百瀬幸生
職場の先輩から見て
あの夏の日、僕は自分の拳を握りしめて立ち尽くすことしかできなかった。
何もできなかった自分への怒りと、自分をあの世界へ連れて行った存在への怒りが頭を支配する。そんな怒りに震える僕へも、平等に真っ白な日差しは降り注ぎ、生ぬるい風が不愉快だった。
あの世界では、子どもだった僕に、当然のように重いものを背負わせた。
子どものぼくは、自分が賢いと思っていた。でも、所詮は子どもで、あまりにも、ものを知らなかった。それの重さを本当に理解などしていなかった。
自分たちにしかできない、選ばれている存在であるということが、僕に背負わされた。押しつぶされそうだったくせに、プライドだけは高かった僕、無理に背負わされたものにもかかわらず、背負わされたものを下すという選択肢は浮かばなかった。
僕は成さなくてはらないという、使命感。だが、それは子どもの僕らが担うべきものではなかった。そして、僕らが、成した結末はあまりにも、酷いものだった。今でもはっきりと覚えている。
身体は夏の暑さに素直に反応し、汗が頬を伝った。ああ、僕は今暑いのだなとそんなばかばかしいことを思ったのを覚えている。
「失礼いたします。今、お時間大丈夫でしょうか?」
「うん、大丈夫だよ。百瀬」
「先日承った類似判例のまとめです、確認をよろしくお願いします」
「え、もうまとめてくれたの? 早いね、ありがとう」
「はい」
俺の目の前で浅く、けれど絵になるような礼をする、百瀬。うちの事務所のアソシエイトだが仕事ができるやつである。
まだ不勉強だと謙遜するが、1を知って10を知るような器用さがある。
いつも背筋が伸びていて、背中が丸まっている姿が想像できない。男女問わず振り返ってしまうような整った容姿をしている。それを表すように、百瀬が入ってから、百瀬目当ての取材が何件もあった。
ここで働かずとも、顔で食っていけるぐらいに整っている。百瀬がその気になれば、実績がなくとも、弁護士という肩書持ちのイケメンコメンテーターとして成功するだろう。それを百瀬は望んでいない。うちの事務所は一つ一つの案件を堅実にこなす、独立するまでの勉強には持ってこいの場所である。
「あ、もうこんな時間だな……百瀬、所長たちが帰ってくる前に昼飯済ませておこうぜ」
「そうですね」
お互い事務作業に追われていたせいで、時間の感覚が飛んでいたようで、遅めの昼飯になった。
「百瀬、今日は彼女お手製か?」
「今日は僕です」
シンプルながらうまそうな手作り弁当に箸をつけている。
百瀬には結婚を約束している彼女がいる。交代でお互いの弁当を作りあっているというラブラブっぷり。
「ちゃんと作るの、えらいな」
「自炊のほうが節約になるので」
「堅実だな」
下手なアイドルが裸足で逃げ出す顔面の百瀬の彼女も、これまたモテない野郎どもが嫉妬でのたうち回りそうなぐらいのかわいい系の美人であった。
たまたま見かけただけだったが、百瀬が事務所では一切見せない柔和な笑顔を浮かべていて、彼女にはでれでれなのだと分かった。
「結婚式の準備はどうだ?」
「この間、愛のご両親と顔合わせを済ませまして、結婚式の日取りとかこれからです」
「がんばれよ。結婚式の準備でごたついて、浮気されたって案件にならないようにな」
「なりません」
「悪い、悪い」
珍しくむっとした顔を見せた百瀬、そのままの顔で卵焼きを口に運んだ。箸を持つ百瀬の薬指には指輪が光っている。
百瀬は顔こそいいが、どこか人に対して壁を作っているところがある。それは悪いとは言わないが、明確に距離を置かれていることがわかる。こういうタイプは、俺の経験上あまり結婚に積極的ではないのだが、ここまで相手を想うということは、程よい距離感がわかるいい子なのだろう。
「俺も結婚式の準備したけど、あれ大変だよな……」
「思ったよりもずっとすることが多いです。プランナーさんと話をしたんですけど……」
「笑顔で怒涛のように、やるべきことを言ってくるよな」
「はい」
結婚式というのは本当に大変だ。しないという選択肢を取るやつの気持ちもよくわかる。金もえらくかかるし。
「百瀬はいい旦那さんになりそうだよな」
「なるように努力します」
「おお、いいね。その気合。古いかもしんないけどさ、「きゃっうちの人素敵! 幸生さんといっしょなら大丈夫だわ」って、奥さんに思われるぐらいしっかり旦那しろよ」
「愛はそんな甲高い声ではありません」
「え、そっち突っ込むの」
俺の渾身の裏声は、百瀬からダメ出しを食らった。
「愛の声はもっと柔らかく耳に残って、素敵です」
「おお……照れることなく真顔で惚けたな……お母様の血か?」
「母の国籍は関係ないですし、愛に対していつも思っていることを言っただけです」
「お前、少女漫画の実写版みたいなこと言うな」
「見ているのですか?」
「妻と娘が見るからいっしょに見てる」
妻と娘の好みはよく似ていて、推しの俳優がとかなんとで、色々見ている。
リビングで見ているから俺も見ることになるのだが、とにかくきらきらしていて俺なら恥ずかしくてのたうち回るだろうなというセリフが平然と飛び交っていた。
「……娘さんは……かわいいですか?」
「お、気が早いな。もう子どものことか……最近は俺へのあたりが強くなってきたけど、子どもはかわいいぞ」
自分の子どもというのは特別な存在だ。
子どもを持ってから世界が変わる。街中で騒ぐ子どもを見てうるさいなと思っていたのが、親御さんその時期だと予想だにしない行動とるし1秒前と言ってることが違うし謎の要求があるし本当に大変ですよねお疲れ様です頑張ってくださいと、見ず知らずの親子に届かない声援を送るようになったり。自分が子どもの頃、親っていうのはなんてこんなに口うるさいのだろうか、と思っていたのが、いやいやなんでそんな危ないことするんだ辞めなさいお父さんの心配でたまらないお父様お母様あなた方もこんな思いをしていたんですね子どもの発想力と行動力って本当に怖いと、肝を冷やしていた。
「子どもっていうのは、本当に何をしでかすか分かんないからな。子どもは動いたら怪我するものって前提で見ないと……」
「守ります」
「ん?」
「絶対に、子どもは守ります」
そうかと端的な言葉は紡げなかった。あまりにも、百瀬の顔が険しかった。
普段の澄ました顔からは想像もできないほど、その眼には強い感情が籠り、色素の薄い瞳が鈍く光ってさえ見た。ぎゅっとかみしめられた薄い唇は、喉元までせりあがっているだろう何かをせき止めているのだとはっきりと表していた。
何か言葉を発したいのに、動きたいのに、動けない。百瀬に飲まれて、腹の奥が冷えているのが分かった。
「戻ったぞ、お、なんだ食事中だったのか」
「……あ、所長」
味わったことのない空気に支配されかけた時、所長たちが帰ってきた。
「いい匂いにつられて、今川焼を買ってきてしまったんだ。お前たちもデザートにどうだ?」
「いただきます! ほら、百瀬、お前ももらっとけ」
「所長。この間の健康診断……」
「基準値よりほんのちょっと高かっただけだ。ちょっとだけだ」
先ほどの嘘のように霧散した。百瀬との付き合いはそんなに長いわけではないが、あんな一面は知らなかった。百瀬は子どもの頃に何かあったのだろうか。