117話 “白い魔女”の噂(根も葉もない……こともない)
▼大陸暦1015年、轟弓の月22日
翌日。貴重な公休である安息日にも関わらずセレスティナ達は朝早くテネブラを出発し北西へと飛び、シュバルツシルト帝国東部に位置する山脈の麓の町へと降り立った。
帝国領は既に雪が降る地方があり日没も早まっているので、あえて無理はせず速度と高度を落として一泊二日の旅程で飛ぶことにしたのである。
西にそびえる連山に海からの風がぶつかり雪雲を巻き上げるのだろう。山は既に白銀に染まっており、町の周辺の草原にもちらほらと白いものが混じっている。
飛行魔術の付与された絨毯を街の正門近くに着陸させると、設置したコタツから名残惜しそうに這い出したクロエが身を震わせた。
「うー、寒い。こんな時期から雪が降るの?」
「真冬になるともっと凄いと思いますよ。家の玄関が雪で埋まったりとか」
「うへー……」
絨毯とコタツを慣れた手つきで畳んで収納すると、セレスティナとクロエは町へと向かって歩き出す。
今日は普通の旅行者という設定なので二人とも町娘風の民族衣装の上にベヒモスの毛皮のマントを羽織った格好で、セレスティナは早速黒タイツを履いており寒さ対策も行き届いていた。
クロエに至ってはスカートの下にこっそりジャージ着用という暴挙だが、猫だからしょうがないとセレスティナは口には出さずに納得する。
「それにしても、アテにしていた私が言うのもなんですが、大きい町で見つけ易くて助かりました」
撤退する帝国軍との鉢合わせを避けたくて主要な街道から外れたルートを取ってその途中で泊まれそうな町や村を探していた彼女達だったが、僻地の割に強固な市壁で囲まれた広い町が見つかったのは嬉しい誤算だ。
上空から見たところでは町の面積の大部分は牧場のようで住宅や住民はそこまで多くなさそうな、大都市と呼ぶには長閑で牧歌的過ぎる雰囲気だった。
「そういう行き当たりばったりは正直勘弁して欲しいけど……ま、牧場があるのなら食事も期待できそうね」
赤い頭巾を被り猫耳を隠したクロエが、気持ちを切り替えるようにそう言って嬉しそうに笑った。
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町へと入った彼女達は早速、一軒しかない宿屋へと足を運ぶこととなった。
そこの一階部分の食堂で少し早い夕食を頼むと、行商人以外の旅人が珍しいようでテーブルの周囲に好奇心旺盛な街の住民達が集まってくる。
「へえ。女の子二人だけで旅行中なの? 若いのにやるわね!」
中でもグイグイ来る相手が、テーブルの対面に座ってこの店の名物のチーズケーキを頼んだ少女アーデルハイトだった。歳は16、7歳ぐらいで、ブラウンのショートヘアに同色のくりんくりんした瞳が快活な娘さんだ。
聞けばこの町の町長兼牧場主の娘とのことで、着ている服もシンプルながら生地や縫製の質が良く、そして家では栄養十分な食事をしている事が窺い知れる発育の良さを見せつける。
「はい。近くの知り合いを訪ねる途中でして。一応《飛空》の魔術を付与した魔道具がありますので、危険な時もすぐ逃げ出せるんですよ」
「うん。町の外で降りてくるのを牧場の世話係の人が見てたわ。あー、空飛べるのはちょっと羨ましいけど高い所は怖いかしら」
「それにしても大規模な牧場ですね。来る時、羊とか山羊に混ざって立派な雪ラクダも見かけましたが、帝国以外では見かけない動物ですし飼い方にコツとかあるのでしょうか?」
雑談に交えて探りを入れるセレスティナ。軍が先の会戦の鹵獲した物に、帝国兵の武具や物資に混じって移動に連れて来た雪ラクダが姿もあったのでこの機会に飼育方法などを聞いてみた次第だった。
上手く行けば軍部に対するポイント稼ぎになる。別にセレスティナは軍部と対立したくていつも煽り煽られしている訳ではないので、一部の脳筋は無視して相互に協力できる体制を築いていきたいのは自然な考えだろう。
「あの子達はどこでも元気に育つから普通の動物を飼うのと同じ感覚で良いわよ。ただ軍用の子は夏と冬に苛酷な環境で訓練を課したりするんだけど、その辺は企業秘密ってことで。ね?」
「なるほど、ありがとうございます」
心のメモ帳にしっかり書き込んでセレスティナは礼を言った。雪ラクダは国土が広く寒い帝国の兵站を支える戦略物資であり現物も情報も国外に流出することは殆ど無い為、このぐらいの雑談でも貴重なのだ。
街道から外れた辺鄙な町でひっそり飼っているのも他国から隠す目的だろう。そう考えると目の前でチーズケーキの到着を待つアーデルハイトもただの少女ではなく帝国中枢に顔が利くような身元のしっかりしたお嬢様なのかも知れない。服の仕立てと名前の仰々しさからしても有り得る話だ。
そのように雑談と考察を重ねていると、宿の女将さんが夕食を運んで来た。
「おお、美味そうね」
牧場らしいメニューにクロエの目が輝く。とろけたチーズの乗せられたパンに羊肉のシチュー、温めたミルクにデザートのチーズケーキと、何れもカロリーさえ気にしなければ食欲をそそるものだった。
「ここの料理は絶品よ。帝都のレストランにも負けてないわ! でも帰ったらまた運動しなきゃ」
「ちょっとアデルお嬢様、それは言いすぎじゃないかい?」
「そんなことないわよ。実際に食べ比べたあたしが言うんだから!」
そのような微笑ましいやり取りを挟みつつ、食事をしながら雑談を続ける。
そんな中、この辺りでは珍しいクロエの肌の色に注目が集まって出身地予想で盛り上がったところで、アーデルハイトがやや眉根を寄せて尋ねてきた。
「そう言えば、旅の途中で“魔界の白い魔女”の噂とか、聞いた事あるかしら?」
「――ッ!? けほっ……い、いえっ、初めて聞く名前ですが……」
思わず飲んでいたミルクを噴き出しそうになったセレスティナ。単語そのものは帝国軍が勝手に名付けたものなので初耳なのは嘘ではないが、あの会戦の時に真っ白いドレスを着て目立っていたことは記憶に新しく、誰の事を指すかは明白だった。
「そうなの? 良かったあ。じゃあやっぱりあの行商人の話はガセネタなんだわ。常勝不敗の帝国軍がそう簡単に負ける筈がないのよ!」
「……さ、参考までに、どんな噂話ですか?」
ぎこちない作り笑いを浮かべ、変装で黒く染めた髪を所在無さげに指で回すセレスティナ。そんな彼女の動揺には気付かず、アーデルハイトは不機嫌そうに説明を始める。
「あたしにも信じられない話なんだけど、帝国軍が魔界へと攻め進んだところでその“白い魔女”の抵抗に遭ったらしいのよ」
勝手に国境線を踏み越えて進軍すれば抵抗されるのも当たり前だとセレスティナは思うが、その辺りの認識の齟齬を一々指摘していると話が先に進まない。なので黙って続きを聞く。
「戦場なのに白い髪に白いドレスってトチ狂った格好だったみたいで、そいつは雷と炎を自在に操って戦場を地獄に変えたらしいわ」
その“白い魔女”が杖を一薙ぎする度に荒れ狂う稲妻と灼熱の炎が兵士たちを次々と吹き飛ばし、焼き尽くしたらしく、アーデルハイトや周囲の町民達の説明にも次第に熱が入っていく。
先の会戦ではこの町も例に漏れず働き盛りの若者が何人も帝国軍に徴収されて戦地に向かったこともあり、魔族に対しての悪感情が言葉や態度の端々から感じられた。
「悪鬼のような魔力の前には帝国の誇る聖盾騎士団さえ膝を屈して、心優しい司令官閣下がこれ以上の犠牲は見逃せんとばかりに断腸の思いで白旗を掲げたにも関わらず、魔女は攻撃の手を止めず、帝国軍は壊滅……」
「事実無根の酷い噂ですね……」
話を聞いている間に食べ終えた夕食が片付けられて綺麗になったテーブルにがくーんと突っ伏すように項垂れたセレスティナが弱々しい声を上げた。
同じく噂を信じたくない側のアーデルハイトも身を乗り出して、物理的な意味で育ちの良い胸を揺らしながら彼女の手を握る。
「でしょ!? ティナちゃんもそう思うわよね!」
「仮に……ええと、噂を真に受けるとしてそれ程冷酷で暴虐で強い魔術師が本当に居たならば、その人が帝国に攻め入って来ないのはおかしくないですか?」
「それは、例えば魔王の大事な一人娘で魔界から外に出してくれないとか、色々あるんじゃねえのか?」
「でなければ、“炎の聖剣の勇者”様を恐れてるんだろうさ。選ばれた者にしか使えないという聖剣を軽々と振り回す膂力持ちらしいからな。邪悪な魔物は一たまりも無いだろうぜ」
他の町民達に向けても無責任な噂話の矛盾点を突くべく質問を投げてみたが、噂をバラ撒いた行商人側も基本設定はそれなりに詰めていたらしく思った程の手応えが無い。
それでも意図せずこの国の勇者の情報を聞き出せたのは幸運だ。アルビオン王国の勇者リュークとは違いパワー極振りタイプなのだろう。
そんな危険人物が振り回す聖剣にぶった斬られたら邪悪な魔物でも善良な聖人でも等しくお亡くなりになるのは明らかだが、面倒そうなのであえて突っ込むことは避けた。
「そういうこった。どんな強い魔物が出ても勇者様に任せておけば安心だろうぜ」
「……でも根本的な話、住処を荒らされたら反撃するのは当然ですよね? でしたら怒りの矛先を向けるのは侵略者から国を守ろうとした魔女の側じゃなくて国の都合で強権を振りかざして兵隊を集めて無理な出兵を進めた帝国上層部に――むぐっ!?」
「ちょっとッ!」
言われっ放しで収めることもできず草の根から意識改革を図るべく劇薬にもなりかねない発言を放り込んでみたところ、アーデルハイトが身を乗り出した体勢から更に手を伸ばしてセレスティナの口を塞いだ。
「――ふぎゃっ!」
「きゃッ!?」
その弾みでアーデルハイトがセレスティナを椅子ごと押し倒し、木材のぶつかるけたたましい音が食堂に鳴り響く。
「……あ痛たた……ゴメン。怪我は無い? ……って、それよりも、帝国上層部への批判は上に聞かれたら他国民でも容赦なく処罰されるんだから!」
「むぐっ……ぷはっ。ええと、ありがとうございます」
かなり粗雑な扱いを受けたにも関わらず笑顔で感謝を述べるセレスティナ。倒れた彼女の胸の上に乗っかったたゆんたゆんな感触に対する言葉のつもりだったが、どうやらアーデルハイトは今の忠告に対するお礼と受け取ったらしい。
「そ、そう? でもゴメンね、厳しく当たっちゃって。どこで憲兵が耳を立ててるか知れないんだから気をつけないと人生終わるんだから、つい……」
「いえいえ、優しくて柔らかくて温かくて嬉しかったです」
「何この素直で可愛い生き物! あたしずっとこんな妹が欲しかったの! アデルお姉さまって呼んで良いのよ!?」
「ええと、私は子供じゃないのでそういうのはちょっとご遠慮を……」
わきゃわきゃと騒ぎつつ、倒れた拍子に豪快に捲れ上がったスカートを整えながらセレスティナを立たせるアーデルハイト。
その様子を周囲の男共が目に焼き付けようと頑張るがクロエが鋭い眼光で牽制して視線をインターセプトしており相変わらず地味ながら熟練の技が冴え渡っていた。
やがて、日が沈み寒さが本格化する前にとアーデルハイトが外套を羽織って帰り支度を始める。
「それじゃあ、旅路に気をつけて、また会える事を願ってるわ。噂の件もウソかホントか分かるのは町の若い衆が帰ってきてからになるからここで長々と喋っていてもしょうがないし」
「ま、噂なんてアテにならないから実物の“白い魔女”は案外ポンコツ可愛くて優しいどころか甘々のお嬢ちゃんかも知れないわよ」
「私としては、クールでクレバーでハードボイルドな格好良い大人に一票です」
彼女の言葉に斬新な見解を提唱したクロエとセレスティナ、そんな二人にアーデルハイトと周囲の町民達は「ないわー」とばかりに頭や手を振るのだった。




