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スチュアートさんちのナタリーちゃん

作者: 雨音ルネ

「ちは。これ」

 紐でまとめた手紙の束を彼女に差し出す。

「ブラントさん、こんにちは。いつもありがとうございます」

 すると彼女はにっこり笑ってそれを受け取り、今日これから出す手紙の束を俺に手渡した。「こちらが今日の分です。よろしくお願いしますね」

 あぁ、ナタリーちゃん。

 今日もかわいいなぁ。俺の癒しの天使だ。


 俺みたいな目つきの悪いソバカスだらけの郵便配達人に、こんなふうに微笑んでくれる女の子はナタリーちゃんだけだ。今まで誰もいなかった。俺と目があっただけで肩を震わせて怯える子や、生意気そうなクソガキと眉をひそめるババァどもなら、いくらでもいたけどな。

「ブラントさん、これ、どうぞ」

 ナタリーちゃんが俺の手の中に小さな包み紙を押しつけた。

「バター飴っていうんですって。甘くて美味しいんですよ。いつもお世話になっているので、ささやかですがお礼です」

「……どうも」

 俺のバカ野郎! そんなぶっきらぼうな声で礼を言ってどうすんだよ!

 ちくしょう。どうして優しい声で「ありがとう、嬉しいな」くらい言えないんだよ。ナタリーちゃんに嫌われちまったらどうしよう……

「じゃ」

 帽子のつばをぐいっと下げ、俺は逃げるように玄関前の小階段を飛び降りた。

「はい、おつかれさまです」

 ちらっと振り返ると、ナタリーちゃんが笑顔で俺を見送ってくれていた。

 やっぱり彼女は俺の癒しの天使だ。次の家に向かう足が、羽根が生えたみたいに軽くなった。


 ナタリーちゃんはスチュアートさんちの雑用女中だ。

 スチュアートさんっていうのは、貴族の家庭教師をやってたおっかなそうなばあさんのこと。銀色になった髪をひっつめに結いあげ、いつも修道女みたいな紺色の詰め襟のドレスを着ている。何年か前に引退して、今はここらへんの女の子たちに読み書きを教えたりしてるらしい。

 つい最近まで、スチュアートさんは独り暮らしだった。ナタリーちゃんがこの家にやって来た理由は知らないけど、きっとアレだな、寄る年波には勝てない、ってヤツだ。年寄りの独り暮らしは何かとしんどいから、若い女中をひとり雇い入れたんだろう。

 俺はスチュアートさんが苦手だ。だって、目が合っただけで説教たれてきそうな雰囲気なんだぜ。貴族の家庭教師をやってたくらいだから学もあるし、そういう女は近づかないに限るってもんさ。

 でも、スチュアートさんちは郵便物が多い。あの家に届けるものも、あの家から出されるものも。差出人の仰々しい名前や気取った封蝋から察するに、昔面倒を見てやった貴族たちと今でもやりとりをしているようだ。そんなわけで、俺は嫌でもしょっちゅうスチュアートさんと顔を合せなきゃならなかった。

 でもある日突然、玄関のドアから銀髪のおっかないばあさんではなく、栗色の髪とオリーブ色の目をした若くてかわいい女の子が現れた。俺はびっくり仰天したもんだぜ。

「あんた誰? スチュアートさんは?」

「私はナタリー・トンプソンと申します。昨日からこちらで女中として働いております。これからは奥様に代わって、私がお手紙の受け取りをさせていただきますね」

 俺に怯んだ様子もなく、彼女は礼儀正しい言葉で挨拶をした。

「お差し支えなければ、お名前をおうかがいしてもよろしいでしょうか?」

「……テッド・ブラント」

「ブラントさんですね。これからどうぞよろしくお願いします」

 聞き慣れない丁寧な言葉づかいと見慣れない愛くるしい笑顔にドギマギしながら、俺は手紙の束を彼女に渡した。

 これが俺とナタリーちゃんの記念すべき出会いだ。


「なぁ、スチュアートさんちの女中、見たか?」

 ほどなくして、ナタリーちゃんのことが俺の友人たちの口に上がるようになった。

 仕事を終え、友人数人と酒場でエール――大麦麦芽を使用し、酵母を常温で短期間で発酵させたビールの一種――をすすっていたときのことだ。

「見た、見た。かわいいよな」

「粉屋のトミーがさっそくのぼせあがってるらしいぜ」

「でも毛皮商のワイアットさんちのお嬢さんのほうがずっと美人だろ」

 俺は友人たちがナタリーちゃんに興味を持つのがなんだか嫌で、街一番の美人を引き合いに出してヤツらの関心を逸らそうとした。

「まぁなぁ。でもあのお嬢さん、べっぴんだけど気性が荒いって評判悪いぞ」

「そうそう。どうせ嫁にもらうなら、性格キツい美人より優しい普通の女だよ」

「スチュアートさんちのあの子はいいよなぁ。尽くしてくれそうだし」

「あのヒナギクみたいな笑顔で “おかえりなさい” なんて言われたら…… ひゃあ! たまんねぇなぁ!」

 結局、俺の試みは失敗に終わった。エールをちびちびすすりながら、俺はすっかり不貞腐れた気分になった。


「おい、テッド。お前、スチュアートさんちに行くだろう? ナタリーちゃんに手紙を届けてくれよ」

 また別のある日、彼女にすっかりのぼせあがっている友人のひとり、粉屋のトミーからこう頼まれた。

「いいぜ。切手代は一番安いので最小銅貨二枚だ」

 気安く “ナタリーちゃん” なんて呼ぶんじゃねえよ、と内心毒づいた。

「なんだよ、一通くらいついでに持ってってくれてもいいだろう」

「ばか野郎。それこそてめえで持ってけ。俺んちはそれで飯食ってんだぞ。てめえの伝書鳩じゃねえんだよ」

 トミーはすっかりしょげかえってしまった。まったく、意気地のない奴だ。

 あぁ、でも俺も同じか。

 俺もナタリーちゃんに洒落た手紙のひとつでも出せればいいんだけどな。これでも郵便屋の息子だから、それなり以上に読み書きはできるんだぜ。でも役所からの書簡ばっかで詩とかは読んだことないから、きっとつまらないことしか書けないよな。それで幻滅されたらたまったもんじゃない。

 俺は他の奴らよりナタリーちゃんと顔を合わす機会が多いし、街ですれ違えば「ブラントさん、こんにちは」って名指しで挨拶してもらえる。それがちょっとした羨望の的になってるんだぜ。

 そんなちっぽけな優越感で自分を慰めていたある日、俺は初めてナタリーちゃん宛ての手紙をスチュアートさんちに届けることになった。


 ジェームズ・オドネル

 何度となく、差出人の名前を読み返してしまう。どう見ても男だ。しかも、ナタリーちゃんとは姓が違う。だから親とか兄弟じゃない。

 いや、でも従兄弟ってこともあるよな。ほら、親の女きょうだいの息子なら姓が違って当然だし! そうだ、母方の伯父さんなのかも。きっと、かわいい姪っ子が心配で手紙をよこしたに違いない。

 これは彼女の親類からの手紙だ。俺は必死こいて自分にそう言い聞かせ、やけに重い足取りでスチュアートさんちに向かった。こういう日に限って、スチュアートさん宛ての手紙がないのが忌々しい。気を紛らわすこともできやしない。

 呼び鈴を鳴らすと、すぐに若い女の子がドアから姿を現した。

 頭をくるむまるい頭巾。生成り色の地味な服。小さな肩。オリーブ色の瞳。優しげな笑顔。ナタリーちゃん。

「ちは。これ」

 いつものように手紙を差しだす。

「こんにちは、ブラントさん。あら、今日はこの一通だけですか? わざわざありがとうございます」

 ナタリーちゃんはひどく恐縮した様子だ。

「あんた宛てだよ」

 彼女がその差出人の名前にどんな反応をするのか知りたくて、よせばいいのに、俺はそのことを伝えていた。「その手紙、あんた宛てだよ」

 ナタリーちゃんは弾かれたように差出人の名前を確認した。

 すると、オリーブ色の瞳が見たこともないほどきらめき、頬がぽっと染まった。喜びにあふれた笑顔だ。

 親兄弟や親戚からの手紙に、そんな顔をするわけがない。

「じゃ」

 惨めな気分を隠すように、俺は帽子のつばを下げた。

「はい、ブラントさん、ありがとうございます!」

 これまで聞いたこともないほど弾んだ声だ。俺はますます気が沈んだ。

 きっと、いや間違いなく、あれは恋人からの手紙だったんだ。好きな女の子にその恋人からの手紙を手渡す俺。なんて無様なんだ。

 翌日、いつものようにまたスチュアートさんちに向かった。どうせならまたあのひと宛ての手紙なんてなきゃいいのに、今度はどっさり七通もありやがる。行かないわけにはいかない。

 いつものやりとりで手紙の受け渡しをした。翌日も、そのまた次の日も。

 それから一週間、俺が受け取った手紙はすべて差出人がスチュアートさんだった。ナタリーちゃんからの手紙はなかった。


 ナタリーちゃんは、恋人のジェームズ・オドネルに返事を出さないのだろうか。

 雑用女中の給金は決して高くないが、手紙一通の切手代をまかなえないほどじゃないはずだ。

「返事、出さないのか?」

 やめておけばいいのに、またしても俺はナタリーちゃんにそう問いかけていた。「こないだの手紙。あんた宛ての」

 一瞬きょとんと俺を見上げてから、彼女はぎゅっと唇を噛んで睫毛を伏せた。

「いいんです。出さなくていいんです」

 散りかけのヒナギクみたいに消え入りそうな声だった。

「恋人なんだろ?」

「違います!」

 ナタリーちゃんが初めて大きな声を上げた。すぐさまそんな自分に恥じ入るように彼女はうつむいた。「……恋人じゃ、ありません」

 恋人ではない。でも、ナタリーちゃんはジェームズ・オドネルが好きなんだ。それくらい俺にもわかる。

 俺がジェームズ・オドネルなら、ナタリーちゃんにこんな顔をさせたりしない。洒落たことは書けないけど、返事をためらわせるようなことを書いたりはしない。遠く離れている分、誠実な言葉でいたわって安心させてやるのに。

「あんた、一日中家にいなきゃいけないのか?」

 ナタリーちゃんは戸惑いがちに俺を見上げた。

「公園の池の睡蓮が満開なんだ。今日、四回目の鐘が鳴る頃に観に行かないか」

 しばし考え込んだ後、ナタリーちゃんは小さな声で「奥様におうかがいを立ててきます。このまま、お待ちいただけますか」と言い、家の中にいったん戻っていった。

 しばらくすると、ナタリーちゃんがおずおずとドアから顔を出した。

「よろしいそうです」

「じゃあ、鐘が鳴る少し前に迎えに来る」

「はい、お待ちしています」

 ナタリーちゃんの顔には戸惑いしか見当たらなかった。

 時間きっかりに迎えに来たときも、どうして俺が現れたのかわからないと言わんばかりに困惑して見えた。誘いが唐突すぎたか。俺はこの期に及んでうろたえた。

 彼女は濃い胡桃色の短めのケープをはおり、フードを目深にかぶっている。どこにでもいそうな、ちょっと野暮ったい町娘だ。でも、これまで目にしてきた女の子の誰よりも愛らしく見える。

「行くぞ」

 なんだか無性に照れくさくて、いつも以上に無愛想な声を出してしまった。

「あ、はい」

 俺が玄関前の階段を下りると、ナタリーちゃんは慌ててついてきた。本当は彼女の手を引いてやりたかったのだけれど、俺はそんな大それたことができるほど器の大きい男じゃない。

 公園までの道のりを、俺たちは途切れがちな会話とともに進んだ。女の子と二人きりでいるときの沈黙ほど耐えがたいものはないはずなのに、相手が彼女だと不思議な居心地のよさを感じた。彼女も同じならいいんだけどな。


「きれいですね」

 池の水面に浮かぶ白い睡蓮の花々を眺めながら、ナタリーちゃんはいくらか明るい声でつぶやいた。ケープのフードからわずかにのぞいた表情には、もう戸惑いは見当たらなかった。俺の気のせいかもしれないけど、彼女の横顔は迷いや苦しみはひとかけらもなく、心からくつろいでいるようだった。

「返事を書こうと思います」

 唐突にナタリーちゃんが言った。

「そうか」

 どうやら俺は彼女を元気づけることに成功したらしい。自分がここまでお人好しだったとは知らなかった。

「彼、結婚するんですって」

「……いいのか?」

 怒りで声が震えた。ジェームズ・オドネルは、ナタリーちゃんを弄んだ挙句、平然と結婚の知らせをよこすような男なのだろうか。

「はい。家族の幸せをお祝いしないと」

 ナタリーちゃんの笑顔はこの日の青空のように穏やかだった。

「家族?」

「私、孤児院で育ったんです」

 ナタリーちゃんは睡蓮を見つめたまま話し出した。「小さな頃に両親が馬車の事故で死んでしまって。しばらくは親戚の家にいたのですが、八歳になった頃から、ジェイミー ――あの手紙の差出人です―― 彼やほかの子たちとそこで一緒に暮らしていました。だから、ジェイミーは私の家族なんです」

 予想だにしなかったナタリーちゃんの身の上が哀れで、俺は彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。拳を握り、ぐっとこらえる。

 詳しいことはよくわからないけど、孤児院の暮らしはかなり悲惨だって聞く。男は盗っ人、女は娼婦になるほかない、なんて言われてるくらいだ。とてもじゃないが、まともな仕事にありつけるとは思えない。

 なのに、ナタリーちゃんは読み書きもできるし、礼儀作法も完璧だし、スチュアートさんちの女中をやっている。どうなっているんだ?

「ある貴族のご夫人がうちの孤児院の世話をしてくださっていて、読み書きや礼儀作法を教わることができました。その方のツテで、今の奥様の家で女中の仕事をさせてもらっているんです。同じように、ジェイミーも大きな商家で従者の仕事に就いています」

 俺の頭の中を読んだようにナタリーちゃんが説明した。

「ジェイミーは私にとって兄であり、初恋の人でした。わかっていたんです。彼にとって私は家族、妹以外の何でもないって。それでも吹っ切れなくて。実はあの手紙も、届いてなかったことにしてジェイミーとそのまま縁を切ってしまおうって、むりやり忘れたつもりでいました」

 俺に向き直ると、ナタリーちゃんは申し訳なさそうに睫毛を伏せた。「あんな手紙を持ってくるなんて、って、内心でブラントさんに八つ当たりをしてしまいました。わざわざ届けてくださったのに、ごめんなさい」

「……あんたが俺に謝る必要はねえよ」

 ナタリーちゃんはほっとしたように表情をゆるめた。またしても俺は彼女を抱き締めたくてたまらなくなった。

「この池の睡蓮の花を見て思ったんです。睡蓮って、深い池の底から茎を伸ばして花を咲かせているんですよね。池の底は暗くて寒いだろうに、水面にこんなにきれいな花を咲かせるなんてすごいです。私もいつまでも沈んで落ち込んでいたら、ダメですよね」

 爽やかな初夏の風が吹いて、ナタリーちゃんのケープのフードをふわりとふくらませた。見紛うことなく、ナタリーちゃんの顔には晴れやかな笑顔が輝いていた。

「今日、ここに来てよかったです。ありがとうございます、ブラントさん」

 地中深くにうずまっていた種から芽吹いて茎をのばし、水面にこんもり白い花を咲かせる睡蓮のように、見惚れずにはいられない笑顔。


 身体中がほかほかほてってきた。胸が高鳴って苦しい。口元がむずむずする。俺は今きっとだらしない顔をしているに違いない。

 ナタリーちゃんは本物の天使かもしれない。

 こんなに小さいのに自分の力で苦しみや悲しみを乗り越え、俺まで元気づけてしまうのだから。


「また観に来よう」

「もう満開ですよ?」

 からかうような、どこか親密な眼差しでナタリーちゃんが俺を見上げた。

 気付いたら俺は、彼女の右手の指先をそっとつかんでいた。ナタリーちゃんのまるい顔は完熟のリンゴのように赤らみ、俺とつながった指先を食い入るように見た。

「ブラントさん」

 ナタリーちゃんが俺の名前を呼んだ。いつまでも俺が手を離さないから痺れを切らしたのかな。でも ――気のせいじゃないといいんだけど―― 彼女の眼差しも声も、俺を嫌がってはいなかった。

 手を離さなきゃ。彼女は結婚前の女の子だし、俺たちは婚約者でもましてや恋人でもない。こんな場所でこんなことをしているのを知り合いに見られでもしたら、彼女も俺もめちゃくちゃ怒られるだろう。俺のせいで、ナタリーちゃんはふしだら女と呼ばれるかもしれない。そんなことあっちゃいけない。

 でも、どうしてもこの手を離せそうにないんだ。

「来年、また観に来よう」

 頼む。はい、って言ってくれ。俺は祈るように彼女を見つめた。

 胡桃色のケープのフードからオリーブ色の瞳がのぞいた。俺の目――オオカミみたいで怖いって、女の子からはろくに目も合わせてもらえない琥珀色の目――を真っ直ぐ見返してきた。恥ずかしそうに目元を赤らめ、せわしなく瞬きしている。

 矢も盾もたまらず、俺は両手で彼女の指先を包んだ。

 ナタリーちゃんが、小さくうなずいた。

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