2-3 能ある鷹
「じゃ、今日はこの間の続きから行こうか。え……っと、何ページからだっけ……」
「一七四ページです、時子」
ど忘れしたのを、小学生に即刻正される大学生の図。
……やっぱり要らなくない?
まあそれはもういいや。どうあれここに居させてくれてるんだし。
因みにこの子は、私を名前で呼んでくれる。親近感を持てるようにと、私がそうさせたんだ。家庭教師をやり始めた頃は先生と呼ばれていたんだけど、どうもそれは慣れる事が出来なかった。何だかむず痒くて馴染まなかったんだ。
学習机の回転椅子に座って本を開くと、とばりは更に口数が少なくなる。没頭するんだ。勉強を教えてあげると言っても、一人でどんどん先に進んでいってしまうものだから、私の出る幕がない。でもやっぱり小学生で、たまには解らない問題なんかも出て来るから、その時にはお助けのお呼びが掛かる。そうした難しい――或いは解らない所をちゃんと説明してあげると「時子のお陰です」って言ってくれるんだけど、やっぱりこれは本人の理解力が大き過ぎるんだと思う。さっき言った一七四ページ。これは学校の教科書の事でなく、私の持って来た塾の参考書の後半部分を指している。小学四年生の教科書の内容は、とっくに全部片付けてしまっていた。
頭はいい。
だけど肝心な所で手を抜く。
その方が楽なのは確かだ。能ある鷹はなんとやら――って言うけど、まさにその通りだ。この子は自分の実力を、殆ど隠している。そのお陰で学校でも、あんまり目立たない、地味なポジションに居るという事も把握している。
「……そういえばさ」
とばりの勉強しているその後ろで、私は床に座って本を読んでいた。と言ってもさぼってる訳じゃない。とばりが今やっているのとは別の参考書を、どう教えようかと予習の為に読んでいたんだ。
その時に、ふと思った事を語り掛ける。
「とばり、今日テストの答案が返って来たんだって?」
ぴたっと、とばりの文字を書く手が止まる。
「……なんでです」
少しだけ顔を向けて、小さな声で訊いて来る。
とばりの言葉の意味としては、なんでそれを知っているんだ、って事だろう。私はこの子からは聞いてない筈なのに。
「いやー、あんたのクラスメイトに聞いたんだよ。時子さんは交友関係広いからねえ」
ぱたん、と手に持つ参考書を大袈裟に閉じる。
するとびくっと、とばりの身が少し震えた。
とばりは(一応)勉学の講師である私に、頑なにテストの答案などを見せたがらない。
理由は知ってる。
だけどもちょっと意地悪もしたくなる。たまにはな。
「ねえとばり。私は勉強を教えてる訳だよねえ」
すっと立ち上がる。するととばりはぐるっと回転椅子を反転させて、私の方を向きながら机を庇うようにした。
明らかなる警戒態勢。そして、目当ての答案も、机の近くにあるんだろうという事が証明された。とばりの行動が教えてくれている。
「講師としてはさ、教え子の為にもその成果を見ておく必要があるんじゃないかなあ」
ゆっくりと、手をわきわきとさせながらとばりに近付く。とばりの学習机、その机を庇うとばりの左手が、ゆっくりと下に下がる。引き出しを手で隠そうとしてるんだ。
――見えた! 机の下から二番目の引き出し、そこに答案がある!
「見ーせーなーさーい!」
襲い掛かる。
と、とばりは――てっきり引き出しを死守するものと思ったのに、素早く椅子を降りて、私の脇を通って行ってしまう。
扉の横にあった、小さな何かを拾って。
そうして部屋の戸を開け、ばたばたと部屋を出て行ってしまった。
……成程な。
察しながらも、机の引き出しまで行って、その下から二段目を開けてみる。
“ハズレ”
そう書かれた紙きれが置いてあった。ちょっとイラっとした。
やっぱり、ここにあると思わせたのは引っ掛けだったんだな。注意をこの机に引き付けておいて、本命はあれだ。とばりが出て行く時に入口の傍で拾っていった、小箱に見えた何かの中だ。私の動きや考えを予想して、あらかじめ出て行く時に持って行きやすい所に置いてあったのか。
最初から、それは私の目に付く所に置いてあった。でも私はそれに気付かなかった。部屋に入る時、入ったあとで、少しでもそれが気になったなら、手を伸ばすくらいはしていたかも知れない。だけど一応他人の部屋の物だ。勝手に触るのは宜しくないと、私なら判断するだろう。
結局はそれに触らない。となればそれは安全な隠し場所になる。
読まれてたんだな、私の行動。
仕方ない。今回は負けを認めてあげよう。
どのみち、答案用紙をどうにかするまでは戻って来ないんだろうし。本でも読んで待っていよう。そうして私は、部屋の本棚を漁ってみる事にした。それに関しては許可は貰っている。私も民俗学には興味があるから――。
・
――それからもう二十分が過ぎた。
幾らなんでも戻って来るのが遅い。どこぞののびたくんじゃあるまいし。答案をどこかに隠しに行ったとしても、こんなに時間が掛かるとは思えない。
戻りづらい? 怒られると思ってる? まさか。あの子はそんな繊細な感じじゃない。勝手なイメージだけど、さっきの行動を鑑みるに、もっとしたたかな子だ。テストだけ隠して、しれっと戻って来て、問い詰めたとしても「なんの事でしょう」とか返して勉強に戻る、そんな流れが想像出来てしまう。
じゃあ、なんで戻って来ない?
……まさか。
読み掛けの本を本棚に仕舞い、戸を開けて、部屋を出る。
番犬の役目をしている筈のどるまんは、しっかりとお座りの姿勢――のままで寝こけていた。ああもうこいつは。
廊下の右を見る。左を見る。
とばりの姿は見当たらない。
くそ。こんな事、最近家の中ではなかったから、油断してた。
あの子はどこかに行ってしまった。ここじゃないどこかだ。
まずは階段を下りて、玄関へと行く。鍵は掛かっている。そしてとばりの靴はちゃんとそこにある。
よし。だったら、とばりはこの家の中で居なくなったっていう事だ。
何を言ってるのか解らねーと思うけど、一つだけはっきりしている事がある。
とばりを探さないと。




