割れたグラス
灰色のローブを被った使者に連れられ、小さい礼拝堂の中で一人ポツンと座っていた。石壁で作られた部屋は、ヒンヤリとしていて、埃と湿気の匂いが充満していている。
ここに来るのは二度目だった。
この礼拝堂は、日光を取り入れるはずの窓が小さく日中でも薄暗い。祭壇の後ろの壁に少し小さなステンドグラスが飾られているだけで全体的に質素な作りだ。決して居心地が良いとは言えず、子供の頃悪いことをして納屋に閉じ込められたような感覚に似ている。
この部屋では、時間の流れが遅くなり、無理やりでも内省させるような雰囲気を持っている。
サイファー大叔父が来るのを待っている間、唯一色彩のあるステンドグラスに視線を移す。数年前に一度来た時にもあったはずだが、その時はよく観察することもなかった。
そのステンドグラスには紺青色の空に満月が浮かんでいて。その下には色鮮やかな宝石のようなものと不気味な蛇がに描かれている。一体何を示しているのか見当もつかない。
ただ、その空の色は、あのダガーに付いていたサファイアの色とよく似ていた。
あの石は、ヴァイオレットのものに違いない。今自分が知らないところで何が起きているかを想像すると、身体の末端まで血が廻らなくなる。そんなことは起こるはずがないと信じて疑わなかった自分の都合のいい想像が、自分の首を今締め上げている。
あの日からずっと儀式について向き合うことを避けていた。
このノームガルデの小さな礼拝堂に初めて訪れたのは、二年前の十八歳の冬の訪れを感じ始めた時期だった。その頃、俺は父親とよく婚姻について口論をしていた。父は、早く結婚して身を固めろと言ったが、俺はまだそんな気にはならないと拒否し続けた。お互いに引かない日々が数ヶ月続いたある日、父親が「連れていきたい場所がある」と俺をここへと連れてきた。
俺が「なぜこんな所に?」と聞いても、父は何も言わなかった。もちろんサイファーがラグべリア教の主席大司教として統括していたのは知っていたが、小さいころ顔を合わせた以来(記憶にはない)、何の関わりのない遠い親戚だった。
そんな大叔父を使ってでも婚姻を進めさせようとしているのか、と思うと反抗心はますます燃え上がった。
古城へ到着するし礼拝堂へ通された。端っこに、天井の近くにある窓を見上げている小柄な老人が座っていた。そして数秒後ようやく俺はその老人が大叔父のサイファーだと分かった。
父の真似をして「サイファー様」と、片膝を床へ下ろそうとすると、彼は手を突き出して「堅苦しい挨拶はやめてくれ」と俺たちを制止した。
小さな礼拝堂には大きすぎる楕円形のテーブルが用意されていて、大叔父は左側に、そして俺たちは向き合うように反対側の席についた。
「立派に育ったもんだ、ノア」
「お目にかかれて光栄です」
「時の流れは早いものだな。といってもまだ、君ぐらいの歳だと分からないだろうが」
「はぁ……」
「君は、ラナ王女やリリィ王女と親しくしていると聞いた。彼女たちは元気かね」
「はい、まぁ元気だと思います」
「そうか、それは良かった」
そんな他愛のない話をしている俺たちの横で、父がタイミングを見計らったように声を上げる。
「縁談の話だが……」
「だから、俺は!」
俺が声を上げると同時に、父は人差し指を立ててギロリとこちらを睨んだ。
そして父は、「婚姻を遅らせることを許可しよう。ただ、重要な役職についてもらう」と言った。そして、父は返事を聞かずに説明を始めた。
話を要約すると、その役職とは、あの儀式が執り行われる状況になった時に、ラナ王女を護衛し儀式を遂行させることらしい。もちろん、そんな儀式が起こるはずもないと思っていた俺は二つ返事で許可した。
だがそんな真面目に取り合わない俺の態度に、父は呆れた顔をした。
「儀式がどうやって行われるか知っていて、そんな簡単に答えを出すのか?」
「ラナが生贄にされるんだろ?」
「お前が何も想像せずに、この役を引き受けるのは分かっていた。だから、サイファー様のところへ連れてきたんだ。私から言っても真剣に聞いてもらえないだろうからな」
そう言って、父はサイファーに会話の引導を渡した。
「この役割は、ラナ王女と一緒に育った君にはとてもつらい話になると思う」と大叔父は重い口を開いた。
「それに君は、このあの物語と儀式を信じていないようだから。その気持ちも分かる。あんな話を信じろというほうが無理だ。だがこの王国に危機が迫ったら、その冷酷な儀式は躊躇なく始まるだろう。なぜなら、あの話を信じている人間は君が想像するより大多数いるからだ。そしてこれから君に託す役割は儀式の要だ。先祖代々、王国のために冷血な人間になり、守るべきものを守ってきたんだ。だからこそ、この儀式の核となるこの役割を担うことに対して、覚悟してほしいんだ」
どんなに君が信じられないだろうとね、と大叔父は小さな声で付け加えた。
儀式の手順は、サイファーの穏やかな物言いとは裏腹に残酷なものだった。
スバートと呼ばれるダガーに姉妹の命を与え、満月の日にラナの命をスバートに捧げた後、王国の外れにある教会の祭壇へ奉納しなければならない。そして、この仕事の一番重要な部分は、そのナイフを運ぶことだと大叔父は言った。
「ちょっと待ってくれ。あの時ミック司教は、黒髪の王女の命としか言っていなかった」
自分の言葉に、吐き気がした。
「物語だけをベースに儀式について説明したからだろう。儀式を行った歴代の大司教が記録する書を読むと、あの呪いは段々と強くなっていると記されていてだな。最後に呪いが蘇ったのは二百年前のことだ。その代は、最初に黒髪の娘が生まれた後、二人の妹がまた出来た。そう、今の状況と一緒だ。儀式は最初はいつもの様に、黒髪を持った王女だけを生贄に捧げたらしい。ただ次の満月が来ても、一向に国の状況は良くならない。干ばつは続き、もう食料補充は底をつき、国民にも疫病は広がり犠牲者の数も日に日に多くなっていった」
サイファーは息苦しそうに咳払いをした。ボトルの水をグラスに注いで目の前に差し出すと彼はありがとうと優しく口元を緩め、コップの水をゆっくりと飲み干してからまた話を続けた。
「ええと……なんだっけかな。そうだ、思い出した。愛娘の命を断腸の思いでこの王国のために差し出したのに、状況は良くならず王は途方にくれた。そこで大司教は、残りの姉妹の命も差し出そうと提案した。もちろん王は、すぐにはその提案の飲み込めずにいた。自分の子を殺すなど二度としたくない、それに自分の血を絶やすことにもなる。だが、彼は王としての責任を果たすようにと大司教に諭され、残った姉妹の命も差し出した。すると次の満月には、雨は降り、そして疫病も嘘の様にすぐさま収まった。そして、その儀式の翌年、王は男の子をもうけた」
そして、とサイファーは続ける。
「それから二百年後、同じような三姉妹が生まれてしまった。まだ呪いは解けていないのかと、彼女が生まれてきたときに皆ショックを受けたよ。私たちは、罪なきこの子を手に掛けなければいけないのかと思うとね。あの日は眠れなかった。だが、私たちは王国を守らなければならない。そう、私たちの先祖たちがしてきたように」
父は口を閉ざして、机をじっと見つめていた。
「君にこんな役目を背負わせたくはなかったが、ブランシェットの名を継ぐ者として、王国を守るためにやってくれるかい?」
大叔父の問いが、頭の中で響く。
「俺は……」
サイファーも、親父もただ俺の次の言葉を待っていた。
その話を信じていないのなら、一言分かったと言えばいい。キーンとした耳鳴りの様な静寂が痛い。彼女が儀式の生贄になるなんて、そんな未来はあり得ない。それに二百年の前の出来事なんて、嘘か本当か分からないじゃないか。何よりあのアーサー王がそんな野蛮な事を、彼女を殺すなんてことをするわけがない。
ラナを今まで大切に育ててきた王なら、違う手段を取るだろうと暴れる不安を一つ一つ押し殺す。大丈夫だ、なんて事はない。
「分かった、引き受ける」
そう答えると、二人は安心したように嘆息した。
机の下で握った拳の中で、爪が肉に埋もれる。
「その教会って言うのは何処に捧げるんだ?」
「トゥベル教会だ」
あぁやっぱりそうか、と唇の端から言葉が漏れた。それから、成人の儀で起きたことが瞼の裏で蘇った。あの時、もしあの美味しくもない酒が入ったグラスを紋章に投げつけることが出来たのなら、こんな役割を引き受けなかったのかもしれない。
父は、テーブルの上に投げ出されていた俺の手を力強く握り、「やってくれるよな、ノア。ブランシェット家の名において」と言った。
父の顔へ視線をやると、彼の目は充血していた。この役目を引き受けるないほうがいい、と頭の片隅で分かっているはずなのに、頷いてしまっている自分が信じられなかった。
「ノア、頼んだよ」
そう言葉を発するサイファーの深い青い瞳に、ひどい顔をした自分が映っていた。