濁った瞳
十八の誕生日を迎えると、自然が少しずつ色づき始めたのに、どんよりとした天気が続いていた。そんな天気と、嫌でも耳に入ってくる悪い知らせに辟易としながら日々を過ごしていたが、この日は、珍しく父に書斎へ来るようにと呼び出されていた。
国の状況は悪くなっていたのは、肌で感じていたはずだった。それなのに私は、その徐々に悪化する変化に慣れてしまって、自分自身が一体どこへ向かっているのか意識することはなかった。いや、したくなかったのだ。ようやく後戻りできないところまで来てしまったのだと理解出来たのは、父が薄暗い部屋で、震える手を私の肩へと置いた時だった。
「ラナ、これから大事な話をするからよく聞いてほしい」
私は初めて父の怯える姿を目の前にして動揺した。母が亡くなった時でさえ、こんな顔はしていなかった。抗いたくとも、それが許されない現実が待ち受けていると直感的に分かってしまう。
「はい」と答えると、父は私の肩から手を離して、少しくたびれた深紅色のソファに深く座った。
「やはりカルヴィン家がスルレヒド帝国へ寝返っていた」
「まさか」
「帝国からの手紙に、彼らの署名がされていたんだ」
「そんな……。信じられません、何かの間違えでは?」
私は無意識に声を張り上げていた。興奮して身体が震え、うまく息ができなくなっている。
「すまない、ラナ。こんなことになってしまって」と父は自身の手で顔を覆った。
なぜ父は私に謝っているのだろうか。その違和感に背筋を刺されたような感覚を覚える。
「申し訳ございません、父上もさぞショックを受けたことでしょう。しかし、長い間忠誠を尽くしていたカルヴィン家が裏切るなんて信じられないのです」
「私も信じたくはなかったよ。だが、この王国にはもう彼らを引き止める力さえも残っていないようだ」
「カルヴィン家の屋敷には、何も?」
「あぁ、家具しか残されていなかった」
数百年も国に尽くしていたカルヴィン家が、そう簡単に国に反旗を翻すなんて信じられなかった。夢なんじゃないかと目一杯力を込めて手を握るが、その食い込む爪が紛れもない現実だと告げてくる。
「あの少年のことを覚えているかい?」
その言葉に、私は一瞬であの男の子の顔を鮮明に思い出すことができた。もう八年も前になるというのに、彼が言った言葉は呪いのように私を縛り付けている。父は、彼のことを覚えていることに、また視界が一段暗くなった。
私が頷くと、父は「あの言葉を?」と言葉を続ける。忘れるどころか、あの日から自分が災いを呼ぶかもかもしれないという不安と主に生きてきたのだ。
「もちろん」と答えると、父が大きく息を吐く姿を見て、あぁ、やはり本当だったのかと、長年感じていた喉のつまりが腹へ落ちる。父やナンシーは、この話題についてあの日以来頑なに話そうとはしなかったが、ようやくその理由が分かった。
父が窓の外へ視線を向けると、私も同じようにそちらへ目を向ける。空に覆い被さる分厚い黒い雲が、今にも雨を降らせるだろう。父は、その雲を見上げながら、ゆっくりと呼吸をしている。その横顔は、もう逃げ場はないと諦めてしまった老人のような顔つきだ。
大粒の雨がトンと窓を打ちつけると、たちまち雨粒が外壁や窓を打ち付ける音が部屋に大きく響く。窓が雨に濡れ、景色が歪む。音も明かりも、その大雨に奪われてしまったように、部屋は虚しく色褪せる。
その沈黙に耐えられなくなり私が口を開こうとした瞬間、父は決心したように首を縦に小さく振り、私を直視した。
「あの男の子が言っていたことは、今まで語り継がれてきた言い伝えなんだ」
「黒髪の王女が生まれると、災いが起きると?」
父は首を垂れるようにして頷いた。
「それは本当なのですか」
「歴史書にはそう記されている。私だってこんな話を信じたくはない。だが……」
「この状況だと、信じざるを得ないと?」
父はその問いには答えなかった。
「お前の妹たちはまだ子供だ。ただラナ、お前だけはもう十八になり、王女としての役目を理解しておいたほうがいいだろう」
彼の丸まった背中には悲壮感が漂っている。以前まで感じた身体が痺れてしまうよう威厳は、いつの間にか溶けて消えていた。
「もちろんです。私に出来ることがあれば、何なりとお申し付けください」
本心だった。私が災いのサインなら、この王国を守るために何とかしなくてはいけない。でも、祈りを捧げるしかできない私に一体何ができるというのか。
「この王国は、存続の危機に直面する度に儀式を行い、その災いを払ってきた。そのおかげで、この小さい国がこうして長い間存在し続いている」
雨音がまた一段と強くなったはずなのに、父の声は澄んで聞こえる。
「儀式?」
そう聞き返すと、彼は瞳を濁らせてこう言った。
「そうだ。その儀式には、お前たちの血が必要なんだ」