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戸部つかさ、旧姓高原つかさ

ご近所さんから見て

 あの夏の日、私はただ座り込んでいた。

 私の心はひび割れて、息ができないくらい痛かったのに、涙は一滴も零れなかった。

 目に痛い日差しがじりじりと肌を焼き、深い緑と空気を支配する蝉の声が、沈む私に夏を叩き込んだ。

 あの世界で、幼い私は、偉業を成した気になっていた。

 この世界とは異なるすべてを、不思議に思い、驚き、最初は怖かった。でも、たくさんの美しいもの、素晴らしいもの、やさしい人に会うたびに、どんどんと愛していった。この世界のために自分ができることをと努力しようと、間違った努力をしていた幼い私。

 ランドセルを背負うのに精いっぱいの背中で、何を背負った気でいたのだろうか。覚悟という言葉を、音でしか知らなかったのに。あの夏の日に、その傲慢は砕かれた。

なぜ、私は呼ばれたのか、選ばれたのか。なぜ、私が呼ばれなくはいけなかったのか、選ばれなくてはならなかったのか。

 私たちはあの結末を、微塵も考えていなかった。あまりにも、子どもだった。

 夏の日だというのに冷えてしまった手が上に伸びた、無意識に傍らに居た大きな姿を探している自分に、すがろうとしている自分に気づいて、心底、自分が嫌になった。




「あら、戸部さん。こんばんは」

「こんばんは」

 息子が明日の図工の時間に紙コップが必要なのだと突然言い出し、急に言われても、家に紙コップはなく、夕食後に近くのコンビニに紙コップを買いに行った。

 その帰り、エントランスで、二つ右隣の戸部さんのところの奥さんに出会った。

 今どきのマンションは付き合いが薄いとは言われているが、近くの部屋の人ぐらいならわかる。

「あら、戸部さん。お仕事終わり?」

「はい。すっかり遅くなってしまいました」

 にこりと、疲れを滲ませることなく戸部さんは笑った。

 毎回思うことだが、戸部さんは身長が高い。平均身長の私より頭半分ちょっと大きい。その身長に見合うように身体もすらっとしていて姿勢もいい。てっきりスポーツでもしていたのかと思ったが、何もしていないという、ジムにでも通っているのかもしれない。

「夜は涼しいけど、昼間は暑くなってきたわね」

「そうですね。着るものを選ぶのが大変です」

「分かりるわぁ。うちの子たちの夏服をそろそろ出さなきゃって思うんだけど……面倒で」

「衣替えは、時間がかかりますね……」

「そうなのよね……成長期だから入らなくなったのもあるだろうから……あー断捨離だわ……うちの子たち、服に興味がないから何を買ってもリアクションが薄いし……あ、笑満ちゃんはどう? 服とか興味ある?」

「ええ。今、大好きなキャラクターがいて、その子のようになりたいって」

「やっぱり、憧れがいないと、ファッションには目覚めないか……でも、笑満ちゃん、本当にかわいいわよね! 戸部さんによく似て! 将来美人さんになること間違いなし!」

 戸部さんはきれいというよりかっこいいという表現の似合う。長い髪はお団子で髪はまとめられていて、ゆで卵みたいなきれいな肌がはっきりわかる。学生時代女の子にもてるタイプの女の子だっただろう。

「笑満をほめてくださりありがとうございます。皆さんそうおっしゃってくださるんですが、私としては笑満は優一朗さん似だと思います」

 笑みを浮かべた表情を一切変えることなく、戸部さんは言い切った。

 赤の他人から見ても、笑満ちゃんは小さな戸部さんである。お母さんにそっくりな娘、ふつうそれを喜んで、うちの子は自分にそっくりなんていうものだけど、戸部さんは違う。いつも、笑満ちゃんは旦那さんにそっくりだと言うのだ。誰が言っても、戸部さんはそう返すのだ。母親として娘のちょっとした表情や仕草が父親似だと思うのかもしれない、とても夫婦仲が良いし。

「いやぁ、未だに旦那のことをさん付けとかいいですね。うちなんて、ママかおい、かな。戸部さんはとこは、優一朗さん、つかかさんって呼び合っていて、羨ましい。ラブラブですね」

「ラブラブだなんて……そんな」

 恥ずかしそうに顔を染める姿は、年頃の乙女かと突っ込みたくなる。戸部さんととこを見せつけてる、わざとらしいなんて言う人もいるけど、わたしはいろんな夫婦の形がある中でも、素敵なほうだと思う。

 そんな感じで、とりとめのない話をしながら、一緒にエレベーターに乗って、目的の階で降りる。

「笑満ちゃんが通っているインターナショナルスクールって、お知らせってプリントとか?」

「プリントでのお知らせもありますけど、ほとんどは保護者一斉にメッセージです」

「あ~、羨ましい。うちの息子の小学校未だにオールプリントよ。アナログすぎる……一斉メッセージ機能ほしい……おかげで、わたしは夜中にコンビニに走る羽目になったのよ」

「明日、何か作るんですか?」

「ん~、なんか図工の時間で……使うらしいんだけど……材料、お金出すから全部学校で準備してくんないかなぁって毎回思う……」

「小学校になると持っていくものも増えますか?」

「増える増える! 笑満ちゃん、今5歳だっけ? 1年なんてあっという間よ、ランドセルは早く買っておかないと大変。うちの長女の時に悠長に構えてて、夏休み明けにそろそろなんて選びに行ったら人気のやつとか売り切れ! 早期割引購入とか知らなくて後悔したもの……あ、インターナショナルスクールだから、ランドセルいらない系?」

「自由選択だそうです。笑満はランドセルがいいと言っているので、ランドセルは購入します」

「その自由度、いいなぁ。うちの末っ子も来年小学生だし……笑満ちゃんと同じとこ受験させたいな……でも、テストが厳しそう……」

 子供の話をしていると、あっという間に部屋の前につく。

「じゃあ、お疲れ様です。しっかりご飯食べて、お風呂入って休んでくださいね」

「はい、失礼します」

 戸部さんが自分の部屋のインターフォンを押すと、すぐに扉が開いた。

「おかあさん、おかえりなさい!!」

「ただいま、笑満」

「つかささん、おかえりなさい」

「ただいま、優一朗さん」

 扉の向こうから、かわいい娘と素敵な旦那さんで出てきて、戸部さんを迎えた。

 その姿は幸せいっぱいで、素直にうらやましく思う。

 戸部さん自身が翻訳関係の仕事で英語がぺらぺらだというし、旦那さんは子育てに協力的だし、子どもは素直でかわいい。

 戸部さんみたいに人生を順調に進んでいる人は、きっと子どもの頃からいい人生を歩んできたに違いない。

 ドアが閉まる寸前、見ているわたしに気づいたのか、戸部さんは小さく会釈をした。

 その姿も姿勢の良さもあって、きまっていた。

 まあ、よその家をうらやんでも仕方がないけれども。

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