EX-3 非情の雨
「あーたのしかったぞー」
本当、道具箱にある物を使った遊びを全部やっていって、女の子も大満足のようだった。
「ちょっとおしっこー」
「うん。いってらっしゃい」
女の子は一人、建物の裏へ行ってしまう。……そういえば今の時代って、トイレはどんな形式だっけな。水洗トイレ――そんなもの、この時代には一般的に普及してたかな。
今、ここには誰も居ない。道具箱だけ、ここに残されてる。あの子の宝物という事だから、私の思う以上の価値があの子にはあるんだろう。
何気なく、道具箱に入ったままのめんこを手に取ってみる。私もあの子くらいの歳にはそんな遊びをしていたなあ。と思いながら裏にめくってみると、そこにたどたどしい平仮名で名前が書いてあった。
“はせくら”
……はて。どこかで聞いた事のあるような。
――はせくら――はせくら?
……駄目だ、全然出て来ない。
でも出て来ないって事は、大した記憶じゃないのかも。珍しい苗字――というには微妙なところであるし。
「ただいまー」
はせくらちゃんが帰って来た。ちっこいはせくらちゃんが、私の方にてこてこ歩いて来る。
可愛いなあ。だけど複雑だ。五十八年後には、もうこの世には居ないかも知れない子だもの。
「お帰りーはせくらちゃん」
「ただいまだー。……って、なんでなまえしってんだー?」
持っているままのめんこを、はせくらちゃんに見せる。
「裏に名前、書いてあったよ」
「おー、うっかりうっかり」
自分の頭を、拳でこつんと叩いてみせるこの子。ああやっぱ可愛いわちくしょう。
「じゃあ私も。私の名前は、“あさぎ ときこ”だよ」
「おー、ときこおねえちゃんかー」
ときこ、ときこ、とはせくらちゃんが呟く。憶えようとしてくれているんだろうかな。
「ときこおねえちゃん、あそんでくれてありがとうございますだー。おれいにひとつ、さしあげましょー」
めんこを一つ差し出される。
「あら、いいのかな? ありがとう」
「どういたしましてー」
深々とお辞儀をする。行儀のいい子だ。このめんこだってこの子の宝物なのかも知れない。この殺伐とした時代、こんな小さなものでも充分な貴重品になり得るんだろう。
「大事にするね」
「おー」
右腕を大きく上げて、はせくらちゃんは笑う。戦時中じゃなかったら、この時代の子供もみんな無邪気に遊んでいられてるんだろうに。
……遊び、か。
――一つ、思い浮かんだ事があった。これが過去だって事なら、未来に続くちょっとした事なら出来そう。未来を変える事は出来ずとも。
「はせくらちゃん、タイムカプセルって知ってる?」
「……たいむかぷせるー?」
知らないみたいだ。はせくらちゃんが首をかしげる。
「これをね、丈夫な箱とかに入れて、地面の下に埋めておくんだよ」
「うめるのかー?」
「そう。そうして何年もあとに掘り返すの。そうすると、昔の自分からの贈り物みたいになるんだよ」
「おー、すげー」
飛び跳ねてはしゃぐはせくらちゃん。意味解ってるのかな?
「じゃあ――」
要る物は、丈夫な箱とスコップのたぐい。
それらは多分、あの謎の小屋で手に入る。筈。
埋める場所は決まった。
私の記憶と変わっていない場所。それは五十八年後も同じ場所に立っている、山の近くの大きな木の下に。
「うーん、いい所」
さわさわと、葉の擦れる音がする。日差しも弱まって、いい感じの涼しさがここにあった。
「じゃあ、穴掘るよー」
「ほるぞー」
謎小屋で手に入れたスコップを使って、木の下に穴を掘る。
少しして、充分な大きさの穴になって。そこに、
「これいれるー」
はせくらちゃんの宝物、その半分くらいを入れたアルミの箱を穴の底に置く。
うーん、はせくらちゃんの宝物ばかりで、私の入れる物が思い浮かばないな。手持ちにあるのは財布くらいのもの。他に目ぼしい物なんて――。
「ねえはせくらちゃん。これも入れちゃっていいかな?」
「おー、どぞどぞー」
さっき貰っためんこも、箱の中に入れる。これも立派な宝物だ。
「うん、これでいいね。じゃあ埋めていこうか」
「うめるかー」
「場所、ちゃんと憶えてたらいつでも取りに来れるからね」
「うん」
「今度、一緒に取りに来ようか」
「おー!」
穴を埋めて、箱が土で見えなくなって。これで状況完了。未来でも、この約束が生きていたなら――。
「いつか、また一緒に遊ぼうね」
いつになるか解らないけど、私も戻らないといけない。戻れる条件がなんなのか知らないけど、はせくらちゃんとはずっと一緒には居られないんだろう。
「やくそくだー」
はせくらちゃんが小指を差し出す、指切りげんまん――ってやつだな。
「うん。約束」
私も小指を差し出す――その時に。
突然どこかから大きな音が響いて来た。
「な、何この音!」
救急や消防のサイレンのような、聞くだけでやばいと思えるような音。
「あー、ひ、ひこうきだ」
はせくらちゃんが、恐れを抱いたような声をして空を見上げる。
このサイレン。そしてはせくらちゃんの言った、飛行機という言葉。
「――空襲!?」
そうだ。この頃には空襲があったんだ。岩手を襲った、アメリカからの空襲の日。
花巻空襲。
のちにそう呼ばれる、岩手の局所を狙った空襲。この辺りに住んでる子なら、小中学校の歴史の勉強で大体学んでいる事。
だけどなんでだ。その空襲は、学校で習った事を思い返せば八月十日の筈。
あの時見た新聞によれば、今日は八月九日、一日違っている――?
……いや。新聞一部を見ただけで、それが今日の日付のものだとは限らない。
あの新聞が、“昨日発行されたもの”だったとしたら。
意地の悪い事を。でももっと早くに思い至るべきだった。八月十日の事を。
――とにかく逃げないと。この山奥、爆弾が直撃する事はまずないとは思うけど、万一という事もある。
「行こう、はせくらちゃん!」
手を差し出す。この子をここで死なせる訳にはいかない。勿論私もこんな所でくたばる訳には。
「う、うん」
はせくらちゃんも頷き、私の手を握る。
そのまま手を引き、走る。山の木陰の下に入れば、流石に狙われる事はないだろう、と思いたいけど。
「っ、とにかく山の中に――」
絶対に助かるっていう保証はない。だけど目立つ所に突っ立っているよりはずっとましだ。
走る。とにかく急がないと。
「あっ!」
繋いだ手が、離れてしまう。はせくらちゃんが足をもつれさせて――、
「いたっ」
転んでしまう。
「はせくらちゃん!」
強引にせかし過ぎたんだ。私のペースで走らせちゃったら、そりゃあ。
でも猶予がない。早く戻って、背負ってでも――。
「え?」
戻ろうとした。なのになぜか、はせくらちゃんの所に行けない。走ってるのに、距離が埋まらない。
「なに!? はせくらちゃん!」
手を伸ばす。だけど、その姿がどんどん遠ざかっていく。
まるで、何かに引っ張られていくように。この場から退場させられるように。
後ろを向くと、黒い穴が。本当、私を引き戻すつもりか。
「ときこおねえちゃん!」
はせくらちゃんの、悲痛にも思える声を聞きながら、私は黒に吸い込まれて――。
「――はせくらちゃん!」
気が付いた瞬間、手を伸ばす。その手は、寝ていた私の真上に向かっていた。
「……大丈夫でしたか時子」
……傍に居たのは、はせくらちゃんじゃなくて、とばりだった。
「……とばり」
戻って来たのか。あの日から、五十八年後の今に。
「……何が、どうなったの」
身を起こす。頭の方はまだ少しぼやけた感じがしていた。
「時子は、突然倒れて眠ったままだったんです」
「じゃあ……」
あの体験は、夢? 終戦直前の事を、私は見てたのか?
いや、夢にしてはリアリティがあり過ぎる。あの暑い夏の日差しも、冷たい麦茶の味も、
はせくらちゃんとの一時の事も。全部今でも鮮明に思い出す事が出来る。
だけどとばりが嘘を吐く理由なんてない。眠っていたのも事実なんだろう。
……はせくらちゃんは、無事助かったんだろうか。
夢かどうか、確かめる手段はある。直接、あそこへ行ってみればいいんだ。あの大きな木の下の所に。