2-4 アリス症候群プラス
少女の症状。
意図せず駄洒落っぽい言葉をかましてしまったけど。内容はまあ真面目なものだ。
彼女、佐倉とばりはアリス症候群だ。
正式に言うと、不思議の国のアリス症候群と、微妙に長ったらしく語呂の悪い名前になる。
こんな言葉はあまり聞かない、という人も多いだろうけど、その実は結構な割合でこれを経験している者が居るらしい。その多くは年齢による忘却の彼方に忘れ去られているというだけであって。
症状自体は珍しくはない。ドリンク ミー、イート ミー、そう書かれた飲み物食べ物を飲み食いすると、自分の体が小さくなったり大きくなったりしてしまう――という描写が、アリスの原作にはある。
この症候群はそんな描写になぞらえたもので、自分の周囲のものが実際よりも大きく見えたり、或いは小さく見えたりと。まるで自身の目線が変わったかのような、まさしく不思議の国に入り込んだ時のような感覚を覚えるのだとか。更には物の色が本来とは違って見えたり、時間に関しても、ゆっくりに感じたり早く感じたりする症状もあったりする。体感するのは幼少期に多いという。因みに、ルイス・キャロルがアリスに語ったという原作は、まさにこの症候群が元になって作られた話だという説もあるのだとか。
只、彼女のそれは、症状の重さがまるで違う。
私はそれを、地下の国のアリス――から改め、アリス症候群プラスと呼んでいる。確認例の極めて少ない程の重い症状が、現在進行形で彼女には存在する。
例えば。とばりと一緒に家に居た筈なのに、そのとばりがいつの間にやらどこかへ消えてしまったりする。
家中を探しても見当たらず、だけど靴やスリッパなどもなくなってはいない。広めのお家ではあるけども、それでも一家総出で探していって、家のどこを探しても居ない。外に出た形跡もない。となると、これはどういう事かと思う。しかもそれが今までに一度や二度でない。指折り数えて埋まる以上の回数、とばりはこの家の中で消えていたりする。
そんな時には、とばりがプラスの最中なんだと、私はほぼ間違いないと断言出来る。
あの子が悪戯でどこかに隠れているという事でもなく、この消えてしまったという言葉が、何かの比喩表現であるという事もない。
本当にこの時、とばりはここから居なくなる。
この例えが、別の建物や、或いは外であっても同じ事。
気が付くと、とばりはこの場から消えているんだ。
それはまるで、昔語りの神隠しのように。
彼女の言い分では、何もない所に突然黒い穴が現れ、なんとなく吸い寄せられるようにその穴の中に入ってしまうんだと。
それには前触れがない。本人の意思が関係しているのかも解らない。そもそも誰も、とばりの言う黒い穴なんて見た事がないのだと言う。故にとばりの言い分は疑わしいというのが周囲の見解だ。それ以前に、別の世界へ行ってしまうという話自体が信じられていない。
だけど、私はそれを信じる。
元よりアリス症候群の気配があるのは解っていた。その上で、まさにアリスが地下の国へと行こうとしている、そんな描写を思い起こさせるこれを、私はプラスと付けた。
プラスの症状がどうして現れるのか、私は知らない。重度のアリス症候群の中には、かなり偏屈な解釈をすれば、同じような症例として説明出来なくもないなあ、と言える程度の関連付けは出来るけど。
なんにせよ、彼女の身に起きる事を科学的に定義出来るすべは、今の所は存在しない。
彼女は、本当に地下の国に行ってしまう。
そして、そこはまさしく不思議の国と呼ぶのに相応しい所なんだと、私は知っている。
・
――問題は、どこで消えたのかという事。
とばりは確かに居なくなる。理由があって消えるのか、理由なくして消えるのか、それは所詮他人の私には想像してみる事しか出来ない。
この子の親御さんは、こうした現状を年齢相応の好奇心から――悪く言えば、一種の心の病的なものなのかとも思ってる節がある。或いは夢遊病のようなものかと。
……そうすると私も病的な問題者になってしまうぞ。
なぜなら、あの子が消えたという穴を、私は見る事が出来るんだ。そして、彼女を追う事が出来る。
穴に入って、その先にある不思議の国を体験する事が出来てしまう。
なぜかは解らない。多分だけど、あの子に近しいから、だろうか。
あの子を異常な者なのだと、私は言いたくもない。
だけど私は、あの子を普通ではないと思う。それは嘘偽りのない、最初に出て来た感想だ。
もしあの子をアリスと表するとすれば、私はそれに寄り添うロリーナというところだろうか。目を覚ますアリスの隣で、おはようと言ってあげるロリーナが、今の私の役割なんだろう。
とばりとの付き合いを始めて、私もそのプラスに巻き込まれている。
――家の中を、片っ端から見て回る。
二階の各部屋。どこにも異常がないのを確認してから、一階へ。
居間。台所。トイレ。探し回ったけどとばりが居る痕跡はない。
どこへ行ったのか――。
いや、ここは少し落ち着いて、とばりの直前の行動を考えてみよう。とばりは小箱――恐らくは答案の入った、それを隠しに出て行ったんだろう。となると、単純だけどそれを隠せる、私が行っても見付からないような場所に行ったんだ。推察するに――発見の難しい、物置辺りか。所狭しと大量の物が置いてある物置部屋。木を隠すには森の中、という感じに。そのどこかにブツを隠そうとしたに違いない。
この家には、家の外と中に物置がある。計二ヵ所。外に出た形跡はないんだから、家の中の物置を探せば、或いは。
一階。廊下の奥にある一部屋、そこが物置だ。その戸を開けると、暗い室内から若干ひんやりした空気が流れ出て来た。明かりを点けると、たくさんの棚と物が溢れてごっちゃになっているのが解る。物を隠すとするなら、まさにうってつけの場所だ。
その奥の方に行くと、
「あった……」
呟きが漏れる。
そこには、黒い、丸い穴のようなものが、床にへばり付いていた。幅は、大体二メートルくらいはあるだろうか。勿論こんなもの、家人が作っていた訳がない。ここには地下に通じる所なんてないんだから。
自然に出来た。ある意味それで正解だ。但し、普通の人間には気付かれないという、不思議なもの。ここにあっても、誰にも見えないらしい。
――でも、私には見える。
なぜかは知らない。どういう理屈でこの穴が出来ているのかも解らない。
だけど、この穴がここにあるという事は、とばりがここに入って行ったという事に間違いないんだろう。だって、この穴はとばりが居る所でないと出来ないものなんだから。そしてとばりを引き寄せるという、妙な特性のあるものだから。
とばりは行ってしまった。
なら、それを連れ戻すのは、同じくこれが見える、私の役目だ。
この先がどうなっているのかは解らない。安全なのか危険なのかも解らない。
でも、意を決して、
飛び込んだ。




