「もっと作品を批判しよう」と言う人が守るべき、最低限の作法
作品を批判することを正義であることのように語る意見を見ると、僕はいつも思うことがある。
それは、「批判の作法」とでも呼ぶべき問題だ。
「批判の作法」なんていう言葉は、僕が今作った造語だが、僕は作品の批判をするにあたっては、守るべき作法があると思っている。
それは、「その作品が誰に対して、どういう種類の「面白い」(あるいは「快い」)を提供しようとしているのかを理解する」ということだ。
その上で、「その作品の良さ、面白さを伸ばす」ことを目的とした批判をするべきである。
殊更に「もっと批判しよう」なんて呼びかける人には、これができていない人が多いように思う。
彼らは往々にして「作品を根底から否定し、ぶっ潰すための批判」をしてしまいがちである。
そんなものは、チラシの裏にでも書いておくべき汚物で、「批判」と呼ぶに値しないものだと僕は思っている。
ことに、ランキング上位に来ているような作品には、(それが不正による数字でないと前提するならば、)それがどんなに拙い作品に見えたとしても、多くの読者に対して訴求する「何らかの良さ」があると認識するべきである。
そこを見抜けない、その作品のどこが良いのかを見抜けない読者には、その作品に対する的確な批判をするための素養がない。
批判をするなら、まずその作品の「良さ」がどこにあるのかを理解すること。
それを踏まえた上で、作品を改善するための建設的な批判をすること。
これが、作品の批判をする者が守るべき、最低限の作法だと思うのである。