8
オリヴィアに触れようとする腕を掴み取られ,ナタリアは驚きのあまり目を見開く。
まさかレーヴェがこの場に駆け付けるとは思わなかったのだろう。
「レーヴェ様……!? どうして……」
「君と同じだよ。オリヴィアの辿った道を追って来た」
彼もまた,森に点在した呪いの痕跡を見つけて辿り着いた。
間一髪,と言った所である。
レーヴェは二人がどういう状況にあるのか知らない。
だが魅了の呪いを持つナタリアが,オリヴィアに触れようとしている時点で,大体の予測は付いたらしい。
真剣な表情のまま,ナタリアを見据える。
「君が何をしようとしているのか。この状況を見れば直ぐに分かる」
「ぁ……」
「でも,それだけは駄目だ。望んで人の意思を捻じ曲げるなんて,まして自分の命を犠牲にしようなんて,絶対にしちゃいけない。君にとって,それは美しい死にはなり得ない」
彼はナタリアの腕を離した。
彼女は驚愕のまま,二三歩後ろへと後退する。
理由は単純。
レーヴェは確かにナタリアに触れた。
それは再び,魅了の呪いを受けたことに他ならない。
オリヴィアも声を出すことも出来ずに,口元に手を当てる。
だが,何故か彼の様子に変化はない。
以前のように体調を崩すこともなく,座り込むオリヴィアに近づいた。
「オリヴィア……怪我をしているのか? ごめん。こんなことなら,君を一人置いて行くべきじゃなかった」
「い,いえ,そんなことよりレーヴェ! 魅了の呪いが……!」
「大丈夫。前程,強い強制力はない」
「本当に……?」
「うん。自分でも不思議だけど,二度目の効力は薄いのかもしれない」
レーヴェが無理をしているようには見えない。
一度魅了の呪いを克服したことが,何かしらの免疫を生み出したのかもしれない。
しかし,原因は今となっては些細なことである。
もう一度,彼はナタリアの方を向いた。
「それにしても,こんな強硬手段に出るなんてね」
オリヴィアを庇いながら,そう言った。
失望,憐れみ,どちらとも取れない複雑な思いが現れていた。
告げられたナタリアは,ゆっくりとその場に膝を屈する。
既に抵抗するだけの気力はないようだった。
伸ばす先を失った両手が,次第に握り拳に変わっていく。
彼女は俯きながらも,肩を震わせた。
「どうして……帝国に戻ってくれないんですか……?」
「言った筈だよ。僕はもう,トライドール家の人間じゃない。帝国に戻る理由はないんだ」
「それでもッ……!」
ナタリアは声を荒げた。
「貴方はトライドール家の長男! 当主となるに相応しい人物でした! それなのに300年以上前,貴方は全てを捨てて居なくなった! 貴方がトライドール家の名を継いでいれば! 私達が分家同然の格まで落ちることも! もしかしたら,私が呪いを持つこともなかったかもしれない!」
「……そうか,君は母方の血族なんだね」
「貴方さえ……貴方さえいれば,私達は……!」
オリヴィアは,ただ息を震わせた。
彼女には,ナタリアの抱えているものは分からない。
しかしここまでの強硬手段に出たのは,単純にレーヴェに帝国に戻ってほしい,という思いだけではないことは分かった。
そこにあったのは,彼に対する愛憎。
先祖である彼への信愛,そして捨てられたことへの憎悪。
様々な感情が複雑に絡み合った結果,今の彼女は此処にいる。
「どうして……どうして私達を見捨てたのですか……?」
或いは,それを問うためだったのかもしれない。
見上げたナタリアは一筋の涙を流した。
レーヴェは彼女から視線を逸らさない。
一呼吸置いて,語り始める。
「不老不死は人を狂わせる。羨望されたり,嫉妬されたり,恨みを買われたり,色々さ。現に君だってそうだ。僕の呪いが,君をここまで狂わせてしまった」
「……!」
「だから,消えることにしたんだ。レーヴェ・トライドールは,最初から存在しなかった。それが一番良かった」
彼は空を仰いだ。
既にここにはいない,誰かを思い出していた。
「帝国を出る時,最後に母と会った。皆が化け物と言う中で,あの人は僕を抱きしめて,私達を許してほしいと言った。あの時,彼女は泣いていたんだと思う。その時決めたんだ。永遠に続く生涯で,例えどんなことがあっても,誰かを傷つけてはいけないって」
「それが……レーヴェの生き方……?」
「そう。勿論,オリヴィアも同じだよ。あの日,僕が君に手を差し出したのも,そんな思いがあったからかもしれない」
オリヴィアは今まで,レーヴェの噂は殆ど耳にしたことがない。
ましてや,悪い話など聞いたこともない。
彼の信念が,生きることへの自戒が,そうさせていたのだ。
だがそんな思いを余所に,様々な者が不老不死を求めた。
中には明確に危害を加える者もいただろう。
それでも,レーヴェは一切動かなかった。
全ては呪いを持つ自分が狂わせてしまったことだと,達観した考えを持っていたのだ。
その話を聞いたナタリアは,呆然としたまま再び俯く。
「こんな私を,罰することもしないんですね……」
「……ごめん」
彼女にとっては正面から罵倒されたり,暴力を振るわれたりした方が,割り切れただろう。
しかし,レーヴェにそんな真似は出来ない。
それに気付いたナタリアは,涙を流したまま項垂れる。
反論する気もないようだ。
「行こう。オリヴィア」
「レーヴェ……でもこの人は……」
「もう,彼女は君に手を出したりはしない」
オリヴィアはゆっくりと立ち上がり,ナタリアを見る。
レーヴェの言う通り,これ以上,彼女が暴走することはない。
最後の手段を失った今,二人を引き留める者はいない筈だった。
「いや,まだだ」
静寂は打ち破られる。
夜の湖畔に新たな人影が現れる。
その人物は,レーヴェの後を追って来たジェイド・ルーファスだった。
人差し指で眼鏡を抑えつつ,ゆっくりと歩み寄って来る。
「ジェイドさん!?」
「どういう意味だい?」
「全てが終わった訳じゃない。分かっているだろう?」
尋ねるレーヴェ達に,意味深に問い掛ける。
屈したままのナタリアの事など気にも留めていない。
「レーヴェ・トライドールの死。それで全てが終結する。オリヴィア嬢,君と彼の願いを今ここで叶える時だ」
トライドールの確執が終わった今が好機と考えたのか。
彼はレーヴェの死を提示した。
先送りにさせないよう,更に言葉での追撃を行う。
「トライドール家に,オリヴィア嬢の存在が知れた。これがどういう意味か分かるだろう? 次期帝王を殺し得る者が知れたという事なんだ。今ここで,決着をつけなければ,トライドールが差し向けた刺客が彼女を狙うことになる」
「待って……一体何を……」
「事は一刻を争う。以前渡した血の小瓶は持っているか?」
以前採取した,死の呪いが込められた血液。
答えるかどうか以前に,オリヴィアは反射的にその小瓶を取り出してしまう。
ナタリアとのいざこざで割れているかと危惧したが,そんなこともない。
隣にいたレーヴェは,小瓶をただ見つめる。
彼女の行動を肯定と受け取ったジェイドが,それを指差した。
「その血を,彼に飲ませるんだ」
「……どういうこと?」
「血は言わば生命の源。呪いの力を最も受け継ぐ場所だ。触れるだけでは意味がない。呪いの根源を,彼の体内に含ませることで,一時的に不老不死を解除することが出来る」
「レーヴェが,言っていたことと同じ……」
「もう一度言うが,一時的なものだ。時間が過ぎれば,生の呪いは再び活動を始めるだろう。その前に,これで彼を死に送らせる」
そうしてジェイドは懐から小さな包みを取り出した。
簡単に空けられないよう,厳重に紐で縛られている。
「安楽死用の薬だ。一切苦しむことなく,安らかに死ぬ。何も心配する必要はない」
わざわざ調達してきたのだろうか。
薬の効能など,疑った所で意味はない。
問題なのはオリヴィアの血を飲んだ時,レーヴェの生の呪いが消えるということだ。
呪いが消えれば,彼は普通の人になる。
ジェイドの薬を飲むことで,間違いなく死へ導けるだろう。
「オリヴィア……」
レーヴェは,彼女の名を呼んだ。
彼の言葉には,ある種の迷いがあるように見える。
それはオリヴィアも同じだった。
間近に迫る死を自覚し,血の小瓶を握りしめる。
「私は……」
「何を迷っている? 躊躇う必要はない筈だ」
確かに迷う理由はない。
レーヴェの望みを叶えるために,オリヴィアは血を採取した。
他でもない行動で,その意志を示している。
だが,彼女は動けない。
喉の奥で何かがつっかえているように,言葉が出てこない。
するとそれまで沈黙していたナタリアが,驚いた様子で顔を上げる。
視線は敵対勢力であるジェイドへと注がれていた。
「ジェイド・ルーファス!? ルーファス家の者だったんですね!? 二人共,駄目です! この男の言う通りにしては!」
「ナタリア!?」
「レーヴェ様を,死なせる訳にはッ……!」
彼女もジェイドのことを知っていたのかもしれない。
既にレーヴェ達に危害を加えるつもりはない。
それでも彼の死を見過ごすことは出来ないのだろう。
どうにか防ごうと,三人の間に割って入ろうとする。
「貴様は黙っていろ!」
「うぐっ!?」
ジェイドの行動は素早かった。
一瞬で距離を詰めた後,ナタリアをいとも簡単に組み伏せる。
再び彼女は地に伏したが,本人だけでなくオリヴィア達にも一つの疑問が浮かんでいた。
何故,魅了の呪いが効かないのか。
「どうして私の呪いが……!?」
「知りたいか?」
やはり効いている様子がなく,ジェイドは一言だけ告げる。
教えてやる,と言わんばかりの言動の直後,彼の姿が変貌した。
黒色の体毛が全身から伸び,人ではない獣のそれへと成り代わる。
誰もが言葉を失い,その様を見届ける。
現れたのは,全長3mは超える巨大な狼だった。
オリヴィアは,かつて読んだことのあるお伽話にその姿を重ねた。
「人狼!?」
「これが,俺の本来の姿だ。獣の呪いを背負わされた,人ですらない畜生のな」
魅了の呪いは人間に対してのみ有効。
獣であるジェイドには通用しないという事なのだろう。
わざわざ己の呪いを見せつけたのは,この場にいる呪いの保持者全員に共感を持たせるためなのか。
片足一本でナタリアを踏みつけながら,彼は人の言葉で命じる。
「さぁ,その血を彼に渡せ。役目を果たすんだ」
夜風が湖一体に吹き込む。
緊迫した空気に,寂しい冷気が流れていく。
未だにオリヴィアは動けない。
皆の視線が一転に注がれる中,声を上げることも出来ない。
ひたすら血の小瓶を強く握りしめる。
そんな様子にレーヴェはあることに気付き,彼女を見上げた。
「……震えているのかい?」
「え……」
そう言われて,彼女はハッとする。
見下ろすと,小瓶を握っていた両手が小刻みに震えていた。
凍えるような,耐えかねたような,小さな悲鳴にも見えた。
「君は,まさか……」
反射的にオリヴィアは,彼から両手を隠した。
震えを見られたくなかった。
血の小瓶を見てほしくなかった。
しかしここで渡さなければ,彼は永遠に生に囚われたままだ。
二つの感情がせめぎ合い,思考が纏まらない。
一体何が正しいのか,段々と分からなくなっていく。
瓶を強く握ったまま,彼女はやっとの思いで口を開いた。
「私は……私は,レーヴェの願いを叶えたい。本当よ……? 今までずっと,私の望んでいたものを与えてくれたんだもの……。何か……何かを返さなくちゃいけないって,ずっと思っていたの……」
レーヴェは何も言わない。
代わりに少しだけ,悲しそうな顔をする。
それが余計にオリヴィアの胸を締め付けた。
元々ジェイドの案に乗ったのも,生の苦しみから彼を解放することにあった。
悲しむ所を見るために,こんな事をした訳ではない。
「私のことは心配しなくて良いわ……。死の呪いも,認められる切っ掛けさえあれば……きっと今と変わらない日々を過ごせる筈だから……」
命を絶つことが,レーヴェの望みなのだ。
叶えなくてはならない。
彼に後のことを心配させてはならない。
例え死の呪いがあろうとも,生きていける方法は幾らでもある。
自分の気持ちを誤魔化し,そう言い切ろうとした。
「この話を聞いた時だってそう。もう,レーヴェを苦しめちゃいけないって思ったのよ。私の独り善がりな思いで,貴方を縛り付けちゃいけないんだって,そう決めたのよ。なのに……それなのに……」
だが駄目だった。
色々取り繕うとしたが,もう何も出てこない。
オリヴィアは既に手の震えと共に,本当の気持ちに気付いていた。
自分にとって,何が一番大切なのか。
何が一番の望みなのか。
声を震わせ,ポツリと呟く。
「嫌……渡したくない……」
「!」
それが本心だった。
偽善などではない,オリヴィア自身の思いだった。
レーヴェが目を見開く。
同時に,ジェイドが声を荒げた。
「オリヴィア嬢! 貴方は何を言っているのか分かっているのか!? それは身勝手な発言でしかない! これ以上,彼を苦しめるな!」
「分かっているわ! そんなこと,分かっているわよ! でもッ……!」
彼女は俯きながらもハッキリと答える。
「考えてみたのよ……私が触れられるのは,レーヴェだけ……。もし,レーヴェがいなくなったら,私はもう誰にも触れられない……温かさも,分からない……」
死の呪いがあろうとも,人と関わることは出来る。
しかし,本当に意味で傍に居てくれる人は,いなくなってしまう。
あの時差し出された手の温かさを,思い出すことも出来なくなる。
それは彼女にとって,とても寂しく悲しいもの。
彼が言っていた,美しい死に反するものだった。
「私はレーヴェに会った時に決めたのよ。美しく死ぬには,後悔のない生き方を選ばなくちゃいけないって。もし,これを渡したら……きっと私は一生後悔する……。そんなの……そんなのは,嫌……。私は美しく……美しく死にたいの!!」
もう,一人になりたくない。
もう,血は渡せない。
彼女の叫びを聞いたジェイドは,大きく溜息を吐いた。
「賢明な判断ができると思っていたが……俺が間違っていたのか。レーヴェ・トライドール,彼女からその血を奪うんだ」
説得は無意味だと悟ったのか,レーヴェを動かそうとする。
積年の夢が,もう直ぐ叶うのだと改めて告げる。
少しの間の後,レーヴェはオリヴィアの元に歩み寄った。
月夜に照らされた赤い瞳を輝かせ,おもむろに問う。
「オリヴィア,それが君の本心なんだね?」
「……ごめんなさい」
「いや,謝る必要なんてない」
レーヴェはオリヴィアを責めなかった。
手の届く所にある救いの道に,首を振るだけだ。
その後,沈黙が流れる。
誰一人動くことはなく,事態は硬直する。
それから吹き抜けた風を受けて,彼は足元に視線を落とした。
「僕は誰かを傷つけちゃいけないと,その思いで今まで生きてきた。この結末も,オリヴィアを傷つけないためだと,そう思い込んでいた。でも,違っていた。傷つかないように守られていたのは,僕の方だった。あの時と,何も変わらなかったんだ」
オリヴィアが顔を上げると,レーヴェと目が合う。
深紅の瞳が,微かに揺れていた。
「そうだ……今になって,思い出した……」
懐かしむような,僅かに嬉しいような,そんな声。
大切な何かを見つけたのだろうか。
血の瓶を奪い取ることはない。
オリヴィアが彼から感じ取ったのは,緩やかで穏やかな雰囲気だった。
そして彼はそのまま振り返り,ジェイドに向けて告げる。
「ごめん,ジェイド。やっぱり止めるよ」
「……どういうことだ?」
「簡単な話だ。僕は,オリヴィアのために生きる」
オリヴィアは驚いてレーヴェを見返す。
聞き間違いではない。
彼は不老不死の身でありながら,死を拒んだのだ。
その表情からは強い意志が現れている。
「馬鹿な! オリヴィア嬢の命は有限だ! 彼女と過ごすために,永遠の時を生きるつもりか!?」
「いや,そうはならない。言った筈だ。僕は,彼女のために生きると。僕の生は,美しい死は,彼女と共に生きることにある」
死を拒むという事は,永遠の時を生き続けるという事。
ジェイドの言い分は間違っていない。
しかし既に彼には,自分自身の終わりの時を見据えていた。
「オリヴィアの死は,僕の死だ。彼女の命が尽きるとき,僕もその血を飲んで後を追う」
「な……!」
「トライドール家にも,ルーファス家にも関わらない。僕達は,僕達のまま生きる」
選んだのは,共に死ぬという道。
置いて行くでも,置いて行かれるでもない。
死の呪いを持つ一人の少女のために,最期まで生きることにしたのだ。
オリヴィアが息を震わせると,レーヴェはそれに答えるように微かに笑う。
今の彼には,消えてしまいそうな儚さは感じられなかった。
ただ,ジェイドは納得できない様子だった。
「呪いを持つ者が,自由に生きている筈がない! 後悔することになるぞ……!?」
「後悔なんてしない。自分達が納得して決めた道なら」
他者から忌み嫌われる,呪いを持つ者としてその答えは看過出来なかったのかもしれない。
痺れを切らしたジェイドは,唸り声を上げながら動き出した。
踏みつけていたナタリアをそのままに,獣の姿のままレーヴェに向かって駆け出す。
「そうはさせん……! 貴方を殺せば,俺は更に上へ行ける筈なんだ……!」
「っ!? レーヴェ……!」
開かれた口から覗く獣の牙は,容易に人を噛み砕くだろう鋭さを誇っていた。
不死の身であることを知っていながら,破れかぶれに当たり散らそうとしているのか。
オリヴィアは手を伸ばすが間に合わない。
大きな影がレーヴェの全身を覆い尽くす。
対する彼は,迫る人狼を前に一歩も逃げない。
真っ向からその脅威に対峙する。
そして鋭利な牙が彼の首元に喰らい付く瞬間,ジェイドは急に動きを止めた。
レーヴェもまた,ピクリとも動かなかった。
「逃げないのか?」
「君には僕を殺せない」
「死なないとは言え,痛みは感じる。貴方の肉を喰らい,八つ裂きにし続けて,その激痛から服従させることも出来るぞ」
「それは昔,通って来た道だ。僕には通じない。それに人の肉を喰らうというのは,人の道理に反する。僕を喰らった者は皆,正気を失ったように狂っていった。君は,同じになりたいのか?」
冗談ではなく,レーヴェは忠告する。
人の業を目の当たりにしてきた身で,人の道を踏み外してはいけないと制止する。
姿形はさておき,300年以上生きて来た者の言葉だ。
感情的に揺れ動いていた人狼の瞳が,一回だけ瞬きする。
直後,喉元にあった牙がゆっくりと引いていった。
「感情的になった所で,良い結果が生まれる筈がない……か……」
「ジェイド……」
「俺自身,犬畜生と呼ばれるこの身を呪った。蔑む連中を見返し,のし上がるために,出来る限りのことは尽くすと決めた。だが,そのために,本物の畜生になる訳にはいかない」
ジェイドも,今まで困難と言えるだけの境遇を経験してきたのだろう。
その思いが,苦しみが,彼を焦燥に駆り立てた。
しかし,寸前の所で我に返ったようだ。
ようやく立ち上がるナタリアを一瞥し,ジェイドはレーヴェを見下ろした。
「貴方はこの女に言ったな。自分の存在が,彼女を狂わせたと」
「……」
「俺も,貴方によって狂わされた一人なのかもしれない。レーヴェ・トライドール,俺は貴方を憎むだろう。そしてこれからも同じような連中が,貴方達を追い求めるかもしれない。それでもか?」
「生きていけるさ。僕の隣には,大切な人が居るんだから」
そこまで聞いて,オリヴィアの視界が揺らいだ。
共に過ごしてきた中で,ここまでハッキリと告白されたことはなかった。
目頭が熱くなりながらも,彼女はもう一度問い掛ける。
「レーヴェ,本当に良いの……? 私は,自分のために……」
「僕は長い間生きて,大事なことを見失っていた。孤独は,一人はもう疲れた。オリヴィアが,それを思い出させてくれたんだ……」
そう言って彼は彼女の両手を握り,優しく持ち上げた。
確かな温かさが,そこにあった。
「ほら。こんなに温かい」
両手で持っていた血の瓶は手から滑り,静かな音を立てて砂地に落ちる。
同時に,オリヴィアの頬から涙が流れ落ちた。
最初は自分が泣いていることにすら気付けなかったが,頬を伝うそれを掬い,ようやく思い出す。
死の呪いを持ちながらも,まだ自分は涙を流せる人間であると思い出したのだ。
「帰ろう。一緒に」
静かな夜の湖畔,彼の声が聞こえた。