第三章 白秋の『爛』葉 PART4
4.
九月に入り午前中でも涼しい風がそよそよと吹き始めている。今日の大学の講義は『蘇我』氏と『藤原』氏だ。
その授業はすでに予習済みだったが、リーは真剣に話を聞いていた。抜けている部分がないかという猜疑心が体の中に残っているからだ。
大学の講義を聴きながらノートをとっていると、眩しい日差しが目に飛び込んできた。確かこの時期に日本を発ったんだなと記憶が舞い戻ってゆく。
家族を殺されてから早、二十年。
それからは自分の力で生きてきた自負が少なからずある。
あの頃はただ、がむしゃらに日々を生き抜いていくだけで精一杯だった―――。
――母親の実家で団欒をしていた時。
父親の誕生日を祝うため、ケーキに灯りを点けていた。蝋燭の火を父親が全て吹き消した後、家が一瞬にして燃え始めた。
初めは何が何だかわからなかった。蝋燭の火で家が燃えてしまったのではないかとさえ思ったくらいにだ。
しかし即座にそれはないと考えた。自分達を取り囲むようにして、火の輪ができ上がっていたからだ。
母親はすでに火中に巻き込まれ、全身が黒く染まっていた。自分は父親の手に縋りながらぶるぶると震えていたが、父親の方がひどく動揺していた。
意を決した父親は自分を連れて扉をこじ開け脱出を図った。そして外に出ると、軍服を来た中国人が家の周りを囲むように並んでいた。
父親は首をぶんぶんと振りながら、何かを叫び、黒い軍服を来た軍人に手紙のようなものを渡して倒れた。そこで自分の意識もなくなった。
目が覚めると、何もない真っ白のベッドの上にいた。周りを見渡すとそこが病院だということがわかった。左腕には点滴を打つ針が刺さっており、ビニールパックから雫が零れていたからだ。母親を一夜にして失ったと理解した時には、大声で泣き叫ぶしかなかった。
その声に反応するかのように、看護士が扉を開け軍服を着た男が近づいてきた。真っ白い部屋には不釣合いな黒服だった。
男は開口一番にすまなかったと日本語で声を上げて、頭を下げてきた。
「君のお父さんとお母さんは日本の悪い奴らに殺されたんだ。私は日本と影で戦っている中国の軍人だ。私達が向かった時には、すでに敵はいなかった。一足遅かったんだ。本当にすまなかった……」
男は流暢な日本語を喋った。また顔がアジア系ではなく、彫りが深い精悍な顔つきをしていた。
「えっ? お父さんは生きていたんじゃないの?」
母親が燃えた所は見ていたため心構えはできていた。しかし父親までは予想していなかった。
男は残念そうな表情を浮かべ目を背けた。
「本当に申し訳ない。君の父親は私に手紙を託して死んでしまった。最善をつくしたのだが、残念ながら亡くなってしまった……」
「何でお父さんとお母さんは殺されたの? どんな悪いことをしたの? 何でなのっ」
両親から中国に来た理由は教えて貰っていなかった。ただ日本で生活することはできないということだけは理解していた。
「お父さんはね、日本の隠された暗号を解いてしまったんだ。つまり日本にとって都合が悪い情報をね。だから君を守るために中国に来たんだよ。そして私たちは日本の悪い奴らから君達を守るために、家を用意したんだ」
驚愕する他なかった。父親はたんなる神主で、何か悪いことをしているなんて全く考えたことはなかった。
それなのに何かを知っただけで殺されてしまった。心臓が胸打つ度に何かが刺さるような痛みが伴う。
「お父さんが悪いことをしたわけじゃないんでしょ? そんなことで殺されるなんて、あっていいの? その人たちはどうなったの?」
「……残念ながら足跡を辿ることはできなかった」
男はかぶりを振った。
「上手いこと逃げられたんだよ。二人いたんだが、一人には逃げられた。君の両親を殺した後すぐに逃げたらしい」
悪いことをしている人物がいたら百十番。いつも父親がいっていた言葉だ。頭の中で警察がぽつりと浮かんだ。
「警察は? 警察官が悪い人間を捕まえてくれるんじゃないの? ねえ、どうして逃げられたの? ねえっ」
「……いいかい、よく聞きなさい」
男は自分の肩をがっちりと掴んだ。体が急に固定され妙な圧迫感を覚える。
「君みたいな小さな子にいうのは酷な話になるんだが、警察が関与できないことが世の中にたくさんあるんだ。悪い奴らは悪い手を使って警察官までも騙してしまうんだ。だから誰も裁くことはできないんだよ」
「そ、そんな……」
自分の両親は殺された。そして誰も助けてくれない。絶望する他なかった。
再び泣き叫んでいると、男は自分の目を見据えていった。
「……一つだけ、方法はある」
「え?」
男は小さく空咳を交えていった。
「……おじさん達のように裏の世界で動くことだ。もし君が頑張ればお父さんの敵を討つことができるかもしれない」
「ほんとに? ほんとなの、おじさん」
「本当だ。おじさんたちは嘘をついて生きていかなければならないけど、これだけは本当だ」
自然と頬が緩む。絶望的な状況だけどやれることはある。それならばやるしかない。
「……わかったよ」
思いを込めていう。
「じゃあ僕をおじさんの仲間に入れて。僕がお父さんとお母さんの仇をとる」
そういうと、男は屈託のない笑顔を見せた。
「そうか、偉いぞ。そうすればお父さんもお母さんもきっと喜ぶだろう。その代わり君にとってはとってもきつい選択になる。君は影にならなくちゃいけないんだ」
「影?」
意味がわからなかった。
「君の存在がこの世から消えてしまうということだ」
男は諭すような口調でいう。
「今まで通りの生活はできないし、知っている人と遭遇しても自分を偽らなくちゃいけない。君に耐えられるかな?」
少年は大きく縦に頷いた。
「うん、頑張るよ。だって僕にはそれしかないもの」
「……そうか、君は立派な軍人になれるよ」男はゆっくりと少年の頭を撫でていった。「おじさんと一緒に悪を懲らしめよう」
この日から日本の名を捨て、日本人としての誇りを捨て、今まで生きて来た足跡すら捨てた。
自分が選んだのは『リー・シュン』という影の名だけだ。
壮絶な程、苦しい訓練は休むことなく続いた。訓練中に意識がなくなることは少なくなかった。気がつくと八人部屋のベッドの上に体が運ばれるのはいつものことだ。
周りの人間は自分より少しだけ年上だったが、倒れる人間などいなかった。生まれた時からこの養成機関で訓練を受けているものもいた。皆、中国のスパイとなるために日々黙々と鍛錬を積んでいった。
スパイとはあらゆることにおいて相手の能力を上まらなければならない。
思考、運動能力はもちろんのこと、様々な技術の点で自らの生死が決まるからだ。その場で出来る限り最善の手を考えなければ生き残ることはできない。
スパイとして死ぬことは相手に全ての情報を受け渡すことに繋がる。死というものは周辺に多大な影響を与えてしまうからだ。生き残ることが絶対条件だった。常に生存を考えなければならず、毎日が地獄の日々だった。生きるという行為が地獄へのトンネルを彷徨うことに繋がっていった。
リーの生活は文字通り、180度変わった。朝は自分で起きなければいけないし、同じ訓練を受けている人間とも声を掛け合ってはならない。自らの思考能力を鍛えるためだ。
深い谷底に落とされたライオンの子のような気分だった。しかも這い上がっては再びまた谷底に落とされるだけだ。希望はなかった。
だがそれでよかった。
……絶望の中で、両親への復讐を果たす。
それだけが望みだった。日に日に体を覆う闇が濃くなり、スパイという名の影に染まっていった。
程なくして十歳を越える頃には、暗殺者としての仕事を請け負うことになった。今の彼の年ではスパイとしての仕事はないらしく代わりに防諜活動として、敵からの進入を防ぐことが主な任務となった。
スパイの仕事には大きく分けて二手に分かれる。それは諜報活動と防諜活動だ。
諜報活動とは敵国に進入し、祖国に有利な情報をもたらす活動だ。この場合、殺人よりも場の空気に染まることが重要視され、いかに自分の存在を薄くできるかが鍵となる。場にもよるが、周りに注目を集めてしまう子供はこの活動を行なうことはできない。
防諜活動とは、祖国に敵国のスパイ、または祖国に害をなすものを絶つことが主な任務となる。それは大抵の場合が手段を選ばずスパイの血族ごと断絶することだった。また命をとらないにしても、敵国に偽りの情報を流す二重スパイに仕立て上げることもある。
毎日の日課として、ライフルの組み立てを習い、ひたすら作っては分解する日々が続いた。上官が認めるレベルに達した頃には、目を閉じていても手の感触で部品がわかり、組み立てられるようになっていた。
ターゲットは日本人だった。何でも日本から工場を誘致するために来ているらしい。中国にとっても技術が手に入るのは都合がいい。
しかし場所が悪かった。日本の企業が誘致する場所はリー達が秘密で訓練を行なっていた場所の近くで、その詮索として来ていたのだ。
今回の作戦はこうだ。現地を視察しに来ている副社長の心臓を打ち抜くこと。ただ当てるだけではなく、確実に息の根を止めることが条件だった。
ターゲットを打ち抜いた時には、処罰されるだけの人選もすでに準備していると告げられた。その子が親に金で捨てられたということも聞いている。心の葛藤は当然、実行するまで続いた。
しかしここで失敗するわけにはいかない。ここで失敗すれば復讐はおろか、生きる理由がなくなってしまうからだ。
それの方がリーには怖かった。体を覆っている闇すらなくなれば、自分は存在する価値すらない。体全身を強張らせながらトリガーを引いた。
任務を終えた時には、病院で出会った軍人がリーの部屋を訪問してくれた。周りの人間は直立したまま微動だに体を動かさなかった。偉い人なんだなと思い、その人に認められることはなんだか誇らしかった。
軍人はリーの頭を優しく撫でてくれた。病院で撫でてくれたみたいに、リーの髪をといてくれているような感じだった。父親の姿を思い返し瞳が潤んだ。
「大変な任務だったのによく頑張ったね。君が動くことで、助かる命があることを知っていて欲しい。誇りに思っていいんだよ」
僕は一人じゃない。
生き残って初めて味わった感覚だった。成功すればこの人は喜んでくれる。
別の生き甲斐ができたと確信した。人を殺すことで自分の生を実感する。一瞬にして自分は『存在しない』という領域から『存在する』という領域にジャンプしたように感じられた。これが自分の使命だと思うと、力さえ沸いてきた。
体を覆っていた闇はすでに見えなくなっていた。自分自身が闇であり影になったのだと認識したからだ。
それと同時にリーは光を失った。
だがそれが心地よかった。光などいらない。もっと深く暗闇の中に潜り込みたい。
両親の敵を討つために、もっと純粋な黒色に染まらなければ――。




