6
「そうだったのか……僕が寝込んでいる時にそんなことが……」
「ええ……あの人は,今日の昼頃にラサンの喫茶店で待っていると言っていたわ」
翌朝,レーヴェは眠りから目覚めた。
体調の方も問題がなく,彼が言った通り呪いの影響も全て完治していた。
身体の成長を止める生の呪いのお蔭なのだろう。
オリヴィアは,昨日の夜に起きた出来事を包み隠さず話した。
ジェイドが口にした,彼女を説得するための情報,レーヴェの死後のこと。
彼は黙って聞いていたが,全てを聞き終えるとこう言った。
「オリヴィアは,その話を聞き入れたのかい?」
「いえ……何も言えなかったわ……」
オリヴィアはかぶりを振る。
勝手にそんなことを決められる状況でもない。
肯定も否定もしない,その場しのぎの沈黙しか出来なかった。
彼女はジェイドから渡された採取具を机の上に置く。
「彼は生の呪いを打ち消すために,私の血が必要だと言っていたの」
「オリヴィアの血……もしかすると……」
「……?」
「血は言わば,生命の源。呪いの力を最も引き出す所なんだ。ジェイドの思惑は,そこにあるのかもしれない」
レーヴェは採取具を観察しながら,そう推測する。
しかしオリヴィアの思考は,レーヴェの真意を知ることに囚われていた。
ジェイドが言っていたように,彼は己の死を探していた。
仕立て屋として活動している中,呪いを消す方法を調べ続けていた。
仮にその方法が見つかった場合,彼はどんな選択を取るのか。
それはオリヴィアが今まで目を背けてきた疑問。
だが,今となっては聞かざるを得ない。
何が彼にとって一番の幸福なのか。
300年以上生きて尚抱いている願いを,知らなくてはならなかった。
「レーヴェ……一つ,聞いてもいいかしら」
「何だい?」
いつもと変わらない態度でレーヴェは聞き返す。
オリヴィアは胸が締め付けられるようだった。
「貴方の望みは……自分の死,なのよね?」
「……そうだね」
寂しそうに言うレーヴェに,オリヴィアは昨晩の会話を思い出す。
ジェイドは,彼の苦しみを救えるのは君だけだと言った。
間違いはないのだろう。
事実,生の呪いを殺せる手段はオリヴィアの手の中にある。
そしてそれに代わる案も存在しない。
オリヴィアが命尽きたなら,彼はそれを永遠に失ってしまう。
未来永劫,何かの罰のように生きなければならない。
無論,オリヴィアは手を下したくはない。
忌み嫌う自身の呪いが,親しい者の命を奪うなど考えたくもない。
だがそれこそが彼の望みだと言うなら,自分本位な思いだけで,これ以上苦しめる訳にはいかない。
酷く長い時間が経ったような錯覚の後,オリヴィアはやっとの思いで口を開いた。
「私は,貴方の望みを叶えたい」
「!」
「時々思っていたの。レーヴェは,あの時の私と同じ顔をしているって」
オリヴィアは両手を強く握りしめる。
「辛くして,苦しくて,雁字搦めにされた思いが私にも伝わってきたから」
「オリヴィア……」
「呪いはその人固有の力。同じ呪いを持つ人は,過去を遡っても二度と生まれない。きっとこれは,レーヴェにとって最初で最後のチャンスだと思うわ。だから,それを棒に振ってほしくないの」
「でも,それだと君が」
「心配しないで。あの人は,私を悪いようにはしないわ」
本当はこんな事は言いたくない。
レーヴェの顔すら,まともに見られない。
それでも,オリヴィアは毅然とした仮面を被り続けた。
「全部を信用した訳じゃないけど,意地でも私を従わせる気があったなら,ザーヴァルド家の名を盾に脅迫した筈。でも,あくまで私の裁量に任せた。死の呪いを持つ私に。丁重にもてなす,という言葉もあながち嘘じゃないと思うわ」
再び沈黙が流れかけるが,それを打ち消すようにレーヴェが問う。
「君は,本当にそれで良いのかい?」
「……」
声を出せば,震えてしまう気がした。
答えられず,オリヴィアは頷くだけだった。
するとレーヴェは,ゆっくりと目を閉じる。
「もう,自分の力で歩いて行けるんだね」
「……」
「分かった。僕も覚悟を決めるよ」
彼も僅かに思い止まっていた心に区切りを付けたらしい。
オリヴィアは何も言えなかった。
口を開けば,今までの言葉と真逆なことを言ってしまいそうだったからだ。
窓から差し込む朝日が,二人を突き刺すように照らしていた。
レーヴェはジェイドと話し合うことに決めたようだった。
昼下がりになる前に,彼はラサンの街に出掛ける支度をする。
何を話すのか,詳しいことはオリヴィアも知らない。
それでも何らかの状況は進んでいくだろう。
レーヴェは動きやすいように簡単な荷物だけを持って,オリヴィアに声を掛ける。
「街に出てジェイドの話を聞いて来るよ。オリヴィアは此処で待ってて」
あくまで彼は,彼女を心配しつつ別荘を出ていった。
やっと死を迎えることが出来る。
長年の願いが叶う筈なのだが,目に見える変化はない。
今までと同じように,小柄な背中が森の中へと消えていく。
「これで良い……これで良いのよ……」
見送ったオリヴィアは,この選択が間違いではないと思い込んだ。
そう言い聞かせるしかなかった。
時間が経って陽が落ちかけた頃,彼女は前もってやるべき事に取り掛かる。
自身の血の採取である。
念のため,と言うよりも必要なこととしてジェイドの器具と対峙する。
「触れるだけで良いらしいけど」
使い方は採取具と一緒に添えられた洋紙へ書かれていた。
特に何の知識を持たなくても,痛みなく簡単に血を抜き取ることが出来るようだ。
一応危険がないことを何度も確認しつつ,取り組んでみる。
それから暫くして,彼女は小瓶に血を入れることに成功した。
本当に,何の変哲もない医療具だった。
ただ血も死の呪いを帯びているので,これに触れた者は命を奪われる。
誰も触れないように細心の注意を払うべきだと,懐に小瓶を収めた。
だがそこでようやく,オリヴィアは一つの事に気付く。
「レーヴェがいなくなったら,私はもう……誰にも触れられなくなる……」
人肌の温かさ。
誰かに触れられることへの喜び。
かつて何度も触れたレーヴェの手の感触を思い出し,オリヴィアは辛そうな表情で祈るように両手を合わせる。
思い出してはいけない。
踏み止まってはいけない。
全ては彼のためだと思い込もうとした。
その時だった。
窓硝子の割れる音が聞こえる。
石が投げ込まれたのだろうか。
どう考えても,レーヴェのそれではない。
玄関先の方から,何者かが侵入する気配を感じる。
一体,何が起きたというのか。
オリヴィアは人為的なものを感じて,恐怖心を抱きつつも居間の方へと駆け込んだ。
すると丁度,侵入者と相対する羽目になる。
「誰!?」
「丁度良い。どうやら,今ここにいるのは貴方だけみたいですね……!」
よく見ると,それはナタリアだった。
以前の姿とは違い,目にクマが出来たままの憔悴した様子で立ちはだかる。
ナタリアの視線はオリヴィアを一点に指している。
目的はレーヴェではなく,自分自身だということを彼女は瞬時に理解した。
「一体,どういうつもり!?」
「もう,私には時間がないんです! レーヴェ様を連れ戻さなければ,私の立場が! だったら,今度は貴方を私の呪いで操作する!」
「何ですって!?」
「きっと貴方の言葉なら,レーヴェ様も信じて付いて来てくれる筈!」
魅了の呪いはレーヴェには効かなかった。
破れかぶれになったナタリアは,今度はオリヴィアを魅了させようと強硬手段に出たのだ。
共に暮らす同居人を洗脳し,言葉巧みに彼を誘い込もうとしているようだ。
だがそこには大きな勘違いがある。
ナタリアのそれが触れることを条件に発動するなら,死の呪いもまた同じ。
触れた瞬間に,その命は奪われてしまう。
オリヴィアは彼女を説得するべく声を荒げた。
「馬鹿なことは止めて! 私に触れれば,貴方が死んでしまうわ!」
「何を……」
「知らないなら教えてあげる! 私には触れたものの命を奪う,死の呪いがあるの! 私を呪いに掛けることは出来ないわ!」
流石に,死ぬと言われて触れようとする訳がない。
大人しくこの場は収めるしかない筈だ。
しかしナタリアの反応は彼女の予想に反していた。
冷たい表情のまま一歩前に踏み出してくる。
「だから,何だと言うんです?」
「な……!?」
「別に私は死んでも良い。レーヴェ様を帝国に連れ戻すことが出来るなら」
ナタリアは死ぬことすら意に介さなかった。
自身の掌を持ち上げ,忌々しそうに見つめる。
嘘ではない,本心からの言葉だと直ぐに悟った。
「私が貴方に触れれば,死ぬのでしょうね。嘘だとは思いません。でも,私の呪いも触れた瞬間発動する。私が死ぬ代わり,魅了の呪いは貴方の身を染め上げる」
「そこまで……そこまですると言うの!?」
「良いんですよ。この呪いを持つ私は,所詮忌み子。死んで喜ぶ人の方が多いくらいです。だからそんな脅しは私には効きません。どうか,お覚悟を」
死すらも,ナタリアの前には意味をなさない。
自然とオリヴィアの足は後退っていた。
彼女の命を奪ってしまうこともそうだったが,それ以上に自分の思いが変貌してしまう事が恐ろしかった。
今までのレーヴェへの思いも,彼に告げた願いすらも,全て消えてしまう。
それだけは,絶対に駄目だ。
焦ったオリヴィアは,その場から背を向けて駆け出した。
別荘を抜け出し,薄暗い森の中へと駆け込む。
「待ちなさいッ!!」
追い付かれる訳にはいかない。
兎に角逃げなければ。
ナタリアの声に惑いながらも,オリヴィアは当てもなく走り続けた。