしいったらありゃしない。
新吉はおみいに気づくと、不審げに曇った眼差しを向ける。お袖は、それを面白がるような笑みを、新吉に向ける。
「おみいちゃんっていうの。今日からここで働くのよ」
「働く?」
新吉は眉間に険しい皺を寄せて、おみいを見つめる。大きなため息を吐くと、奥のお勝手の方へと入って行った。
その日ーー。
掛行灯の火を消し、暖簾を降ろす。夜はふけ、最後の客が、銭を払って帰って行った。
お店のお勝手で、新吉は包丁を研いでいる。お袖は流しの前に立つと、驚きの声を上げた。そこには、洗ってピカピカになった皿や茶碗などが置いてあった。
おみいが洗ったものだった。
「きれい!」
お袖の声で、新吉もそばにやってきた。
「ほんとだ。ツヤツヤに光ってる」
「おみいちゃん、凄いわね」
当のおみいは、先ほど店の二階に上がって休んでいるはずだ。子供だし、遅くまで働かせるのも可哀想だと、お袖がそうさせた。
「でもなあ、お袖ちゃん、モノ好きにも程があるよ。あの子、裸足じゃないか」
「それは今日までの話よ。明日、履物を買いに行くわ」
「明日?明日もまた、あの子に店を手伝わせるのか?」
「そうよ。おみいちゃん、家も無いみたい。ここで一緒に暮らして、面倒みてあげたいの」
「本気かい?」
「もちろんよ」
お袖は、ご飯を食べていた時のおみいをみながら、この子を助ける決心をしたと、新吉に告げる。新吉は整った顔をしかめながらお袖に釘をさす。
「お袖ちゃん、そんな簡単な事じゃないよ。子供、それも得体の知れない子供を、養って行くなんて、正気かい?」
「あのね、あたしはあの子が悪い子には見えないわ。縁があってこの浜木綿に来てくれたのよ。なんかの巡り合わせよ」
この広いお江戸で、山ほどあるめし屋の中から、浜木綿を、お袖を選んで来てくれた。それには意味があるはずだ。
「新吉さんには迷惑かけないわよ。だから、これは認めてちょうだい」
お袖は優しく朗らかな娘だったが、頑固者の一面もあることを、新吉は知っていた。お袖ちゃんが決めたって言うなら、もう、お手上げだ。
二階で眠っているというおみいの事を考えながら、新吉は包丁をしまった。
橙色に花柄の鼻緒。子供の草履としては、粋なものを、お袖はおみいに選んだ。おみいははにかみながらも、嬉しそうな笑みを浮かべる。
明日はお店も休みだ。二人で古着屋に行こう。湯屋にも行かなきゃ。
行灯建ての二階家だ。両親が買った店は、今、お袖一人には広すぎた。
(新しい家族だわ)
四年前に父親を、二年前に母親を亡くし、寂しさを感じることも多かった。だから、ひとつ屋根の下に誰かがいてくれることは、とても嬉しいことだった。それが、小さな子供でも、生きる張りになろうと言うもの。
(それにおみいちゃん、ピカピカにお皿を洗ってくれるわ)
お袖が誇らしく思う程に。
やがて、新吉も来て、居酒屋の暖簾を挙げる。忙しい仕事の始まりだ。
材木問屋で働く、言うところの川並の、腕自慢の若い衆が、店の奥で騒いでいた。月に一度か二度、やってくるあまり有り難く無い客だ。
特に嘉助と言う頬に傷のある、大柄な男、縦縞の藍染の着物を着たこいつは、厄介だった。たいして強くも無い酒を、呑んでは絡む絡み酒。お袖は適当にあしらうが、それが気に入らないのか、今夜はしつこくお袖を呼びつける。
「酒を持って来てくれ」
嘉助の声は狭い店には大きすぎた。
銚子を乗せた盆を、お袖は嘉助の前におく。
「今日はこれが最後ですよ」
嘉助は据わった目で、お袖を睨む。
「なんでぇ、まだまだ足りねえや」
お袖は明るく笑ってみせた。
「もう十分でしょ。呂律が回るうちにやめときましょ」
酔客のあしらいには慣れているが、いつも、この嘉助には手を焼くのだ。
「うるせぇや、俺が飲む酒だ。俺の金で飲もうってんだ。好きにさせろや」
嘉助を睨む振りをしてから、お袖は背を向けた。すると、その袖を嘉助が捕らえた。
「酌でもしたらどうだ」
「やめてくださいよ」
お袖は振り払おうとした。嘉助がその腕を捕まえたその時ーーー嘉助が座っていた腰掛けの脚が折れた。嘉助は小さく叫んですっ転んだ。彼の酒癖にうんざりしている川並仲間が、二人がかりで嘉助をすくい上げる
「今日はもう、お開きにしようぜ」
年重のひょっとこ柄の浴衣を着た川並の一人が、そう言いながら、店の外へと嘉助を連れて行った。転んだ時に尻をしたたかに打った嘉助は、呻きながら仲間に引きずられるように、出ていった。
一幕の騒ぎ、その時にお袖は、視線を感じた。気配を辿ると、二階からの階段の途中、おみいがいた。険しい表情で、店の入口を見ていた。お袖は他の客に騒ぎのお詫びをした。再び目を向けると、おみいは上に上がったのか、居なくなっていた。壊れた椅子をお勝手に運び、折れた脚を見る。強い力でへし折ったような、ギザギザとした折れ方だ。
腰掛けが壊れたことなんて、無かったのに。お袖は不審に思いつつ、店から呼ぶ客の声に返事をして、仕事に戻った。
古着屋を何軒か回って、おみいの着物を買った。黄色に赤の縞、藍染に白い花、帯も買った。おみいは素直に喜び、目を輝かせてお袖を見上げる。
「お袖おねえさん、ありがとう」
「いいのよ。おみいちゃんも女の子だものね。綺麗なおべべを着たいでしょ」
茶店で団子を食べながら、お袖はおみいの身の上について、思い巡らす。何処で生まれたのだろう。親は居るのだろうか。どうして、三日も飲まず食わずだったのか。考えてみれば、この小さな少女は謎だらけなのだ。
今はそんなこと、どうでもいいじゃない。おみいちゃんが笑うと、あたしも幸せな気持ちになる。それで十分だわ。
浜木綿に戻り、着物を箪笥に仕舞うと、二人は手をつないで湯屋へ行った。
手のぬくもりを感じる。見下ろすと、おみいちゃんの、可愛いらしい笑顔。お袖は幸せだった。この幸せが、脅かされることなく、続きますように。
お袖は密かに祈った。
お袖の祈りが通じたのか、おみいのいる風景がすっかり当たり前になるのに、時間はかからなかった。
一膳めし屋の手伝いの、おかねと言う三十がらみの小柄なカミさんが、通りがかりの定斎売りの鐘を聞いておみいを呼んだ。
「ちょいと使いに行っておくれでないかい。薬を買って来てちょうだい」
金を受け取ると、おみいは子供らしい素早さで定斎売りを追った。
「伝吉さん、具合いでも悪いの?」
問われておかねは、ため息交じりに頷いた。
「昨夜、帰って来た時、ごはんも食べずに寝ちまって。朝もふらふらするから休むって」
手間大工の伝吉は、おかねの連れ合いだ。働く気概があっても、身体が着いていかないことが、時にあるのだ。
「暑気あたりかしら」
「多分ね」
おみいは、浜木綿に戻って来ると、薬の袋を包み込むように持ち、目を閉じて祈るような所作をした。おかねに笑顔を向けると、薬を渡した。
「ありがとうね、おみいちゃん」
「おじちゃんの病気、良くなるわ。お祈りしたもの」
お袖は(お祈り)と言う言葉に首を捻りつつも、おみいちゃん、優しいからあんな風に言うのね、と考え、そのことをすぐに忘れてしまった。
翌日、浜木綿にやって来たおかねは、嬉しそうにはしゃいだ声でお袖に言った。
「うちの亭主、薬を飲んだらすっかり良くなって、朝ごはんをおかわりしたんだよ」
「良かったわね。伝吉さん、昨日の薬が効いたのかしら」
「そうね」
おかねは店の奥で箒を手に仕事をしていたおみいに駆け寄り、肩に手を起き顔をのぞき込んだ。
「ありがとう、おみいちゃん。あんたのお祈りのおかげだね」
おみいはニッコリ笑って頷いた。
「うん。良かったわ」
お祈り。お袖は首を傾げながら、二人を見つめた。
その夜ーー。
店の二階、座敷に布団を敷いて、お袖とおみい、仲良く眠りについた。疲れた身体の睡眠は深く、お袖は穏やかな寝息を立てる。
すっかり売りつくした夜鳴きそば屋が、浜木綿の前を通り過ぎる。どこかで、犬が鳴いた。
おみいは眠っている顔の、眉間に皺を寄せる。静かだった呼吸が乱れ、唇が震える。
だめ、そんなの……だめよ。いやだ、お父様、お母様、お願い……。
いやあ、いや!
おみいは手をのばす。何かを押しのけるように。
「だめえ」
叫ぶ声。お袖はあわてて、飛び起きた。うなされているおみいを、優しく揺り起こす。
「おみいちゃん、どうしたの」
はっとして、目を覚ましたおみい。涙を流しながら息を乱している。
お袖は抱き寄せると、背中をそっと撫でる。
「夢を見たのね。悪い夢を」
おみいは、お袖に縋り付くように身を預ける。
「大丈夫よ。ただの夢よ。心配しなくても、いいのよ。夢なんだもの」
おみいはそれを信じようとするように、なんども頷く。
「もう大丈夫。大丈夫だから」
そう言いながら、お袖は微かな恐れが、心の隅に芽生えるのを感じていた。
おかねとお袖、二人で昼の仕込みをしていた。魚をさばき、野菜を切る。奴の豆腐を器に入れる。次から次に仕事を進める間、お喋りも止まない。
「八幡様のお祭りも終わったし、もう秋ねえ」
お袖が言う。おかねはからかうような口調で答える。「まったくお袖ちゃん、暮れまでなんてあっと言う間よ。今年もこのまま終わらせるのかい」
「終わらせるって、何が?」
「あんたと新吉さんよ」
お袖はぽかんとした後、顔をしかめる。
「何よ、それ」
「いいかい、お袖ちゃん。二十歳を二つも回って歯も染めず、桃割れ結ってるなんて、どうなのよ」
「そんなの、あたしの好きにさせて。お店もたいへんだったし、今は仕事が一番なのよ」
「でもね、来年になればまた、歳を取るのよ。お店だって落ち着いてる。そろそろ人並みの幸せにありついてもいいじゃない」
お袖はおかねを睨む振りをする。
「それに、なんで新吉さんが出てくるのよ」
「あら、そんなの、言うまでもないでしょ」
おかねはそれまでの面白がるような態度を引っ込めると、親身な声で応えた。
「お袖ちゃん、他に誰がいるって言うのよ。真面目に考えてみなさいな」
おかねは千蔵とおちかが店を移してから、浜木綿で働いている。お袖も店を手伝っていた。お袖のことは妹のように思っている。
「浜木綿を守るために、あんた、ずっと頑張ってきたじゃない。店は立派になったし、これからは自分のことを、考えなきゃ」
「おかねさんの気持ちは嬉しいわよ。でも、そういうのって、時期がくればなんとかなるもんじゃないかしら」
おかねは困ったように笑顔を作る。
「呑気なんだから」
その時、店の外から人が騒いでいるような声が聞こえた。それはまたたく間に大きくなり、大勢が走り回る物音も響いた。
「暴れ馬だ!」
男の声。そして悲鳴。お袖は急いで外へ出た。おみいが外で仕事をしている。
「おみいちゃん!」
お袖がのれんをかき分けると、おみいの姿はなく、道の両端を大勢が埋めている。舞い上がる砂埃。そして、目線を巡らせると、ずっと向こう、小名木川にかかる橋のたもとに、一頭の馬が見えた。前脚を掻いて何度か頭を振る。お袖は馬の背に乗る、おみいの姿を見た。
おみいちゃん!
お袖は急いで馬に駆け寄って行った。馬が、もう暴れてはいないこと、おみいが馬の頭を抱きしめて、微笑んでいることを確かめた。膝から崩れ落ちそうになりながら、おみいを見上げる。
「いい子ね。分かってくれた?」
おみいが囁くと、馬は一度だけ、穏やかにいなないて、動きを止めた。
「お袖おねえさん」
おみいは馬の背から降りると、困ったように眉を寄せる。
「ごめんなさい。わたし、お掃除…」
「いいのよ。大丈夫?」
おみいは頷く。
「大丈夫よ。お掃除しなきゃ」
おみいは馬の首を撫でながら、何か小さく囁いた。馬は頭をおみいに擦りつける。甘えるように。
「大したもんだねえ、お嬢ちゃん」馬子の身なりの男が、おみいを見て首を捻る。
「こいつは大人しい奴なんだが、時々、荒れちまうことがあってな。おれたちでも手を焼くってのに」
おみいは恥しそうに首を竦める。
「この子、臆病なの。何かにびっくりしたんですって」
おみいは言い、すぐに店に駆けて行った。びっくりした…。まるで、馬と話が出来るみたい。
おみいちゃん、あなた、どういう子なの?
その日のお袖は昼飯時の忙しい時間も、夕方の仕込みや居酒屋の間も、何やらぼうっとして過ごしてしまった。
暴れ馬の事で、おみいがとても心配になり、このまま暮らしていけるのだろうかと、思案する。
おみいちゃんのことは好き。可愛いし、いい子だ。馬の気持ちさえ、思いやって。
でも……。
「昼間、なんかあったのか?」
新吉がお袖の様子に気づいて、尋ねる。
お袖はおかねに言われたことを思い出し、素っ気なく答える。
「おみいちゃんがね」
かいつまんで話すと、新吉は首を捻る。
「おみいちゃん、なんか、凄いな」
「……そうなの。優しいいい子だけど、とんでもなく不思議な子よね」
「あの子は訳ありな感じだったじゃないか。後悔してるのかい?」
「後悔なんてしてないわ。どうすればおみいちゃんが幸せになれるか、考えないといけないってだけ。答は多分、見つけられるわよ」
「どうやって?」
「それは……新吉さん、あたしを困らせたいの?」
「そんなわけ無いだろ」
新吉はおみいの洗った皿に目を向ける。
「お袖ちゃんがそう言うなら、おれも手伝うよ」
「何を?」
「おみいちゃんの幸せ探しだよ」
お袖は新吉をぽかんとした顔で見つめる。やっぱり新吉さん、子供の頃と変わってない。あたしの言うことを、真剣に聞いてくれる。
と思ったところで、おかねの顔を思い出す。やだわ、気まずいったら。
「あ、ありがとう」
「おみいちゃんが、いい子だってことは、おれも分かってるよ。多分、おみいちゃんが教えてくれるんじゃないかな。幸せの道」
新吉が曲がりなりにも男に成長したことを、お袖はしみじみ感じる。それもいい男に。やだ、いい男って…。
「今日はもう、終わっていいわ、後はわたしがやっとく」
「でも、まだやることはあるだろ」
「あたしでも出来ることたから。気にしないの」
新吉は気にしつつ、明日は早目に来るからと告げて帰って行った。
空は高くなり、肌身に寒さが滲みてくる。そんなある日、お袖は浜木綿に近い寺子屋に、おみいを連れて行った。おみいは読み書きは出来るが、算盤勘定を習わせようと考えたのだ。
今、おみいの仕事は、めし屋の手伝いだけになっていた。夜は休ませてやりたかった。それに、世間様の子供がするような事はやらせてあげたい。
回向院うらの寺子屋は、瀬田大二郎という若い浪人が、開いたものだった。二本差しの侍とは言え、瀬田大二郎は気さくで人懐こい若者だった。
「身寄りの無い子供を助けて、学問まで与えようとは、見上げたもの。立派な心持ちです」
がっちりとした体格の瀬田大二郎は、大真面目に感心してみせた。
「おみいちゃんは賢い子です。勉強すれば、必ず見になります。先生、宜しくお願いします」
お袖が明るい表情で言うと、大二郎は大きく頷いた。
「しっかりと教えさせていただきます。おみいちゃん、よろしく頼むよ」
おみいは固くなったまま、頭を下げた。
こうしておみいは、朝のうち、寺子屋に通うことになった。浜木綿から寺子屋まで、おみいの足で往復四半刻。同じ寺子屋に通う子供たちと行き帰りすれば、たいしたことにはならないだろう。同じ年頃の子供との関わりも、大切だ。
お友達が出来るといいわね、おみいちゃん。
お袖は帰り道、おみいの手を握りながら、これも幸せに繋がることを願った。
そんな二人の通る道すがら、屋根の上から一匹の三毛猫が見下ろしている。
猫は屋根伝いに二人の後を着いてゆく。見失うまいと、夢中で追いかけていた。そうして、浜木綿にたどり着く前に、おみいが屋根を見上げた。
猫はおみいを見つめる。おみいは猫に頷いてみせる。猫はそこで立ち止まる。
「おみいちゃん、どうかした?」
「ううん、なんでもない」
浜木綿に戻ると、おみいはすぐに雑巾を取りに行き、仕事を始めた。
夜の暗がりに光る猫の目。
昼間の三毛猫が浜木綿の向かいの煙草問屋の屋根に居た。前脚を伸ばし腰を落として、座っている。月は新月。暗い夜だ。
灯りを落とし、戸も締めた浜木綿。その裏口がゆっくりと開く。おみいだった。お袖が眠りにつくのを待って、出てきたのだ。
「たま」
おみいは猫に駆け寄り、頭を撫でる。
猫はおみいの手に、じゃれるように頬を擦り付ける。
「見つけてくれたのね」
おみいは猫の顎をくすぐりながら、話しかける。
「もう、戻らないでね?あたしのそばにいて」
しゃがみ込んだおみいの膝に、乗る猫。
「たま、みんな、どうなってる?あたしのこと、探してる?」
猫の目を見つめるおみい。しばし、流れる静寂。
「…そう、やっぱり」
ようやく、おみいが言うと、猫はおみいにしがみつく。
「あたし、今、幸せなの。ずっとこのままでいたい。おたまも、ここにいられるように、お袖おねえさんに頼んでみるね。明日、寺子屋へ行くから、その時、また着いてきて」
猫は甘い声で応える。微笑むおみい。
「戻らなきゃ。また、明日」
おみいは浜木綿へと戻って行った。
「行って来まぁす」
おみいはそう言いながら、浜木綿を出ていった。小さな風呂敷包みを手に、寺子屋に向かう。
その後を、たまが追う。
お袖が買ってくれた、袷の着物。小さな花柄の小豆色も、おみいは気に入っている。
たまは、昨日と同じように、屋根伝いに着いてきた。
寺子屋では、広間に机を並べて、子供たちの勉学前の賑やかな時間が始まっていた。瀬田大二郎に連れられて、広間に入ってきたおみいに、子供らの目が注がれる。
一瞬、賑わいが静まった後、瀬田大二郎の声が告げる。
「今日からここで、一緒に勉強する事になった、おみいちゃんだ。仲良くするんだぞ」
十二人の子供たちの視線を受けて、おみいは緊張で固まってしまった。大二郎は気付くと、おみいの背中にそっと手を添えて、誰も座っていない机へと連れて行った。大二郎は子供たちと向き合うように置かれた自分の机に戻る。
おみいは風呂敷包みを開いて、筆と硯、紙と算盤ーお袖が子供の頃に使っていたものーを机に並べた。
「さて、今日は算術からだ。みんな、算盤はあるかな?」
おみいのとなりの席の、八歳くらいの、継ぎの当たった元禄を着た男の子が不満げな声を上げる。
「え〜、昨日も算術からだったじゃない。おいら、綴り方がいい」
大二郎が励ますように言う。
「算術のあと、綴り方をやろう。いいな、松吉」
松吉と呼ばれた男の子は、口を尖らせたがそれ以上何も言わなかった。
お袖から、昨夜、算盤の使い方を教わっていたので、さして困ることもなく、おみいは算術の稽古が出来た。通りの良い大二郎の声も、心地良かった。
「さて、この問題はとけたかな?とけたものは手を上げて」
何人かの子供たちに交じって、おみいも手を上げる。おみいの斜め前の、綺麗な着物を着て髪に簪をさした女の子が当てられる。
「百二十一です」
澄まして応えると、松吉が野次を飛ばす。
「気取ってやんの」
「そう言うまっちゃんは出来たのかしら?」
「おしま、おまえには関係ないだろ」
「ご挨拶ね」
おしまは正面を向いて、松吉など存在しないとでも言うような、顔をする。
おみいは笑みを浮かべて首をすくめる。
楽しい。寺子屋って楽しいわ。
たまに教えてあげなくちゃ。
おみいがこっそり持ち出した鯵の干物を、たまは美味しそうに食べる。そんなたまの前にしゃがみ込んだおみいは、今日の出来事を話しつつ冷えた夜気に腕抱くようにしていた。
「明日、お袖おねえさんに、たまのこと聴いてみるね」
二つの家の軒先で、おみいとたまは身を寄せ合う。頭上には、細い月。木枯らしが通りを駆け抜ける。その風に重なるように、かすかに黒い影が忍び込む。おみいは瞬時にその影を感じ取る。通りに顔を向けて、表情を固くする。
まさか……。
かすかな影は、風の音に紛れて薄くなる。やがて、消えてゆく。
なんだろう。おみいは立ち上がり、通りを見つめる。気のせい…ではない。しかし、強くはない。微弱な気配だった。あたしを追ってきた?それとも…。
たまが毛を逆立てて唸っていた。
息を止めていたことに気付いたおみいは、大きく深呼吸をする。
怖くはない。ただの魔性なら。しかし…。
「たま、大丈夫よ」
予想出来ない事では無かった。お袖おねえさんに迷惑かけたくない。でも、浜木綿から離れるのは嫌。もう、逃げるのにも疲れた。
「今のがなんなのか、わからない。でも、良くないものよ。あたしが恐れているものとは、違うと思うわ」
たまに話しかける。猫はおみいの足元に蹲り、目を光らせていた。
「猫?」
お袖はおみいの足元にいる、たまに目を向ける。綺麗な三毛猫だ。おみいは手を合わせてお袖を拝む。
「お願い、お袖おねえさん、この子、迷い猫みたい。あたしと一緒よ。ここに置いてください」
お袖はおみいの真剣な眼差しを優しく受け止める。
「仕方ないわね。おみいちゃんがそう言うなら」
おみいはパァッと表情を明るくし、お袖に駆け寄った。
「ありがとう。嬉しい。ほんとにありがとう」
お袖は今まで見たことが無いほど、喜んでいるおみいを見て、静かに頷いた。
「名前はどうするの?」
「たまよ。猫らしいでしょ」
「たまね」
お袖はしゃがみこんでたまの頭を撫でる。
「あたしはお袖。よろしくね」
おみいが寺子屋に行くと、お袖はたまを店のお勝手に抱えて行った。
「たまちゃん、ずいぶん軽いのね。しっかり食べて太るのよ」
冷や飯にかつお節を混ぜて、たまの前に置く。たまは嬉しそうに食べ始める。
お袖は見守りながら、おみいのことを考える。
猫ちゃん、おみいちゃんと仲良しなのね。
寺子屋に行くまで、おみいとたまは互いに寄り添い、甘えるたまに応えて撫でるおみいの表情も、優しいものだった。
良かったわ。
おみいちゃんが幸せなら、それで十分。
おかねがやってきて、たまに気付く。
「おみいちゃんが連れてきたの」
「きれいな猫ね」
「そうねえ」
「一階にネズミが出るって言ってたわよね。ちょうど良かったじゃない」
お袖はご飯茶碗を舐めるたまを見下ろし、頷く。
「たま、ネズミを追っ払ってね」
そう言いながら、お袖はたまの頭を撫でる。
そうこうするうちに、忙しい仕込みの時間が始まる。お客がやってきて、天手古舞な飯時となるまで、あっという間。
その間、猫は大人しく台所で、邪魔にもならずに過ごしていた。おみいが戻って来ると、皿洗いをするその足元に座って、居眠りをしている。
おみいと同じように、たまも浜木綿に居場所を見つけたのだ。お袖はそう思って、少女と猫の幸せについて、考えるのだった。
夜になると、晩秋の街を強い風が吹き始めた。雨戸を叩く音に、おみいは目を覚ます。お袖は眠っていた。
風ーーー。
枯れ始めた木々を揺らし、舞い上がる。また降りてきて石ころや砂利を撒き散らす。
おみいはその音に混じる気配を察して、耳を澄ます。昨日感じた黒い影。あれは何?風の中に潜む邪悪な化生。
魔性。
おみいの伸ばした識覚が、昨日よりはっきりと形を捉えた。長い腕を伸ばしながら、獲物を探す。頭は小さく、長い尾がある。
猿が化生している。
人間の目には見えなくとも、おみいの精神の視野にははっきりと像を結んだ。
何を探しているの。
おみいは化生の内に入り込もうと試みる。すると、鋭い一撃を食らった。おみいはかすかに悲鳴をもらし、頭を抱える。さほど、強い衝撃では無かったが、識覚を引っ込めて様子を伺う。
この化生を操る者は、かなりの能力者だ。
かかわってはダメ。おみいは激しく首を振る。こちらに害をなすもので無い限り、かかわるべきでは無い。
自分がここにいることを、知られてはならない。
おみいは頭から布団を被ると、震えが収まるのを待った。
「気をつけて帰るんだぞ」
瀬田大二郎の声に送り出されて、子供たちは寺子屋を後にした。
おみいは帰る方角が同じことから、おしまと並んで歩く。小間物問屋の娘であるおしまは、勉学のよくできる少女で、おみいは分からないところを教えてもらったりしている。
「おみいちゃん、何だか元気がないわね。大丈夫?」
おしまは優しく尋ねる。
「そうかな。大丈夫よ」
おみいは笑顔で答える。
「ほんとに?」
おしまは心配そうにおみいの顔を覗き込む。
「ゆうべ、あんまり眠れなくて」
「風が強かったものね。おっかさんも何度か目をさましたみたい」
風。あの風は化生のもの。
おみいは立ち止まる。人の眠りに忍び込む。獲物は人の内なる邪欲。あれは…。
「おみいちゃん、お店の手伝いがあるのよね。また、お休みの日にでも、うちに来てよ。もっとお話ししたいもの」
「ありがとう。じゃ、次の浜木綿のお休みには、おしまちゃんとこに行くわ」
「ほんと?絶対よ!」
「うん」
武家屋敷の角を曲がるところで、二人は別れた。
「約束よ、今度、遊びに来てね」
そう言いながら手をふるおしまの、中振袖の牡丹の柄が、風に揺れる。
おみいは手をふりかえし、おしまを見送る。友達が出来た。おしまちゃんみたいな、可愛くて優しい子が友達になってくれた。
この幸せを、守りたい。絶対に。
へーえ、とお袖は眉を上げて笑顔になる。
「小間物問屋の近江屋さんの?おしまちゃんね。いいわよ」
おみいが遊びに行きたいという。お友達が出来たのだ。寺子屋に通わせて良かった。
「ありがとう、お袖おねえさん」
お皿を優しく洗いながら、おみいは見ているものまで幸せにする、独特の笑顔を見せる。たまがその足元、水しぶきに目を細めて小さく鳴いた。
今朝は少し、元気が無かったおみいが、帰って来てから表情に張りを取り戻している。おしまちゃん、ありがとう。
それにしても近江屋さんと言えば大店である。そんなお嬢さんがおみいちゃんと親しくしてくれるなんて。どちらも人を見る目があるのね。
そのうち、近江屋さんに顔を出そう。問屋だが、小売もしている。しゃれた簪でも見せてもらおう。
おかねとおみいと三人で、飯屋の片付けをしていると、のれんも降ろされた入口に、人影が立つ。
「ごめんよ」
お袖が店に出ると、材木問屋の嘉助が所在なげに立っている。
「あら、こんな時間に珍しいわね」
酒の入っていない嘉助は、どこかぼーとした若者である。
「いつも、騒いじまって悪いな。今日は近くにきたもんだから、これを」
菓子の包みを差し出す手元も、ぎこちない。お袖は本来の嘉助がこういう男だと知っていた。
「あんころ餅だよ。この店のあんこは美味いんだ」
「ありがとう。丹波屋のね。大好物だわ」
お勝手から、おみいが心配そうな目を向けている。気付いた嘉助は、おみいに向かって頭を下げる。
「甘いもんは好きかい?仕事の合間にでも、食べとくれ」
「…ありがとう」
ぎこちないやり取りをする二人。お袖はくすりと笑って、嘉助に言った。
「また、飲みに来てくださいな。ただし、ほどほどにね」
「きまり悪いな。上手な飲み方を教わらねぇとな」
「そうねえ」
お袖も正直である。
腰掛けが壊れた夜以来、嘉助は酒の量が減っている。少しは反省したのだろう。嘉助は仕事を邪魔しては悪いと思ったのか、そそくさと帰って行った。
嘉助が浜木綿の向かいの煙草問屋の前を通り、富岡八幡宮に向かう道へと角を曲がる。その通りの路地から、修験者風の身なりの男が現れる。肩に小さな猿を乗せている。嘉助の背中を見つめ、太い眉を寄せる。
しばし、間があって、男は周囲をゆっくりと見回す。
(昨夜、化生に入り込もうとした者が現れたのは、このあたりだ。強い力を感じた)
猿が男の頭にしがみつく。
「八丁、おまえも感じるか?」
語りかけられた猿は、歯を見せて鳴く。
男は遠ざかりゆく嘉助の背中を見つけて、それを負い始めた。常人とは思えない速さで、嘉助に追いつく。それから、間を置いて着けてゆく。
材木問屋瀬戸屋に着くと、嘉助は暖簾をくぐり声をかけながら、入ってゆく。
(瀬戸屋か。あの男、邪ものの怪を持っている。今夜あたり……)
「八丁、獲物だ」
(邪魔が入らなければいいが)
鋭い目。男は首に下げた念珠をそっと引っ張ると、くるりと背を向けて来た道を戻ってゆく。肩にかかる総髪の頭に、猿がしがみつく。
淡い茶色の毛並み。長い腕。昨夜、おみいが心に捉えたもの…。
男は口元に笑みを浮かべて、富岡橋を渡って行った。
瀬戸屋の嘉助が寝付いている、と言う知らせは、浜木綿にやってきた川並連中からもたらされた。
お袖は先日のあんころ餅のことを思い出し、心配そうに尋ねる。
「どうしちゃったの? 熱でもあるのかしら」
川並の一人が答える。
「熱もだが、言ってることは分からねえし、起き上がるのも無理ときた。もう、丸三日だが、どんどん弱っているのさ」
「そうなの。お見舞いに行こうかしら」
あんころ餅を持ってくるなど、根っからの悪人ではないのだ。ただ、不器用で生きることが下手なのだ。お袖の知っている嘉助はそんな男だ。弱っているなど、聞いて捨て置ける事ではない。
瀬戸屋の主はまだ、三十半ば。先代が二年前に亡くなった跡を、懸命に守っている。使用人にも慕われている。顔を出せば、少しは元気が出るだろうかと、お袖は思う。
だから、次の日、一膳飯屋を休んで、瀬戸屋を訪ねた。ついて行きたいと言うおみいを伴って。
使用人部屋の奥の間に、一人で寝かされている嘉助は、ひと回りもふた回りも小さく見えた。上背で人より抜きんでている男が、横になっているだけでこんなにも小さく見えるのだろうか。
「嘉助さん。また、飲みに来るんでしょう。美味しい肴を作るわよ。新吉さん、また腕を上げたのよ」
嘉助はお袖のことが見えているのかいないのか、首を振りながらうわ言をもらす。
「また来てくれるって言ったのに。あたしのお願いを聞いてくれないの?」
嘉助への思いで胸がいっぱいのお袖は、気付いていなかった。
隣にいるおみいは嘉助にも負けないほど、青ざめていることに。おみいは血の気の引いた顔で、嘉助を見つめていた。そうするうちに、ぶるぶると震え始めた。これは……。
「憐れなもんだろう。あんなに元気だったのに」
瀬戸屋の主が様子を見に来た。
「医者が言うには、薬でどうこう出来るもんじゃ無いそうだ。寝かせて、粥か重湯でも食べさせるしか出来ないそうだ。治るかどうかは本人次第らしい」
うなだれる主を見て、お袖は頷く。嘉助を見つめて手拭いで涙を拭う。
「嘉助さん、頑張るのよ。なんだかわからないけど負けないで」
帰る道すがら、お袖は嘉助の生気の失せた顔を思い浮かべ、ぼんやりとしていた。富岡橋を渡り風に肩をすぼめつつ、おみいの手を握る。そのあまりの冷たさに驚いて、少女を見下ろす。
「おみいちゃん、大丈夫?」
おみいは黙って頷いた。
居酒屋の時間。
お袖は嘉助のことを新吉に伝えた。包丁を使う手を止め、新吉は顔を向ける。
「そんなに悪いのかい?」
「見てて辛かった。酒癖は悪かったけど、根は優しい人なのに」
優しいかどうかは別として、と新吉は思う。常連客の一人として、嘉助は店には大事な人。優しいお袖ちゃんが心配するのも無理はない。
二階ではおみいが思い詰めた様子で膝を抱えていた。嘉助さん……。
あれは怪を抜かれた姿。そんなに強い邪の怪は無かったはず。おそらく、正気の怪まで抜かれたのだ。
やはり、あの猿の化性、その魔性使いが絡んでいる。
放っておくと嘉助は数日で死んでしまうだろう。お袖おねえさんが悲しむ。あんなに心配そうにして。
あんころ餅を持って来た嘉助。酒に飲まれてしまう嘉助。お袖おねえさんのことが好きな嘉助。
あたしなら救える。
でも。
この暮らしを手放したくない。優しいお袖おねえさんから離れたくない。ここにいることを知られたくない。
「たま、あたし、どうしたらいいの」
傍らで、静かに見守る猫に話しかける。たまは首をかしげて、おみいを見つめる。おみいはその視線を捉える。しばし、眼差しを一つにする猫と少女。
おみいとたまは、互いに思いを伝え合う。眼差しにこもる気持ちは、同じだった。
「そうね、おたま。それしかないわ」
もう一度、眼差しを交わし合う。さっきより長く。
おみいは覚悟を決めたように、しっかりと頷いた。いや、本当に覚悟を決めたのだ。
あの、猿の化性。それを操る魔性使い。
やるしかない。
翌日。
寺子屋に行くおみいは、屋根の上にいるたまに頷いてみせた。たまは空を見上げ、屋根の上を走った。
化生の跡を辿る。おみいとの昨夜の約束。
座敷の隅で、硯に入れた水におみいとたまの血をたらした。そうして墨をする。これを化魔墨という。魔性使いと化ものが作る、特別な力を持つ墨。もう作ることも無いと思っていた。
仕方ない。助けられる命を見殺しには出来ない。
おみいは寺子屋で子供たちと過ごしながら、なんて不思議なのかと思う。松吉やおしまと戯れる。瀬田大二郎の声を、そろばんをはじく音を、いつものように聞いて、いつものように笑って。これも、最後かも知れない。
あたしの幸せはもう……。
おしまと別れて、浜木綿に戻る。たまがすり寄ってくる。たまは今日の探索の様子をおみいに伝える。今夜か。たまが伝えた能力者の姿は、修験者のようなそれだった。化ものはやはり猿。
いつものように皿洗いをし、店を掃除する。思いを込めて。これが最後なんだ。明日にはまた、さすらいの旅が始まる。
短い間だったけど、幸せだった。
「ありがとう、おみいちゃん。もう、上がっていいわよ」
お袖に言われて、二階に上がる。
まだ、やることがあった。さらしで袋を作る。治魂袋という。その袋に化魔墨で嘉助の名を書き記す。今だって苦しんでいる嘉助さん。あたしなら救えるわ。
やがて、居酒屋の時間になり、階下から賑わいが聞こえる。
準備は整っている。後は待つだけ。
深夜。
浜木綿も店じまいし、お袖とおみい、枕を並べて眠りにつく頃。たまは屋根の上に居た。やがて出てくるおみいを待って。
半刻ほどして、おみいが浜木綿の裏口から現れる。たまが、降りてゆく。猫と少女。並んで歩き始める。
昼間、たまが見つけた場所は、破れ寺だった。今夜、狩りに出ていなければ、そこで会える。破れ寺なら都合がいい。被害を出さずに戦える。
おみいは懐に忍ばせた半紙に触れる。そこには化魔墨で、たまの名が記されている。
寺まで一刻ほどの道を歩いた。満天の星空。満月の夜だった。
寺の前に池がある。おみいは色褪せた障子を、念を込めて見つめる。障子の向こうにいるのが能力者なら、これで目覚めるだろう。
予想通り目覚めた。障子が開き、男が姿を見せる。修験者の身なり。大きな念珠を握っている。
「何者かと思えば、子供か」
男は笑って念珠を首にかける。
「わしは玄覚と申す。何の用で、こんな夜中に起こしに来た」
「瀬戸屋の嘉助さんから奪った怪を返しなさい。邪の怪だけでなく、正気の怪も奪ったでしょう」
「ふん、そう言われて返すと思うなよ」
男は足元の猿に目を向ける。
「行くぞ、八丁」
玄覚は半紙を取り出すと、それに息を吹きかける。すると、八丁の姿が消える。が、おみいの目には見えていた。大きく、半透明になった猿の姿が。
「おたま」
おみいもたまの名を書いた半紙に息を吹きかける。半紙が燃えて、生身のたまが姿を消す。そして、化生となったたまが、八丁と向き合う。しばしの睨み合い。
最初に動いたのは八丁だった。腕を伸ばし、たまの目を殴る。が、たまは素早くかわして、猿の背中を引っ掻いた。鋭い爪の攻撃に猿は仰け反って、悲鳴を上げる。
「やるな」
玄覚がにやりとする。
「晃牙!」
玄覚の声で、八丁の尾が長くのび、たまの首に巻き付く。
「淙熱」
おみいが叫ぶと、たまの身体が熱を帯び、猿の尾を焼く。八丁は火傷した尾を舐めてたまから離れる。
その時、おみいの背後から呼びかける声がする。
「…おみいちゃん」
おみいは息を飲んで、振り返る。
「お袖おねえさん。どうして…」
お袖が木にもたれるようにして、見つめていた。
「おみいちゃんの様子がおかしかったから付けてきたの。ごめんなさいね」
おみいは顔を正面に戻し、叫んだ。
「像化」
すると、常人では見えないはずの化生が、はっきりと姿をあらわす。破れ寺の前に、屋根まで届くほどの大きさの、猿と猫。
「たま?」
お袖がつぶやくと、おみいが頷く。
たまは熱を保った身体で、八丁を圧倒していた。
「お袖おねえさんには知られたくなかった。でも、もうおしまいよ」
玄覚が隙を見て、攻撃に出ようとすると、おみいは
別の呪文を唱える。
「炎発」
たまが口をあけると炎が吹き出す。
「お袖おねえさん、この世には能力者というものがいるの。離れた物を動かしたり、人の心を読んだり出来るの。能力者の中で、魔性使いと言われるものがいて、わたしもそうなの。生き物を使って、悪い人の心を奪って、それを能力者の力にするの。使われる生き物を化生と言うの。たまは化生なの」
八丁は炎から逃げまどい、火傷した体を庇って動けなくなっている。
「八丁、もういい」
玄覚は離生の呪文を唱え、八丁は小さな猿の姿に戻る。たまももとの猫に戻る。
「返して。嘉助さんの怪を」
おみいは治魂袋を取り出し、玄覚に差し出す。玄覚は唇を噛む。
「仕方あるまい」
玄覚の手が印を結ぶ。呪文を唱えると、その指から蒼白い煙が出てくる。それは、まっすぐにおみいが口を開いて構える治魂袋に吸い込まれていった。
「そなた、おみいと?」
玄覚は思い出したように、声を上げる。
「狭霧一族のみい姫か?」
おみいは黙っている。
「それは…わしなど、かなう相手ではなかった」ひざまずく玄覚。「頼む。八丁を癒やしてやってくだされ」
おみいは素早く八丁に駆け寄る。優しい手で八丁を撫でると、火傷も傷も癒えて、猿はおみいの手を舐める。
「かたじけない」
「もう、正気の怪を奪うのはやめて」
「分かり申した。道に外れたまねはしないと誓う」
おみいは微笑み、頷く。
お袖は不安そうに見守っていたが、おみいの話、その荒唐無稽さにもかかわらず、信じた。自分で見た光景。聞いた物事。全て、腑に落ちた。そういうことなのね。
「おみいちゃん」
おみいははっとして、お袖を振り返る。駆け寄る。たまがそのあとを追う。
「たまも怪我は無い?」
「大丈夫」
おみいは少し傷を負ったたまを撫でる。たまは、いつもの三毛猫に戻る。
「良かった」
「お袖おねえさん、あたし…」
おみいは目線を落とし、声を枯らしたように、かすれさせて、続ける。
「気味が悪いでしょう。当たり前だけど。あたしなんかと、暮らせないわよね。本当にありがとう。幸せだった」
治魂袋を差し出すと、おみいは立ち上がる。
「これを嘉助さんに飲ませて。きっと治るから」
玄覚から出た煙は、袋の中で粉になっていた。お袖は受け取らない。
「これはおみいちゃんが嘉助さんに渡すのよ。明日、あたしと一緒に」
「お袖おねえさん…」
おみいは驚いたようにお袖を見つめる。
「おみいちゃんは、本当に優しいのね。嘉助さんのために、こんな危ないことまでして」
おみいは俯く。
「…嘉助さん、可哀想だもの」
「おみいちゃん、もうすぐ夜が明けるわ。帰りましょう」
「いい…の?あたし、こんな化け物で」
「化け物なもんですか。菩薩様みたいよ。弱い人を助けて。ほんとに」
お袖はおみいを抱き締める。
「おみいちゃんが誇らしい。ほんとよ。これからもずっと一緒よ」
おみいは泣きながらお袖の胸に顔を押し付ける。
「後悔しない?あたしは…」
「ここでおみいちゃんを失ったら、一生後悔するわよ。あたしたち、家族でしょ」
おみいは激しく泣きながら、何度も繰り返した。ありがとうと。
良かった。あたし、幸せでいられる。これからも。
お袖おねえさん、大好きよ。
その日、浜木綿の月に三度の休みの、一日だった。
お袖は寺子屋から戻ったおみいを連れて、近江屋に出掛けた。
大店だけに、立派な構えである。
店先には、小売りの品が並んでいる。
「いらっしゃい、おみいちゃん」
薄紅色の中振袖を着たおしまが、嬉しそうに言いながら、奥から駆け寄ってくる。
「上がって、上がって」
「おじゃまします」
おみいが上がり框で草履を脱ぐと、おしまが手をとって、廊下を奥へと連れて行く。
お袖はおかみのおしずに挨拶をする。おしずはえくぼが可愛らしい、色白の目元の涼しい、気さくな人だった。
「浜木綿のお袖さんね。働きもので評判の」
お袖は頬を赤らめる。
「まあ、そんな」
おしずは華やかな簪が並ぶ籠を手にとって、お袖によく見えるように差し出す。
「へーえ、きれいだなあ」
と、新吉が感心したように言う。今日、この時間、近江屋で待ちあわせていたのだ。
おしずははえくぼを見せて、新吉に挨拶した。
幾つも並ぶ中から、新吉は桃色珊瑚の簪を手に取った。黒の牡丹の花の絵が、彫り込まれている。
「これ、いいんじゃないかな」
「そうね。綺麗な色ね」
「若い娘さんには、ぴったりだわよ」
新吉が買ってあげるというのを、お袖が遠慮し、しばらく問答の後、簪は、新吉の金でお袖のものとなった。
「ありがとう、新吉さん」
店の奥、いくつかの襖を通り過ぎたところにある、おしまの部屋。
「これ、おみいちゃんに」
おしまは艷やかな赤い櫛を差し出す。銀色の桜の花が描かれ、華やかな櫛だった。
「そんな。こんな高価なもの」
「ううん、うちにはたくさんあるのよ。おみいちゃんにもらって欲しいの」
おしまはおみいの髪に、櫛を刺してみる。鏡を引き寄せ、おみいに見せる。
「ほら、すごく似合ってる。ね?」
ねって。と思いながらも、おみいは嬉しかった。おしまちゃん、おしゃれだもの。
そして、無邪気な少女らしく、語り合い、黄表紙を読み合い、楽しく過ごした。
こんな幸せが許されていいのだろうか。
あたしは魔性使い。おぞましいものなのに。
お袖は新吉と、甘味処に立ち寄り、お汁粉を食べた。
「今日はありがとうね。簪まで」
「そんなこと、気にしなくていいんだよ。俺が食べていけるのも、浜木綿が上手く行ってるからだろ。全部、お袖ちゃんのおかげだよ」
そうかも知れないけど。新吉ほどの腕があれば、浜町あたりの料亭でも、やっていけるだろう。自分の店を構えるのも、難しいことではない。
それでも浜木綿に居てくれる。感謝しなきゃ。
おみいの正体について、新吉には話していない。隠し事はしたくはないが、今はまだ、やめておこう。いつか時期がくれば、話す。
「お袖ちゃん、このあと、芝居でも観に行こうよ。久しぶりだろ?」
「そうね、じゃ、そっちはわたしにもたせて」
「うーん、そっか。しょうがないな。わかったよ」
おみいが浜木綿の店先に立ってから、半年。いろんなことがあったけど、楽しかった。おみいに出会えて幸せだった。
おみいはおしまの部屋に、おしまと並んで横になっていた。
「おみいちゃんが来てくれたおかげで、今日はお茶のお稽古が休めたわ。お茶のお稽古って地獄よ。足は痛いし、細かいことを叱られるし」
「良かったの? 休んだりして」
「もちろんよ。あたし、踊りやお琴は好きなの。でもお茶は最悪」
おみいはくすくす笑う。いやいや習わされるって、辛いわよね。
あたしもそうだったな。
お袖がくれた幸せが、おみいを守っている。何があっても大丈夫。
あたしは幸せだ。
たまは浜木綿の閉められた入口に座る。すっかり店の名物になった、たま。お客にも好かれている、賢いたま。
ふと、かすかに漂う、梅の香を追うように顔を上げる。春が近いのだ。