偽りの口角
――レイチェル王妃、もうお子を宿してるらしいわよ。
張り裂けてしまいそうなほど激しく鼓動する心臓を無視して走り続けた。途中、数名の使用人とすれ違い、彼らは不審な目を向けてきたがそんなことを気にしている余裕はなかった。
逃げ場所は、あの場所しかなかった。
裏口に出て、庭を突き抜けるとひんやりとした風が身体を煽る。眼下に街が広がる景色が見え、ようやく私は足を止めた。
息がちゃんと出来ていないことに気が付くと、途端に苦しくなりその場にへたり込んだ。私の意思とは関係なく肺がなるべく多くの酸素を取り込もうとする。肩が激しく上下に動き、聞こえるのはドクドクと血液が押し出される音だけだ。崖下から吹き上がる少し湿った風が身体の熱を冷まそうとしてくれるが、体温はますます上がっていく。
いくら空気を吸っても、息苦しさは収まらない。このまま息が出来なくなって死んでしまうのではないかと恐怖で手先が震え始めた。
子どもの頃、よくこの症状に悩まされていた。ナンシーに対処法を教わるも、一度もうまくいったためしがない。だが、一度だけサイリスが隣で私が落ち着くまで背中を摩ってくれたことがあった。彼は、「大丈夫だよ」と優しい声をかけてくれて、何事もないようにただ私の隣に座っていた。彼のその落ち着いた表情や声が、感情と思考の絡み合った糸をほどき、徐々に息苦しさから解き放たれる感覚を思い出す。
しばらく経つと落ち着いて呼吸ができるようになり、ようやく私は顔を上げた。いつもと変わらぬ風景のはずなのに、色褪せて見えるのは気のせいだろうか。
ただ、何かが大きく変わっていることだけは確信していた。
あの夜、父がレイチェルと話しているのを見た時、こうなることは心のどこかで想像していたが、いざ現実になると途端に拒んでしまう私は、想像以上に未熟者だ。
もしあの噂が本当だとしたら。
もう今までの様に、父に甘えることは許されない。彼はもう私の保護者ではなくなり、レイチェルと築いた家族を守らなければならない。ナンシーは、私が成人したら城から離れなければならないし、ノアもサイリスだってそれぞれに家族を持つことになる。
独りこの城の中で、息絶えることを待つ人生を想像した。その未来への漠然とした不安が私の首を縛り上げた瞬間、その悪夢から逃げ出す唯一の方法を閃いてしまった。
あまりに馬鹿げた案だろうが、私は必死だった。
目前に広がる美しい風景に強い風に煽られるように、私は身体を翻し自室へ戻ろうと立ち上がる。脚は自分のものではないように小刻みに震え、初めては一歩踏み出すことも難しかった。少しでも息を漏らすと膝から崩れ落ちそうになる。だが一刻も早く筆を握らなければと自分を鼓舞し、足を引きずりながら前へと進むしかなかった。
もちろんこんな状態で父と対面できるはずもなく、三階には戻らなかった。父親は気にも留めていないだろうし、宮殿に戻りたくてうずうずしているに違いない。
レイチェルと父との間に子供が生まれるとしたら、私たちに新しい兄妹が加わる。それは、喜ばしいことなのだろう。なのに何故こんなにも過剰に反応してしまったのかは、今の私では答えに辿り着けそうもなかった。
いつもより倍以上の時間をかけ自室へ戻ると、ソファに座っていたナンシーが驚いた様子でこちらを振り返った。
「ラナ様、もうアーサー王とのお話はお済みで?」
「ううん、会えなかったの」
「それは残念ですね。あら。随分お召し物がシワになっていますけど、どうかされました?」
「あぁ、ちょっと散歩してきただけよ」
声が自然と上ずってしまう。まだ喉の筋肉が緊張しているせいだ。異変を感じたであろうナンシーは、少し怪訝そうな顔をしてこちらに歩み寄ってくる。私は彼女に顔を覗かれないようにと、俯きながらデスクへと向かう。今の私では、彼女の不信を誤魔化せない。
「父上と話そうと思っていったら、丁度会議中だったの。だからやっぱり、手紙を書こうと思って」と説明しながら、椅子へ腰かけた。
「そうですか。何かお飲み物は?」
「ありがとう、お水をお願いするわ」
いつも以上に激しく動いた身体は水分を欲していて、私は異様な喉の渇きをすぐに潤わせたかった。ナンシーはすぐにコップに水を注ぎ、私の目の前へと差し出した。その水を一気に喉に流し込むと、彼女は「まぁ」と声を上げたのが聞こえた。
「何かお持ちしますか?」
「いえ、大丈夫」
それから手紙を書くから一人にしてほしいと頼むと、彼女は頷き、部屋から出て行った。
訳もなくため息をついた後、書き途中の手紙に目を通すと、ただのつまらない前文しか書かれていなかったが、この部分は大して重要ではないだろう。
筆をとり、朧げになっていた書きたい文に一瞬光があったのを見計らって、一気に筆を走らせる。一度止まったら、もうこの手紙を書き終えることは出来ないのは分かっていた。難しいことは考えず、腕の力を抜き、手が動くままに書いた。
一時間前まで書けなかった手紙は、五分もかからずに文字で埋め尽くされた。だが、まるで誰かに乗り移られていたのかと思うほど、何を書いたか覚えていない。
「父上様へ。今まで幼稚な態度をとり、お父様のことを煩わせえてしまったことをここにお詫び申し上げます。今回筆を取ったのは、是非今の私が考えていることを知ってもらいたいと思いました。私も、あと一ヶ月も経たずに十六の年になります。もう立派な大人です。お父様もレイチェルと新しく家庭を持たれ、私も自立する時が来たことをひしひしと感じています。そこで、提案があります。もし、レイチェル王妃がお子を授かり、次にお世継ぎが生まれてきた時、私をスルレヒド帝国へと嫁がせて頂きたいのです。近年、この国は勢力を広げ我が国を含め同盟国も帝国の存在を憂慮していることは存じ上げています。ラグべリアの王女として、この国の将来的な不安を出来るだけ小さくしたいと願っております。こんな事を私から申し上げるのは、出過ぎたことだと重々承知しておりますが、私もこの国のために出来ることをしたいのです。愛を込めて、ラナより」
一息に書き上げたわりには、自分の主張をちゃんと伝えることが出来たように思えた。だが何度も読み返すと、何も考えていない拗ねた子供が書いたような印象が強くなってくる。後先考えずに紙の上に感情を爆発させてしまっただけの現実味のない粗末な内容で、読む価値すらないと思ってしまう。
私は引き出しからマッチ箱を取り出して、マッチに火をつけた。そして左手の親指と人差し指で便箋を持ち上げ、便箋と炎の間をじっと眺めた。この手紙は燃やすべきだと思ったはずなのに、その距離は一向に近づかない。その間に炎は軸木を徐々に黒く染め上げ、その熱さに耐え切れなくなると、私は右手を上下に振った。一瞬で辺りに煙の臭いが充満する。
便箋に目をやると、焦げ付いてすらいなかった。
結局、私は白い封筒に便箋を入れて、群青色のシーリングワックスで封をすると、自分の紋章が飾られた封筒だけは、完璧に見えた。
これで父に、手紙を渡す準備は整った。それなのに私は手紙から逃げるようにベッドに身体を投げ出し、目をつむった。
こんな手紙を渡せるわけがないじゃないか、と確かにそう思うのに、どこかでこの手紙を送りつけたいと思っている自分もいる。
父は、この手紙を見たらどう思うだろう。悲しむだろうか、それとも私を追い出すためにこの稚拙な案に理解を示すのかもしれない。
そんな事を考えていると、身体中の筋肉が緊張しているのに気が付いた。息もまた苦しくなってきたような気もする。だめだ、冷静になれと力を徐々に抜き始めると、先程まで耳に入ってこなかった小鳥の囀りが聞こえていた。その不規則な鳴き声を聞いていると、途端に眠気が身体を覆い残された気力を奪い取っていく。このまま意識を手放してもいいのかもしれない。眠気に身を任せると、重く冷たい思考がゆっくりと消えてなくなっていくような気がした。このまま意識をそっと手放してしまおうとした瞬間に、ドアが叩かれた。
いつもなら、迷う事なく返事をするが、今日はそんな気力もなかった。このまま返事をしなかったら、ドアの前にいる人物は立ち去ってくれるだろうと思うと、また眠気の波が足元を撫でた。
「ラナ、いるかい?」
その声の持ち主が誰だか理解するのに、数秒かかった。いつもなら、一瞬で分かるはずなのに、耳に届く声が靄がかっていたせいだろうか。
「サイリス?」
「入ってもいいかな?」
彼の問いかけに、私は「ちょっと待って!」とドアに向かって叫んだ。先の疲労を忘れたように勢いよくベッドから立ち上がり、ドレッサーに走った。自分の姿を確認すると案の定口紅の色が落ちている。確認してよかったと心を撫で下ろしつつ、私はお気に入りの紅を唇の上に乗せ、軽く髪をブラシで梳かした。先ほど感じていた重い気持ちが嘘の様に、ふわりとした高揚感に包まれる。最後に全身をチェックするとドレスにシワが目立っていたが、さすがに彼をもう待たせておけなかった。
「どうぞ」
と私が答えるとサイリスはそっと扉を開け、疲れ気味な顔色を隠すように笑顔を作っていた。
「いきなり来てごめん。もしかしてタイミング悪かった?」
「ううん、そんなことないわ。実は、うとうとしてて」
「確かに今日はお昼寝日和かもしれない」
そう言って、彼は笑った。
「今日はどうしたの?」
「うん。一応決まる前に自分の口から伝えようと思って」
ふわりと嫌な予感が鼻腔へ届く。
「結婚相手が決まりそうなんだ。たぶんラナも知ってる子なんだけど」
「それは……おめでとう」
表情だけでなく身体中の筋肉が強張っている。それに、自分の声が震えているのが分かる。
「シンディー・アレイユ」
「アレイユ家の」
言葉が詰まる。何か話し続けないといけないのに、何も思いつかない。それにサイリスも何も言わない。沈黙が互いの首を締め付けているように、息苦しくなっていく。
「彼女とは何度か同じレッスンを受けたの。多才でとても賢い女性だったわ。サイリスとお似合いね。おめでとう」
「ただの政略結婚だよ」その言葉は驚くほど冷たく、鋭く放たれた。
「それでもこれから新しい家族を作るのよ。喜ばしいことだと思うわ」
「そう……かもね」
「えぇ。ねぇ、どうしてシンディーと結ばれることになったの?」
サイリスは、その質問に目を丸くしてから眉に皺を寄せた。まさかそんなことを聞かれるとは思わなかったとでも言わんばかりの表情に、私は彼の無関心さに驚いた。
「……実は知らないんだ。両親が決めたことで、僕には拒否権がないから受け入れるしかないから。それに理由を聞いたって、気持ちが動くわけじゃない。たぶん相手も同じ気持ちだと思う」
「それはどうかしら」
「あまり興味がないんだ」
彼は、小さくため息をつくと、それを誤魔化すかのように口角を上げた。
「でも彼女とはもう話したのでしょう。どんな印象を持ったの?」
「いい子だと思うよ」
「そう、よかった。こうなることなら、彼女ともっとお話しておけば良かった」
「子供の頃は、将来誰と結婚するかなんて考えないよ」
「そう? 女の子は意識する子も多いわ」
「ラナも?」
「……私は、考えたことなかった。あぁ、でもリリィは好きな男の子がいるって前に話してたわ」
「へぇ。リリィらしい」
「そうでしょう」
しばらく最初のギクシャクしていた空気は、いつの間にかどこかに流れていって、私は内心でほっしてた。それは彼も同様だったと思う。彼の頬は血色を取り戻し、緊張もだいぶ取れているように見えた。それに彼と話せば話すほど、彼が素敵な女性と結ばれるのなら、それはとても喜ばしい事なのだと受け入れることが出来るような気がした。
「それにしても、アレイユ家とカルヴィン家が結ばれるとは、皆驚くんじゃないかしら」
アレイユ家は保守派、一方でカルヴィン家は改革派だと認知されている。両家とも王国を守るということでは同じだが、カルヴィン家は外交、特に勢力を拡大させている東の隣国であるスルレヒド帝国に力を入れていた。アレイユ家は、史的な友好国である南に位置するハロウド王国や、西のトゥロリア王国と親交が深く、スルレヒドと密になることに良い顔をしていないと噂されている。
「そうだね。今まで密な関係ではなかったし」
「やっぱり外が騒がしいから、国内の団結しようってことなのかもしれないわ」
大人の事情とやらを理解すると、誰かと結ばれることに対しての神聖さは失われていく。
「そうだと思う」
そう話す彼の瞳は心なしか濁っているように見えた。
「疲れているみたいだけど、大丈夫?」
「少し読み物が溜まっていて、最近良く眠れてないんだ。でも大丈夫だよ」
彼の大丈夫というセリフは、昔から信用ならない。昔から彼は、何かを胸の中に秘めているようだった。でも、彼は絶対にそれを明かさない。たぶんノアにだって。
「忙しいのにこちらに来てくれてありがとう。サイリスの口から聞けて良かったわ。でも
いつかこの日が来ると思っていても、やっぱり寂しくなるわ」
「すべては形式上だよ。今までと何も変わらない」
「そうね」
「また三人で集まろう」
そういえば、私たちが最後に一緒に時間を過ごしてからどれくらい月日が経ってしまったのだろう。もう三人で子供の時のように遊べないことは分かっているはずなのに、過去にしがみつきたくなる。
「結婚式はいつなの?」
「まだ分からないよ」
「ちゃんと招待してね」
「もちろん」
最後にそんな会話をして、サイリスは部屋を出た。彼の陰はいつも以上に薄いように見えたが、気のせいだろう。
彼との会話を頭の中で何度も反芻させながら、机の上に置いておいた手紙を手に取って部屋を出た。扉を開けると、外で待機していたらしいナンシーが驚いた様子で廊下に私の顔を覗いた。
「どうかされましたか?」
「父上宛の手紙書き終わったから、届けようと思ったの」
「それでしたら、私が」
「いえ、大丈夫。大事な手紙だから自分で届けたいの」
「承知いたしました。もうすぐ夕食なので、そのままダイニングホールへとお越しください」
「えぇ」
彼女に何も勘づかれていないことを祈りながら、逃げるように階段を駆け降りた。
部屋を出る前は、何も考えずに手紙を渡すだけだと腹を括っていたが、父親の部屋へ近づくにつれ足は重くなる。
手紙を握っている手が汗をかいている。このまま歩みを進めれば、すぐに執務室へ着いてしまう。この日に限って執務室のドアは開いていて、立ち止まるわけにもいかず身体は吸い込まれるように部屋の中へと入っていく。父上のデスクがある奥のドアは開放されていて、すでに父上が宮殿へ戻ってしまったことを示していた。
「ラナ王女殿下、すでに……」
まだ残っていた秘書は、眉間に皺を寄せ言葉を切った。
「そう、一足遅かったみたい」
「どのようなご用件で?」彼は、椅子から立ち上がった。
「ちょっと渡したいものがあったの」
「お手紙ですか?」
彼は、すでに私の右手に視線を向けていた。
「えぇ、でもいいの。また父へ城に来たら渡すわ」
「残念ながら、アーサー王殿下がいつ城へお戻りになるか決まっておりません。明日、私は宮殿へ向かうので、もし王女殿下がご所望ならお預かりさせて頂きますが」
「でも、悪いわ」
「お手紙をお渡しする任務であれば、新人の私でも出来ますよ」と彼は笑った。
「ごめんなさい、そういうことじゃなくて。でも、そうね、じゃぁ……」
そう言われてしまうと、断るのも気が引けてしまう。何秒か考えた後、震える手をドレスの袖に隠しながら手紙を彼に差し出した。
「手紙のこと、よろしくお願いします」
「是非、お任せください」
「本当は直接渡したかったんだけど」
「私が安全にお届けするのでご安心ください。お気持ちが新鮮なうちに手紙をお渡しできるほうが、よろしいかと。それにアーサー王もさぞ喜ばれるでしょう」
彼の言っていることは理解できたし、それに次に父と顔を合わせる時、果たしてこの手紙を渡せるかと思うと自信はなかった。
「その通りね。ありがとう」
「いえ。恐縮ですが、アーサー王は王女にお会いしたいと切に願ってます。次に殿下が城へ戻ってきた時は、是非お顔を見せて差し上げてください。私ごときがお願いをするなど、無礼極まりないのは承知しておりますが……」
「いいえ、あなたの言っていることは正しいわ。恥ずかしいのだけど、なかなか勇気が出なくて。だから、お手紙書いたの。でも次は、勇気を出して顔を見せることを約束するわ」
「寛大なお心に感謝致します」
「今日、貴方とお話出来て嬉しかったわ。あぁ、そうだ。お名前を教えてくれる?」
「アーロンと申します」
「ありがとう、アーロン。手紙と父上のことよろしくね。それから、くれぐれも道中気を付けて」
アーロンは、はつらつとした声で「御意」と返事した後、頭を深々と下げた。
執事室を出た後立ち止まって、身体に溜まっていたものを掃出すにため息をついた。身体は軽くなり、頭はどんどんとクリアになっていく。
だが次の瞬間、悪寒が背骨に沿ってぞわぞわと這い上がってきて、私は身体を震わせた。
本当にあの手紙が父親に渡ってしまう。
そう理解した途端、胃が握りつぶされたような痛みと吐き気に見舞われた。今となっては、手紙に何を書いたのか確かなことは覚えていない。だが、あの手紙の内容は一線を越えていたのは間違いない。今すぐ部屋に戻り、アーロンに手紙を返してくれと頼もうかと迷ったが、あんな事を言った手前今更手紙を取り戻しにいくなんて、示しがつかない。
鼓動が速くなっていくのを感じつつも、たかが手紙だと自分自信に言い聞かせた。父なら、ただ私の反抗心がそうさせたのだろうと分かってくれるだろう。
この期に及んでも、やはり父に甘えている自分に嫌気が差しながら、私はアーロンの元へ戻るわけでもなく、ふらふらと四階へと戻っていった。
食欲は感じなかったが、ダイニングホールの席に座り食事が運ばれてくるのを待った。大きな部屋の真ん中に置かれた長テーブルに、一人のためだけに用意された色鮮やかな食器たちは、今日はより一層白々しく見えた。
しばらくするとメイドが、スープを目の前に置いた。そのスープを一口飲んだ後、ふと窓側に視線を移すと、すでに窓の外が薄暗くなっていた。今日はとても長い一日だった。様々な感情がぶつかり合い、とてもじゃないがすぐに消化できないだろう。
そんな疲れた私を慰めるように、主食には好きなラム肉のローズマリー焼きが出てきた。とても美味しいはずなのに、一人で食べると味は素っ気ないものになり、一層寂しくなる。食器のぶつかる音だけが空しくホールに響くと、ますます救われない気持ちになる。
いつもならナンシーが隣に居てくれるはずなのに、今日に限って彼女の姿は見当たらない。
「ナンシーは何処にいるの?」と給仕のメイドに尋ねたが、彼女は目を伏せ首を横に振るだけだった。
食事を終え自室へと戻ったが、未だナンシーは部屋に帰ってきてはおらず、部屋は真っ暗だった。食事の途中からナンシーの代理として付いたメイドが、照明に火を灯している間、彼女の置手紙がないか探してみたが、やはり何もなかった。彼女は突如姿を消すことがあり、たぶん急用の仕事が入ったのだろうと思った。
代理のメイドは、明かりを付け終え、軽く部屋を点検を行い部屋から出て行った。ナンシーの代理でよく来る彼女は、部屋の中ではなく扉の前で待機するのが通例で、ナンシーが戻ると煙のように消えてしまう。
彼女の様子だとナンシーはまだ戻ってこないだろうと思い、私はマットレスの下に隠している青色の手帳を取り出した。
このラナンキュラスが刺繍された手帳を触っていると、不思議と心が落ち着く。表紙をゆっくりと指でなぞっていると、あっという間に睡魔が背後に忍び寄り、私を安全な真っ暗な場所へと沈めようとしてくる。
眠りに落ちる前に手帳を戻し、ベッドから起き上がる。重い瞼を無理やり持ち上げ、口紅を落とし寝間着のコットンドレスへと着替える。それから自分のものとは思えないほど融通の利かない脚を洗面所まで引きずり、冷たい水で顔を洗った。これでようやく眠りにつけると顔を上げ、鏡に映る自分を見つめると、目の下に黒い影が出来ていた。到底自分の顔だとは思えない疲れ切った顔をサイリスに見せていたのかと思うと、また気が沈む。
今日はあんな知らせを二つも聞いたんだ、無理はないと自分を慰めながら身体をベッドの上に投げ出した。
それから私はナンシーの事を心配することもなく一瞬で意識を手放した。その夜ナンシーは戻ってこなかったことを知ったのは、翌朝になっても無口なメイドが朝食を運んできた時だった。




