日野山桜子
外商さんから見て
あの夏の日、わたしはただ泣くことしかできなかった。
ただでさえ泣き虫なわたしが人生も一番泣いた日だった、あまりにも涙があふれて、自分では止められなかった。鼻が詰まり、痙攣に似た呼吸が始まり、苦しくてたまらなかったけど止まらなかった。心がつぶされた痛みのほうが強かった。
日に焼けた地面に自分の涙、鼻水、唾液、顔から出るすべてが落ちて、熱で消えていった。
わたしが過ごしてきた世界とはあまりにもかけ離れたそこは、最初は恐ろしいばかりで、家に帰りたい、家族に会いたいと願っていた。
けれど、あの強い世界で私は泣き虫で、意気地のない自分が変われたと思っていた。変われた自分は確かに役に立っていると思えた。今思えば、思いあがっていただけだった。
怖がりでみんながいなければ、あの暖かい腕の中でなければ、夜も眠れないような子どもだったのに。
わたしたちは課せられたものこそ果たしたのかもしれない、けれど、わたしたちが望んでいた結末ではなかった。
ごめんなさい、ごめんなさいと、心の中も、口の中もいっぱいにしてわたしは、熱い空気の中で溺れることしかできなかった。
「失礼いたします」
「ああ、鶴見さん。待ってたのよ、早く上がって頂戴」
にこりと浮かべた笑みにさえ品というものが滲む、日野山の奥様。外商員という仕事に就き、中流階級で育った私にはまず目にすることもなかった世界に接しているが、その中でも桁違いの方々がいる。
日野山様もその桁違いの方々に属する。
本物の家は縦ではなく、横に広い。日野山様の家というかお屋敷に呼ばれるたびに、はぁと、懲りずに感嘆の吐息が漏れる。明治の頃に建てられたというお屋敷は、ぜひとも有形文化財にという話もあったそうだが、自由に改装ができなくなるからとさくっと断ったというから、本当に上流の方々の考えは庶民には理解できない。まあ、そのおかげで内部は和洋折衷の粋を集めた美しさと現代技術が融合し、とても快適だ。
「本日は、優佳里様の5歳の誕生日のためのプレゼント、『ロイヤル! ピュアキラ』の『マジカルブルーソードステッキ』と『ピュアレイクなりきり変身セット』……と桜子様の服飾品のご注文いただきまして……」
「優佳里ちゃんが喜ぶわ。水木さん、優佳里ちゃんに見つからないところに隠しておいて」
「はい、奥様」
ラッピングされたおもちゃを本当に日野山様はうれしそうに受け取ると、すぐに控えていたお手伝いさんに渡す。
5歳のお孫さんの誕生日、プレゼントは年相応の市販品だが、その誕生日パーティはお屋敷の庭園で日野山家、お孫さんの友達とその家族を集めて行われるものだ。私もその手配にかかわったのでわかる、私が知っている誕生日パーティとはレベルが違いすぎる。バウンシーキャッスルとか出張シェフとか本当に利用する人がいるのだと、意識が彼方に飛びそうになったのが記憶に新しい。これでもつつましい方だというから開いた口が塞がらない。
庶民な私が頭の片隅でのたうち回るのを感じながら、部下たちに桜子様への品物を準備するように指示する。
部下たちは無駄のない動きで車から運んできた品物を並べていく。あっという間に部屋の一室が店舗に早変わりする。準備をした後、すぐに部下たちは日野山様が準備してくださった別の部屋に移る。
そして奥様と私になったところで、誕生日プレゼントを隠しに行っていた水木さんがタイミングを計ったように、扉を開けた。
そこにいたのは水木さんだけではない、日野山家の末のご息女、桜子様もいらっしゃった。
春の美しさと儚さを関したこのご息女は、いつみても浮世離れして見える。
年齢はもう30は近いはずなのに、その容姿は少女といっても差し支えない。日本人にしては薄い亜麻色の髪がふんわりと波打ち、白磁を思わせるくすみのない白い肌が引き立つ。子犬を思わせる黒目の大きな瞳が違和感なく甘さを滲ませ、セーラー服でもお召しになったら、学生だとだれも疑わないことは保証できる。
実年齢とあまりに合わない、若々しいというより幼ささえ感じさせる桜子様。庇護欲を掻き立てざるを得ない、ほころびかけた花のようにやわらかく整った相貌も相まって、桜子様のふわりと風に溶けてしまいそうな雰囲気を引き立たせる。
「桜子さん、こっちのワンピースなんてどうかしら」
「お母さん、それはちょっと子供っぽいような気がする」
「そんなことはないわ。桜子さんは何を着ても似合うわ」
奥様はパステルカラーのかわいらしいワンピースを選ばれていた。一般的にアラサーの女性が着るには幼いようにも見えるが、少女然とした桜子様にはよく映えるだろう。対して桜子様が選ばれたのは直線的ながらも落ち着きのあるブラウス、こちらも楚々とした桜子様は着こなすだろう。いや、まず顔がいいとかわいいだろうが、きれいだろうが似合う。
「こちらのネックレスも、桜子さんによく似合うわ。あ、この色素敵……こっちのドレスも……」
「そのドレスだったら、こっちの靴がいいかな」
「桜子さん、その組み合わせ素敵ね」
母娘で仲良く服飾品を選ばれていた。お二人に選ばれるイコール購入である。途中ながらすでに合計金額は私の年収を超している。
やんごとなきお家柄、一生困ることのない資産、そして一目見れば忘れられない器量良し、私と同じ世界で呼吸していることがすごい。そんな桜子様は、穏やかに生活している。ニートなんて言葉は適当ではない、桜子様名義の土地や株式、それだけで私には一生拝めない資産をお持ちだ。
日野山家の方々は桜子様の幸せを常に考えている。
先代の担当者から聞いた話だが、桜子様は幼少のみぎりよりとても愛らしく、先代の祖父母も、ご両親も、3人のごきょうだいも、泣き虫な桜子様をそれは砂糖も苦く感じるほどにかわいがっていたとのこと。
しかしそんな桜子様も、大学に進学する頃からだんだんとその笑顔に曇りが見えるようになり、院を卒業し、就職したあたりで、桜子様はすっかりふさぎ込んでしまった。その原因は、桜子様しかわかない。
ふさぎこんでしまった桜子様をご家族は心配し、ゆっくり過ごせるように取り計らった。
今の笑顔で母親とおしゃべりを楽しまれる桜子様は、その穏やかな生活の中で取り戻されたものだ。
世間やお金の心配などする必要なく、家族に、環境に恵まれたひと。
これからも、この幸せな人は、何不自由なく一生を過ごしていくのだろう。