第1話 世界が割れる音
戸部つかさの日常、そして
戸部つかさにとって世界の中心は、愛しい夫と愛しい子どもとの3人で構成されている。
「おかあさん! おはよう! あのね、えみね! おかおあらったよ! はみがきしたよ! えらいでしょ!!」
「おはよう、笑満! お母さんが言う前に一人でできたの? すごいね!」
「えみはねもう5さいだもん! できるおんなのこだよ!」
「まあ、かっこいい。おかあさん、こんなすごい女の子みたことない」
「でっしょ~!」
愛娘がパジャマ姿で小さな胸を張る姿が、どうしようもなくかわいらしく、つかさはさらに笑顔を深くする。
「つかささん、おはよう」
「あら、優一朗さん。おはよう」
「おとうさん、おそーい」
「お、笑満。早いなぁ。もう起きたのか」
寝ぼけ眼で起きてきた優一朗は、あくびをしながら食卓に向かう。笑満はその父に倣うように食卓に向かう。優一朗は娘を抱き上げ、子ども椅子に座らせた。
「笑満もだいぶ大きくなってきたな」
「えみはもうすぐねんちょうさんなんだもん! おっきいのはあたりまえだよ」
「そうだな」
1歳から使っている高さの調節できる子ども椅子は、あと1段階しか余りがない。きっと来年中には子ども椅子は卒業となるだろう。
「おかあさん、あさごはんなぁに!」
「今日は白いご飯と、お味噌汁と納豆です」
「えー! えみ、パンがいい!! パンにして!! しろいごはんたべたくなーい!!」
「こら、笑満!」
「やー!」
子ども特有のわがままは時と場を選ばない。すでに朝ごはんはできていて、炊き立ての白米は炊飯器の中で出番を待っている。優一朗はかわいい娘とはいえ幼さゆえの頑固さに、いつもながら頭を抱える。
「笑満、パンがいいの?」
「チョコのパンがいい!」
「いいわよ」
「本当!!」
すぐに自分の願いがかなえられると分かって、笑満は不満に染まっていた顔を明るくする。つかさはこれ見よがしに食パンとチョコレートクリームを見せる。
「ただし、笑満がおかあさんの用意した朝ごはんを食べてからね」
「えー……」
「食べたら、好きなだけチョコレートクリームは塗っていいこととします」
「やったー!! えみ、しろいごはんたべる!!」
「よろしい」
つかさは3人分の準備を続ける。炊き立てぴかぴかの白米を大きなお茶碗2つと、小さなお茶碗1つによそっていく。
配膳の為、席を立った優一朗は小さな声でつかさに話しかける。
「さすが、つかささん。素晴らしい交渉術」
「優一朗さんも身につけなきゃ」
「う~ん……難しいな。とっさに交渉材料が思い浮かばない」
「頑張って」
愛娘からの食事の申し立ては珍しい事ではない。こどもは気まぐれで、わがままを言う存在である。それに真っ向から立ち向かうと戦況は平行線をたどるだけに終わってしまう。いかに、子どもとうまく交渉していくかは親として必要なスキルである。
つかさは今回、デザートに置き換える形で譲歩したように見えるが、5歳児の胃袋の許容量というのは少ない。いくらチョコレートたっぷりのパンが許されたとしても、食後に残された余裕としては食パンの4分の1も入るかどうかだろう。甘いものの食べすぎを防ぐことができる。
「おかあさん! おとうさん! はやく! えみごはんたべる! チョコのパンをたべるの!」
「……笑満、いろんな人から、こんないい子見たことないって言われるんだよな」
「こういうの、内弁慶っていうのよね……でも、私たちにはめいっぱい甘えてるってことでいいんじゃないかしら」
「世渡り上手な子になりそうだ」
つかさも親として娘がどういう性格なのか理解している。家の中ではわがままいっぱいのおませなさん、外ではききわけのいい子なのだ。優一朗の言ったとおり、自分と違って世渡り上手に育っていくだろうと思う。それと同時に、娘の世界がどんどん広がっていっているのも理解している。プリスクールから帰ってくる娘は、友だちとのこと、先生とのこと、庭で見つけた草や虫のこと、つかさの知らないものをたくさん語る。今の時点でも自分が知らない娘の時間が存在し。これからももっと増えていく。それが成長していくということだ。
「早く、ご飯を食べましょ。お互い仕事に遅れちゃう」
「そうだね」
本日着ていく服でもうひと悶着とあったが、無事家族3人朝の支度を終えて出ていく。優一朗と笑満は車に乗り、プリスクールと職場へ。つかさはバスに乗って職場へと向かう。
揺れるバスの中で何とか、踏ん張りながら、会社へ向かう。
会社に向かえば、彼女を待っているのは仕事という名の波である。
「戸部さん、昨日のイギリス支社からの契約文章の翻訳、終わってる?」
「はい。先ほど担当チームの方々にメールを送信いたしました」
「戸部さん、こっちの翻訳手伝って……見たことない、専門用語多すぎで、死ぬ……」
「橋口さん落ち着いてください……あ、これただの誤字です……というより、誤字だらけですね? ……あ、ポルトガル語も混ざってます」
「あー!! どおりで読めないと思った! まったくどこのだれが書いたの!!」
「……この癖のある文章は……瀬之口さん、橋口さんが今取り掛かっているのって……」
「あー……それ、僕にまわして。その会社の担当者、英文が下手なんだよね……」
「英語がちゃんとできるひと雇ってよ!」
「この機会にポルトガル語も覚えなよ、便利だよ……あ、戸部さん、手が空いたんなら……今メッセージで送ったの、お願いね」
「……とんでもない、文章量なのですが……」
「明後日の午前中までにってさ。僕は手一杯だから、お願いね」
「頑張ります……」
プリントアウトし縦に置いたら起立するのではないかと思うほどの文章量だ。思わず上司の顔を見ると、涼しい顔をしていた。
ブラックに近いグレーな職場環境である。
上司の顔をにらんでも仕方がないと、つかさは一文字でも多く日本語に置き換えるべく、キーボードを打ち込むことに集中した。
身体の疲労は気にする必要はない。
ひたすら文章を綴る仕事は地味だが、一文字でも多く訳していけば、確実に完成に近づいていく。つかさは自ら仕事のこういうところが好きである。時折、確認を含めて、日本語とともに翻訳している言語も呟く。現在、つかさが実務翻訳に耐えうる習得言語は、4言語のみ。日常生活程度の会話と読み書きができる言語はもっと多い。これからも随時増やしていくつもりだ。
「戸部さん、もう一つ頼める?」
「無理です」
笑顔で許容量以上の仕事は断れるだけの肝もある。ただ笑顔で外聞ばかり気にするイエスマンをしていると地獄を見るということを、つかさは知っているのだ。
文字の波を溺れぬように必死に泳いでいると、あっという間に就業時間になる。だが、本日までに終わらせなくてはならないものは残っているので、サービス残業で頑張る。定時帰宅など夢である。
サービス残業を終えた後は、急いでバスに乗り込み、自宅近くのスーパーよりすこし値段の安い店に寄る。昼休みに安売り情報は把握済み。割引クーポンもダウンロードすみだ。冷蔵庫の中身は把握済み、本日購入分はリストアップしてある。
商品棚をじっくり見たい気持ちに蓋をして、予定されたもののみ購入し、再度バスに乗り込めば、家に向かうだけである。毎日繰り返される、大変で、けれど尊い日々。
軽快な通知音に従う様に、つかさはスマホを見る。
一足先に家路についた夫と娘が、一緒に米を洗っている写真だ。真面目な表情で米を洗う娘の顔がかわいくてつかさは今日の疲れが解けていくのを感じた。
バスを降りれば、マンションまですぐだ。
つかさは頭の中で本日の夕食を組み立てていく。それを食べる愛しい夫と愛しい子どもの顔の反応を考えながら、足を速める。
煌々と明かりのついた住宅地、いつもの帰り道だった。いつもの帰り道であったはずだった。
ぱきんと、音がした。
冬の薄氷を踏むような、乾いた小枝を折るような、軽い音。それは耳元のような、どこか遠くで聞こえてくるように響く。その音をつかさは知っている、覚えている。
つかさの身体が止まると同時に、見上げるほどの大きな彼は、つかさの前に現れた。
「つかさ」
ひとが誰かを忘れるとき最初に忘れるのは声だというが、つかさはその声を忘れることなどなかった。腹に響くほどに低いけれど、常に彼女への深い愛情のこもった優しい声。
大きく影をつくる力強く大きな翼、稲妻のように伸びた角、街明かりでも美しく輝く鱗、長く伸びた口吻から除く口からは鋭い牙が並んでいる。
その黄金の瞳は喜びに満ちていた。
ファンタジーにそれなりに親しみのあるひとならば、彼をすぐに称する言葉が見つかるだろう。
「ああ……会いたかった……! 私のつかさ……!!」
神々しく、讃えられ、恐れられる、幻想上の生き物、龍。
彼はそれより少しばかり、小さく、かたちはひとに近い。龍人と表現するほうが正しいのかもしれない。
そんな現実離れした存在は、すっぽりと覆い隠すように、愛おしい存在を抱きしめた。
その抱擁は、その雄々しい姿からは想像もできないほどに、とても優しいものだった。