甘栗色の野望
ラナの部屋を飛び出した後、父を探すため二階のフロアへ向かった。
いつもは賑やかなのに、今日に限って静まり返っている。時々父を見かけるラウンジを覗くも、やはり彼の姿は見当たらない。
「ノア坊ちゃん」馴染み深い声が、後ろで聞こえた。
「……トレバー、その呼び方は止めてくれ。俺だってもう二十歳になったんだ」
「申し訳ございません。この呼び方が身体に染みついているもので。そんなことより、なぜそんなに急いでいるのでしょう?」
トレバーは元ブランシェット家の付き人兼教育係だった男だ。もちろん俺もほとんど彼に育てられたようなものだ。
彼はこおもむろにちらに近づいて、俺の顔を見上げ「お助けしますよ」とそっと小声で言った。
「いや、そんな大事じゃない。城に親父はいるか?」
そう聞くと、彼は金縁の丸眼鏡のブリッジ部分を押し上げてからつまらなそうに首を横に振った。
「数時間前には、もうご帰宅されたようです」
「今朝、城にいたのか」
「左様でございます」
父もこの一連の出来事を知っているに違いない。
ということは、父はアーサー王を止めることは出来なかったのか。そんな俺の表情を見ると勘の良いトレバーは、「何か問題でも?」と俺の顔を覗いてきた。
「いや、何でもない」
「坊ちゃん、噂で聞きました。大切な役職についているとか。私にとっても名誉なことです。しかし……」
彼は言葉を一度切って、俺の目をじっと見ながら話を続けた。
「くれぐれも気を抜かぬように」
「分かっている」
「もちろんですとも」とトレバーは二コリと微笑んで、「また用があれば、なんなりと。では失礼」と踵を返した。
その含みのある視線に、実は彼が事の全てを知っているのかと疑ったが、彼の立場ではそんなことはあり得ない。だが、彼はとても賢く洞察力の優れた男だ。城の異変に気付いてしまうのも、別に驚くべきことではないのかもしれない。
「トレバー」
彼はこちらを振り返り、首を少しだけ傾けた。
「サイファー大叔父に会いに行こうと思う」
「……どうぞ、お気をつけて」と、また彼は深々と頭を下げた。
いつの間にか一回り身体が小さくなってしまっトレバーの背を見送った後に、城から出て厩舎に向かった。馬の世話に愛馬を出すようにお願いし、大銀貨を一枚渡した。
愛馬に跨ると、彼の機嫌が頗る良いことに気が付いた。鬣が絹のように揺れると、その理由が分かったような気がした。
「今日は、一杯走ってもらう事になる。まずは親父のところだ」
自分の気を引き締めるために声を上げると、相棒の白馬もそれに応えるように同時に颯爽と駆け出した。
馬の上にいることが何よりも好きだ。
それは、自身が何かをコントロールしているという支配力、唯一サイリスに勝る特技が乗馬だったからかも分からない。剣も武道も勉学もサイリスには勝てなかった。
城の門を通り抜けると川の流れる音が聞こえた。昨日雨が降ったせいか、水が激しくぶつかり合う音がしている。周囲は薄暗く空気は重い。風が湿ってきているのを感じ、雨が降る前に屋敷に到着しようと馬を早く走らせた。
彼女のもとから離れるのは不安だった。昨晩、あの儀式やサイリスの裏切りを知った彼女は、普段通りに振舞おうとしていたが顔はやつれ、瞳は濁っていた。そんな彼女に何も優しい言葉をかけてやれない自分に、また良く知った苛立ちを感じた。
昔から彼女がサイリスを特別に慕ってたのは、誰の目から見ても明らかだった。
いつの日か、彼女がサイリスに向ける視線を目撃する度に心にチクリとした痛みが走った。当時は、その痛みが何なのかまだ分からなかった。だが、自分にそんな視線を向けられることが無いことを知るとその痛みはより増したのに気付くと、ようやくその痛みの原因が分かった。
それでも、胸がどんなに痛もうと、俺は彼女の隣からは離れることが出来なかった。
俺たちが十八になった年、本格的に結婚に向けての見合いが始まった。
自分は数回候補者に会った後に、ある条件で結婚をすることを免除された。一方でサイリスは、父親が用意した相手と婚姻を結ぶことになった。彼はその優しさや真面目さゆえに、父親の意向に逆らうことはできなかったようだ。
相手は、シンディ・アレイユというかおなじみの女性だった。
彼女の家族は保守派であり、王国の中でも五本の指に入る名家だ。俺たちはシンディと幼い頃から知り合いではあったが、まさか革新派のカルヴィン家がアレイユ家と婚姻関係を結ぶことになるとは誰も予想していなかった。無論、その結婚が政略的だということは歴然としていた。
「明日、ラナに伝えてくる」
サイリスは俺の下宿先に突如やって現われ、相手が決まったことを報告した。彼は銀色の髪を後ろで結び直しながら少し顔を強張らせて、そう言った。
いつものように振舞おうとしているのが分かったが、珍しく彼は動揺を隠し切れずにいた。「そうか。大丈夫か?」
愚問だ、と言ったそばから後悔した。
「あぁ大丈夫、気が重いけど」サイリスはそう空笑いをした。
でも仕方ないんだ、と自分を説得するようにポツリと呟いて、彼は部屋から去っていった。俺は何も言葉をかけるわけでもなく、ただ無言でその背中を見送った。
それから数日後、彼女が好きなアップルケーキを片手に城に向かった。
彼女の部屋のドアをいつものようにリズミカルに叩いた。本当はそんな気分ではなかったが、あからさまに心配している雰囲気も出すのも俺らしくない。ナンシーがドアを開け、俺だと分かると少し安堵した表情を見せた。
「彼女の様子は?」と声を出さずに彼女に聞くと、彼女は微笑んだ後小さく頷いて招き入れてくれた。そして彼女は入れ替わるように部屋から出て行った。
「あれ、どうしたの?」
彼女の瞼は腫れているようにも見えたが、いつもと変わらない笑顔だった。
「これ、ダウンタウンで話題のりんごのケーキ。手に入ったから、お土産」
「え! あの有名な?」
「そう」
「ノア、もしかして何か企んでるの?」
「失礼な。分かった、美味しいケーキ要らないんだな?」
「冗談よ、ごめんなさい! はやく一緒に食べましょう」
ラナはいたずらっ子のような顔をして、ケーキを差し出すようにと手を伸ばしてきた。そうはさせるかと箱を頭上の上に持ち上げると、彼女はぴょんぴょん跳ねながら何度も謝ってきた。二人でその様子が可笑しくて、大笑いをした。
対面してケーキを頬張る彼女は、いつもと変わらない様子だった。だが、一つだけ違ったのは、彼女が一度もサイリスについて訊ねてこなかった。
今日まで彼女と、彼の婚姻について深く話したことはない。
何度もサイリスとシンディは夫婦一緒に行事に参加していたし、夫婦で彼女に挨拶することもあった。彼らが夫婦になって初めてのパーティで、彼女の目の前にサイリスとシンディが腕を組んで現れた時を鮮明に覚えている。彼女はいつもの通り王女らしく気丈に振舞っていた。それを見て少し心が痛んだが、慰めの言葉なんて彼女は必要としていなかったように見えた。そしてこの時から、長年薄膜のように張り付いていた敗北感が段々と溶けていく感覚を覚えた。
ふと気が付くと、屋敷の門を通り過ぎていた。雨が降る前に到着できたことに少しほっとして、厩舎に着くや否や父親か確認した。父の馬がいるのを確認すると、手綱を使用人に引き取らせ、屋敷へ入る。
「お坊ちゃま、おかえりなさいませ」
玄関で、マリアという名のメイドが仏頂面で出迎えてくれた。彼女は彼が生まれる前からブランシェット家に仕え、自分にとっては祖母のような存在だ。
「マリア、ただいま。親父はいるよな」
「はい。書斎におられますよ」
「わかった。ありがとう」
マリアには何度もお坊ちゃまと呼ぶのを止めてくれとと頼んだが、彼女は一向に止める気配がないので諦めた。それに彼女にそう呼ばれるのは不快ではなかった。
一階の書斎の足早へ向かい、ノックもせずにドアを開けた。
「親父!」
「部屋に入る時はノックしろ、と何度言ったら……」
父は手元の書類を視線を落としながら、言葉を吐いた。
「さっき、ラナにスバートのダガーが送られてきた。もう始まっているのか?」
そう聞くと、父親の手が止まった。
「それは本当か」
「俺が受け取った。もちろん中身も確認した。あれは本物だった。しかも、すでに一つサファイアが埋め込まれていた」父は先ほどまでのピンとしていた背筋を崩して、椅子の背もたれに身体を預け、手で顔を覆った。
「もしかして、親父も知らなかったのか?」
父は小さく首を振った。
「数日間城で待っていたが、王とは面会できなかった」
「なんだ、国王はこの儀式に積極的だったのか?」
「もちろんアーサーもこの儀式については慎重になっていた。だが……」
次の瞬間、父親は机を力いっぱい叩いて立ち上がり、悔しそうな表情を浮かべながら口を開いた。
「レイチェル王妃だ」
「なんで王妃が? それに彼女がそんなことをするような人じゃないだろ」
「人の裏を理解できないのなら、お前は今の仕事を辞めるべきだろうな」
「説教は後で聞く。でも、もし彼女が裏で王を操ろうとしても、王だって彼女に言われたからと言って娘の命を生贄にする儀式を始めるなんて思えない」
「レイチェルは、ご子息の立場固めに躍起になっているのを知らないのか?」
「噂は聞いている。でも、だからといって」
「お前は、もっと人と状況を注意深く観察しなさい。お前は先入観に囚われやすい」
「なっ……!」
だが、父の言っていることは正しかった。
「現王妃は優しい顔をしているが、賢く野心的だ。今は亡きナタリア王妃が著しく精神を壊したのも、匿名で送られてきた手紙のせいでアーサー王とレイチェルの関係を知ってしまったのが始まりだ。一部では、その手紙はレイチェルが……という噂があったが、まぁもちろん本当のことは分からない」
「嘘だろ? 彼女が通訳者として働いている時に、何度か仕事を頼んだことがあるが」
「そんな人に見えなかった……とは言ってくれるなよ」
父親の心底呆れたような顔を見て、顔がカーッと熱くなる。
「仮にレイチェルが王に儀式を急ぐようにいったとしよう。でも決して彼女一人の力であんな儀式を進めることは出来ないはずだ」
「それに、レイチェルのノームガルデの人間と密接だ。シュゲイト大司教と度々密会していると聞いた」
「なんで彼女とノームガルデが?」
「一番儀式を行いたいのは、ノームガルデだろう。それに、それはレイチェルの息子グレゴリーのためにもなる。国が潰れたら、息子を国王にすることはできないからな」
「でも大叔父様が、あんな儀式を推し進めようとするとは思えない」
「あの組織の指揮を握っているのは、サイファー殿ではないのは知っているだろう。主席とは言っても名ばかりで、何の権力もないただの飾り立てられているだけだ」
親父はそう言いながら、窓側に置いてあるサイドテーブルに歩み寄りガラスの容器に入ったウイスキーをグラスへと注いだ。
「それはサイファー様に失礼なんじゃないのか?」
「失礼も何も、彼自身がそう言っていたんだよ」
彼は一口その酒に口を付けて、またデスクへ戻った。
「そんな……」
「こんな状況になったら、ノームガルデは国を守るために何でもするだろう。黒髪の王女が生まれている時点で、もう準備は整っていただろうしな。でもアーサーがそんな簡単に儀式を承諾するとは思えなかった。彼は、そもそも儀式に懐疑的だった」
「じゃぁ、なんで」
「ナタリア王妃の死から、彼はすでに狂い始めていたのかもしれないな……」父は、グラスの中にあった液体を飲み干してから、そう声を落とした。
「もう一つ聞きたいことがある。カルヴィン家が寝返ったことと儀式の関係は?」
「さぁ。どうだろうな、関係ないだろう。彼らが居なくなって中枢部は確かに混乱しているが、スルレヒドには前から目を付けられていた。それにノームガルデにとって、遅かれ早かれ歴史に則って儀式をすることは決定事項だっただろう。彼らにとって儀式は絶対的なものだ。どんな手を使ってでも、儀式を成功させるだろう」
「カルヴィン家がスパイとして、帝国へ寝返っている可能性は?」
すると、父は笑って首を振った。
「それはない」
「なぜ?」
「小国に留まるよりも、帝国で役職を持ったほうが展望があるだろ? 遅かれ早かれこの国が帝国の支配下に置かれると考えたんだろう」
「長い間、ラグべリアに仕えてきたのに」
「時代も人間も変わっていくんだ。それを責めることはできない」
父は、そう言ってなぜか微笑んだ。
「ここで話していても仕方がない。ノームガルデに行って、サイファー大叔父に会ってくる」
「会えるかどうか知らんぞ」
「意地でも会って話をするんだ」
「勝手にしろ。ただくれぐれも身内の敵に嗅ぎつかれるな」
「分かってる」
そして書類に目を通し始めた父に何も声を駆けずに、その書斎から飛び出した。
小走りで裏玄関へと戻る途中、厨房から流れてくる匂いが鼻腔を刺激した。その直後に胃袋が大きな音を立てて空腹であることを主張したが、ここで飯を食っている暇はないと厨房を横目で見ながら素通りした。
外へ出ると、マリアが厩舎の近くで俺を待っているようだった。
「マリアまた出る。屋敷にはしばらく戻ってこれない」
「承知致しました。坊ちゃま、お食事をしておりませんでしょう。鞍に少しばかりランチボックスを括り付けておきました」
「丁度腹が減ってたんだ、助かるよ」
一体彼女がどうやって俺が空腹であることを察したのかは分からなかったが、彼女が人並外れた洞察力を持っているのは確かだった。
「お気をつけて」とマリアの言葉を聞いてから、俺は屋敷から飛び出すように出発した。
ノームガルデの拠点となる古城は、ここから馬を全力え走らせ一時間くらい離れた西の山の麓に建っている。子供の頃からその森が嫌いで、大人になった今でも森に入ると背筋がぞわっとする。
森の鬱蒼とした木々の葉は、太陽の光さえも遮断して青緑の匂いと湿気が付きまとう。まるでその森が太陽や月にも、その古城の姿を晒したくないように囲んでいるのだ。風通りが悪いせいで、空気を重苦しくさせ、人間を含む動物を寄せ付けないようにしているように思えた。あの森をイメージし始めると、あんなにも激しく感じた空腹感は消え、昼休憩を取らずに済みそうだ。
それに、馬の上で風を受けていると思考に没頭できる。そして俺は答えを求めるように、数年前の出来事を思い起こした。
初めてレイチェルに会ったのは、彼女がまた翻訳者として働いていた時だった。俺は友好国であるサンリドア王国に書簡を送るために、当時優秀と注目されていたレイチェルの元へ訪れた。
「公用語が共通なのに、サンリドア語で送るのですか?」と、レイチェルはきょとんとした顔で俺を見上げた。俺はまだ働き始めた時期で、書簡の送り方についてよく分かっておらず、自分の未熟なところを指摘された気がして恥ずかしくなったのを覚えている。
「なるべく交友的に見せたいんだけどやっぱり無駄かな?」と聞き返したのが初めて彼女と会話をした瞬間だった。
「いいえ、あちら側も嬉しがるでしょう。私にお任せください」と彼女は、快く引き受けてくれた。
そんな彼女の仕事熱心なところや、パールのような艶やかな肌と垂れる亜麻色の髪を魅力的に思う男性は少なくなかっただろうし、結婚の申し出も沢山受けていたようだが、彼女は中々身を固めないと聞いた。
国がレイチェルとアーサー王が婚姻したという国民に通達した日、城がシンと静まり返った。その時まで誰も彼女が、まさか国王と婚姻を結ぶとは夢にも思わなかった。
それに加え、当時はまだナタリア王妃が逝去してから一年も経ったもいなかった。そんな中、新しい嫁を娶ることに対して肯定的な国民や貴族は少数だった。また彼女は貴族の出身だったとはいえ階級は低いものだったので、反発する上流貴族との話し合いが長く続いたらしい。
だがノームガルデとあの儀式のことを知っている上層部の人間たちは、アーサーの申し出を渋々受け入れた。レイチェルの家柄については、良い反応ではなかったらしいが、彼女がまだ若いことに加えアーサーは彼女以外と子作りはしないと拒否していたので、彼らはその申し出を受け入れるしか選択肢はなかったようだ。
ノームガルデと上層部にとって大事なことは、次の世継ぎを作りだすこと。
世継ぎがいなければ、儀式を行ったとしても王国は滅びるしかない。そんなひっ迫したした状況が、この王国の歴史の中でも前代未聞の婚姻を後押しする要因になったのは確かだった。
彼らが婚姻を結び、時を待たずしてレイチェルが世継ぎを産んだという噂が城中で広がると城内の連絡掲示板に張り紙が出された。それは噂に対する警告文だった。そこには、根も葉もない噂をすれば刑罰を与えざる得ないと記されていた。
それから数ヶ月後、アーサー王はようやく王子が生まれてきたことを公表した。王子の名はグレゴリーと明記されていた。大半の国民は初めての男子が生まれてきたことに湧き上がり、レイチェルへの見方を気味が悪いほどガラリと変え、国の中枢部の人間はホッと胸を撫で下ろした。
俺が十九歳の年にグレゴリーは生まれた。ラナは十七になる少し手前だったと思う。
いくらおおらかで優しいと言われる彼女とは言え、母親が亡くなった二年後に父親がすでに新しい家族を築いていることを、すんなりと受け入れることなんて出来るだろうかと当時の俺は心配した。だが彼女を慰めるのはいつもサイリスで、自分の出番はなかった。
グレゴリーが生まれてから三ヶ月を過ぎて、王子を披露するためのパーティがラケル宮殿で開かれた。それまでグレゴリーの姿を見た者は、王国の中枢部にいる一部の貴族とノームガルデの大司祭しかいなかった。その一方で、ラナやリリィも家族であるのに、新しい宮殿に招待されたこともなかったことし、それまでグレゴリーと会ったことはなかったと聞いた。
絢爛豪華と評判の宮殿は、城から馬車で一時間程度かかる場所にある。前代の王と王妃が息子のアーサー王とその家族のためにと建設されていたはずだったが、現在はラナは城に、リリィも数代前の王の別荘として建てられたローズウッド宮殿へ身を置いている。
まだナタリア王妃が存命の頃、ラナはアーサー王に連れられては建設中のラケル宮殿に出向いたことがあると言っていた。「あんな宮殿に住めるなんて信じられない」と瞳をキラキラ輝かせていたことを覚えている。だが、彼女がその夢が叶わないと知ったときから、ラケル宮殿について話しているのを聞いたことがない。
パーティー当日、俺は馬車に乗って宮殿に赴いた。
しばらく経ってから外の様子を見ようとカーテンを開けると、緑の草原の向こうにキラリを太陽の光を反射する建物が見えた。
子供の頃、彼女はこの建設中の宮殿を見て、色々な将来を思い描いて立ち違いない、と思うと口の中が苦くなった。
宮殿に近づくにつれて、その宮殿の全容が明らかになっていく。これほど豪華絢爛な建物を見たのは初めてだった。その宮殿はローズウッド宮殿とは比較対象にならないくらい、大きくキラキラと輝き、その強い存在感で客人を魅了する。その一方で、宮殿に反射する光がやけに眩しく、ラグべリアの地には不釣り合いなような気もした。
外壁は白で統一されており、屋根の部分は深緑、そして縁は金で装飾されていた。その瞬く装飾は、宮殿の少し離れたゲートからでもキラキラと太陽の光に反射していたのを思い出す。
宮殿の大きな裾の様に広がった玄関先の階段の前で馬車は止まり、数十秒後に案内人がドアを開け降りるよう促された。馬車から降りると、塗料と木材が混じったツンとした臭いが、鼻を刺激した。玄関ホールには入らず階段先で立ち止まり会話を楽しんでいるご婦人達の笑い声や、その建物に吸い込まれるように馬車が次々とエントランスに到着する光景に圧倒されつつも、宮殿の中へを足を進めた。宮殿の内装は、白と深緑と金色で統一され、細やかな部分に繊細な彫刻が施されていた。膨大な労力と資金と時間がつぎ込まれているのは明白だった。
受付に招待状を渡し、確認が終わると王座の間へ通された。ホワイトを基調にした壁に上品な金色の装飾、真っ赤なベルベットのカーペットが敷かれて、壁にはアーサー王とレイチェル王妃の大きな絵画が飾られていた。その豪華絢爛な部屋にゲスト達は、自然とため息が漏らしていた。
それからウェルカムドリンクが振舞われ、ゲスト達はオーケストラの優雅な演奏を背に談笑していた。しばらくして演奏が止まると、皆は背筋を伸ばし、王座へと注目した。
王座の後ろにあるドアから、ラナとリリィが最初に皆の前へ現れた。顔を伏せた状態で席へ座る彼女たちは、心なしか意気消沈しているように見える。その後、満面の笑みを浮かべたレイチェルと彼女の腕に抱かれたグレゴリー、そしてアーサー王が続いて現れた。
ラナたちは俺から見て王座の右側に、レイチェルたちは左側に整列したが、そのテーブルにヴァイオレットはいなかった。何人かの前列に居た者たちが不思議そうに顔を見合わせると、司会者がヴァイオレットは体調を崩しているから参加出来なかったことを簡単に説明した。
パーティは、リリィの挨拶から始まった。
「皆さま本日は、ラケル宮殿にお越し頂き、王族を代表して次女であるリリィからお礼申し上げます。今日、この場へお越し頂いた素晴らしい皆さまに祝福される弟グレゴリーは……」
十三歳のスピーチとは思えない自身の満ちた言葉に皆が感心しているのをよそに、俺はラナが気になって仕方がなかった。彼女はリリィを見守るように彼女の後ろ姿をじっと見ていたが、その表情は依然として曇っていた。そんな中、俺の視線に気付いたラナと目が合うと、彼女は何でもないように口角をキュッと持ち上げた。
リリィのスピーチが終わると、アーサー王とレイチェル王妃が立ち上がった。グレゴリーは機嫌が良いらしく、レイチェルの腕の上で手を上げたり声を上げたり活発に動き、ゲストたちは喜びの声が上がっていた。彼女は、赤子の顔がよく見えるようにとゲスト達に対面させるように抱き、アーサーは彼女の腰に手を回しながらゲストに語り始めた。
アーサー王の言葉は、耳に入ってこなかった。
グレゴリーは母親ゆずりの丸い瞳に、亜麻色の髪を薄く生やしていた。その赤子はこんな大勢の人間の前に出ようとも、怖がる様子もなく、それどころか腕を前に差し出して手を開いたり閉じたりして遊んでいた。
アーサーはグレゴリーの活発さに何度も声を出して笑い、それに釣られるようにレイチェル王妃やゲストも一斉に笑い声を上げた。対照的にラナの表情は石のように硬くし、リリィは時々にこやかな表情を見せるがすぐに口を一文字に結んでいた。
「諸君、我が息子をくれぐれも頼んだ」とアーサーは演説を終えると、レイチェルと顔を見合わせて二人優しく微笑み合っていた。その後に、王はラナとリリィのほうにも視線を送ったが、彼女たちは下を向いて目を合わせようとしなかった。
スピーチが終わると、次はディナーが用意されたダイニングルームへと移動した。
テーブルには、貴族でもそう簡単には手に入れられないような食材や高級なワインなどか置かれていて、ゲストたちは感嘆の声を上げていた。
俺の席は、ラナを表情を見て取れる場所に用意されていた。アーサー王とラナの様子を観察していると、リリィが彼らの仲を取り持とうとしているのが分かった。
それでも彼女はアーサーと目を合わせようとしないので、アーサーも頭を抱えているのが見て取れた。一方でレイチェルは、アーサーの耳元で囁き励ますように背中を撫でていた。
そのレイチェルの姿は、誰の眼からみても献身的な妻そのものだった。
レイチェルを嫌っていた者たちにとって、その日から彼女への見方を変える機会になったのは間違いない。加えて、俺自身もそんなレイチェルの姿を見ていたので、どうしても彼女を悪い人間だとは思うことは出来ずにいた。
そんな事を思い返しているうちに、俺は西の山の麓の入り口に到着したようだった。ここからは道に迷う可能性が出てくる。昔のことを思い出すのは止めようと、周りの風景に集中した。
森へ入ると、臭いがガラリと変わる。どんな季節でも同じような臭いがするのが、気味が悪いと感じる一因だ。
曲がる目印は小さな切り株だった。初夏になると雑草の背が高くなり、その切り株はかくれてしまうが、今はそこまで雑草は成長していない。数十分走ると、ようやく最初の目印の切り株を見つけたのでそこを左に曲がり、またしばらく直進する。
次に目印となるものは、木の枝の股に無作為に置かれている錆びついた小さいランプだ。
目線を上にして、馬を走らせる。錆びてしまったランプは簡単に枝に溶け込む。
しばらく走ると、もうすぐだと身体の感覚が知らせてきた。すこし馬が走るスピードを緩め、自然に馴染んでしまっている人工物を見つけるために目を凝らした。すると左側十メートル先にある木の枝に何か挟まっているものが視界にはいり、無事見つけられたことにホッとした。もし、このポイントを逃すと古城に着くまで倍以上の時間がかかることになる。馬をランプのポイントで左折させ、雑草に隠れていた細道の上を小走りで通る。
木の枝で出来たアーチをくぐり抜け、最後に緑の壁に馬と一緒にダイブする。すると突如として綺麗に整えられた道へ出る。そこは緑のトンネルと呼ばれていて、普段ならここだけ浄化されているみたいに太陽の優しい光が透けているのに、今日は陰鬱な様相だったことに嫌な予感がした。
トンネルをくぐり抜けると、ようやく古城は姿を現す。城壁には赤と緑の蔦が侵食するように、絡みついている。木々たちがその城もろとも飲み込もうとしているようだったし、城はそれを甘んじて受け入れている様に見えた。
上り坂の石畳を進み城のエントランスへ着くと、俺が来るのを知っていたように灰色のローブを身にまとった使者がそこに居た。
「サイファー様がお待ちです」
「あぁ」
俺の返事を聞くと、その顔色が悪い男は、演技をしているかのようにローブを翻した。