最終章 郷花堅乱 PART3
3.
「私も同じよ」
葵は膝をつきながら薫の方に近づいた。彼の鼓動が静かに聞こえる。この距離に近づくために何年の歳月を掛けてきたのだろう。
「最初から薫君に近づくことが目的だったの。私があのバーに通ったのもそのためよ」
……やっと正直に話せる。
この一年、話したくて堪らなかった柊薫が目の前にいる。何の制約もなく、ただ自由に話せることが嬉しくて、彼に言葉を掛けるだけで喜びが溢れてしまう。
「薫君も知ってると思うけど、マスターはね、私達にとってもマスターで、二重スパイだったの」
薫の顔が歪んだが表情はすぐに戻った。もしかすると予め考えていたのかもしれない。
彼女は肩の力を抜いて深呼吸した。
「マスターは私達・日本のスパイとも接触していたの。きっと自分達だけでは真相に辿り着けないと考えたんでしょうね」
「ということは……」
「うん。もうわかってると思うけど……」
葵は語尾を濁しながらいった。
「……中国サイドの白は私のことよ」
「やはりそうだったんですね……ではフォンの側にいたフェイカーは……」
「茜ちゃんよ」
彼女は軽快にいった。なるべく重たい空気にしたくなかったからだ。
「二人で一役をしてたの。極秘情報に関わる神社の血族は皆、諜報部隊の訓練を受けているのよ。主に秘密を守るための防諜としてね。私のコードネームは『黒』。薫君と同じ色よ」
葵は一年前を振り返った。
『黒』としてBAR『ソルティレイ』にいた頃を――。
リーが店を片付けた後に、中国のスパイの情報交換があった。それがマスターとヘイの会話だ。
彼らは情報交換というよりも、上官と下級兵士といった服従関係にあった。葵はその会話をバーに仕込んだ盗聴器から聴いていた。
そしてそれが終了したのち、日本のスパイとしての密会があったのだ。それは『黒』と二重スパイの『男』という間柄になる。
柊薫を救うために、条約を結んでいたのだ。
「私達が『藤原』氏の血を受け継いでいることは知っているわね?」
「ええ、フォンから聞きました。中国側のスパイは『蘇我』氏だということも」
「それは正しいわ」
葵は目を伏せていった。
「私達は三年前から『蘇我』一族に罠を張ったの。熱田神宮で働いている巫女は養子で、巫女自身はそれを知らないっていう情報を流してね」
マスターはその情報を得てから、葵を尾行するようになった。そして彼は葵を調べる毎に有利な情報を得ていくのだ。
彼女は養子というだけでなく、正式には天岩戸神社の娘であること。双子の弟がおり、その片割れはリーだということを。
それを知れば誰だって彼女を二重スパイへと変えようと思うのが自然の成り行きだ。後は彼女を中国側へ誘導するだけでいい。
「私が店に通うようになってから、マスターは熱心に話し掛けてきたわ。私が中国側に入ることを望むようにね」
――君の本当の両親は別にいて内宮の神の正体を知って殺された。俺は君の血の繋がった弟を知っているし、どこにいるかまで知っている。
弟を助けたければ、俺の条件を飲んでくれ――。
葵は彼の誘導に従い条件を飲むことにした。彼の条件はこちらの推測通りだった。葵に日本側のスパイと中国側のスパイの両立して欲しいということだった。
「つまり、始めから日本のスパイに情報戦で負けていたのですね。」
「そういうことになるわね」
葵は肯定して続けた。
「私達は『蘇我』氏がどこまで真相に辿り着いているかわからなかった。あなたのお父さんがどこまで情報を流したのかがわからなかったからね。だから私はこの条件を飲んで中国側のスパイとして動いていたの。あなたが薫君だと知っていながらね」
「そうだったんですね……」
彼は冷静な表情のまま俯いていた。
「いうまでもないけど、マスターは中国側のスパイだったわ。中国側に本当の意味で不利になるような情報は渡してくれなかったし、薫君がスパイだとはいわなかった」
――ターゲットは間違いなくスパイではない。今回の作戦には精度の高い情報を選んでいるつもりだ。
彼女が青の勾玉を渡した時、マスターはこう述べた。彼女自身、リーがスパイだということを知っていたにも関わらずにだ。
「当初から疑問に思っていたんですが、どうして僕が柊薫だとわかったんですか?」
彼は葵に尋ねてきた。
「葵さんの話では最初から僕の素性を知っていた節があります。顔も変えていたのに、なぜ僕にだけ真実に辿り着ける道を用意してくれたんですか?」
「確証はなかったわ。勘よ」
「勘にしては鋭すぎます」
薫は強い口調でいった。
「黒の勾玉のレプリカを作っているのであれば納得がいきますが、葵さんは作っていない。マスターが本物を最初から持っていたからです」
……薫の言い分は最もだ。
彼の特徴は黒という字を含んだ名前とその勾玉を持っているということ。そのどちらも知らされていない葵には判断する材料がないと考えるのが妥当だろう。
だけどリーが薫だと推測できる根拠は他にもある。
「最初は勘だったけど、後からあなたが薫君であることを確かめていったわ」
彼女は彼の瞳を見ていった。
「熱田神宮で夜の椿を一緒に見たでしょ?」
夜の椿といった後、薫は目を見開いた。
彼はきっと熱田神宮にある青椿を思い起こしているに違いない。あの時に見せた花は発熱を起こしているのではなく、ただ色素を含んでいただけなのだから。
「薫君の眼を見れば一発でわかったわ。あれは疑いを含んだ目だった。椿には蛍光色の塗料を塗りつけただけだったの。そして一つだけ青い造花を糸で括りつけておいたんだけど、あなたはそれも見透かしていた」
明確に区別できる花を一つだけ作って置いた。彼の反応を見るためにだ。薫はそれを見て驚愕していた。
当たり前だ、生きていない花をつるしていたのだから驚くのも無理はない。それは彼の眼が温度を感知することによって暗闇の中でも区別できることを試すためだった。
「……その通りです」
彼はしぶしぶ頷いた。
「三月三日は葵さんの誕生日だったから、蒼介さんがわざとやっているのではないかとも考えましたが」
「そういう解釈もできるわね。だけど出雲大社の椿を見てあなたの考えは変わった」
出雲大社の椿。正殿の宮にあった赤椿も造花であり、花とは異なる部分が発熱していた。
「あの時には疑問しか浮かびませんでした。僕の眼からは光の発光箇所が花ではなく、蛍にあったのですからね」
造花の近くに蛍を留まらせていた。彼は叫び出しそうなくらい動揺していたのを覚えている。
「……やっぱりわかってたんだ」
薫の頭の中では今、様々なことが解決しているに違いない。
例えば出雲大社の正殿に入る時、茜は初めて正殿に入ると行っていたのに対しいとも簡単に入ったのだ。
彼女は鍵がたくさんついているキーホルダーの中からたやすく照合する鍵を見つけ出している。これも彼に違和感を覚えさせるために敢えてやらせたことだった。
「あなたに気づいて欲しかったの……」
葵は思いを込めて告げた。
「私とあなただけが共有していた経験を。全部、思い出して欲しかった……」
囲碁、花歌、鬼灯の花言葉……。
どれも葵が幼い頃に薫と共有した記憶だった。マスターを騙しつつ、フォンの盗聴器を含んでいる彼に対して何とか真相に辿り着いて貰いたい。
それは一筋縄でいくものではなかった。何度も様々な策を練っては隠喩で伝えなければならないのだ。針に細い糸を何度も入れるような緊張感を纏いながら彼女はそれを実行に移した。
そして今、自分が愛した柊薫が目の前にいる。
「本当にありがとうございました」
彼は頭を下げていった。
「葵さんがいなければ僕は復讐を果たすことはおろか、日本に対して憎悪を抱いたまま朽ち果てていたと思います。葵さんのおかげです」
「いいのよ、そんなに謝らなくても」
彼女はばたばたと手を振った。
「私がやりたかったからやっただけ。それに薫君が過ごした日々を考えると、今までのことなんかどうってことはないわ」
そう、彼が中国側のスパイとしての訓練を受けて来たことを想像するだけで身が悶えてしまう。
彼の身なり、言動は強制されて培ってきたものだろうと簡単に予測がつくからだ。感情の乏しさも本来のものではない。
「葵さんはずっとこの神社で育ってきたんですね……」薫は宮内を見渡していった。
「うん。私が本当に働いている神社はここよ。熱田神宮の巫女は別の人」
そういうと彼は朗らかな表情を見せた。きっと本当の人物についても考えがあるに違いない。しかしそのことは後でもいいだろう。
「私はずっとここの神社の生まれだと思ってたわ。だけど出雲大社で自分の存在に疑問を持ったの。私の本当の名前には『白』が含まれているから」
そういうと薫は優しく微笑んだ。きっと自分の真名についても見当をつけているに違いない。
「……やっぱり演技ではなかったんですね。あの時に僕はあなたがスパイではないと決め付けてしまいました。素性がわかっていない者がスパイになれるはずがないと思い込んでいましたから」
「結果的にそうなったわね」
葵は苦笑いを浮かべて肯定した。
「私は薫君と出雲大社に行った後、いつも通りマスターと定期連絡を取ったの。
すると次の目的地に薫君だけを行かせようとしたのよ。きっと私が行けば、出生地がばれて思い通りに動かなくなると思ったんでしょうね。そういう風に思わせるために手を打っていたのだから、当然といえば当然だけど。
私自身、本当の自分のことが知りたくなったの」
養子であるという設定で望んだスパイ活動に、まさか本当に自分にその可能性が出るとは思っていなかった。
作戦を考えた蒼介の手腕に驚きを隠せない。
「そして葵さんは一人で行くことにしたんですよね。その点はマスターにどのように納得させたんですか?」
「薫君の部屋には盗聴器があったわよね。あれに細工をさせて貰っていたの。中国側と日本側のどちらにも通じるようにね」
マスターを納得させるためには両国に情報が漏れる場所を作らなければならなかった。そうしなければ彼は彼女が本当に中国側にいるか、疑問を持つようになるからだ。
だからこそ宮崎から帰った後の別れ話は彼の部屋で行なったのだ。
「なるほど……そういう意味があったんですね」
彼は深く頷いた。
「全く気づきませんでした。両国に僕の部屋は筒抜けになっていたんですね。今考えるだけでもぞっとします」
「やっぱり薫君は純粋過ぎるよ。スパイには向いてないわ」
「……全くです」
薫の同意を受けつつも彼女は重々しく頭を下げた。
「本当にごめんなさい。薫君を守るためとはいえ、やり過ぎた部分もあったと思うわ。だけど最初の計画からあなたは殺されることになっていたの。私はそれを止める方法を考えなければいけなかった。あなたに直接いうわけにもいかないし、私は必死で頭を抱えたわ。そこで思いついたのがあなただけ真実に辿り着く道を用意することだったの」
「……わかっています」
彼は優しい声でいった。
「全ては僕のためにしてくれたんですよね」
彼はそう告げた後、一枚の手紙を出した。
『星に明かりを』
それは葵が郵便受けに残した手紙だった。




