7-1 お誘い
それは、とある日の午後の事。ちょいと温かさのやって来た春の日の事。
今日もまたいつものように、私は佐倉とばり――小学五年生の女の子の部屋で家庭教師の仕事をしていた。
小学五年生――そう、とばりはもうすぐ進級するんだ。私にしても同じ。この年度で私は大学四年生になる。卒業まであと一年。そして今は、世間一般では春休みと言われるこの頃だ。
環境が変わりつつある――と言っても、とばりに教える事があんまりないのは変わらずにあった。
それはとばりの頭の出来が良過ぎる、とでも言うか。学校の教える勉強、来年度の教科書の内容は既に全部片付けてしまっていて、今は学校のものとは全く関係のない、本来よりもハイレベルな内容の勉強をしている。それに関しても、本人の頭がいいせいか、私が何か口を出すまでもなく、質問とかも殆どなく、すらすらと問題を解いている。
家庭教師としての私の存在意義が疑問視される所だけど……とにかく、やる事があんまりない故に、私はいつものように、とばりの居る机の横に座って、部屋に置いてある民俗学の本の一つを読みながら時間を潰していた。この部屋にはそういう難しめな本が大量にある。そして今尚増殖中だ。とばりの話だと、一月に本が二十冊以上継ぎ足されていくんだとか。お陰で読む本には困らないんだけど、恐らくはこの部屋の本、私がここに居られる間に全部読み切る事は不可能だろうなあ。
と、そこにこんこんこんと、部屋の扉をノックする音が。
「あ、はーい」
読んでいた本を背中の後ろに隠して、勉強中のとばりに代わって私が返事をする。こんな勉強に関係ない本を読んでる所を家の人に見られたら、家庭教師の仕事をさぼってると見られてもおかしくない。
「あの、私ですけど」
私の返事のあと、声の主であるとばりのお母さんが、扉を開けて、紅茶を載せたお盆を持って現れた。洋服に、エプロン姿をしているお母さん。お金持ちの人なんだけど、それにしては若干合ってなさそうな恰好だよなあ。
「ふふ、お勉強頑張ってるみたいね」
ずっと机に向かって、ノートに文字をさらさらと書き綴っているとばりを見て、お母さんが言う。
形だけを見れば、これは立派に家庭教師をしてる私と、その教え子であるとばりがちゃんと勉強をしてる図だ。咎められる所なんてまるでない。もっとも、教える事が殆どないというのは、家庭教師としてはいささか問題があるのではと言えなくもない。
この部屋の真ん中には小さなテーブルがある。お母さんはそこに、手に持っているお盆を置いて、その上に乗っている、湯気の立つティーカップを二つ、テーブルに置いた。
「時子さん」
突然、お母さんが私の名前を呼んだ。
「あ、はい。なんでしょう」
「あのね。このあとちょっと、私のお部屋へ来て貰って宜しいかしら」
「このあとですか?」
「ええ。大事なお話しがあるの。お勉強が落ち着いてからでいいですから。それじゃあ宜しくね」
そう言って、お母さんは部屋を出て行った。
とばりの勉強を見る時間が終わって。さてと私は一階への階段を降りながら、一つ懸念を考える。
――大事な話。
なんだろう。そう大袈裟に言われると少し緊張する。
まさか、と思うけど、遂にこの日が?
――家庭教師を辞めて欲しいの――。
そんな言葉が、頭の中でお母さんの声で再生される。
まさか、そんな。
確かにとばりの成績は、悪くはないけど良くもなっていないけど。なぜだかとばりは学校の勉強に関しては手を抜くんだ。私が知ってる成績としては上の下くらいの位置。勿論私はとばりの学力がまだまだ上を目指せるレベルである事を知ってる。多分とばりは、能ある鷹は――みたいに、手を抜いた方が楽だと、そう思ってるんだろうけど。
だけど、まだまだあの子には教えなきゃいけない事があるんだ。それは今は、私にしか出来ない事。
それに――、
“アリス症候群プラス”。
突然に忽然と姿を消し、見知らぬ不思議の国へと行ってしまう、謎の症状。
これが解決されない事には。私は気になって夜も眠れないぞ。いつか妙な世界に行って、妙な事に巻き込まれやしないかと。
どうしよう……聞くのが怖い。
そう思いながら、ゆっくりと歩いていき、だけど遂にお母さんの居る部屋の前へ。
その直前で止まり、息を吸って、吐いて、こんこんこん、と戸を叩く。
「あの、浅木です」
「はい、どうぞー」
部屋の中から、お母さんののんきな声が響いて来た。
のんきな声か……対して私は心臓どきどきなんだけど。
許可は貰ったので、おずおずと扉を開ける。
「いらっしゃい、時子さん」
おばさんは椅子に腰を掛けて、優しい声と顔を向けて私を迎えた。だけどそれでも、心のどきどきは消えてはくれない。
「あの、お話しというのは」
「まあまあ、座ってお話ししましょう」
お母さんの対面にある椅子を勧められる。普通の椅子――と言うか、そこにはちょっと小洒落た装飾の入った椅子とテーブルがある。
その椅子にゆっくりと座る。さあこれでもうあと戻りは出来ないぞ。どんな言葉が告げられようとも、引く事は出来ない。何を言われても受け入れるしかない。
「まあ、そんな緊張なさらず」
無理だよそんなもの。雇い主からどんな話をされるのか、不安で堪らない。
「あのね」
「はい」
「貴方、パーティーに参加してみる気はないかしら」
……は?
「パーティー……ですか?」
「ええ。ここでのホームパーティーです。明日の昼頃なんですけど」
明日!? また急な。だけど考えてみると、明日って日曜日になるじゃないか。
休みの日に、パーティーに招待された。
「いつもお世話になっている事だし、ねぎらいも兼ねて、ね」
「まあ、明日はまだ大学とかもないですけど……」
「来て下さると嬉しいわ」
そこまで言われると、断る理由はなくなってしまう。
しかしまあ、思ってた話と大分違うな。
……悪い話じゃなかったからいいか。
「解りました。是非出席させて頂きます」
「良かったわ。じゃあ明日の、十一時半頃から始まりますので。お腹を空かせて、いらっしゃいね」
お母さんは、優しげな笑顔を向けてそう言ってくれた。
一旦、とばりの部屋に戻る。簡単な荷物――スポーツ鞄はいつもとばりの部屋に置いているからだ。
「お帰りなさい」
まだ机に向かっていたとばりから、そう声を掛けられる。
「ああ、ただいま……」
ちょいと悩ましい思いを持ちながら、とばりに返事を返した。
「お話しっていうのは、なんだったんでしょうね。言いにくい事なら聞きませんけれど」
「ああ、そういうのとは違うよ。明日の事」
……明日の事? と、とばりはこっちを見て少し考え込む仕草をした。
「聞いてないの? ここでのホームパーティーって事なんだけど」
「それは、聞いてはいますけれど」
なんだか、あんまり関心のなさそうな言い方なんだけど。
「お誘いされたんだよ、それに」
「そうですか」
素っ気ない返事。
「とばりはパーティー、出ないの?」
「さあ」
さあってまた他人事みたいな。パーティーとか騒ぐ事とかに興味はないのかな。
……なさそうだなあ。いつもとは違う日、っていえばそうだけど、特別な日とか、そういうものをとばりは嫌がる傾向がある。
「とにかく、明日もここに来る事になったから。宜しくね」
「はい、解りました」
そう言って、とばりはまた机に向かう。
やっぱり興味はなさそうだな。とばりは人見知りする癖のある子だから、人の集まるパーティーとかは苦手そうだし。
「じゃあ、また明日ねー」
荷物を持って、ドアの方に向かう。とばりは「はい」とだけ言って、あとは自分の世界に没頭してる感じだった。
……まあいいんだけどさ。これがいつものとばりの格好なんだもの。それを邪魔する理由なんて、全くない。




