3-2 “今”
――アリス症候群。
正式名称は、不思議の国のアリス症候群と、微妙に長ったらしく語呂の悪い名前になる。
その症状は、実はあまり珍しいものじゃない。元となったお話の中には、アリスがある飲み物を飲むと体が小さくなり、ある食べ物を食べると体が大きくなる、という描写がある。
この症候群はそんな描写になぞらえたもので、自分の周囲のものが実際よりも大きく見えたり、或いは小さく見えたりと、まるでアリスが体験したような事と同じような感覚に陥るという症候群らしい。体感するのは幼少期に多いという。
佐倉とばりはアリス症候群だ。但し、その症状の重さがまるで違う。
私は彼女の症状を、アリス症候群プラスと呼んでいる。確認例の極めて少ない程の重い症状が、現在進行形で彼女には存在する。
そんな彼女も人並みには勉強をする。当たり前か。とばりは小学生で、家庭教師である私が居るくらいなんだもの。勉強してくれなきゃ困る。これで学校の成績が良ければ言う事はないんだけどなあ。
私も一応は仕事をしている身。仕事である以上、とばりのご両親からも出来ればいい評価を頂きたい。だけど勉強の出来はともかく、親御さんからのウケは良かったりする。まあ悪かったら家庭教師なんてさせて貰えないだろうから、それも当然の事として受け取っているけれども。
そんな思いを知っているのか知らないのか、とばりは相変わらず、自分のペースで机に向かってペンの音をすらすらと鳴らしている。勉強家だ。だけどその実力を生かそうとはしてくれない。
「……ちょっと、お手洗いに行ってきますね」
そんな勉強の合間に、とばりはそう言ってペンを置いて、席を立った。どんなに優秀だろうと、自然現象は仕方のない事だ。
「うん。行っといれー」
「その言い方はおじさんくさいです時子」
私の小ボケに厳しい駄目出しを喰らわせて、とばりは部屋を出ていく。因みにとばりは私の事を名前で呼ぶ。出会って初めの頃には先生なんて呼ばれていた時期もあったんだけど、どうにもそんな丁寧な呼ばれ方は私には合ってないらしい。なんだかむず痒い気持ちになる。だから名前で呼んでとお願いしたんだ。とばりと時子、そうやって名前で呼び合う仲。信頼関係は良好に思えた。
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とばりがトイレに行ったあと、私は一人立ち上がり、うーんとその場で伸びをした。あんまりやる事がなくて床に座ったままでいると、腰やお尻が痛くなって来る。
伸びを終えた拍子に、ふと、とばりの机の上に目をやった。そこには、あの学年――小学四年生にしてはハイレベルな問題を解いているノートや、資料集、学校の教科書や筆記具などが乱雑に置いてあった。整理整頓はちょっと苦手。私が見付けた数少ないとばりの弱点だ。
だけどそれとは別に、ふと机の上に置かれていたそれが目に入った。
一見して勉強とは関係なさそうな、文庫サイズの謎の本。
茶色い塗装の、その表紙を覗き見てみる。
“今”
それだけが書かれていた。
作者名などは見当たらない。手に取ってみて、裏を見ても背を見ても、他には何も書かれていなかった。
誰の本なんだろう……これって、とばりの持ち物、なのかなあ。でも、何が今なんだ?何をテーマとした本なんだろう。
何気なくその本を開いてみる。奥付は何も書かれていない。怪訝に思い、ぱらぱらとページをめくってみる。
中には色々な事が書いてあった。殆どが脈絡のない事。今日の夕飯の献立はハンバーグだったとか。今日は寝坊をしそうだった、昨日遅くまで本を読んでいたからだとか。
だけど、そうしたものを読んでいて今思った。この文面と“今”という題名から察するに――これはとばりの日記だったのかも。
遅かれながら、その考えに行き着く。これはとばりの、まさしく今を書いた本なんだとしたら。だったら悪い事をしてしまった。勝手に人の日記を見るなんて。
いけないいけない、と本を閉じ――ようとした瞬間、ページの最後の行が見えて、私は眼を見開いた。
“これはとばりの日記だったのかも”
そう書いてある。確かに。
ちょっと、変じゃないか。これが“今”という題名から察する、とばりの“今”を書いた日記だとするなら、自分の日記に自分の日記なのかどうかと疑問視する文が書かれている事になる。
そんな馬鹿な。
“そんな馬鹿な”
……、目を擦る。そしてまじまじと見る。
さっきまでなかった。確かになかった一文が、最後の行に付け加えられていた。
そんな馬鹿な。という文字が。
「……はあ?」
……なんなんだこれは。
気味が悪いという感想しか出て来ない。これは私の思考が、そのまま文字になってこの本に浮き出て来たとしか思えないんだけど。
“なんなんだろうこの本は。気味が悪いぞ”
……ちょっとしたアレンジなんかも加えて来たし。
「……なんじゃこりゃあ」
不思議な物事については耐性が出来てると思ってるんだけどなあ。流石にこれは不気味で仕方がない。
という訳で封印を。
……しようとしたけど、一応他人の物だから。この本を閉じておいて元々あった机の上に戻して、その上に別の本を重石として載せておく。
これでいい。あとは不用意に開いたりしなければ、変な事も起こるまい。
――こういった謎アイテムの出現も、アリス症候群に関わるようになってからの事だ。常識では考えられない物が、突然出て来る。なぜかは知らない。不可思議現象だ。もしかしたら、これは“穴”の向こうからやって来ているのかも知れないけど。不思議の国の産物なのかも知れない。




