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百合の手紙

 母ナタリアがこの世を去ってから半年も経つと、国の雰囲気も元に戻っていた。

 私は特に嘆き悲しむことも無く、ただ日常を繰り返してい。あの日、あの棺に花を手向けたのか感情のピークだったのだろう。そもそも私は彼女の亡骸も見ることもなかったし、会って話す機会も少なかった。


 あれから数ヶ月、あの教会で突如思い出した母の手の温もりと優しく微笑むあの姿を思い出していたが、最近ではその回数はめっきり減った。

 あの思い出はどうしても私が知っている母のイメージとリンクせずに、収まりの悪い気持ちが浮遊していた。なぜあの日に限ってまったく別人のような母が脳裏に浮かんだのか、今もよく分からない。


 ローズウッドから持ち帰った青い手帳は、私の部屋のマットレスの下に忍び込ませてある。

 ここに隠しておけば、見つかることはほとんどないだろう。ただ大掃除の日はマットレスが上げられてしまうため、その日だけ注意をしておけば安全な隠し場所だ。

 私はそれを何度もこじ開けようとしたが、錠の部分が頑丈でびくともしなかった。一体何が書かれていて、持ち主は誰なのかますます気になった。もしかしたら何か秘密な事が書いてあるのかもしれないと思うと、私の好奇心はまた高ぶった。


 たぶん手帳の鍵は、あの物置部屋の何処かにあるに違いない。

 だが、あんなに物が溢れかえった中、小さい鍵を探すのは不可能だろう。それに、私自身がローズウッド宮殿に赴く機会がほとんどない。

 リリィに頼んでみる?

 いや、彼女を巻き込むわけにはいかない。


「ラナ様、リリィ王女からお手紙です」

 そんな事を考えてると、ナンシーから封筒を手渡された。

 リリィからの手紙だ。今彼女は手紙を書く事に熱中しているらしく、最近では週一で手紙が届くようになった。内容は、スクールのことや受けているレッスン内容、そして友達とのことだった。彼女の近況を綴ってあるこの手紙を読みながら、お茶をするのが日課になっている。

 リリィは、毎回シーリングスタンプの色を変える。今回はピンク色だ。彼女の名前の周りに百合の花と可愛いリボンが描かれているスタンプからは、彼女なりのこだわりが見えてくる。


「ナンシー、もうアフタヌーンティーの時間よね」

「かしこまりました」

 すぐに用意してくれたメイドにお礼を言って、早速スコーンを頬張った。バターの甘さとサクサクとした感触が口の中に広がって、自然と笑みがこぼれる。

「美味しい」

「それはよかったです。でも、食べすぎには注意ですよ」

 紅茶を一口すすってから、リリィからの手紙を手に取り封を切った。リリィ特製の便箋にも、百合の模様が施されている。


「親愛なるラナお姉さま、お元気ですか? 昨日お姉さまから頂いた本を読み始めました。私には少し難しそうなので、時間がかかりそうです。また読み終わったら感想を送ります。そういえば、先日美味しい茶葉をお友達から頂きました。是非お姉さまにも飲んで頂きたいので、今度お城へ持っていきますね。いきなりですが、一つお姉さまにお願いがあるのです。ヴァイオレットのことについてです。お父様は近頃全くこちらの宮殿に来てくれません。イギーに聞いても、知らないの一点張りで、どうしたらいいか分かりません。お城でお父様に会ったら、ぜひヴァイオレットに逢いたいとリリィが言っていたと伝えて頂きたいのです。どうかよろしくお願いします。リリィより」


 彼女と次に会う時はその茶葉でアフタヌーンティーをと心を弾ませたが、後半部分を読み進めるとその高揚感はたちまちモヤっとした霧に変わった。

 この手紙を読むまで父が頻繁にローズウッド宮殿へ足を運んでいると思っていた。母を亡くしたリリィのために、あちらで寝食をしているのだろうと。

 では、父は一体どこで何をしているのだろう。そしてヴァイオレットは、何処で誰が世話しているのか皆目見当がつかなかった。


 そもそも私は、ナタリアがヴァイオレットを身籠っている姿さえ見たことがない。本当にヴァイオレットという妹が実在するのかも半信半疑だった。だが、リリィはヴァイオレットと対面したというのだから、彼女はどこかにいるはずだ。

 では、どこに?

 なぜ彼女はローズウッド宮殿から連れ出されたのか、そして誰も彼女の所在を私たちに教えないのかが不思議だった。

 どうせ父の側近たちが勝手に決めたに違いない。

 父は側近たちの意見をいつも丸呑みしているのだ。彼らが私に向けてくるその視線にも、そんなやつらに対して笑顔を振舞う父のことも不愉快だった。



「ねぇ、ナンシー。ヴァイオレットは何処にいるの?」

 彼女の顔をじっと見て尋ねた。

「残念ながら私は存じ上げません」

「本当に? ヴァイオレットの乳母が誰かも?」

 彼女は、首を横に振った。

「ヴァイオレット王女がノームガルデの保護下にいるという話は聞いております。ここは、お父上様に尋ねてみるのが一番かと思いますよ」

「そうね。でも、父上はローズウッドのほうにも帰ってないみたいなの。ここ数ヶ月、城で夜を過ごすことも少ないし」

「そういえば、最近お姿を拝見することがありませんでしたね」

「申し訳ないのだけど、父が戻る日を聞いておいてほしいの。リリィがヴァイオレットに逢いたいっていうし、私も一度も会ったことがないもの」

「今までヴァイオレット様との面会の機会を作らなかった私の責任です。どうぞこのナンシーにお任せください」

 そう言って彼女は床に跪いて頭を垂れた。

「ちょっとやめてよ、ナンシー。そういう意味で言ったんじゃないの」

 そうじゃない、私が積極的にヴァイオレットと会おうとしなかったの、と胸の内で弁明するも直接言葉にするのはできなかった。


 数時間後、父上が明日の夜に城に戻ることを彼女から伝えられた。その時初めてベッドの中でぼんやりと妹たちと一緒に暮らすことを想像してみた。たぶん今までの生活とは、比べられないほど楽しいに違いない。私とリリィ、そして未だ顔を見たことないヴァイオレットと一緒に毎日食事をし、眠りに落ちるまで色々な話をするのだ。

 優しい父のことだから、母親を失った今、妹達と暮らすことを受け入れてくれるだろう。この夜は、その理想が簡単に現実になると思っていた。



 次の日の夜、私は父の書斎の前に立って深呼吸をして、用意しておいた言葉を何度か口の中で復唱した。壁のロウソクが瞬く旅に自分の影も揺らぐ。何をこんなにも緊張しているのか、自分でも分からなかった。

 意を決してドアを三回ノックした後、私は自分の名を声を上げた。

「ラナです。お話したいことがあり参りました」

「おぉ、ラナか。お入り」

 父の声がして、一息をおいて扉を開けた。


「お父様」と言い終える前に、父の横に座っている見知らぬ若い女性が座っていることに気が付いた。彼女は私と視線がぶつかると同時に、彼前へ出てドレスの持ち上げ片膝を折り自己紹介をした。

「ラナ王女殿下、はじめてお目にかかります。アーサー王殿下の通訳などを担当しております。レイチェル・コルダスティと申します」

「初めまして。いつもご苦労様です」

 私は初めて見るその美しい女性に、思わず息を呑んだ。彼女は母を彷彿とさせる甘栗色の髪を耳にかけて、微笑んだ。

「ラナ、話とは一体何なんだい?」

「実はお願いがあって参りました」

「ラナがお願いとは珍しいな。で、何だい?」

「あの……」

 私はそういってレイチェルという女性に視線を向けた。

「私は失礼したほうがいいですね」と立ち上がろうとしたが、父はそれを制止した。

 レイチェルは私の視線の意図を汲み取ってくれたが、父は彼女を牽制した。

「レイチェルは私が深く信頼する一人なんだ。君はここに居てくれ。さぁ、ラナ話しなさい」


 足元がグラリを揺れ気がした。目の前にいるのは父であるはずなのに、まるで見たこともない表情をしている。


「リリィも私も、ヴァイオレットに会いたいのです。彼女と面会する機会が欲しいのです。今彼女はどこにいるのですか? 妹であるはずなのに、私たちはそれすらも知りません」

「単刀直入に言うと、今は彼女には会えないんだ。生まれつきで、彼女は身体が弱くてね。緑の多く、空気と水が綺麗な場所に住んでいるのだから安心してくれ。私だって、ヴァイオレットに会いたいんだ。あぁそうだ、彼女の体調が安定したら今度皆で食事をしよう。すぐにヴァイオレットの保護者に手紙を送ろう」

「……はい」

「では、ラナ。また後日、一緒に食事をしよう。彼女と仕事の話をしなければいけないんだ」

 結局、父はヴァイオレットの所在をはぐらかした。そしてもう一つ、妹たちと一緒に住みたいということも伝え損ねていた。他人がいる場で家族の話を深く掘り下げるのは避けたかったし、なぜか私はあの場では奇妙な居心地の悪さを感じていた。


 ふと気づいた時には、私は書斎の閉められた扉の前に呆然と立ち尽くしていた。

 父が一方的に話を終わらせて、ほとんど締め出されるような形で私は外に放り出された。私はそれに抗う事も出来ずに、呆然と扉を見つめることしかできなかった。扉の向こう側でレイチェルと父の笑い合う声が聞こえてきた時、身体の真ん中から黒くてねっとりとしたモノが流れ出したような気がした。


 自分の情けさなに大きく息を吐いて、書斎の扉に踵を返した。自室へと重い身体を引きずるように戻り、ソファに深く座ると何度もため息が出てくる。ナンシーは、そんな私の様子から何かを察したらしく、やかんを火をかけた。数分後、彼女はティーポットにお湯を注ぐとカモミールティーの匂いが辺りに漂う。


「ありがとう」

「いえ」

 一口すすると、温かい液体がじんわりと緊張していた胃に広がった。

「あのね、部屋に行ったらレイチェルって女の人がいたの。ヴァイオレットに会いたいってことは伝えられたんだけど、もっと話したいことがあったのにお父様はまた後でって」

「それは残念でしたね」

「ナンシー、そのレイチェルって人知ってる? いつもだったらお父様は二人きりでお話してくれるのに、今日はそうじゃなかった。それどころか、部屋を追い出されたの」

「もしかして重要なお話をしていたのでは? 彼女は有能な通訳者だと聞いておりますし」

「でも、なんかそんな雰囲気じゃなかったもの」

 子供みたいな物言いに恥ずかしさを感じつつも、あの時感じた違和感がまた体中を駆け巡る。

「来月同盟国との会合があると聞きますし、その準備でしょう」

「……そうよね。あぁ、今日は早く寝るわ」

「えぇ」


 ベッドに入ったは良いものの、なかなか寝付けずにいると、私はレイチェルのことを思い出していた。あの時間は一瞬のことのようで鮮明には覚えていなかったが、初めて会った彼女は笑顔をこちらに向けていても、その瞳の奥は凍っているようだった。その一方で、ここ数年で一番明るい表情をした父の笑顔が脳裏から離れない。



 それから数か月後、父から招待状が届いた。ヴァイオレットの体調が安定したのを機に、来週家族水入らずでランチをしようという内容だった。場所は城内のラグべリアの間へ来るように指定されていた。この部屋は、王族たちが集う部屋として作られたが、私は今まで数えるほどしか入ったことがない。


 食事会の当日、リリィが早速城に着いたという知らせを聞いて、私は二階にあるラグべリアの間に向かった。

 扉の傍には、リリィの乳母であるイギーが扉の外ですでに待機していた。

「こんにちは、イギー。もうリリィは中に?」

「はい、ラナ王女が来られることを心待ちにしております」

「ありがとう」

 群青色に染められ縁を金で装飾された両開きのドアの中心には、ラグべリアの紋章が大きく飾り付けられている。その紋章の前へ立つと、ドアの両端に居た二人の従者は扉を開けた。ゆっくりと紋章が二つに割れていく大きな扉を目の前にすると、家族との食事会だというのに身が引き締まる思いがした。

「ラナお姉さま!」

 部屋の中に入ると、リリィが手を小さく振っていた。


 その部屋は、色々な装飾が施されている。壁はドアと同様に群青色で染められ、壁側にはラグべリアの初代王と王妃が腕を組んで微笑んでいる姿が描かれた絵画が壁に掛けられている。

 窓側の上部には半月型のステンドグラスが四枚並んでいた。一番左から、青色に浮かぶ百合に似た花、満月、紫色の得体の知れない動物、そして三枚とは全く違う雰囲気の明るい色が散りばめられたガラスがはめ込まれてる。


 中央に長方形の木で作られた大きなテーブルが置いてあり、椅子も片側に十席ほど置いてあった。上座には王が座るための重厚な椅子が目に入る。そして椅子の後ろには、王国の紋章が入ったドアがあるのが見えた。


 用意されていたテーブルセッティングにはご丁寧にネームプレートが置いてあった。反対側の席にもう一枚ネームプレートが余分に置いてあるのに気付いたが、ヴァイオレットのネームプレートだろうか。

「リリィ、元気にしてた?」

 彼女は薄コーラル色のドレスを身にまとい、ゴールドのユリをモチーフにした髪飾りとネックレスをつけていた。

「うん。最近は、たくさん本を読んだりしてるの。お姉様は元気?」

「えぇ。もしよかったら私のお気に入りの本を渡すわ」

 リリィは目を輝かせて、本当?と聞いてきたので、私はもろんと頷いた。

「嬉しい! でもお姉様の本は私には難しそうな気がするけど」

「大丈夫よ、リリィなら読めるわ」

「そうかなぁ。でも、挑戦するのも大切だと言うし、頑張って読むわ。あぁ、それにしても緊張してきちゃった」

 私は、リリィの隣に座った。

「私も緊張して昨日よく眠れなかったの。ほら、私ヴァイオレットに初めて会うし」

「お姉さまは一度も会ったことがないって言ってたわ。でも、私も数回寝顔を見たことぐらいしかないの」

「そうだったの?」

「うん、お母様のこともあって……。私、ヴァイオレットのこと忘れちゃっていて。気付いた時には、もう彼女はローズウッド宮殿からは居なくなっていたの。お別れの挨拶も出来なくて、その時のことすごく後悔してる」

「リリィは何も悪くないわ。あの状況なら誰だって、周りのことに注意を払えなくなるわ。それに、その連れて行った誰かが、リリィに知らせるべきだったのよ。それか、父上があなたに説明するべきだったわ」

「ノームガルデの人だって、イギーから聞いたの。それにね、お父様とは、お母様の状態が悪くなってから話す時間がなかったの。お父様も辛かっただろうし、ヴァイオレットのこと私に話す時間も余裕もなかったのかなって思うようにしてるの」



 父たちが来る気配がしないので、リリィは学園生活について話し出した。彼女は、今気になる人がいるらしい。その意中の彼の話をし始めると、リリィの白い頬は赤い淡色に染まった。

 どうやら先日二人きりで食事をしたらしい。イギーに死ぬほどお願いしたの!と鼻息を荒くする彼女を目の前に、私は羨ましさを感じた。お茶は無事成功したらしく、すでに次の約束と取り付けてあると彼女は恥ずかしそうに笑った。

「お姉さまは、そういう人はいないの?」

「私は……」


 私が言葉を続けることはなかった。

 上座の後ろのドアから金属同士がぶつかる音が聞こえ始め、私たちは会話を止めて視線をそちらに向いた。その音はしばらく部屋に鳴り響いた後突如止まり、私とリリィは顔を見合わせた。するとドアの向こう側から、凛としたベルの音が三回鳴らされた。それが王が入室する合図だと気づいて、私たちは速やかに席から立ち上がり、その扉が開くのを待った。


 長い間役目を果たしていなかった扉は、少し耳障りな音を出しながらゆっくりと開いた。

「いやー久しく放置しすぎたようで、あらゆる部品が錆びついてしまったみたいだ」

 父はため息をつきながら部屋に入ってくると、私たちを見る二コリといつもの笑顔を浮かべ、こちらに歩み寄って二人同時に抱き寄せた。

「今日は来てくれてありがとう、私の宝物たち」

 彼は私たちの額にキスをして、私たちの身体を解放した。

「ごきげんよう、父上」

 私が父と対面して話すのは、あの夜以来だった。

「お父様!元気そうで何よりです」

 リリィは、いつものよう人懐こい笑顔を父に向けていたが、私は何そんな気分にはならなかった。あの夜、心にこびりついてしまった違和感を払拭することが出来ずにいる私は、妹よりも子供みたいだった。

 父はそんな私に気が付いたのだろう、私の頭をそっと撫でた。その優しい手の温もりは昔のままで、自分の子供じみた反抗心を持ち続けていることを恥ずかしいことだと気が付いた。やはりあの日は本当に大事な話をしていただけだったのだ、とようやくその引っかかりが取れようとした瞬間、父は口を開いた。


「さて、今日は家族水入らずの食事会ということだったんだけど、一つ君らに伝えたいことがあったんだ」

 父は真剣な表情を浮かべながら、ゆっくりと重厚な椅子に腰をかけた。入室してきた時とは正反対の雰囲気に、私は一抹の不安を感じたがリリィはあまり動じていないように見える。

「なぁに? お父様」

「実はだね……。入ってくれ」


 父はドアのほうを振り向いて声を上げた。よく見てみると、扉が五センチばかり開いていた。扉を押している白い腕が見えて、私は息を飲んだ。いや、扉が完全に開く前に、その人物が誰だか分かっていた。


「ラナは会ったことがあるね。リリィ、彼女はレイチェルでとても優秀な通訳者だよ」

「お初にお目にかかります、レイチェルと申します」

 レイチェルは金髪の赤ちゃんを抱えながら、膝を少し折り挨拶をした。

「初めまして、レイチェル。その赤ちゃんはヴァイオレット……よね?」

「はい。アーサー王に頼まれ、恐れ多いのですが」

「レイチェルはたくさんの兄弟がいて、赤子のお世話も慣れたもんなんだよ」

 さぁ、と言ってアーサーは扉から動こうとしないレイチェルを部屋の中へ通した。レイチェルは、 申し訳なさそうに、ネームプレートが置いてある席へ向かった。

「乳母車を中に」

 父は、そう部屋の外に待機していたメイドに命令した。

 そのメイドは父とレイチェルの間の丁度テーブルの角の位置に乳母車を配置した。そしてレイチェルは慣れた手つきで、赤ん坊を乳母車へと寝かせた後薄紫色のブランケットをかけた。


 リリィが私の顔をチラリと見た気がする。そこでようやく自分がどんな表情をしているか意識した。たぶん私はとても恐ろしい表情をしていたに違いない。

「お父様。お知らせとはなんですか?」

 リリィが滞ってしまった空気を循環させるように、明るい声を上げた。

「リリィはせっかちさんだな。食事が終わってから話すよ」

「しかし、父上……」

「やはり外で待っていたほうがよろしいかと存じます」

 レイチェルは席から立ち上がると、一斉に私たちの注目を集めた。

「レイチェル、お願いだから座ってくれ。ちゃんと話し合ったじゃないか」

 父はレイチェルを宥め、まいったなという様子で頭を自らの顎を触っていた。彼女は唇を噛み締めて、その場にまたゆっくりと座った。私たちは父が口を開くまで何も言わずに待った。その太い指が灰色の髭の上で何度か行き来した後に、ようやく父は決心したように息を大きく吸った。

「分かった。大事な話だから、食事の前に話すことにしよう」


 父は咳払いをして、リリィと私の顔を真っすぐ見た。

「お前たちの母上が、ヴァイオレットを宿すずっと前から心と身体のバランスを崩しているのは知っているだろう。それでレイチェルには長い間、相談に乗ってもらっていたんだ。残念ながらナタリアはこの世を去り、私は生きる希望を何も見い出せずにいた中、また助けてくれたのがレイチェルなんだ」

 父は一度言葉を区切ると、レイチェルのほうに手を差し伸べた。レイチェルは、少し躊躇った後父の手に自らの手を羽のように乗せた。


「私は、彼女と婚姻を結ぶことにしたよ」


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