5
「レーヴェ……本当に大丈夫なの?」
「うん……こうやって横になっていれば,直に良くなる……」
その日の夜,レーヴェは自室のベッドに横になりながらそう言った。
ナタリアの一件から,彼の容体は優れない。
常に体調の気だるさがあるようだった。
オリヴィアも出来る限りの手は尽くしたいが,呪いを受けた際の治療法など知らない。
そもそも存在するのかも分からない。
不安しか残らなかったが,彼は割と楽観的だった。
「昔にも,別の呪いを受けたことがあってね。その時も,一日眠っていれば元に戻っていたんだ。言ってしまえば,風邪みたいなものさ」
「風邪……確かに熱はあるみたいだけど,それで治るのかしら?」
彼が言った通り,確かに熱っぽさを感じる。
息遣いも少々荒く,頬も紅潮している。
気休めかもしれないが,オリヴィアは風邪を引いた時と同じように看病をすることにした。
「じゃあ取りあえず,お水とか氷枕とかを用意するわね」
「……待って」
「えっ?」
「今は……傍に居てほしい」
だがレーヴェは,去ろうとするオリヴィアの袖を摘まんで引き留める。
身体だけでなく,精神面でも多少弱っているのだろうか。
その様子は見た目相応の少年に見えて,彼女は少しだけドキリとした。
「……うん」
レーヴェには常に与えられてばかりだった。
だからこそ,自分も何かを与えたい。
そんな思いもあって,オリヴィアは微笑しながら頷く。
答えを聞いた彼は,ホッとしたように息を吐いて目を瞑った。
それから暫くはそのままだった。
話しかけるといった無粋な真似もしない。
気まずくもない沈黙の中,オリヴィアはただ彼の傍に居続けた。
時間が経って,彼女は彼の様子を窺う。
「レーヴェ,寝ちゃったの?」
小さく囁いたが,反応はない。
レーヴェはそのまま寝息を立てていた。
不老不死の彼に睡眠は必要ないのだが,今回ばかりはそういう訳にはいかない。
魅了の呪いがどれだけ辛いものなのかは,オリヴィアには分からない。
彼もどういった容体なのかは殆ど語らない。
しかし苦しんでいる様子を見ると,何も出来ない自分がもどかしく感じられた。
「何か,私に出来ることがあれば」
意味もなくそう呟くと,急に背後から人の気配を感じる。
この別荘内に,他の人はいない筈だ。
嫌な予感がして,驚いて振り返る。
すると扉の前に,以前やって来たもう一人の珍客,ジェイドがいた。
「これは一体,どうなっている?」
「貴方は……!」
「呼び鈴を鳴らしても反応がなかったからな。夜逃げでもされたのかと思ったが,思い込みが過ぎたみたいだ」
ナタリアが出て行ってから,戸締りを完全に忘れていたことを思い出す。
そしてジェイドが今晩,答えを聞きに来ることも思い出した。
しまったと思いながらも,今は彼の期待できるものは用意できない。
レーヴェがこの状態では話し合いも出来ないだろう。
ジェイドはオリヴィアのことを知っているので,彼女から距離を離し,部屋の中に入ろうとはしない。
それでも一応,彼女は今までの事情を話すことにした。
顛末を聞いた彼は,徐々に眉を顰めて最後には溜息をついた。
「あの女郎,強硬手段に出たのか。これなら,周囲を警戒しておくべきだったな。しかし彼が誘惑を断ち切ったのは,運が良かった。今まであの呪いを受けて,正気だった奴はいないからな」
「彼女のこと,知っているの?」
「敵対勢力のことはある程度調査している。魅了の呪いを持つ,ナタリア・トライドール。呪いに掛けられた者は,彼女に対して盲目的な愛情を抱くようになる」
「盲目的?」
「何でも言う事を聞くようになる,という話らしいな。一説によると,つま先に口づけをすることすら,躊躇いなく行うとか」
「……」
「まぁ見た所,彼はその域に達していない。それどころか,自我が呪いを上回った。300年以上生きたことが理由なのか,生の呪いがある程度相殺させたことが理由なのか。何にせよ,心配する必要はないだろうな」
遠目ながらも観察し,ジェイドはそう判断する。
呪いに関してはそれなりに詳しいのかもしれない。
オリヴィアは眠るレーヴェから背を向けて,彼と対面する。
物理的な距離を感じながらも,彼がここに来た理由を問う。
「それで……貴方がここに来たのはレーヴェを殺すため,よね?」
「そういうことになる。しかし,彼がこの状態では碌に話も出来ない。それに,俺一人では彼を殺せない」
「前に言っていたわよね? 私の呪いに,レーヴェを殺す力があるって」
「あぁ。だから今日は,君を説得しようと思う」
ジェイドはそんなことを言った。
彼は感情的ではなく,計算高い男だ。
何らかの脅しや交渉する情報を持って,此処にいる。
オリヴィアに心当たりがあるモノとすれば,それは自分自身の素性だった。
「貴方は,私がオリヴィア・ザーヴァルドだと知っている。それを盾にする気?」
「まさか。俺はそこまで非道な男じゃない。誰かを陥れる,という真似だけは誓ってする気はない」
「だったら,どうやって私を説得するというの? 言っておくけど,私はレーヴェを殺す気なんてないわ」
彼を殺すなど,出来る筈がない。
仮に死の呪いなくして実現しないのだとすれば,オリヴィアは手を貸す気はない。
そう言うしかなかった。
するとジェイドは彼女を見据えて言う。
「本当にそう思っているのか?」
「何を……」
「君は年単位で彼と共に暮らしている。なら,彼の望みが何なのか気付いている筈だ」
ジェイドは既に,オリヴィア達の心理を見抜いていた。
「自分自身の死。不老不死として永遠に生きることを定められた彼にとって,死は唯一の救いなんだ」
「……」
「これまでも,彼の不死性を利用しようと企む者達がいたらしい。彼の肉体を食せば同じ不老不死が得られる……といった残虐で,荒唐無稽なものも含めてな。皆,不老不死という絶対的な力を羨み,妬み,蔑んできた。現に,ナタリアの件もそうだ。彼自身,こう思っている筈だ。自分さえいなければ,周りを巻き込まずに済んだと」
「……それも,予言の石で知ったの?」
「それだけじゃない。皆の成果だ」
掛けていた眼鏡を指で整えながら,彼は断言する。
そこには,ルーファス家としての誇りがあるように見えた。
元侯爵家の娘であるオリヴィアにも,多少なりの理解はできた。
とは言え,頷く訳にはいかない。
レーヴェがいなくなることが何を意味するか,考えるまでもない。
「分かっている。彼が斃れれば,死の呪いを持つ君は一人残されてしまう。それを危惧しているんだろう?」
「べ,別に私は……」
「なら,俺達の所に来ればいい」
「何ですって……?」
だがその恐れすらも,ジェイドは見抜いていた。
「今回の件,元々君の助力なしには果たせない。彼の生を終わらせることが出来たなら,君はトライドール家の次期当主を討ち果たした英雄として,ルーファス家で称えられることになる」
「な……!」
「無論,ザーヴァルド家の者であることは隠す。それに俺達は呪いに関する研究も行っている。例え死の呪いを持っていようとも,君を丁重にもてなそう」
彼はレーヴェの死後,オリヴィアがその身に相応しい地位に就くことを提案した。
敵対勢力の最重要人物を斃した少女。
確かにルーファス家としては,これ以上ない成果だ。
英雄として称えられても不思議ではない。
オリヴィアは右手を握りしめ,落ち着かせるように自身の胸に添えた。
「レーヴェを殺して,私だけがそんな思いになれって言うの?」
「言った筈だ。死は救いだと。今を生きること,それ自体が彼にとって苦痛に値するものなんだ。そんな彼を救えるのは,君以外にいない」
レーヴェが今までどんな思いをして生きてきたのか,オリヴィアは知らない。
知っているのは,親しい人は全員先立ったという話だけだ。
両親も,兄弟も,親友と呼べるものも皆,彼の前からいなくなった。
死の呪いによって全員から見放された,当初のオリヴィアがまさにそれだった。
最早死を望む以外に,残された道はない。
だがレーヴェは,その死すらも願えない。
オリヴィアは視線をレーヴェの方へと移す。
彼はベッドの上で,ただ眠りに落ちていた。
彼女の反論がないことを悟ると,ジェイドは懐から小さな器具を取り出し,それをゆっくりと床に置く。
「これを渡しておく」
「……それは?」
「簡易的に血を採取できる器具だ。これで小瓶に溜まる程度,君の血を入れておいてほしい」
「何のために?」
「彼を殺すため。それには君の血が必要なんだ」
生の呪いを打ち消すための,重要なものらしい。
オリヴィアの答えを聞くよりも先に,ジェイドは背を向ける。
「彼が目覚めたら言っておいてほしい。明日の昼頃,ラサンの街にある喫茶店で待っている。そこで改めて,君に話した内容を伝える」
ラサンとは,いつもレーヴェが商売に赴いている街のこと。
ジェイドはそれ以上何も言わず,別荘を去る。
彼女らに手を下すことなく,再び暗い森の中に消えていった。
嵐のような男だったが,オリヴィアの心中は穏やかではない。
目の前に置かれた器具を辛そうな表情で拾い上げる。
「レーヴェ……私は……」
オリヴィアは採取具を両手で握りしめた。