1-17 三日目
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――私は守り、守らないと。
あの子が、確かにここに居たんだという証を。
確かに私と、この世界この時代、同じ時間を一緒に生きていたんだと。
それが私の、今生きている証なんだ。私が私としてここに居る事は、全部あの子のお陰なんだから。
もしも、それをおびやかそうとする者が現れたなら、
私は、
どんな手段を使ってでも――。
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ラジオ体操第二ー。
私の頭の中に、軽快なピアノの音と、おじさんの声が脳内再生される。
昨日の朝に思い立った、体操第二もやってやろうという思い。あの時には内容がうろ覚えでしかなかったから無理だったんだけど、そのあとに朝のラジオを聴き直して、ああこんな感じだったなあと、しっかりと思い出す事が出来た。
家の庭先、朝一番の日の光の下で、白シャツとジーンズ姿の私は大きく体を動かす。ラジオ体操第二の一通りが終わって、昨日の朝と同じく廊下に置いていた牛乳瓶を持つ。腰に手を当て顔を斜め上に、喉を鳴らして一気にそれを飲んでいく。
中身が半分くらいにまでなった牛乳瓶、それを一旦口から離して、ふう、と一息吐いた。
――うん。やっぱり。
この清々しさは、ノスタルジア的なものと近いような気がする。
この空気を、今の家まで持って帰れればなあ。今の住居、私の日常では、こんな感じを味わう事はちょっと出来ない。私の部屋で同じ時間にラジオ体操をしようが、冷えた牛乳を一気飲みしようが、それは違う。そこだけのものだ。
なんでなんだろうね。
この気分、気持ちのいい事。普段は感じられない事が、ここならとてもいい事として感じられる。
理由は、よく解らない。実感としてここにあるだけで。
だけど、私なりに答えを出すとしたら、
……ここが生まれ故郷だからだろうか。
私がこの世に生まれた場所。
私という者がここに出来た場所。
馴染むのは当たり前なのかも知れない。
あるべき、あった場所に居るのが、人間は自然で居られるんだろう。そう私は思う。
となると、あいつは? 八幡もそう思っているのかな。
だとしたら、いいな。
それは姉弟同士、気持ちが通じ合ってるって事なんだから。
……、よしっ。
ぐいっと、残り半分だけの牛乳を一気飲みする。甘い牛乳の喉越しをよく味わって、そして縁側から家の中に戻る。
――そういえば。
ラジオ体操には、今には幻となった第三番目があるのだという。
よし。折角だから、明日はそれにチャレンジしてみるとしようか。やり方は――まあ聞けたらなんとかなるだろう。
――序でにもう一つ。
姉として、八幡をもっと弄くり倒してやんないと。
差し当たって、まだ寝てるだろう八幡に、寝起きどっきりでも仕掛けてやろうか。
なに、無茶はしない。只、ちょいと驚かせてやろうってだけだ。
どっきり内容を思案した結果。
簡単に、とあるものを作ってから、軽く早朝風呂に入っていって、そして体に服を着ずバスタオルを巻いたままで八幡の部屋に突撃しに行った。
八幡はその時まだ寝ていたから、その横に添い寝する形で起きるさまを見ていてやろうと。……思っていたけど、だんだん飽きて来たから耳元でふうっと息を吹き掛けるとかして、快適な目覚めを誘った。
……しばらくして、八幡の大層大きな悲鳴が上がり、その横で大笑いさせて貰った私の隣には“どっきり大成功”と書かれた小さな看板を持ったコロすけが居た。てってれー。
・
今日の朝ご飯は、お米と味噌汁と、食パンとそれに乗った目玉焼きが出て来た。
おいしゅうございました。
「ねえ母さん」
私の食べ終わった分の食器を台所に持っていって、そこで水を流し食器洗いをする母さんの横へ行き、話し掛ける。
「ん? なあに?」
「へそくりとかある?」
ぴたっと、母さんの手が止まる。じゃー……と水の流れるだけの音がした。
「……あげないわよ」
真顔だった。
「いやそーいうんじゃなくてね」
「冗談よ」
くすくすと笑う我が母。そうしてまた洗い物を再開する。
「お金の場所は全部お父さんも知ってるわ。なに? 欲しい物でもあるの?」
「残念ながら今のところはないよ。でも例えば、お母さんってお父さんに隠し事とかないのかなーって思ってね」
「隠し事、ならあるにはあるけど。でもあの人相手にそんな事する必要もないでしょう?」
「はあ、幸せそうで何より」
思えばこの母さんと父さん、喧嘩とかした場面を一回も見た事ないからなあ。順風満帆、ずっと幸せなままだ。羨ましいなあ。私の理想の夫婦だ。
「隠し事とかあるの?」
母さんが訊いて来る。
「あるよ。人間だからね」
隠すっていうのはやましい事から来てるって言う。だからこそ、物を隠す、思いを隠すって事に、人は罪悪感を感じたりするんだろう。
人は生まれながらに罪人だ、っていう言葉もあるけど。思えば私だって、今まで完全まっさらな人間です、なんて生き方はしていなかったと思う。
何かしらの負の部分は誰にでもある。でもそれを敢えておおっぴらにしたいとは思わないし。
「お母さんにも言えない?」
……だけど、そう言われると。
それは最大級の例外だ。
「そんな訳ないでしょ」
だからはっきり言う。それが後ろめたい事だったとしても、家族には嘘は言いたくない。それは、私に善良な心があるっていう証拠なのかな。
「じゃあ時子、スリーサイズは?」
「ぶふっ!」
思わず吹き出してしまった。いきなり何を訊きますかなこの母上様。
「冗談よ」
くすくすと笑う。うーんやっぱりこの母さん、私よりも数枚上手だわ。私の思考を読み切ってる。親なんだから当然、とも思うんだけど。
「……言えるけどさ」
それは決して自慢出来る数値じゃないけど。寧ろ逆。なんで私の体型はこんなにも控えめなのかね。八幡の方は普通に育っているというのに。身長だって、生意気にも中学の頃から私の背丈を抜かしていやがったし。ちくしょうなんだか腹立たしくなって来た。あとで意地悪してやる。
「嫌な事まで聞き出しはしないわよ」
笑いながらも、母さんは真面目な声で言った。
……隠し事。
スリーサイズとか身長とか、そんなみみっちいものじゃなくて。
――私は他人の死の真相を暴こうとしています。
今こんな事を言ったら、母さんはどう思うだろうな。
正しい事か、正しくない事か。深くは考えないようにして今は動いているけど。
逆に、深く考えると良くないという事か。
倫理に引っ掛かる?
誰かを傷付ける?
誰を?
やり方次第にはならないか?
……いや、それはあんまり考えないようにしよう。
初志貫徹だ。私は今、動いている。
動くという事は、やましい事じゃない筈だ。人は動く物なんだから。只、人は普通の動物よりも若干ずる賢さがあるってだけだ。
だから、言わなくてもいい事は言わないようにしておく。訊かれていない事も、言わないようにしておく。それは人としての知恵に違いない。
みんなの食器を洗っている母さんは、ずっと笑顔のままでいた。私は――それを横で見ていて、少し心の奥底がちくりとした気がした。




