5-9 不穏
「……とばり、なんだか早く帰った方がいいかもよ」
未だに本に目線を落としたままのとばりに、急かすように言う。
「私は、もう少し本を読みたいんですけれど」
ご不満はごもっとも。だけどこんな寂しい所で、もしかしたら管理人にさせられるかもと思うと。記憶も故郷も完全になくなって、ずっと本しかない所に居なきゃいけないかもと思うと。
そんな暇そうなの絶対ごめんだ。確かに好奇心は満たされるだろうさ。だけどそれ以外のものがここにはないんだ。
「早く帰ろう? 私は一生本の虫になるなんて嫌だよ」
「……時子がそこまで言うのなら」
とばりが、読んでいた本を棚に仕舞う。よし、帰る気になってくれたか。
「もう少し、読みたい本があったんですけれどね」
好奇心旺盛なのはいい事だけど。
「時と場合を考えた方がいいよ。ここから出られなくなったりしたら折角の知識も意味がないもの」
「……そうですね」
「という訳で、私達はそろそろおいとまします」
レミちゃんに向かって言う。私達には、私達が居るべき世界があるんだ。
それは決して、こんな暗い異世界なんかじゃない筈。
「そうですか。久々のお客さんですから、楽しかったんですが」
「ごめんね」
私達には元の世界に帰るという使命がある。ここにずっと居続ける訳にはいかない。
「で、貴方達はどうやって元の世界に帰るんでしょう」
「え? 言わなかったっけ。私達はこっちに来る時、穴を通って来たんだけど」
「そこまでは聞いていませんですけれど」
言ってなかったか。失言ならぬ不言って所か。
「ごめん。説明不足だったかも知れないわ」
「構いませんけれど。で、そのこちらに来たという穴はどこにあるんでしょう」
……は?
「場所、解らないの?」
「それはなにぶん私も理解出来ないものなので。そうしたものは私の管轄外ですね」
「え、え、えーっ」
何それ。こんな広い所で迷子だって? 冗談じゃない。
「そ、そうだ。最初に本を読んでくれたじゃない。あの辺りに――」
「ああ、その場所なら私は解ります」
「そう、その近くに帰りの穴がある筈なんだよ」
「……と言われても、私にはその穴が解りませんよ?」
それは、他の人達と同じようなものなのか。アリス症候群プラスに関わりのない人間には穴は見えない。不可思議な事でここに来る事になったレミちゃんでも、それは例外じゃないんだろう。
世界の全ての英知が集まる所に居ても、アリス症候群プラスの正体がはっきりと解らないように。
「近くまで行ったら解るんだよ。とにかく、最初に会った場所にまで行ければ」
「解りました。では付いて来て下さい」
そうして、とにかく歩く。この図書館を一番よく知ってるレミちゃんを先頭に。目印らしきものは見当たらないけど、迷っている様子はない。
まあ、今はこの子を信じて進もう。その間に、色々と考えてみる。
……何かからの干渉がある、ってレミちゃんは言っていた。
それは解決するのかな。とばりも私も、妙な世界に迷い込む事さえなければ平穏無事に過ごせるんだけど――。
「この辺りですね」
……考えてる間に、レミちゃんから声が掛けられた。
穴は、私が最後に見た時と同じ所にあって。暗い中に真っ黒いのがぽっかりと開いていた。なくなっていないのにはほっとしたけども。
「ここに、貴方達の帰り道が?」
やっぱり、レミちゃんには穴が見えていないらしい。
解ってはいたけど……。
「そう、私達にはこれが見えるんだよ」
「解らない事を知るのは、久しぶりです」
ちょっと微笑みを含めて、レミちゃんは言う。
それもそうか。ここは世界の英知を集めたという図書館。アリス症候群の記述が書いてある本があっても、それより症状の重いプラスの事までは殆ど解らないみたいに。
……ますます謎が深まるなあ、この症状。私達がこの謎を解ける時は来るのかな。
まあいい。それよりも今はここから帰る事だ。
穴はちゃんとここにある。幅が大体二メートルくらいの、二人が揃って入れるようなその穴は、まるで私達に、早く帰ろうと促してるみたいに。
「じゃあ、行くよとばり」
とばりと手を繋ぐ。元の世界に戻るまで、決して離れないように。
とばりも、しっかり手を握ってくれる。
「じゃあ、私達は帰りますね、レミちゃん」
私達の後ろで、両手をお腹の前で組んで立っている、儚げな花嫁衣裳を着たみたいな小さな女の子に向かって言う。
「はい。またいつでもいらして下さい」
……いや、その可能性は多分天文学的に低い数字になるだろうけど。
「ありがと」
ないとは言い切れない。だから再会を願ってもいい筈。
「レミさんも、お元気で」
とばりからの声。
「ありがとうございます」
レミちゃんも笑顔で手を振ってくれる。
じゃあ――。
「いっせーのーせっ!」
二人一緒に、穴の中に飛び込んだ。
・
今度は、宇宙空間とかに出る事もなく、無事にこちらに戻って来る事が出来た。
……まあ、宇宙なんかに出た日にゃ今度こそ確実に死んじゃう事だろうけど。
「帰って来たぜー」
暗い穴を通って、辿り着いた時には、なぜか私の部屋の中に居た。
これは気になる現象だ。最初に穴に入った所は部屋の外側だったと思うのに、帰って来た時にはなぜか私の部屋だったって事。
……あの時、怪しい声がして、そいつが穴の場所を移動させてくれた。それは出口だけでなく、入口の場所も変えてくれたって事なんだろうか。何か企んでいそうだけど、これが親切なのかどうか解らない。
……って、親切な人だったらいきなり宇宙空間に放り出す、なんて事はしないだろうな。
「とばり、本は大丈夫?」
繋いでいた手を離して、横に居るとばりに声を掛ける。
「本ってまさか……向こうから何か盗んで来たとか」
「違う違う、例の古文書の事だよ」
「……ああ」
とばりが肩に掛けてる、ランドセルを取ってその中身を漁る。すぐにそこから古そうな本――とばり曰く古文書が出て来た。
「よし。じゃあそれを解読しながら遊ぼうか」
「……なんでも遊びなんですね」
「勿論。世の中楽しんだもん勝ちだからさ」
知恵を手に入れた人間は、それこそが生きる理由になっていると思う。
楽しい事を追求する。人は常に刺激を求めるんだ。退屈に殺されないように。
「じゃあ、折角なので解読を手伝って下さい」
「おっけー、任せといて」
――という訳で、古文書解読開始。これで最終的にお宝とか見付かれば、もっと面白い事になりそうだけど。
しかし、解読作業中に一つ思う。
あの怪しい声はなんだったんだろう。私を助けてくれたと言う、あの女の子の声は。
私達を導くような、
……或いは、私達を陥れるような、
そんな、意図の解らない声。
――くすくすくす、という含み笑いの声が、今も耳に残っていた。




