067話 湖畔の避暑地(いわゆる軽井沢的ポジション)
▼大陸暦1015年、戦乙女の月8日
かつて風の精霊がその身を休める為に降りてきたという逸話を持ち、その精霊の名を地名に冠することになったシルフィレーク高原。
穏やかで澄んだ水面をたたえる湖の畔には美しい緑が広がっており、それらの景観を損なわないよう優美ながらも派手になりすぎない建物を綿密な計算の上で並べているのが、ここシルフィレークの街である。
位置としてはアルビオン王国東部にあるのどかな高原で、地図で表すとテネブラの国境から王都グロリアスフォートまで真っ直ぐに引いた線のほぼ真ん中にある。
なのでセレスティナの《飛空》なら移動時間は王都コースのほぼ半分となり、昼過ぎに魔国首都を出発しても日が沈む前には悠々と到着できるのだ。
「さて、到着です」
街の入り口から少し離れた草原に《飛空》の付与された絨毯を着陸させ、5人の男女が大地を踏みしめる。セレスティナとクロエの他は、今回の会談の参加者である内務省長デアボルス公爵に外務省長サツキ女伯、それから護衛の名目で同行したヴァンガードといったメンバーだ。
デアボルス公爵とヴァンガードは自前の翼で空を飛べるが、長距離長時間を安定して飛ぶには魔力が高い者の魔術に任せる方が便利なのである。
「ふむ。セレスティナ君の《飛空》は乗り心地が良くて安心して乗れるね。イグニス侯のだともう少しスリリングだったけどそこは受け継がなかったようで何より」
「……爺様の《飛空》は、とにかく速度最優先でしたから……油断してると振り落とされますので自力で空を飛べる人じゃないと危なくて同乗できませんでしたね……」
「……それは、飛行魔術の意味があるのか?」
デアボルス公爵とセレスティナの《飛空》談義にヴァンガードが思わず突っ込むが、この場で答えを出す事は差し控える一同であった。
「ん~、気候も風景も素敵なところね。あたしもここに別荘持ちたい~」
「その前にまず国交を回復して土地とか買えるようにならないとですよ」
目に優しい緑の木々の間を涼しい風が駆け抜け、鳥のさえずりや風に揺れる草の音が耳に心地よく響く。
そんな中サツキ省長が早速欲望全開で吼えるのを宥めつつ、都市の門の方へと移動し、緊張した面持ちの衛兵に銀色の外交官バッジを示しつつ挨拶を交わす。
「お勤めお疲れ様です。魔国テネブラからの外交使節団、内務省長アレクサンドル・デアボルス公爵、外務省長サツキ・ノエンス伯爵、随伴員のヴァンガード・フォルティスとクロエ、あとおまけの外交官セレスティナ・イグニスです」
「はっ。お話は情報官から聞いております。その、ようこそいらっしゃいました」
アルビオン王国でも有数の避暑地そして観光地ということで国内外の要人を迎え慣れているであろう衛兵だが、初めて訪れる魔族相手には身体が強張るのを隠せないでいた。ポンコツだったりけだるげだったりする一部女性陣はともかくとして、見るからに魔界の覇者という風貌のデアボルス公爵とヴァンガードを間近で捉えれば尚更だろう。
この日の為に配備された兵士達に先導されて門をくぐり街に入ると、事前連絡が行き届いているのか騒ぎにはならないが遠巻きに好奇や警戒に満ちた視線が突き刺さるのを感じる。
むず痒そうに豹耳をぴくつかせるクロエとは裏腹に、サツキ省長などは自慢の九尾をこれ見よがしに揺らしており、普段はだらけていてもこういう時の豪胆さは女優の貫禄に近いものが感じられて非常に頼もしい。
「それにしても、本当に良い街ですね。ここなら外交会談も捗りそうです」
「それって、関係あるの?」
「大ありですよ。ポーツマス条約にしてもレイキャビク会談にしても、静かで気候の良い場所だからこそあの難しい交渉が纏まったに決まってます」
クロエの指摘に対して得意顔で答えるセレスティナの頭を、サツキ省長が苦笑いしながらぽふぽふと叩いた。
「前から思ってたけど、ティナはまるで妄想の中にもう一枚の世界地図を持ってるみたいで、一度その頭をかち割って中を見たくなるわ」
「そ、それ程大した物は入ってないと思いますよ!?」
思わず頭を庇って数歩距離を取るセレスティナ。そのような和やかなやりとりを周囲の兵士達が拍子抜けした様子で見る中、一行はやがて街の中心部にある大きな交差点へと到達する。
「では、私達はここで一旦別行動になりますので、後の外交会談はどうか宜しくお願いします」
「そうだね。セレスティナ君がここまで道筋を整えてくれたんだ。無駄にならないように最善を尽くすよ」
セレスティナが会談に出席するデアボルス公爵達に深々と一礼し、クロエを伴って右側の路地へと曲がろうとしたところ、ヴァンガードが慌てた声を上げた。
「――んなっ!? どういうことだ!?」
「えっと、聞いてませんでしたか? 魔族の場合、政治面のトップが軍事面でも高い実力を兼ね備えてますので王国側からも無闇に戦力を集結させないよう要請が来ているんです」
アルビオン側としては、護衛に勇者リューク達が出てくるとはいえ、多数の魔族が同時に襲い掛かってくると要人を護りきれない懸念が強い。なので会談に迎えるのは必要最小限の人数に留め、セレスティナには宿で大人しくして貰おうと、そういう判断からの要請である。
用意された宿も、デアボルス公爵達3人とセレスティナ達2人とで別々の場所に分けて割り振るという徹底ぶりだ。
「なので私とクロエさんは会談中はずっと宿に缶詰で、帰国時に街の外で合流と言う手筈に……」
「じゃ、じゃあ、食事とかはどうするんだ!?」
「ヴァンガードさん達は、この街でも最高級の宿ですし会談の前後には豪華な食事会も開かれることになってますから心配は要りませんよ。クロエさんが羨ましがってました」
「そういう余計な情報は言わないでよね」
セレスティナ達の泊まる予定の宿も高級な部類であるが、迎賓館暮らしで贅を尽くした食事に慣れたクロエはすっかり舌が肥え、並の高級料理では満足できない身体になってしまっていた。
仮に現在の任務を離れて軍に戻った場合、再び軍用の粗食に慣れるまでかなりの時間と気合いが要りそうである。
「そんな訳ですから、明日と明後日は部屋で大人しく、魔術の研究開発とかに勤しむことにします」
「ぐおお……何てこった…………」
豪華な食事会と聞いて何故か尚も打ちひしがれるヴァンガードを残し、セレスティナとクロエは担当の兵士に連れられて目的の宿へと向かうのだった。
▼大陸暦1015年、戦乙女の月9日
「――という訳で、暇してるんじゃないかと思ってこのあたしが遊びに来てあげたわよ!」
翌日の朝、セレスティナ達が泊まっている宿の部屋に、ノックもそこそこにアリアが襲撃を仕掛けてきた。
そんなアリアの抱えたイルカ型の浮き袋を眺めつつ、セレスティナは虚を突かれた顔で返事を返す。
「遊びにという名目で監視でもする気なのかと思いましたが……ガチ遊びのご様子ですね」
「まー、ティナは目を離すと何しでかすか分からないからっていうのはウチの関係者の共通認識だけどね。それはそれとして上の人達の話は堅苦しくて疲れるから憩いの時間は必要だし、折角湖の街に来たんだから一泳ぎしないと勿体無いじゃない?」
言いつつローブを春先の変質者のような大胆さでばばっとはだけると、下には既に水着を着込んでいた。鮮やかな青色のワンピースタイプで、胸元や腰回りを二重にフリルが飾ってあるのはきっと体形を誤魔化す設計思想だろう。
プールの授業がある日の浮かれた学生のような印象で、これは後で着替える時に下着が無くて困るパターンですねとセレスティナが勝手に論評するがそれはさておく。
「さあ、ティナもそんな色気の無い服は脱いで脱いで、水着ぐらいは準備してるんでしょ? あ、無かったら白ワンピでも良いわよ?」
「今日は人に会う予定が無かったんだからしょうがないじゃないですか。それとどうしてそこで白ワンピなんですか」
王国側からの要請もありこの日は一日部屋で大人しくしておく予定だったため、セレスティナは無地のシャツにショートパンツ姿で長い銀髪も首の後ろで無造作に縛っただけの、まるで夏休み中の小学生男子のようなラフな格好だった。
クロエの方は万が一に備えて一応いつもの侍女服姿だが、魔族であることを隠す必要ももはや無くなったので今では耳と尻尾を遠慮なく外に出している。
「あ。あたしはパスね。水の中に入っても面白くも何ともないし」
「あー、クロエのそういうところはやっぱり猫なのね」
「ね、猫なんかじゃないわよっ!」
しゃー、と威嚇するクロエを宥めつつセレスティナが話題を変える。
「そう言えば、アリアさん達はいつ頃こちらに到着されました?」
「ん、ティナ達と同じで昨日の夕方。二泊三日の空の旅はちょっと退屈だったわ」
「そちらは大所帯ですから、仕方ないですよ」
アルビオン側はアーサー王子とクリストフ宰相とリューク達だけではなく、当然護衛の兵士や外交官や書記官や世話係等も多数同行することになり、《飛空》で空路を行くにしても絨毯1枚では全員乗りきれない。
従って、《飛空》の得意な宮廷魔術師を何人か駆り出して分乗しての移動になり、その行軍速度は最も遅い者のペースに合わせる必要が出てくるということだ。
余談だが、空路で運びきれない人員は事前に馬車を使った陸路で送り出しており、昨日セレスティナ達を案内した兵士達も翌日に控えた会談とそれに続く外交官会議の警護用に1週間前から現地入りしている人員だった。
宿の窓から大通りを眺めるとそこかしこに兵士達の姿が確認でき、恐らくは例年以上に厳戒態勢を敷いていることが伺える。
その様子を観察していたクロエが、衝立の裏でもそもそ着替え始めたセレスティナに代わってアリアに質問をぶつけた。
「……警備体制もかなり厳重なんだけど、そんな中でティナを表に出しても良いの?」
「そこは話を通してるから大丈夫よ。勇者パーティの一員のあたしが責任持って監視するってことで。それにティナって外面は良いからここで自分は危険な魔物じゃないよってアピールすることも重要じゃない?」
「そういうものなのでしょうか……?」
あっけらかんとした様子のアリアに応えるようにして、着替えが完了したセレスティナが控えめに姿を現した。
マリンボーダーのタンクトップに紺色のショートパンツの形状をした、そのまま街を歩いても違和感の無いいわゆるタンキニ水着だ。
「ほほぅ、意外とボーイッシュな水着なのね。でも似合ってるわ。うん、良いんじゃないの?」
「本当はもっとセクシーな黒のセパレートもあるのですが、サイズの合う物が売ってなかったので将来を見越してちょっと大きめでして、今年はまだお預けになりそうです」
「それは、あと100年は塩漬けコースかもね?」
「年代物のワインとかじゃないんですからっ!」
おぞましい未来予想図にセレスティナが悲鳴じみた声を上げる。そんな抗議もアリアはさらりと受け流し、美しい湖へと誘うべく彼女の手を取って出口へを消えて行った。
「ったく……明日は会談だってのに緊張感が無いわねえ……」
その様子を見届けて一人残ったクロエが、ぽつりと独り言を漏らす。とは言え会談の行方は既にセレスティナの手を離れている為、今更宿で苦悶していても何一つ出来る事は無いのが実情だ。
テスト答案が回収されて採点を待つ時のような居心地の悪さが身を震わす。
「ま、なるようになるしか無いか……」
そう思い直すと彼女は窓を開けて、夏の日差しを中和する涼しい風に当たりながら気持ち良さそうに目を細める。
明日の会談で何か変わるのか。何が変わるのか。それは果たして良い変化なのか。
軍務省の諜報官としてはここで和平への道が閉ざされても困る物ではなく、むしろ軍部の勢いが増すのは望ましいことだと、少なくとも最初に王都に来た辺りの頃はそう思っていた。
だけど今では、もしこれまでセレスティナが積み重ねてきたことが無意味になったりしたらそちらの方がずっと悔しいだろうと感じる自覚がある。
「……今までずっと頑張ってきたんだもんね。上手く行くと良いわね」
本人の目の前では絶対に見せないような優しい笑顔で、絶対に言わないような台詞をふと口にするクロエだった。
※注記
ここは解説しておかないと詳しい方から突っ込みを受けそうなので……
レイキャビク会談(1986年にアイスランドのレイキャビクで行われた米ソ首脳会談)は、単体で見ると物別れに終わっており合意に失敗したと見る向きもありますが、著者的にはその後の冷戦終結に向けた進展の土台を築く意味で充分に意義があったと見ており、作中では成功した会談の例として扱っております。




