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エメラルドに包まれて

 私は、母親の記憶があまりない。彼女は私を産んだ後に、ローズウッド宮殿へ住まいを移し、城へ来ることは年に数回程度しかなかった。母親は私と顔を合わすと優しい表情を浮かべてくれていたものの、母から積極的に私と接点を持つということはなかった。


 ――母上は今体調がよくないんだ。賢いラナなら分かってくれるだろう。お母さんがはやく治るように一緒に祈りをささげようか。


 まだ私が幼い頃、母に会いたいと駄々をこねるたびに、父はいつもそうやって私を説得した。だが次第に母がいない環境に慣れると、私自身あまり母に興味を持たなくなっていった。


「ナンシー、見て! このお花わたしが見つけたの」

「素敵なお花ですね。お手紙と一緒にお母さまへお届けしましょうか」

「ううん、これはナンシーにあげる」

 彼女はこんな会話をすると、いつも悲しげな顔をして「ありがとう」とその花を受け取ってくれた。


 彼女がどんなに怒ったり悲しんだ顔をしても、そのエメラルド色の瞳が私に向けられると守られていると実感できた。

 城にいる大人たちは私が姿を現す度に、顔を強張らせて、恐怖と忌まわしさが入り混じった視線を私に向けてくる。彼らは幼い私がその違和感に気づいていないと思っていたようだが、子供は大人が思っている以上に空気に敏感だ。理由は分からなかったものの、私は彼らにとって忌まわしい存在だと思われていることは理解できた。そんな視線を注がれる日々の中、ナンシーが近くにいるだけで彼らを気にせずに城で暮らすことができたのだ。

 あの時まで、私にとって家族とは、父とナンシーだけで充分だった。



 私が四歳になった年、妹のリリィがこの世に命を受けた。だが、彼女の存在を知ったのは随分後のことだった。

 父が私に母が妊娠したことを知らせに来たらしいが、私はあまり興味を見せなかったようだ。そして、数か月後無事母はリリィを出産し、私に妹が出来たことを知らされたが、母の大きくなったお腹を見たことがない私にとって、妹の存在は現実的ではなかった。

 時は立ち、初めてリリィを目撃したのは私が六歳のころ、彼女が二歳になり城の東側の庭でよたよたと歩いていた時だった。

 珍しく庭で賑やかな声が響いていたので、その方向へ歩いていくと、その場には乳母とメイド達がその歩き始めた幼児を囲っていた。だが、まさかその子が私の妹だとは想像もしなかった。

 何度も想像したことがある。

 もしあの時、私がぎこちなく歩く少女に駆け寄っていたら、彼女の乳母やメイド達はどんな反応を見せただろう。そして、もしその場に母が居たら、私は母に子供らしく駆け寄っただろうか。

 無論、その時の私にそんな勇気もなく、数分間木の陰から彼女たちを観察してからナンシーたちがいる南側の庭に逃げるように戻った。


「ラナ様! この庭から遠くへ行っちゃ駄目だと何度注意したらご理解頂けるのですか」

 ナンシーは私の姿を見ると同時に叱り始めたが、私はそんなことはお構いなしにあの小さな子供について問いかけた。

「ねぇ、東のお庭で小さい子を見たの。あの子は誰。どこから来たの?」

 その時、ナンシーの顔色が一瞬曇ったことに私は嫌な予感がしたのを覚えている。だが、彼女はあの幼児が誰かを彼女の口から伝えるべきではない、と結論をその場で下したのだろう。

「あら、誰でしょう。私も存じません」

 こっちにいるの、と私は彼女の手を引いたが、彼女はそこから動くことは無かった。

 その一方で、「是非、お父様に聞かれてはどうでしょうか?」と提案するナンシーに、私は「うん」と返事をしたのを覚えている。



 その日から数日後、寝る支度を終えた私はベッドの上に座り本を読んでいると、ドアがノックされた音がした。

「お父様!」

 ノックの仕方で父親だと分かった瞬間、私はベッドから飛び降りて、部屋に入ってきた父に駆け寄った。いつも通り、父は私のことを抱き上げて、「私の可愛いプリンセス!」という決まり文句を言って私の額にキスをした。

 父は、「ラナがパパに聞きたいことがあるって、ナンシーから聞いたんだ」と話しながら私をベッドまで運んだ。

「そうなの」

「パパに聞きたいことっていうのはなんだい?」

 父は私の隣に座り、私の顔を覗きながら私に問いかけた。私はいつもの癖でナンシーの姿を探すが、いつの間にかナンシーは部屋からいなくなっていて、ほんの少しだけ不安を感じた。

「あのね東のお庭で小さい女の子が遊んでたの。それで、私も一緒に遊びたいなって。あの子はどこのお家の子なの?」

「ラナは優しくていい子だな」

「パパなら知っているよね?」

「うん。あの子は」と父は言葉を区切り、一瞬眉に皺を寄せた。

「あの子はリリィと言って、ラナの妹なんだよ」

「妹?」


 その時私は、ひどく混乱したのを覚えている。

 あの金髪をキラキラさせたあの子が、私の妹だとは信じられず、しばらく父親の顔を凝視した。私はなぜか妹の存在をほとんど忘れていたらしい。ナンシーからも、リリィについて聞かされていなかったし、私も母と妹の近況について一度も聞いたことがなかった。

 それは自分の世界が、城の中で完結していたからだろうか。それとも、無意識的に彼女たちへの関心を断ち切っていたのだろうか。

「リリィも、はやくお姉ちゃんと会いたいと言っているんだ。でも、もう少し時間が必要でね。ラナはお姉ちゃんだから待っててあげられるな?」

 私は理解した態度を父に見せてはいたが、頭の中では彼女と遊ぶイメージは急に霧となって消えてしまった。


 私の心不安をよそに、しばらくリリィを城で見ることはなかったし、私も彼らにリリィの所在を聞くことはなかった。もう妹のことなんて、気にしなくていいんだと思ったある日の晩、父が私の元へ訪れた。

「ラナ、ママに会いたいか?」父は私の頭を撫でた後、優しい声でそう聞いてきた。

「でも、ママは病気なんでしょう?」

「あぁ、でもラナは良い子にしてたから、ママは良くなり始めたんだ」

「私は強い子だから、ママに会わなくても大丈夫」

 そう拒絶する私に、父がひどく悲しく顔を歪ませ「そうか」と返事をした。それからまた三年間、私はまたスイッチを切ったように妹の存在をほとんど思い出すことなく過ごしていた。




 しかし、突如私はその避けていた存在と対峙しなければならない時がきた。

 レッスンが終わり学校の校舎から城に戻ってくると、金髪の女の子が玄関からこちらへ駆け寄ってきた。そして彼女は私の前で止まり、キラキラした瞳を私に向けてこう言った。

「こんにちは、ラナおねえさま」

 まだ滑舌が悪いながらも、その幼い子は一生懸命に挨拶をした。

「こんにちは。あなたは……」

「リリィ!」とパッと弾けるような笑顔を私に向けた。

 そんな彼女を見て、自分の顔が硬直した。

「リリィ初めまして。会えて嬉しいわ」

 そして私は、嘘をついた。


 自分から出てくる言葉と本心との温度差に、子供ながらに居心地の悪さを感じた。そして自分が、こんなにも醜悪な人間になれるのかと驚いた。そんな中、こんな小さな女の子の前で、自分の中で煮えたぎる嫌悪感をどうにかして表に出さないように必死で、奥歯が鳴った。とても汚い音だった。

「きれいな黒髪」

 黄金の綺麗な髪を風になびかせてリリィは、私の太陽の光さえも飲み込んでしまう黒い髪をじっと見てそう言った。

 こんな真っ暗い闇のような髪の毛のどこが綺麗なのかと思った。声に出してはいけない、ただの嫉妬から生まれた醜い言葉たちが、怪物になって心を荒らしていく。

「リリィの髪のほうが綺麗よ。お母さまは、どこにいるの?」

 心のどこかで、この近くにいませんように願いながらそう彼女に聞いた。

「おうち」と彼女の少し寂しそうな声が耳に届いた瞬間、私はほっと心を撫で下ろした。

 母に最後に会ったのは、一年前以上に彼女が体調を崩して床に臥せている時だった。私は母に花束を持って見舞いに行ったが、彼女は眠りについていて会話を交わすことはなかった。その時の見舞いもナンシーに説得され行ったのであって、自発的に会いに行ったわけではない。だがその時、リリィの気配は記憶にはない。私はこの女の子に対して、本当に何の興味を持っていなかったのだ。


「リリィは何歳になったの?」

「5さい」

「そう。何で遊ぶのが好きなの?」

「ご本を読むのがすき」

「そう、じゃぁお姉ちゃんが読んであげる」

「ほんと?」


 彼女は、またキラキラと輝いた瞳を私に向けてきた。私が頷くと、彼女は自然と私の手を握った。その彼女に行動に、何一つ戸惑いは感じられなかった。私と違って、彼女は姉という存在を一瞬で受け入れたのだろう。

 私はその真っ白な小さい手を、払いのけることは出来なかった。彼女と触れ合った途端、自分の手が氷のように冷たくなっていることに気が付いたが、もう差し出してしまった手を今さら引っ込めることなんてできなかった。


 初めて握ったリリィの手は温かかった。彼女は私の手の冷たさに何の反応も見せずに、私を芝生のほうへ連れて行った。私はどんどん前へ進んでいくリリィに少し戸惑いを感じながら、後ろからついてきているリリィの乳母に、彼女のお気に入りの絵本を持ってくるようにと頼んだ。

「リリィ、お庭で御本をお庭で読むのがすきなの」

「私もよ」

 彼女に微笑まれたらこちらも微笑まざるを得ない。そんな私とは比べものにならない彼女の魅力を理解すると同時に、自分と比較してしまっていた。

 本当に、彼女は私の妹なのだろうか?

 そんな疑問が、ポツンと目の前に現われた。いや、そうじゃない。私は本当に父と母に生まれた子供なのだろうか。宙にその問いかけをすればするほど、自分という存在の輪郭が段々揺らいでいく。身体が浮くような感覚を感じるとリリィが、私の手をギュッと力強くに握った。まるでしっかりしろと言われているような気分になったが、当の本人はうさぎのようピョンピョンと前へ進んでいくだけだった。


 庭には、すでに芝生の上にブランケットと軽食が用意されていた。ナンシーが手配してくれたんだろう。

「おいしそう!」

 リリィは食べたいという衝動を抑えているらしく、周りの大人の表情を伺いながらもじもじ座っている。その一方でナンシーは、リリィの乳母から渡されたであろう絵本を私に渡した。

「ラナ様、こちらがリリィ王女のお気に入りの絵本でございます」

「ありがとう」

 青い魔法使いと黄色い杖という本だ。私も子供のころに何度か呼んだことがあるが、あまり好きではなかった記憶がある。

「こちら、オレンジジュースとアップルティーがございます。どちらに致しますか?」

 リリィはオレンジジュースが入った瓶を指差して、「リリィ、オレンジジュース!」と答えると、ナンシーはそのリリィの勢いの良さに笑っていた。

 私たちは、スコーンやフルーツを頬張りながら絵本を読んだり、色々な話をした。

 リリィは、底抜けに明るい子で、とても聡明な子だった。そんな彼女が俯いたとき、ふと母の面影を感じた。その時ようやくリリィが、私の曖昧な記憶の中にいる母親に似ていることに気が付いた。


 しばらくすると、少し距離を置いてこちら側を見守っていたリリィの乳母がこちらへ向かってきた。

「リリィ王女、そろそろお時間です」と彼女は言った。

「いやだ!」

 駄々をこねるリリィは乳母を困らせていたが、なぜか私の心は高鳴った。それはリリィに姉として認められたような気がしたからだと思う。それでも、その高揚感に戸惑いも感じていた。一時間前まであんなに嫌だと思っていた私の中で、姉である意識が芽生えてしまっていた。ただ一時的なものだろうと思うと同時に、この短時間で幼い頃から氷漬けにされていた気持ちが溶けだしていたのも確かだった。


「リリィ。また近いうちに、また会いましょう」

 頬を膨らますリリィの手を握ると、彼女「ほんとう?」っと私の瞳を覗きこんだ。

「うん、約束」

 私はそう言うと、リリィは満足そうな笑顔を向けて「うん!」と頷いた。そして去り際に、彼女は「やくそく!」ともう一度確認するように声を上げて、手を振った。

 リリィの小さな背中を見送り、私は飲み残したアップルティーを飲み干した。リリィが握ってくれた手は、まだじんわりと温かい。

「ラナ様は素晴らしいお姉さまです。リリィ王女も、さぞかし喜ばしいでしょう」

 ナンシーは顔を少し紅潮させていた。そんな興奮した彼女を見るのは初めてだったので、驚きと同時に得体のしれない恥ずかしさも感じて頬に熱を感じた。

「そうだといいのだけど」

「ラナ様は、朗読がとてもお上手でしたのですね。リリィ王女さまへのお振る舞いも、優しく心がこもっておりました。さぞやアーサー王とナタリア王妃もお二人が戯れているところをご覧になりたかったでしょう」

 もうリリィの姿はないのに、彼女が歩いていった方向を見ながら、この庭で両親が見守られながら自分がリリィの面倒を見ている絵を想像したが、そのイメージが出来上がることはなかった。

「どうかしら」

 それでもリリィの笑顔だけが、目の裏に焼き付いている。


 部屋に戻りながら、しばらく会っていない母のことを思い出した。私の記憶の中での母の顔は五年前から変わっていない。彼女がどんな表情をして話すことや、驚いた時にどんな反応を見せるのか、どんな声で怒るのかも何も想像がつかなかった。私は母のことを知っているようで全く知らないのだ。

「リリィはとても良い子ね」寝る前に、私は独り言をいうようにそう呟いた。

「えぇ。ラナ様が幼少期の頃を思い出しました」

「どうして? 私とリリィ全く似ていないじゃない」

「いいえ。お二人は、ナタリア王妃にそっくりです」

 その瞬間、私は勢い良く振り返り彼女の顔を見た。彼女はそんな私に気が付いて、小さく首を傾げた。

「嘘よ」

「自分の表情や仕草は、自分では分からないものですものね」

「でも髪の色だって正反対じゃない」

「髪の色など些細な事です」

 彼女はそうピシャリと言って、何も言わずに部屋の明かりを消した後、「ゆっくりお休みになってください」と部屋から出て行った。


 真っ暗になった部屋で、私はリリィの顔を思い出す。丸い青い瞳に、血色のよい小さな唇、そして母親にそっくりな鼻の形。そして、自分の顔をイメージする。だが、どうしても自分がどんな顔をしているのかうまく思い出せなかった。



 後にリリィと母は同じローズウッド宮殿に住んでいるが、あまり顔を合わせていないという噂を聞いた。

 母は、リリィを出産してから、また身体と精神のバランスが取ることが難しくなったという。父は足繫く宮殿に顔を出していたようだが、それでも母の具合はなかなか改善することはなかったらしい。

 リリィが私と同じような思いをしていないかと心配だったが、私から宮殿に行きたいとは言えなかった。私は、彼女の乳母がナンシーを同じように良き乳母であることを願うことしか出来なかった。

「リリィの乳母は、良い人なのかしら」

「彼女の名は、イギーというそうです。残念ながら、私もあまり面識がないのでなんとも言えないのです。これから彼女と交流を深めていこうと思います。そうすれば、ラナ様のリリィ様へのご心配も少しばかりは無くなるでしょう」

「ありがとう」

「お任せください」彼女は、優しげな緑色の瞳を私に向けて微笑んだ。



 それからというものリリィと私は、空白の時間を取り戻すかのように仲を深めていった。彼女と時間を過ごすと、不思議と彼女が自分の妹であると確信できるようになっていた。

 彼女が大きくなると、城へ宿泊することも許された。ナンシーがいなくなった夜に、二人でこそこそと内緒話をするのが恒例だった。同じレッスンを受けている男の子が素敵だとか、あのメイド達がケンカをしていた話など、話題は尽きなかった。それでも私たちの間では、母ナタリアの話が出ることはなかった。リリィは、母と暮らしていない私に気を使ってたのかもしれないし、私も母のことを聞いたことは一度も無かった。


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