深い青に
その知らせは、誕生日を迎えた数週間後の明け方にやってきた。
私は十四歳になったばかりだった。
太陽が昇る前、ナンシーは寝ている私の身体を激しく揺すった後に震えた声でこう言った。
「ナタリア王妃が……」
「なに?」
「お母様が今朝お亡くなりになりました」
「そう……」
最初に口から出たのはそんな他人事のような言葉だった。
それからナンシーはまた部屋から飛び出して、私は部屋に一人きりになった。夜明け前の静まり返った部屋は、虚しい。
それから彼女は、部屋に何かを運び入れたり、忙しなく何かを準備しているようだった。
「リリィは?」
「国王が宮殿にいらっしゃるので、目が覚めたら国王から伝えられると思われます」
「そう。私、リリィに会いに行かなきゃ」
「えぇ、今日は後にローズウッド宮殿に行くことになっております」
泣き腫らした目をしたナンシーからその日の予定を聞いた後、彼女は私にもう一度睡眠を取るようにと言った。今日は長い一日になるらしい。
私は素直にまたベッドに潜ると、すぐに微睡んだ。
夢に母は出てこなかった。目が覚めた時、彼女と私にの間にはとことん親子の絆がなかったことを改めて実感した。
太陽が昇ってから、一時間毎に教会の鐘が五回鳴った。初めて聞いた鐘の音の回数に、それは母のことを街中に知らせているのだろうと思った。
ナンシーに「少しでもいいから何か胃に入れなければ」と説得され、私は青りんごが食べたいと伝えた。彼女はすぐにテーブルの上にあった様々な色鮮やかなフルーツが詰まれたプレートから青りんごを手に取り、奥にある簡易キッチンへ向かった。数分後、彼女はホットミルクティーと青りんご、そして小さめのマフィンをテーブルの上に置いて、私の髪を優しく撫でた後に、またどこかへ行ってしまった。
彼女は言葉にはしなかったものの、一緒にいれないことを謝っているような気がした。
あんなにも何も食べたくはないと思っていたのに、大好きなマフィンを見ると同時にお腹が減った。どんな時でもお腹は人間というものは空腹感を感じる生き物だろうかと考えながら、私はマフィンを小さくちぎって口に入れた。マフィンは紅茶の茶葉が混ざっていて、ほのかに紅茶の風味が口に広がった。
ミルクティーを飲みながら、ふと明け方のナンシーの泣き腫らした顔を思い出した。
ナンシーと母はどのような関係だったのだろう。私は彼女から母との個人的な交流について聞いたことがなかったし、彼女も母について積極的に話すこともなかった。
もしかしたら王妃が亡くなったということに王室に仕える者としてショックを受けていただけなのかもしれないが、彼女がそこまで親密ではない人物の死に感情的になるとは(失礼だが)思えなかった。
次にナンシーが姿を現した時、彼女は見慣れないシンプルな黒いドレスに着替えていた。彼女は、ふろテーブルに視線を送ると、私がちゃんと朝食を食べたのを見て少し安堵したようだ。
それからメイドに言われるままに、私は衣裳部屋に向かい、全身鏡の隣に掛けられた真っ黒なドレスと対峙すると、ようやく微かな脱力感を覚えた。それがただの寝不足からなのか、心の深い所で母が居なくなってしまったからなのか分からなかったが、少しでも気を緩ませたら、膝からガクリと床にへたり込んでしまいそうになった。
メイドは、テキパキと私から寝間着を剥がした。ドレスを着た後に、コルセットを締められると、さっき食べた青りんごが口から出てきてしまいそうで、食べたことを後悔した。着替え終わると、ローズウッド宮殿へ向かうまで少し時間があると伝えられた。その間、私はメイドと二人きりだった。彼女はドアの近くに俯いてまるで人形の様に微動だにせず、そこにじっと立っていた。彼女は、まるで悲しみの素振りなど見せず、それが私にとって逆に心地よかった。
「ラナ様、そろそろお時間です」と、ナンシーの声が聞こえ、知らぬ間に時間が流れていたことに気が付いた。部屋の外へ出る前に、ナンシーは私に黒いレースが顔にかかるように施されたヘッドドレスをかぶるらせた。視界は悪くなるが歩くことに支障はなかったのに、それでもナンシーは、少しでも速度が早くなると「ゆっくりお歩き下さい」と注意した。
部屋からでると、城の雰囲気がいつもより重苦しくなっていることを肌で感じた。いつも何かしらの音がしているはずなのに、今日は何も聞こえない。私とナンシー以外みんなどこかへ消えてしまったのではないかと錯覚するほど、城は空っぽだった。
裏口に出ると、ようやく私たち以外の人を見つけた。
真っ黒な衣装を身にまとった二人の護衛と馬車の運転手は俯いていて、どんな表情をしているか分からなかったが、その重い雰囲気がなぜか嘘臭かった。馬車に乗ると、レースのカーテンが黒色になっている。
馬車が動き出すと同時に、彼女はそのカーテンを閉めた。
「もう国民は知ってるの?」
「はい」
「ねぇ、ナンシーは母と話したことがある?」
少し沈黙してから、彼女は答えた。
「えぇ、何度かですが。とてもお美しく優しいお人でした」
その言葉から、母がもう過去になってしまったのだと痛感する。
「私は、あまり覚えてないわ」
ナンシーは何も言わずに私の手を握った。その無言はとても痛かった。なぜこんなにも心が痛むのか、私は自分の中から答えを見出すのが怖くて視線を窓の外にやり流れる景色に集中した。
母のことを考えるのを止めようと思うほど、母の顔が脳裏に浮かんだ。思い出せるのは笑顔でもなく怒った顔でもなく、曇りがかった無表情の母だ。リリィと定期的に遊ぶようになってからは、母にはほとんど会うことはなかった。そして、いつの間にか父も、私に母の話題を振ることは無くなっていたことに気が付いた。
ナタリアは数週間前に三女ヴァイオレットを生んだばかりだった。
ナンシーが、彼女の死について説明することはなかった。だが、いつの日か出産は死と隣合わせだ、とナンシーが教えてくれたのを思い出した。もしかしたらナタリアの身体が出産に耐えられなかったのだろう。
会ったことのない妹がどうしているのかも気になったが、いまいち彼女が本当にこの世に存在しているとは実感できなかった。
ローズウッド宮殿は、宮殿とは名ばかりでこじんまりとした建物だった。王妃が住んでいたとは思えないほど、質素な作りで庭園は城の半分もない。だが、手入れはきちんとされていたのが印象的だった。
馬車は宮殿の玄関の前に止まり、御者がドアをそっと開けた。中年の白髪の黒い衣装を身にまとった屋敷の執事と思われる男が、顔を伏せて玄関の前で待っている。私たちが降り立つと同時に彼は跪き、決まった挨拶をして私たちを宮殿へと招き入れた。
中に入ると独特の匂いを感じた。何か懐かしいような、それでいて背筋がピンと伸びるような緊張感をもたらす匂いだった。
玄関ホールの左側に位置する応接間に通され、私とナンシーはしばらく待つように言われた。ドアがノックされると、父上かもしれないと思い姿勢を正したが、スコーンと紅茶を運んできてくれたメイドだったことに小さく嘆息する。スコーンは出来立てらしく、バターの香りが際立っていて、こんな時なのにまた私の食欲を刺激した。
「食べてもいい?」
彼女は頷き、ティーカップに紅茶を入れてくれた。私はスコーンとバターを小皿の上に乗せて彼女が紅茶を注ぎ終わるのを待った。私が外で何かを口にする前に、ナンシーが毒見をしなければいけないルールがある。彼女が大丈夫だと判断すると、ようやくその皿とティーカップは私の前に置かれた。
小さめのスコーンを一つ食べ終わって二杯目の紅茶に口をつけようとした瞬間、パタパタと騒がしい足音が聞こえた。
その足音はドアの前で止まり、「はやく開けて!」という催促する声が聞こえた。ドアが開かれると、リリィは部屋を見渡し、私を見つけると駆け寄り、胸の中へ飛び込んできた。
「ラナお姉さま」と私の名を呼ぶ彼女は、今にも泣きそうな声だった。
「来るのが遅くなってごめんね」と彼女を抱きしめた。
ふと気になって「父上と一緒ではないの?」と聞くと、彼女はは横に首を振った。
すると、ドア付近に立っていたイギーが「国王は、先ほど城に一度戻られております」と声を上げた。
「イギー、今日はラナお姉さまと一緒に寝たいの」とリリィはイギーに向かって言った。
「リリィ王女、それは……」
イギーが困った顔をして、ナンシーに助けを請うような視線を送った。
「私も今晩はリリィと一緒に過ごしたいわ。こんな時だもの。家族と一緒にいたいの」
ナンシーは大きく息を吐いた後、ドア側に待機していた白髪の執事に城に使者を出すようにと頼み、「あまり期待しないでくださいね」と私の目を見て言った。
あとどれくらい応接間で時間が過ぎるのを待てばいいのだろうと思ったとき、先ほど部屋を出て行った執事が部屋に戻ってきた。そして神妙な顔をして、「移動をお願い致します」と号令をかけた。「どこに行くの?」私は不安そうにナンシーに聞くと、彼女は「ナタリア王妃が眠っている教会へ」と小声で言った。
私たちは、言われるがままに各々の馬車に乗った。
何もない緑だけが広がる道中で教会らしき建物を見つけた時、私は突如口の渇きを感じた。
その教会は、ひっそり寂しく平たく広がる緑絨毯の中に佇んでいた。外観はとても質素なもので、灰色ともベージュともとれるよく分からない外壁の色は、周りの色とは馴染めない。そこだけどこか色褪せた世界みたいだった。
それから私たちは、教会の中にと促された。
教会は長い間使われていなかったようで、埃と湿気の匂いとそこら中に飾られている白いバラの匂いが交じり合っていた。祭壇の天井付近に飾られた色彩豊かな小さいスタンドガラスだけが、この地味な教会を飾り立てようしている。
そして、そのままガラスから、下に視線をゆっくり移すと、そこには黒い長方形の箱がぽつんと横たわっている。すぐにそこに母が眠っているのだと分かった。
リィに手を引かれ、ようやく私は前へと歩むことができた。しかし、一向に私たち以外の足音が聞こえなかった。後ろを振り向くと、ナンシーやイギーそしてその他の護衛たちは入口付近で立ち止まり顔を下に伏せていた。
「ナンシー? どうしたの」
「私たちはこれ以上前には進めません。どうか、お二人で」
そして彼女はまた黙って俯いた。
ナンシーはすぐそこにいるのに、不安で足がまた止まる。自分の手が急激に冷えて汗ばんでいるのが分かった。ふと気が付くと、自分が小さいリリィの温かい手を強く握りしめている。たぶんリリィは痛かったはずなのに、何も言わなかった。
リリィだけは真っすぐと前を見つめて、足を力強く踏み出そうとしている。彼女は私の手をまた強く引き、彼女のおかげでその場からまた進みだすことが出来た。
棺の横に紺青色のローブを被った年老いた司祭が立っている。私たちは彼に視線を向けるも、彼は決して目を合わそうせずに終始目を伏せている。
祭壇への低い階段を三段登ると、その黒い箱に手を伸ばせば触れるまでの距離まで近づく。その時には、私は自分でも驚くほど落ち着きを取り戻していた。棺は閉められており、本当にそこに母がいるという実感はない。リリィの顔を斜め後ろから覗くと、彼女は棺に手を当てて、何かを感じ取ろうとしている様だった。
その老人は、百合の花が二本置かれていたトレーをこちらに差し出し、棺の上へ置くジェスチャーを私たちに見せた。私達は彼が示した通りに、一本ずつ花を手に取り、棺の上に添えた。
その一連の所作が終わると、リリィは唇を噛んみ老人に何かを聞こうとしているようだった。
彼女が言いたいことはすぐに分かった。
「母の顔を見ることは?」私は、彼女に代わり司祭へと問いかけた。
祭司は無言で首を横にゆっくりと振った。
「ママに会えないの?」と言う彼女の声は、今にも泣き出してしまいそうなリリィを見ると、どうにかしてあげたい私はまた司祭へと視線を向ける。
「私たちの母親なんです。顔を合わせて、お別れを言わせてください」
司祭は私にギロリとしたするどい視線を向けて、ゆっくりとまた首を横に振った。
私がもう一度頼もうとすると、彼はリリィの前に跪き、彼女の手を取った。
「リリィ王女様、失礼をお許しください。ナタリア王妃は、もう深い眠りについておられます。このままお母様をゆっくりと眠らせてあげてはいかがでしょうか?」
彼女は彼の瞳から何かを見つけ出そうとしているみたいに、数秒間じっと見つめていた。
「ママにはぐっすり寝てほしい」と、リリィは絞り出すように言った。
「そうですね。お母様をこのまま休ませてあげましょう」
彼女は、こちらへ振り返り、何も言わずに私の手を握った。
階段を下りる前に司祭に目をやると、彼は私の視線と合わないように床を一点に見つめていた。
私たちが教会の玄関ホールへ戻ってくると、心配そうな顔をしたナンシーが私の肩を抱いた。
「もうよろしいのですか?」
イギーは跪いて、リリィの顔を覗いた。
「ママをゆっくりさせたいの」
リリィは、そうしっかりとした口調で答えていた。
一方の私は、身体が鉛のように重くなって立っているのもやっとだった。
「リリィ、これが最後のお別れになるのよ。母上の顔を見れなくても、傍には居られるわ」
リリィの年頃で、そんな簡単に物事を理解しなくてもいいのだ。それに彼女には、母親の事を後になって後悔して欲しくなかった。
「じゃぁ、ラナお姉さまも」
「いいえ、私は」
ずっと握っていた手を緩めた瞬間、リリィは私の手を強くギュッと握り返してきた。
「じゃぁ、わたしも帰る」
「リリィ、私のことはいいから」
「お姉さまと一緒にいるの」
そんな問答を繰り返している内に、彼女の手の温もりが自分の体温と同化した。すると、遠い昔に母と散歩した時の風景が脳裏に浮かんできた。今まで思い出したことがないその記憶に戸惑いを感じつつも、私は必死にその記憶の糸を手繰り寄せた。
そうだ、まだ私が言葉を覚えだした頃、こうやって母と手をつないでよく散歩に出かけていた。母はいつも少し強い握力で私の手を握っていたような気がする。彼女はいつも不安そうな顔をして、「遠くに行かないで」と言っていた。
今ここで思い出してしまうなんて。
遠い記憶の母と、私の知っている母はまるで別人のようだった。いつからだろう、こんなことになってしまったのは……と記憶の塵になってしまった母との過去を思い出そうとすると、視界がぐにゃりと歪んで暗転した。
目を覚ますと見慣れない天井が視界を覆っていた。
しばらく自分が何処にいるのか把握できずに、何度も瞬きをした。分散していた意識がまとまってくると、知らない匂いのするシーツに包まれている理由がようやく蘇りはじめた。
私は、あの教会で気を失ってしまったらしい。
どれくらい寝てしまっていたのか見当もつかなかったが、窓の外を見ると辺りは暗くシンと静まり返っている。真夜中なのだろう。
落ち着き始めると、誰かの規則正しい寝息が耳に入った。
音が聞こえる方向を覗き込むと、ソファの上でナンシーが寝ているようだった。
このままもう一度寝ようと目を閉じたが、一向に眠くなる気配は感じない。それどころか脳は覚醒して、こうして横になっていると身体全体がムズムズしてきた。
何よりも喉が渇いた。
一度その感覚に気付いてしまうと、その渇きは強くなる一方だ。
私はゆっくりと音を立てないように上半身を起き上げ、腕を上に伸ばして深呼吸をした。自室のベッドサイドテーブルには、いつも水の入ったグラスが置いてあるのだが、今日は生憎置かれていなかった。無理もない、ここは城ではないしナンシーも疲れていたに違いない。
彼女を起こさないように、ゆっくりとベッドから立ち上がりスリッパへつま先を入れる。ベッドは城のものより新しく、軋む音を立てずに立ち上がることに成功した。月明かりを頼りに部屋の中を見回したが、そこには飲み物はどこにも置かれていないようだった。
部屋を出るとすぐに護衛がドアの横に立っている。その男は私が部屋から出てきたにも関わらず、姿勢正しく前を向いている。横顔をそーっと覗いてみると、彼は目を閉じて規則正しい呼吸をしていた。
この男は、立ちながら寝ているらしい。私は護衛に気付かれることなく部屋を出ると、左側の廊下の突き当りに一階へ続く階段があったのが見えた。床にはベルベッドの絨毯は敷かれていて、音を立てずに歩くことができた。壁には等間隔でロウソクが灯されていて、階段で足を滑らすこともないだろう。
歩みを進め始めると異様な高揚感を感じた。このまま水だけ飲んで部屋に戻るのはもったいないような気がして、少し宮殿を歩き回ってみようと私には珍しく冒険心が芽生えた。
夜のローズウッドは、不気味なほど静かだった。ラグべリア城では夜中に数人の護衛が見回りをしていて、金属がこすれる音と規則的な足音が聞こえているのが普通だった。
もしかしたらこの宮殿ではガードは歩き回らず護衛しているのかもしれないとも思ったが、一階に下りても誰も廊下にはいなかった。
廊下を忍び足で渡り、抜け殻のようなエントランスホールに出ても、やはりそこにも人影はなかった。
さてこれからどうしようかと思ったが、ふと一つ不安も出てきた。もしナンシーが目覚めた時に、ベッドの中にいなければ彼女から怒られてしまう。彼女は私が何か悪いことをすると、罰として一番の楽しみであるアフタヌーンティーを抜きにする。それは、避けたかった。
周りを見渡してみると、五枚の扉が目に入った。
一枚だけ扉を開けてみようと思った。それがキッチンの扉だったら大人しく水を飲んでベッドに戻ろう。
私の注意を引いたのは、表階段の右奥にある扉だ。見た目はほかのドアと一緒なのだが、なぜかその一枚だけ少し古びているような気がした。ロウソクの明かりから少し離れているからそう見えたのかもしれないが、暗闇の中にひっそりと息をひそめているそのドアに惹かれた。
ドアノブに手をかけると、表面はツヤとした触り心地で首のところは錆びついていた。扉の蝶番はよく油を差されているのだろう、何の音もたてずに滑らかに開いた。
扉を開けると、その奥は真っ黒な空間が広がっているだけで何も見えない。
少し離れた燭台からロウソクを拝借して扉の中を覗くと、そこには地下に繋がる小さい階段が現れた。横の壁には、錆びたランプが用意されていたので、火をランプに移した後、ロウソクを元の燭台に戻した。
ランプの取っ手は、埃がかぶっていたのだろう。掌にざらりとした感触がした。
いつもの臆病な私なら絶対にこの下には行かないはずなのに、今日はなぜかその暗闇に恐怖を感じるどころかその中へ突き進みたくなった。
意を決して石段を下り始めると、埃と湿気の臭いが鼻腔に充満した。すると、灰色の祭壇とその前に置かれた黒い棺が脳裏に浮かぶ。
やめて!
心の中で叫んだ。でもそのイメージはどんどん鮮明になっていき、遂にはあの箱に吸い込まれそうな気がして、恐怖で足が止まってしまいそうになる。でもここで歩みを止めたら、私はこれ以上に前に進めなくなるような気がして、目の前の階段を下りることだけに集中した。
十数段のデコボコの階段を下り終わると目の前に石壁が現れた。ランプを目の前に構えながら右へ振り返ると、地下室の一部が垣間見れた。
その部屋は、ただの物置だった。
古びた箱や、錆びついている鎧、また久しく人目についていないであろう絵画が乱雑に置かれていた。その目の前に積まれているガラクタを見ると、自然と大きなため息が出た。
私はランプがぶつからないように頭の高さまで持ち上げて、その積みあがった物たちを縫うよう歩いた。
部屋は長方形の形をしていて、Sの字を書いたように細い通路が出来ていた。物がどけられて作られた道を縫うように前へ進むと、一番奥の壁一面が本棚になっていることに気が付いた。様々な古い本が無造作に収納されているのを見つけて興奮した。もしかしたら何か面白そうな本があるかもしれないと、左から順にランプの明かりで照らした。だが、背表紙は破れていて題名が分からない物や、糸がほつれているものや色褪せているものがほとんどだったことに、またがっくりと肩を下ろした。
それでも諦めきれず、遂には一番端の本棚まで来てしまった。途中からランプを持つ手が、その重さに耐えられないと訴えるように震え出したが、そんな痛みは無視してランプ頭上に持ち上げ本の背表紙を左から右へと目で追っていた。
そして、私はランプの光に応えるようにキラキラと瞬く一冊の小さな本を見つけた。
一番下の段の右端から五冊目に、その本は存在していた。他の本の背丈より一回り小さいその本は目につきやすかった。装丁は重厚なダークブルーの革に金糸でナンキュラスらしき花が刺繍され、贅沢に飾り付けられている。だが、そこには題名も著者も示されてはいなかった。
何が書いてあるのかと胸の高鳴りを感じながら本を開こうとしたが、開かない。それもそのはずだ、その本には鍵がつけられていた。また期待外れな結果に落胆しつつも、これは本ではなく誰かの手帳なのだろうと思った。さすがに人の物を持って帰れないと手放そうとした。
だが、結局私はそれを本棚には戻せなかった。
それから五分以上その表紙を眺めていた。自分の名前の由来になっている花が咲き誇る手帳をこのガラクタの山に置いていくのは心が痛む。それに、この手帳もここから出たがっているような気がした。
もしかしたらナンシーが起きているかもしれない。もし見つかったらアフタヌーンティーはお預けにはなるし、この手帳も持って帰ることが出来なくなってしまう。考えた果てに、私はその手帳をコットンドレスの中へ入れ脇腹のところへ隠し外から上腕で挟んだ。
右手にはランプを持って、左腕の内側は本を挟んでその部屋を後にする。転ばないように注意しながら石段を上った。階段を下りた時より二倍の時間をかけて、ようやく地上へ上がる。扉を開ける前ランプの灯を吹き消すと、一瞬にして闇が戻ってきたが怖くはなかった。
扉をゆっくり開けて誰もいないことを確認し、足早に部屋に戻る。私たちが居るゲストルームの外で寝ていた護衛は、未だに姿勢を崩さずに寝ているようだ。そんな器用な護衛を横目に見ながら私は部屋に滑り込んだ。
部屋の明かりはついていなかった。
客室のドアを音なく閉めた後に、スーとナンシーの吐息が聞こえてきた。どれくらいこの部屋から離れていたのかは分からないが、彼女に気付かれることはなかったことに心をなでおろした。
脇に挟んでいた手帳をドレスの下から取り出した後、自分のベッドの上に戻り、手帳を枕の下に隠した。
ベッドに横になり、音を出さないように大きく息を吐き出した。
緊張感から解放されると、盗みを働いてしまった罪悪感がじわりと背中に広がった。あんな場所にあるのだから、誰もこの本が無くなったことに気が付かないだろうと、自分に言い聞かせるも、その後味の悪さは消えてはくれない。
身体が鉛のように重くなって、このままはやく眠りに戻ろうと思った途端に本来の目的を忘れていたことに気が付いた。
あぁ、喉が渇いた。