勿忘草
【六年前の夏】
「ラナ王女殿下、ご機嫌いかがですか」
庭園で昼食を取っていると、馴染み深い友人達の声が後ろから聞こえてきた。振り向くと、ノアとサイリス、そして彼らの父親たちが頭を下げている。
「ノア、サイリス、そして叔父様方ごきげんよう」と答えると、彼らは顔を上げた。しかし、なぜかノアもサイリスも未だ目を伏せている。
彼らは、私の二つ歳が離れた幼馴染である。
群青の肩にかかるほどの長さ髪をいつも後ろで縛っているのはノア・ブランシェットで、白銀の細くて長い髪を太陽の光にキラキラと反射させているのはサイリス・カルヴィンだ。
「なんか様子が変だけど、どうしたの?」
「俺たちは十四歳になったからもう大人になったんだよ。だから貴族としてのマナーをだな……」
ノアが話終わる前に、ゴンと鈍い音が響く。彼の父の大きな拳を彼の頭に落ちた。
「イッテェ!」その得意げな顔が一瞬にして、真っ赤になり苦痛へと歪む。
「言葉遣いに気をつけなさい、と何回言ったら分かるんだ」
ノアの父が、彼の頭を抑えつけ謝りなさいと叱ると、「申し訳ございません、ラナ王女殿下」と虫のような声が聞こえた。そんな姿に私は笑いを堪えるのに必死だったし、サイリスは横を向いてクスッと小さく笑っていた。
本当は、幼馴染だからそんな仰々しい言葉遣いを使う必要はないと彼らの父に伝えたかったが、そんな事を今ここで言っても仕方ないことだ。
「ご子息たちが、成人の儀を迎えられたこと大変喜ばしいことですね。おめでとうございます。ノア、サイリス、立派な大人になり今後ラグべリア王国のために活躍してくれることを期待してます」
四人は、「ありがたき幸せです」と口を揃えたが、やはりノアの声だけが馴染んでおらず、私はその様子に安堵した。
「では、私たちはここらへんで失礼します。ラナ王女殿下、良い日を。ノア、お前はくれぐれも失礼がないように。あと午後の用事を忘れるな」
「承知しましたー、父上」
ノアはわざとらしく何の抑揚もつけずにそう言うと、ノアの父は「はぁ」と大きなため息をつき去っていった。一方、サイリスの父はいつもの様に不愛想な表情で一礼をして、ノアの父の背中を追っていった。
彼らは、父の側近として働いていた。ノアの父は軍の指揮官、そしてサイリスの父は外交政策の指揮や交渉をしていると聞いたことがある。
「今日は何をされていたのですか、ラナ王女殿下」
「だから、その変な言葉遣い、やめてって」
「はいはい、殿下~」とノアは、いたずらっぽくにやつく。
「本当に嫌なの!」
「成人の儀を受けた俺らは大人だから、ちゃんとしなきゃいけないんだよ」
成人の儀とは、主に貴族の男児が十四歳になると受ける儀式だ。その儀式を受けた者は正式に大人とみなされ、貴族の責務を担うことになる。
彼らは、もう大人になってしまったのだ。急に何かが変わることはないと思っても、自分がまだ子供であることに不安を感じる。
王族の女王が成人と見なされるのは、十八だ。大人として認められるには、あと六年もある。その間に彼らはどこへ行ってしまうのだろうと思うと、自分の足元が途端にグラリと揺れたような気がした。
「もし俺のことを捕まえられたら、子供扱いしないでやってもいいけど?」
つい先程まで大人ぶっていたノアは、そんな子供じみた挑発をして駆けだした。いつもなら馬鹿げていると背を向けるはずなのに、私はドレスの裾を引き上げて走り出す。追いつけるはずがないのに、小さくなるノアの後姿を追いかけずにはいられなかった。
私の名を叫ぶナンシーの声が、背後から聞こえる。今すぐに足を止めるべきなのに、この時は彼女に怒られたって構わないと思った。ノアとサイリスと一緒にいる時だけが、大人の煩わしい視線なんて気にせずに、自分を解放できる時間だったのだ。
ノアはどんどん離れていく。まるでこれからの私たちを表しているようで嫌だった。もしこのまま彼を捕まえられなかったら、彼らのいない未来に抗えないような気がして、その不安がまた私を駆り立てる。
諦めるものか、と速度を上げようとした次の瞬間、私はドレスの裾を踏んでつまずいた。身体は一瞬で大きくバランスを崩した。あぁナンシーにこっぴどく叱られるのを想像しながら、目をギュっと閉じて身体が地面に打ち付けられる衝撃に身構えた。
だが一向にその衝撃はやってこない。
顔を上げると、サイリスの腕の中に収まっていることに気が付いた。別に驚きはしなかったのは、いつもどこかでサイリスが助けてくれると期待してしまっているからだ。
「ラナ、気を付けないとだめでしょ。ナンシーが困るでしょ」とサイリスは小さな声で忠告する。その時心臓がドキドキと跳ねていたのは、転んでしまいそうになったからなのか、それとも彼のせいなのかは自分でも分からなかった。
「うん、そうね。助けてくれてありがとう」
サイリスは脱げた靴を拾い、私の足元にしゃがんで履かせてくれた。まるで自分が幼い子供のようで恥ずかしかった。
汗ばんだ身体をそよ風が仰ぐ。心地が良いと思った瞬間、風に吹かれる彼の銀色の髪が舞った。
サイリスの髪は私の黒髪とは正反対に光を反射するように瞬いて、その美しさについ目が離せなくなる。
「大丈夫か!?」と心配そうにノアが駆け寄ってくると、彼は「お前は本気で走りすぎだ」と少し呆れたような声を出した。
「あぁ、俺が悪かった。ケガはしてないか?」
「うん、大丈夫。と見せかけて、捕まえた」
そう言って、私はノアの腕を両手で掴んだ。
「はぁ!?」
ノアとサイリスは、目を見開いる。次の瞬間ノアは口をパクパクとさせ、サイリスは腹を抱えて笑い始める。
「私の勝ち。もう子供扱いもあんな言葉遣いもしないでね。でもお父様たちの前では許すわ」
「なんて女だ」とノアを大袈裟にため息を吐く。
「ノア、約束は約束よ。もうあんな態度はとらないで」
わざと意地悪な微笑みをノアに向けると、彼は片側の口角をピクピクと振るわせた。あまり見る機会のないそのノアの表情に、私は吹き出しそうになるもこれ以上彼をからかうのは可哀そうだと思いぐっと我慢した。
サイリスを見ると、目尻を手で拭っている。彼はいつも微笑むように笑うので、涙が出るほど笑う姿は珍しかった。
「ラナ様、ラグべリアの王女として……」と後ろからナンシーの低い声が響き、ヒヤリと冷や汗が背中をつたった。
「ごめんなさい、でも大丈夫よ。ほら、サイリスが支えてくれたから」
そんな言い訳にもならない言葉を連ねても、意味かないことぐらい知っている。
「そういう問題ではなくて」ナンシーは眉間に皺を寄せた。
「分かっているわ。もう、こんなことしない」
ナンシーは、首を左右に小さく振り、大きなため息をついた。
一方で、ノアとサイリスは頭を下げ、「本当に申し訳ございませんでした、私共の不注意です」と声を上げた。
「……いえ、ラナ王女もたまには息抜きが必要ですから。ですが、ドレスでは走ってはなりません」
「約束するわ。あっそうだ。ねぇ、ノアもサイリスもランチは済ませたの?」
「いや、食事を取る時間がなくて。実はすごく空腹なんだ」
「そういえば。あぁ、腹減りすぎて、もう歩けない」
とノアはしゃがみ込んだ。今まで自分の空腹に気付いていなかったようだ。
「じゃぁ、一緒にどう?」
「サイリス、これから予定あるのか?」
「いや、僕は何もないよ」
「そうか。じゃぁお言葉に甘えて昼飯食べるか」
「あれ、ノアは午後に何かあるって言ってなかった?」
「そうだっけ? まぁ俺がいなくとも平気だろ。それにこうやって集まれるのも久々だし」
「でも、また怒られるわよ」
「大丈夫だろ。どうせ大したことじゃないんだろうし」
「本当に?」
「ランチ中に誰かがラナのこと襲うかもしれないだろ。これは王女殿下のための護衛だ」とふざけるノアに、「縁起でもない」「なにそれ、本当にいい加減ね」と私たちは呆れた声を出したが、本当は皆心底嬉しかったのだ。
「では、食事をお持ちしてよろしいですか?」
「頼むわ」と返事をすると、彼女はくるりと背を向けて城のほうへ向かっていった。
芝生の上に敷いてあったブランケットへ腰を下ろすと、彼らは私の両隣へと座った。
「成人の儀はどうだった? 何か変わったことはあった?」
「特に何もないよ」とサイリスは俯き、ノアは「そうだな」と笑った。
「心情の変化も?」
「さぁ、どうだろうな。大人になっていくって、面倒なことが増えていくって感じだとは思ったけどな」とノアはため息をついた。
「何それ、大人みたいなこと言うのね」と私が口を膨らませると、「大人になるなんて、そんないいものじゃない。それに、ラナもすぐに分かるよ」とサイリスは微笑んだ。
「ねぇ成人の儀って一体なにをするの?」
興味本位で聞いたこの質問に、ノアとサイリスは口をつぐんだ。何かまずいことを聞いてしまったのか不思議に思い、彼らの顔を交互に一瞥したが、その表情からは何も読み取れない。
「ただ国に対して忠誠心が大事だっていう話を聞いて、ワインを飲むだけだよ」頑なに口を開かないノアに見かねたサイリスが、簡単に説明する。だが、もし本当にそれだけだったら、なぜ彼らは気まずそうな顔をしたのだろう。
不穏な雰囲気を感じた私は「そうなんだ」とこの話を続けるのを止めた。
久々に三人で集まれた日なのだから、もっと楽しくなるような話をしたかった。
何か違う話題を振らなければと考えていると、サイリスが私の耳元で囁いた。
「そういえばノアがね」
「おい、何の話をしている」
「何?」
「ダンスレッスンの授業で……」サイリスは少し意地悪な表情をしながら話を続ける。ノアは彼を止めようとするが、私がそれを制止する。
「ノアがダンスの相手を決めるとき、立候補者の女の子が数人いて、中々決まらなくてね。ノアが柄にもなく、しどろもどろになってたんだ。その姿が本当に面白くてね」
「あぁ。それを言うなって」とノアは頭を抱えている。
「へぇ、意外。ノアと踊りたい子がいるなんて」
「それは、俺に対して失礼じゃないか?」
「だって、そうだもの」
「お前には、俺の良さが分からないか」とため息交じりに言葉を吐き出すノアに、「ノアの良さって何よ」と私は詰め寄る。
そして、そんな私たちを見て、サイリスはまた笑う。それがいつもの私たちだった。
積もる話が沢山あった。楽しく会話を交わす一方で、心が痛む事実も知ることになる。彼らとの会話から分かったのは、これからますます忙しくなり、もう以前のように簡単に顔を合わせることか出来なくなるということだった。
「これから本格的に研修とか始まるけど、時間がある時にはこっち来るから」
ノアは、私の暗い表情を読み取ったのだろう。彼の声は少しだけ優しくなっていた。
「もし寂しくなったらを手紙を送ってね、すぐに駆け付けるよ」とサイリスは言う。
彼らの優しさを前に、込み上がっていた寂しさや安堵感が交じり合った感情が溢れそうになるのを抑え込むのに精一杯で、「うん、ありがとう」としか言えなかった。
「お待たせ致しました」
しんみりとした雰囲気になる一歩手前で、タイミング良くナンシーは大きなバスケットを腕にかけて現われた。
彼女はバスケットを地面に置き、オレンジジュースが入っているビンを取り出しコップに注ぎ始め私たちに手渡した。それから、サンドイッチをノアとサイリスに渡し、「お召し上がりください」と彼らに言った。
「ラナ様にも、一応サンドイッチをお持ちいたしましたが」
「いいえ、私はもう充分食べたわ。ありがとう」
ノアはサンドイッチを豪快に口の中にいれ、一方でサイリスは、サンドイッチを食べる前にオレンジジュースに口を付けていた。
「もし何かあればお申し付けくださいませ」
ナンシーは私たちにそう告げ、少し離れた場所で待機しているメイドたちの元へ歩き出した。
「あれ、もしかして俺たちナンシーの昼食を邪魔しちゃったかな」
ノアはサンドイッチを頬張りながら、離れ行くナンシーの背中を見て申し訳なさそうにそう言った。
「大丈夫だと思う。ナンシーはもう食べ終わってたから」
「そうか、それならいいんだ」
ノアはすでにあと二口ほどでサンドイッチを食べ終わってしまいそうだった。
サイリスはバスケットの中身を覗いて「まだ数個残ってるよ」とノアにもう一つサンドイッチを渡した。
「あー、よかった! これだけじゃ足りないと思ってたんだよ! さすがナンシー」
「リンゴも何個か入っているよ」
「私、リンゴが食べたい」
「はい、どうぞ」とサイリスは私にナプキンとりんごを手渡した。
サイリスがようやく一個目のサンドイッチを食べ終わるころ、ノアは二個目を食べ終わっていた。
「大人になっても、こうやって一緒に食事出来たらいいのに」
「もちろん、出来るよ」とサイリスは優しい声で答える。
だがノアは、力が込められた声を上げて、私は少しばかり驚いた。
「そんなの当たり前だろ」
この時、ノアはこの和やかな雰囲気と正反対の真面目で熱い眼差しを私に向けていた。今まで見たことないその彼の真剣な表情に、一種の戸惑いを覚えた。
「ありがとう。でも、いきなりどうしたの?」
「ノア」
サイリスが私の背後から彼の名前を呼ぶと、ノアはスイッチが切り替わったように、口角を無理やり上げた。
「いや、ただ別の事考えていて熱くなっただけだ。すまん」
この時、ノアだけではなくサイリスにも何か緊張したような雰囲気を感じたのに、私はその違和感に気付かないフリをして話を続けた。なぜか深く詮索してはいけないような気がしたのだ。
「忙しくなっても、こうやって三人一緒に遊びましょうね」
「当たり前だろ」「もちろん」
彼らの帰り際に、そう言葉を交わした。お互いに、何も知らないふりをして。
この時には、もうすでに足元が崩れ始めていたことに気付くことが出来たはずなのに、あえて私はその違和感を無視し続けた。
だが、その違和感について問いただしたところで、彼らは何も私に教えてくれなかっただろうし、知ったところで何も変えることは出来なかった。そう諦めることで、自分を許したかった。
日常だと思っていた日々は、もう私たちの元には戻ってくることはない。そしてその事実は、鋭利なナイフに形を変えて、何度も私の心を突き刺してくる。