最終章 郷花堅乱 PART8
8.
「……あなただったんですね、本を動かしたのは」
扉の裏には黒いスーツを身に纏った男が立っていた。手には月の光を浴びて重厚な輝きを放つショットガンが握られている。
「気づいていたか。やはり君は勘がいい」
目の前にいたのは熱田神宮で会った葵の父・蒼介だった。偶然ここにいるという期待はできそうにもない。今にも散弾銃から火が吹き零れそうだからだ。
それでも薫は燻っていた疑問を蒼介にぶつけた。
「……ちょうどよかった」
彼は冷静にいった。
「あなたに訊きたいことがあったんです。今、訊いていいですか?」
「……答えられることなら」
「あなたが『二代目』の酒場のマスターだったんでしょう?」
彼は手を後ろに回していった。
「なぜフォンの父親が大佐だとわかったんですか? これはマスターが知るはずがない情報です」
「何のことをいっているか、わからんな」
「フォンの父親は僕にだけ大佐に昇格したといっていたんです」
薫は彼の言葉を遮り続けた。
「これはフォン自体も知らないことなんです。日本に在住していたマスターがそのことを知るはずがない」
「………………」
不穏な沈黙が訪れる。
しかし今は話し続けなければならない。
「夏を越して秋にマスターは宮崎に僕だけを行かせようとしました。それはやっぱり不自然なんです」
薫は淡々と説明をし続けた。
「マスターからすれば葵さんは日本のスパイで敵。その葵さんを行かせた方が断然リスクは低いと思います。なぜ彼女に行かせなかったのか? それは彼女に危害が加わることを恐れたからだと思います」
「………………」
蒼介の眼を見ると、狼狽が顔に出始めていた。
「マスターはなぜ道具として扱う人物を守ろうとしたのか? それはやはり親子の繋がりがあったとしか考えられません」
「ふん、根拠のない推測は止めて貰おうか」
「根拠ならあります」
薫は並べられてある洋酒を指した。
「マスターはスコッチ・ウイスキーが大変好きでした。ですが急に飲まなくなったんです。変わってバーボン・ウイスキーばかり飲むようになりました」
「………………」
蒼介の顔がゆっくりと歪んでいく。彼の本性が徐々に現れていく。
「葵さんから蒼介さんは洋酒は飲まないと聞いていました。その時は何とも思わなかったんですが、それから疑惑が募っていきました」
「……なるほど。やはり君を生かしておいたことは失敗だったようだ」
彼は顔をしかめた後、溜息をついた。
「玄司が中国に向かう前に処理しておくべきだった」
……やはりか。
薫はソルティレイでの記憶を呼び起こした。
マスターは美里と意気投合していた。それは本当の親子そのものの構図だったのだ。義理とはいえ彼らの空気に違和感は覚えなかった。それもマスターが蒼介であったことを裏付ける要因だ。
「マスターを殺し、あなたはマスターに成り代わった。三月三日から七月七日の間にです。あなたの目標は僕とフォンを殺し合わせることを目的としていた」
二人の情報を混乱させ、二人とも抹殺することが彼の目論見だったのだろう。フォンは放っておいても自分を殺すことになっているのでいい。
問題は彼の方だ。
「一番警戒していたのはフォンでしょうね。彼は様々な暗号を括りぬけ、自力でここに辿り着こうとしていた。彼と僕がマスターを通さずに情報を交換していたら、今頃辿り着いていたかもしれません」
「その通りだ」
蒼介は剣呑な目つきを変えず低い声で頷いている。
「君たちを繋ぐパイプ役を私がしていたら、まずこの場には辿り着かないと思っていたんだがな」
……まさか、君が生きていたとはな。
蒼介はぼそりと呟いた。
「君にはスパイの才能がある。私を欺いたんだ。誇っていい」
「僕の母を殺したのもあなたですね?」
薫はなるべく感情を出さずにいった。
「あの時、スパイは二人いたと聞いています。一人は死亡。それは葵さんのお母さんです。そしてもう一人は逃亡。あれはあなたのことじゃないんですか」
「そうだといったら?」
金属のグリップが外れる音がした。安全装置を外したのだろう。薫は五感を集中することにした。
「復讐相手の一人を見つけたということになります。ここであなたを生かす方法はない」
薫が駆けた瞬間に、男の銃筒から激しい轟音と共に煙が上がった。その瞬間、薫の足に散弾が入り骨が軋んだ。力を抜けばこのまま崩れるだろう。
しかしここで倒れるわけにはいかない。
刹那にして蒼介の懐に入り込み、彼の首にナイフを掛ける。
「お前が、お前が母さんを殺したのかっ」
彼は激しい声で叫んだ。
「だけどあんたがやったことは正しい。母さんは、柊瞬は中国のスパイだったんだろう?」
「ああ。あいつを生かしておいたら娘に危害が加わると思ってやったんだ。後悔はない」
彼は目を細めながら頷いた。
「私は娘を守るためには何でもやるつもりだ。ここに来た時点で私も死を覚悟している。ここで君を殺して娘に恨まれようと関係ない。君と一緒では向日葵は間違いなく不幸になるからな」
「どういうことだ?」
薫はナイフを蒼介の首に構えたまま大きく声を荒らげた。
「あんたは本当に葵の父親なのか?」
「誤解をしているのかもしれないが、俺は本当に向日葵の父親だ」
蒼介を手を上げながら答えた。
「もちろん熱田神宮の宮司でもある」
「じゃあ、双子の父親は?」
「それこそ玄司だ」
彼は抑揚のない声でいった。
「玄司は掟として日向と一度結婚した。しかしそれは日向が望んだことじゃないとわかり別れたんだ」
蒼介はナイフを突きつけられたまま続ける。
「俺達三人は同じアマテラスを祀ってある神社で生まれたため、交流が深かった。小さい頃はよく集まって囲碁をやっていたよ。俺はその頃から日向が好きだった」
蒼介は思い返すかのように遠くに焦点を向ける。
「玄司と日向が許婚として将来を約束していても、俺の気持ちは変わらなかった。そして日向も俺のことを思ってくれていた。その気持ちをあいつが結婚してから知った」
……目の前にいるのが葵の父親。
薫は咄嗟に身を引いてしまった。
蒼介はくるりと踵を返し、リーの瞳を見つめてくる。冷徹な青い光が自分を刺す。
「その時には玄司と日向の間に二人の子供が生まれていた。それが琥珀と碧だ。俺はどうしても我慢できず日向の元にいった。その頃から俺達は逢引を繰り返し、ついに子を宿してしまった。それが向日葵だ」
葵とは血が繋がっていない。彼はそれを知り騒然と立ち尽くした。身を焦がすような灼熱と身を凍らせるような極寒が一度に襲ってくる。
蒼介は唇を舐めて続ける。
「それを知った玄司はもちろん怒り狂った。そして俺達を脅し二つの条件を出した」
彼は二本の指を立てた。
「一つ目は自分が離婚する代わりにそれぞれの神社に子を預けることだ。二つ目はその神社の宮司しか知らない極秘情報を提供することだ」
彼は指を上げたまま説明を進める。
「最初の条件は真っ当だった。神社の人間、特に宮司候補にある人物が離婚するというのはとても罪が重い。仮に離婚が成立したとしても、新たに子を設け次の跡取りを作らなければならない。そのため、琥珀と碧を育てることはできなくなるんだ」
憤りを感じるも、納得がいく。彼らはそれなりの理由があって引き離されたのだ。
「日向が天岩戸神社の跡取りとして琥珀を引き取り、俺が熱田神宮の跡取りとして碧を引き取ることを承諾した。だが二つ目の条件はまずかった」
「まさか、本当に情報を提供したのか?」
「ああ。そうするしか道はないと思ったからな」
蒼介は薫に視線を合わせ鋭く睨んでいる。
「しかし俺は玄司を信用していた。仮に知ったとしても、俺達を脅すだけでそれ以上のことはないと思っていた」
「だが、父さんはそこから辿り着いちゃいけない所までいってしまった」
「……そうだ」
蒼介はうな垂れたまま大きく頷く。
「俺達が極秘情報を守ってきたため、今の神道が存続していたんだ。玄司は掟を破って知りすぎた。そして日本の諜報機関の目に止まったというわけだ。全ては俺の責任だ」
「なるほど、それで俺はこはくと呼ばれていたのか……」
薫の中でさらに疑問点が解消していく。
自分は琥珀の代役だったのだ。碧はその事実を知らないため、薫を本物の琥珀と勘違いし、血の繋がった姉弟だと勘違いした。
しかし葵はその事実を知っていた。自分の真名が薫だということをだ。だからこそ、小さい頃から『かおる』と呼んでいたのだろう。
今回の作戦では、葵が碧に扮することだった。薫の記憶がないことを逆手にとって、うまく琥珀と勘違いさせるために罠を張っていたのだ。
「向日葵は椿大神社の子として育った。椿大神社の夫婦は結婚しても、子ができず俺達の関係を知っていたからだ。そこで俺達はその夫婦に預けることにした」
向日葵。母親の『白』を持ち、父親の『青』が入っている名前。葵は間違いなく、蒼介と日向の娘だ。
薫には日向の記憶がなかった。当然だ、本当の母親は瞬だからだ。子ができなかったのは蒼介ではなく、葵が育った椿大神社の夫婦だったのだ。
「あんたは本当に彼女の父親なのか……」
薫は蒼介に怒りをぶつけた。
「なんで彼女をスパイになる場所に預けたんだっ。スパイになって幸せになんかなれるわけないだろっ」
葵にはもっと相応しい場所があったはずだ。明るい太陽だけを浴びる平和な世界が。向日葵のように凛と背筋を伸ばせる世界が――。
「そういう運命なんだから、仕方がない」
蒼介は表情を変えずに呟いた。
「君は知っているだろう? 五つの神社に生まれたものはすでに生きる道が決まっている。内宮の神を守ることが義務付けられているんだ。君も例外じゃなかった」
蒼介は薫がみせた隙を見逃さなかった。ナイフを奪い、そのまま自分の腹に刺してきた。
「君の境遇には同情するよ。しかしその後の選択は君がとったことだ。だからこちらはこういった選択肢をとるしかない」
鋭い痛みが体中を駆け巡る。しかし痛みよりも感覚を失っていくことに恐怖を覚えていく。
薫は壁に背をつけて寄り掛かった。足はすでに力を失っており、杭を打ち込まれたように動かなくなっている。体は壁を沿ってずるずると崩れていった。歯を食いしばりながら意識の線を切らずにいることで精一杯だ。
「……いや、これでいい」
彼は血に塗れながら微笑んだ。
「俺はたくさんの人を殺してきた。もちろん殺される覚悟だってあった……これは自業自得だ」
「そういって貰えると助かる」
蒼介はナイフを抜かずにそのままにした。少しでも薫の命を延ばしてくれているようだ。
それに、と彼は思った。蒼介の腕なら難なく心臓にさせただろう。
……お前にはまだ仕事が一つ残っているぞ。
蒼介の心の声が聞こえる。
薫は胸からライターを取り出した。血でべっとりと覆われたライターに火が灯る。
「……もう一つ訊いていいか?」
「今度は何でも答えよう」
「ここにある本だけが伊勢の神の秘密を書いてあるんだな?」
「ああ、そうだ」
「そうか……それを聞けてよかった……」
彼はそのままライターを分厚い本棚に投げつけた。火は激しく燃え上がり、煙を上げながら全てを飲み込んでいく。蒼介は慌てもせず、ゆらゆらと燃えている本を見つめている。
「これで葵さんは守るものがなくなった。スパイとしての任務はなくなるはずだ」
「……そうだな。私は何も見なかったことにしよう」
薫は口元を緩ませ、蒼介の方に目を向けた。すでに焦点はぼやけ、はっきりと認識できない。
「……もう一つだけ頼んでも?」
彼は目を閉じていった。すでに覚悟を決めていた。
「あなたもここで死ぬつもりなのかもしれないが、それは少し待って欲しい。これを……葵さんに……」
「……わかった。約束しよう」
胸ポケットから小瓶を取り出し、彼に手渡す。
……これでやっと俺は自由になれる。
心に溜まってた澱がふいに消えていく。彼女には他に生きる道がある。
これでいい。
これで……いいんだ。
力を抜いて空を眺める。天井にあるガラス窓から、北斗七星を含んでいる大熊座が夜の闇を彩っていた。目の前では真紅の炎が闇を飲み込むように地面を這っている。
星座を作っている星を一つ一つ辿りながら瞼に深く焼き付けていく。全ての感覚が光と闇の中を交互に移り変わっていくようだ。
炎が彼に迫った。緋色の影に彼女を重ね、思いを馳せる。
――緋色はさ、思ひ色っていわれるの。
葵が初めてカクテルを作ってくれた時だった。彼女はスパイである薫のことをありのままに、純粋に愛してくれていた。
僕も同じ気持ちですよ、葵さん――。
「こうすると、お互いの心臓が聞こえるでしょ? 触らないとお互いの心臓の音は聞こえない。それは一人で考えたってわからないってことよ」
彼女は付き合うことの本当の意味を教えてくれた。
一人ではできなくても、二人でならできることを――。
――大丈夫。私が薫君を染め変えてあげる。決して一人にはさせないよ。
ありがとう、あなたに再び出会えてよかった――。
彼女の笑顔が見えた先には光があった。彼の体を覆っていた闇はゆっくりと光の中に溶けていった。




