034話 バジリスクの毒(こわい)
▼その日の午後
臨時講師として雇われたセレスティナの仕事は単に生徒相手に授業を行うことのみに留まらず、クラリス教諭の補佐として雑務やサポートも含まれている。
従って、労働時間も朝から夕方までの丸一日になっており、この日の午後もクラリスの教諭室で魔術理論の教科書を読みつつ試験問題作りの手伝いをしていた。
「検算終わりました。それにしても、教科書の内容そのものは魔国と王国にそれほど大きな違いは無いみたいですね。数百年前は文化交流があったという話ですから、その時の国際標準がベースになってるのかも知れません」
「あら、そうなの? その割にはさっきの授業見てて、魔術の扱いの熟練度が大きく違うと思ったんだけれど……」
クラリスのように学園で専属で雇われている“教諭”には専用の教諭室が準備されているが、臨時講師のセレスティナにはそのような施設は用意されない為、クラリスの部屋に間借りして雑談をしつつ仕事を進めているという訳だ。
「一番違うのは、魔力量の差でしょうか。魔力量が多い程魔術を練習できる回数も多くなりますから、理論があったとしてそれを実践できるようになるまでの道のりが大きく変わると思います」
「魔力量を伸ばすにも沢山使わないと伸びないし、沢山使うには元の魔力量が要るし、難解なパラドックスね」
実際のところは、魔国テネブラには強力な魔術師が多いのと戦闘での魔術が占める比重が高いのとで見込みのある者には小さい頃から魔術を訓練する制度が確立されており、幼少期から魔術に触れる機会が多いというのもあるが、彼女はあえてそこまで言わなかった。
特にセレスティナの場合、転生者という事情もあってこちらの世界の言語が喋れるようになったら次は文字を覚えて魔術書を読みたがるという最短ルートを通って来たこともあり、同年代の少年少女に比べるとイカサマとも言える程に魔術の練習量つまり熟練度が高いのだ。
「魔力も筋肉と同じで鍛えれば伸びますから、生徒達にも自主練を促しておきました。聞いてみたところ、グレゴリー先生の授業の時しか魔力が空になるまで撃ったりしてない子が多かったですので、他の日に余らせておくのが凄く勿体無いですし」
「グレゴリーさんも良い先生だけど、ご自分の授業以外のことには干渉しない主義だものね」
そんな魔術談義に花を咲かせていると、教諭室の扉がノックされる音が響く。
「はいはい。どなたかしら?」
「シャルロット・アンリ・ド・ルージュです。失礼します」
わざわざフルネームで名乗ったシャルロットが、仲の良い女生徒を何人か伴って入って来た。
授業の時の運動着から着替えて、今はこの学園の夏用の制服姿だ。仕立ての良い真っ白い半袖ブラウスに同じく白いフリルのフレアスカート、首元には学園の校章の入った赤いスカーフと、高貴さと可愛らしさの同居したお洒落な制服だった。
この王都に住む少女達にとっては憧れの制服で、卒業後は結構な値段で裏取引もされているという噂だが、真偽の程は定かではない。
「シャルロットさん、午前はお疲れ様でした。下着はもう乾きましたか?」
「ななななな何言ってるのよ! 購買で替えのを買ったに決まってるじゃないの!」
「ええー」
てっきり濡れた下着で屈辱に打ち震えながらその後の授業を受けたかと考えていたセレスティナのときめきは脆くも粉砕され、思わず悲しそうな表情になる。
「と言うか、購買にはそんな物まで売ってるのですね」
「そうよ。教科書から替えの下着まで、授業に必要そうな物は大抵揃ってるわ」
ふと漏らした疑問の声に、今度はクラリスが答えた。
「教科書ですか。私が買って帰っても大丈夫でしょうか?」
「今は学園のスタッフの一人だから問題無いと思うけど……まずはシャルロット嬢の用件を聞かないと」
椅子を並べて来客用のお茶を煎れつつ、クラリスがシャルロットに話を促す。こういう事はよくあるのか、手際が非常に良い。
「えっと、その、ティナ……先生が腕の良い魔術師だと見込んで、相談があるの。先生は、バジリスクの毒ってご存知かしら?」
「バジリスク……トカゲのような魔獣のことですね。それで、毒には石化効果があって噛まれると石にされてしまうと」
その言葉を聞くとシャルロットは形の良い眉をぎゅっと悲しそうに寄せる。
「わたくしの友人が、そのバジリスクに噛まれて危険なの。ティナ先生なら何か解決策をご存知ないかしらと思って」
「えっ? シャルロット嬢、そのお話は極秘で――」
「ううん、頼れそうな人には手遅れになる前に頼るべきだと思うのよ」
クラリスとシャルロットとの会話から、事情を推察するセレスティナ。この国の姫君であるフェリシティ第二王女が臥せっていて特効薬を探しに遠征隊が組織されたという話をつい最近聞いたばかりなので、どうしてもそれとの関連性を真っ先に思い浮かべてしまう。
聞くところによるとそのフェリシティ姫はシャルロットと同学年で只今休学中だ。ほぼ間違いなくシャルロットの言う「友人」は彼女だろう。
「申し訳ありません。バジリスクの毒に有効な治療法となると、寡聞にして聞きません……私の故郷では、あの毒は魔力的な要素が大きいですので魔力を高めて気合いで抵抗するしかありませんでしたから」
「どんな魔境出身なのよ」
「それにしても、バジリスクがこの場所に現れるのが不思議ですね。本来は魔力の濃い魔国領でしか見ない魔獣ですし、この前出たマンティコアみたいに空を飛びませんからこんな離れた都市まで移動する筈も無いですし……」
顎先に手を当てて呻っていると、シャルロットが言い難そうに口を開く。
「身内の恥を晒すようだけれど、わたくしの国には魔物を扱う商会があって、恐らくそのバジリスクも暗殺用にそのルートでこちらに持ち込まれた物だと思うのよ……」
「そういう商売まであるんですか……」
魔国としては、魔族の拉致や資源の盗難は把握していたし一部の希少な魔獣の素材目当てでの乱獲にも目を光らせていたが、このような魔獣の利用法は全くのノーマークだ。
人の欲望や悪知恵の奥深さを改めて痛感する。
「そうですね。毒の治療法については私も独自に調べてみましょう」
「頼むわ。もしかすると将来、わたくしの義理の妹になるかも知れない大切な友人だもの」
遠征隊が出るということは治療薬の宛てがあることを意味するので、その真偽にはセレスティナも興味があった。
だが遠征隊の話は恐らく国内でも極秘情報と思われるのでここで言うのは憚られる。クラリス辺りは把握しているかも知れないが、『セレスティナがその情報を知っている』ことを知られるのは今後の動きを制限される恐れがある為に今は避けたい。
外交官として仕方ない事なのだろうが、こういった腹の探り合いは面倒くさいし疲れる。
そのような訳で、バジリスクの毒に関しては話を一旦閉めて、セレスティナは今の会話で気になった部分をシャルロットに詳しく聞くことにした。
「それで、その魔獣を扱う商会というものについて、もし差し支えなければもう少し情報をお聞きしたいのですが」
▼その日の夕方
日が沈む頃、『栄光の朝陽亭』にて。
講買で仕入れた大量の教科書を抱えて帰って来たセレスティナを、今日1日はオフにしてだらりと過ごしていたクロエがジト目で迎えた。
「またそんな無駄遣いしてきたの? 教科書なんてどこでも同じじゃないの?」
卒業した後にまで勉強したくないクロエとしては、本国用の資料の一環としてだろうが何だろうがもう教科書なんて見たくもない訳だ。
「交渉相手国の教育水準を把握するのは重要ですので……というのは建前で」
対するセレスティナはクロエの反応を気にも留めずに机の上で教科書を整理しつつ、中から緑の表紙の一冊を取り出す。
「本命はこれです。歴史の教科書。他は目的を誤魔化す為のカモフラージュです。えっちぃ本を買う時に参考書で隠してカウンターまで持って行くのと一緒です」
「……なんでティナはそんな経験があるのよ……」
「それはさておき、歴史教科書は大抵自国に都合の良い事が書かれてますから読み比べると色々違いが見えてくるんです。特に戦争が絡むとほぼ必ず、自国の戦争は正当な防衛戦で他国の戦争は邪悪な侵略って設定になりますから」
教科書をパラパラと捲りつつ言葉を続けるセレスティナ。
「例えば、大陸暦478年勃発の“人魔大戦”――魔国と人間の国との国交が途絶える直接原因になった大陸全土を巻き込む大戦争ですが、魔国の教科書では『卑劣な人間どもが裏切って騙し討ちをした』ってなってるのに、この教科書だと『悪逆非道な魔物の大群がいきなり攻めてきた』って記述なんですよ。こういうのがあると大きな溝になって外交交渉がやりにくくなるから困るんですが――」
「……おやすみー。ごはんできたらおこしてー」
遂にクロエは考えるのをやめた。セレスティナは苦笑して教科書をぱたんと閉じ、話題を変える。
「ところでクロエさん、ベヒモス肉食べ放題ツアー、行きたいと思いませんか?」
「行きたい」
目を輝かせてがばっと跳ね起きた。ベヒモスとは強靭な体躯を誇る巨大でパワフルな魔獣で、見た目相応の強敵ではあるが倒せば上質の肉が大量に手に入るのだ。
「実は魔術授業の生徒さんに南の公国から来た子が居まして、その方にお話を伺ったんですよ」
あれからシャルロットに聞いた話をかいつまんでクロエに展開する。曰く、魔獣を売り払う商会がアルビオン南部の国境付近の河沿いにある都市の貴族にベヒモスの子供を売り払い、それが成長して最近はその街の闘技場で見世物になっているということだ。
見世物と言っても血生臭い方面で、闘技場で魔獣同士を戦わせたり借金等で進退窮まった探索者や不要になって『処分』する予定の奴隷と戦わせたりして殺戮を楽しむのだと言う。
セレスティナが以前に“シルバーソード”名義で何度かカジノへと向かい情報収集した際も似たような話は耳に入っており、複数のルートから情報が相互補完されることで信憑性も上がった、という訳だ。
「悪趣味な話ね。一方的な殺戮を見て何が楽しいのかしら」
吐き捨てるようにクロエが言う。彼女自身も平和主義者からほど遠い人格をしているが、戦闘民族の矜持として戦えない弱者を無理やり戦いの場に引っ張り出すような暴挙は認めたくなかった。
「それで、カジノの方で聞いた噂話ですと、反抗的な犬耳獣人の……えっと……奴隷、が南の方に連れ去られることになったらしくて、もしかしてその町に、と思いまして」
「わざわざ長い距離を旅して死地に向かわせるとか、金持ちの考えることは分かんないわ」
実情としては、獣人奴隷はわざわざ危険な魔国領に潜入して攫ってこないと手に入らない高級品扱いで、だからこそ「処分」する際にも派手に、華々しく、普段目にしないようなやり方でないと勿体無いのだろう。
「ま、話は分かったわ。あたしが奴隷役で闘技場を荒らせば良いんでしょ?」
「すみません。本当は私が出るのが筋なのでしょうけど……」
「気にすること無いわ。ティナが奴隷とか、主人役が居なくなるし。それにあたしだってたまには一暴れしたいわよ」
肉食獣の笑みを浮かべて掌に拳を打ち付けるクロエに、セレスティナも安堵したように柔らかく笑う。
「クロエさん一人でも負けるとは思いませんが、時間もありますし念には念を入れてもう一人ぐらい応援を頼みましょうか。ベヒ肉祭に呼ばないとふて腐れそうな方に一人心当たりがありますので」
「あー」
情報によると、その闘技場での次のベヒモス登場日は再来週の週末、堅蟹の月20日だ。本国への帰還も含めて準備時間は十分にある。
だがまずは、遠征部隊の件も含めて軍部の協力が絶対必要になる。今日明日はその報告と協力要請の書類作りに頭を悩ますことになるだろう。




