7-17 ミヤコワスレ
「えっ、とばり!」
呼び掛ける。慌ててその手を掴み直そうとしたけど、
とばりは只微笑むだけで。
「……ごめんなさい」
そう一言言って、とばりの姿が離れていく。
「駄目! とばり、手を掴んで!」
必死で手を伸ばす。だけど、
ふるふると、とばりは顔を横に振る。
「私は、私の出来る事を見付けた――」
とばりの姿はどんどん離れていくばかりで。
落ち続けている間には、とばりの方に進む事も出来なくて。
そのうち、意識も朦朧として来て。
とばりを助けないと。そう思うのに、色々なものがそれを邪魔してるみたいで――。
「――大丈夫です。また――」
とばりが、私に背を向ける。それがどういう事か、解りたくもないのに――。
――ありがとう。
呟くような、そんな声が聞こえた気がした。
部屋に戻って来る。だけど、
「とばり、とばり!」
見回しても、とばりの姿は部屋にはない。穴に這いつくばって呼び掛けて、また入ろう、としたけど。
その時には、穴はどんどん薄くなって、入ろうとしても穴の上に手を付くだけで。
……そして、穴が消えてしまった。
とばりが、帰って来ないまま。
……どういう事だよ。こんな――。
とばりが帰って来ないままで、どこに行ったのかもわからなくて。
そんなのどうすればいい!
穴がなくなったのに、どうやってあの子を助けられる!? どうやってとばりの居る所に行けばいい!
「っ――、ブルカニローっ!!」
このアリス症候群の元凶であろう、あいつの名を呼ぶ。
だけど声はどこにも届かなくて。
あいつがここに出て来る事も、なかった。
……くそ。
何がアリス症候群プラスだ。
結局私は、あの子を助けられなかった。
置いてけぼりにしてしまった。
……いや、
そうなるように動かされたんだ。今までを考えれば明らかだ。
全部連動してたんだ。あのブルカニロの言った通りに。
――なんて事!
あいつがとばりをそそのかしたばかりに。
どうしよう、どうすればいい。もう穴には入れない。とばりを追い掛けていけない。
……どうしてだよ。
「どうして……」
いろんな、やり切れない思いが頭の中を回る。
……なんでとばりは手を放したんだ。
……一体とばりを、どこにやって、何をさせるつもりだ。
――サクラ トバリは帰らない――。
唐突に、あのブルカニロの言葉が思い浮かんだ。
帰らない。
そんな馬鹿な事があるか。
許さない。絶対。
そんな思いを持ちながら――ふと、顔を上げた。
「え……?」
なんだか、おかしい。部屋の状況がまるで違う。
本がない。
いやあるにはあるんだけど、その数がずっと少ない。
以前には――この穴に入るまでは、ここは本の虫の住処のように、本だらけだった筈。
本棚は完全に本で埋まっていて、それに入り切らない本が部屋の隅とかに、山積みになってた、筈。
――それが、今見ると本棚にしか本がない。その本棚は本でいっぱいになってるけど、それ以外に本がなかった。
――立ち上がる。どうにも何か、おかしな事になっている。
本棚に向かう。そこにある本は――とばりがよく読む、民俗学の本がなかった。
一通り見てみる。本のジャンルはばらばらで、漫画とかもあった。
……漫画なんて、この部屋にはなかった筈。
その中で、一冊、気になる本が。
手に取る。
「アリス……」
不思議の国のアリス。
世界的に有名な童話だ。これが本棚にある事自体は珍しくはないだろう。
だけど……。
「とばり……」
その本は、私が以前とばりから見せられた本と、全く同じものだった。
原文をそのまま日本語に直訳したような文庫本。
とばりとの繋がりが、こんな小さなものしかない――。
……佐倉家のパーティーは続く。
だけどそこに、とばりは居ない。
そしてなぜやら、とばりの事を憶えてる――いや、知ってる人も、一人として居なかった。
「佐倉とばりを知りませんか?」いろんな人に訊いて回った。
「とばりって、誰です?」みんながみんな、そんな言葉を返して来た。
とばりのお母さんでさえ。
……なんで、私はここに居るんだろう。
私は、佐倉とばりの家庭教師だ。だからこそここに居られた筈。
この佐倉家のホームパーティーに。
とばりが居ないとなれば、私はどうしてここに、
「――ああ、浅木さん。この子が戻って来ましたよ」
「え……」
とばり、戻れたのか?
そう思って見てみると、お母さんの傍に、一人の女の子の姿が。
「とば……」
言い掛けて、だけど、何かが違う。女の子だけど、その姿はとばりじゃない。短い黒髪の、シャツとスカートの格好をした、誰かの姿。
え……これは、どういう事だ?
「え、なんですか? 浅木さん」
……誰、この子。
あとでさりげなく聞いた所によると、この女の子は児童養護施設から来たらしい。お母さんには子供が出来ず、養子を貰ったんだという。
――そうか。お母さんは孤児院に通っていたんだったな。その伝手で子供を貰ったって事か。
……そして、どうやら私は、その子の家庭教師をしてるみたいだった。
そんなの解らないよ。
この子は私の事を知ってるらしいけど、私はこの子の事を全然知らない。
「浅木さん」
そうその子は呼ぶ。それがなんだか、怖い。気味が悪い。
「浅木さん」
お母さんもそう呼ぶ。そんなのおかしい。お母さんは、とばりの影響で「時子さん」って呼んでくれていたのに。
「どうかしたのかしら、疲れました?」
立ち眩みしそうな空気の中、お母さんが気を遣ってくれる。
「い、いえ、お気遣いなく」
本当は、精神状態最悪なんだけど。
出来れば今すぐ帰りたい。そしてとばりがどこに居るのか、探したい。
……だけどここまで“今”が変わってしまっている以上、ここに、とばりの居場所があるんだろうか。
ifの世界になっちゃってる。この世界に、とばりが居た痕跡がない。見当たらない。
……なんでだよ。なんでこうなった?
とばりはちゃんと、この世界で生きていた、筈、なのに――。
今はもう居ない。
痕跡さえも、どこにもない。
私の記憶の中だけにしか――。
・ THE END?
{
――これで、今回の二人の旅は終わりです。
“彼”を知って貰う旅――それこそが、“彼”を救う為の、一つの力となる。“彼”を深く知って貰う程、あの子は“彼”に大きく感情移入してくれたのだから。
アリス症候群プラスこと、時空転移者――あの子の特異は、“彼”に接触する大きな力だ。まさしくジョバンニの切符のように、どこにでも行けるあの子ならいずれ“彼”に接触し、本来の場に引き戻す事だって出来る筈。
まあ、その事はまた別の機会に語るとしましょうか。
“彼”と関わりを持つ者は、今はサクラ トバリだけで充分なのだから。
“彼”のお話は“彼”のもの。彼女達のお話が今の事。
そして、あの二人はそれぞれ、交わる事のない人生を歩む事になる筈。
一人は未来へ。
一人は過去へ。
“普通の人間ならば”、時の流れを同じ方向に進んでいく筈。
時間の流れは、みんなに等しく一定だから、流されていくしかない。逆らう事が出来ないのなら、出会う事なんてあり得ない。なぜなら彼女達の時間の差は百年もある。普通には、もう彼女達はお互いの姿さえ、見る事もない筈。
小学五年生――なら十一歳辺りだね。それから百年、生きていなければ“あの子”は今の“彼女”には絶対に会えない事になる。
二人は二度と出会う事はない。そうしてそのまま、一生を終える。それが本来あるべき時間の流れ。触れられない、二人の繋がりの成れの果て。
……だけど、それだと納得しない人が多く居そう。
私が仕組んだ事なだけに、私が悪者と見られる事もいい気はしないし。
だから、
貴方が望むなら、叶えてあげる。
……これは、ある筈のなかった可能性。
気休め。蛇足。只の妄想。お節介しただけかも知れない。
それでも意味を見出したいなら、引き換えてあげる。
君と、夢を。
くすくすくす――。
}