101話 高度に発達した量子力学は哲学と区別がつかない(などと意味不明な供述をしており)
▼その日の夜
その日の夕食後、イグニス家で家族会議が開催された。議題は当然、セレスティナが乱心して帝国迎撃戦の最前線に立とうとしている、その件である。
出席者は、セレスティナ以外には家長であり祖父のゼノスウィル、父ウェール、母セレスフィア、そしてもはや家族の一員となったクロエである。決して飼い猫枠ではない。
「僕は反対だな……ティナは国でただ一人の外交官なんだから、戦場に出るなんてリスクは避けた方が良い」
「わたしも、ティナには危ない所に行って欲しくないわ」
予想通り、両親は揃って反対に回る。それに対して祖父の態度は自分の後を継ぐと宣言されて嬉しさが勝ったか若干甘いものだった。
「じゃが、実力は十分通用する水準なのもまた事実。先日ティナが退けたフィリオとフィリアは二人一組で男爵級の強さじゃからな。市井で遊ばせておくには勿体無いわい」
「そうは言っても、お父様はお忘れかも知れませんけどティナは女の子なんですよ? 大体お父様がティナを小さい時からあちこち連れまわして魔術の訓練ばっかり施すからこんな残念な子に育っちゃって……」
「女子であっても実力と意欲を兼ね備えておれば支障なかろう。それにティナが希望する前陣号砲術士は敵軍が接近するまで撃ち合うだけの役じゃ。近接で斬り合うことに比べればフィアが言う程に危険とも言えぬ」
確かに戦闘の推移を考えると、前陣号砲術士という兵科が必要になるのは最初に両軍が離れて向かい合う初期配置から互いに接近してくる途中の僅かな時間のみだ。
両軍がぶつかって乱戦に突入すれば、飛び道具、特に広範囲を纏めて薙ぎ払うような派手な魔術はほぼ封印となる。
従って前陣号砲術士達は、白兵戦が始まるまでの僅かな時間にありったけの弾を撃って敵兵を程よく減らした後、正規の軍人は元の部隊に戻って防御魔術や近距離から狙い撃つような地味な攻撃魔術で前衛をサポートし、民間人の志願兵は戦闘区域外に退却するのが通常である。
民間人視点では確かに危険だが軍人視点では比較的安全なポジションという扱いで、母と祖父の意見の相違もここから来ているという訳だ。
「ただ……大軍同士の戦場だと小手先の技術よりも私が苦手とする大火力での殴り合いが主体になりますから…………そこで、爺様、いえ、師匠にお願いがあります」
そこまで言うと、既に戦場に出る前提で話を進めているセレスティナは背筋を真っ直ぐに伸ばし両手も膝の上に置いて祖父に向き直った。
「魔眼解放の封印を、解いて頂きたいです」
「……ふむ、やはりそう言うじゃろうと思ったわ」
セレスティナの嘆願に父ウェールと母セレスフィアが息を呑む。そのような中でゼノスウィルは落ち着いた態度を崩さず、諭すように言った。
「ティナも知っておろうが、魔眼解放に封印が必要な理由は成長期に魔力の上昇が先んじて身体の適応がどうしても一歩遅れることが大きい」
細かく説明するなら、魔力が伸びたとしてもその時点では身体はその魔力量に慣れておらず、魔力が増えた状態で何度も魔術を使用することで体内の魔力伝達路を少しずつ拡張させる必要がある。
なので、ただでさえ魔術の出力を大幅に伸ばす魔眼族の切り札の魔眼解放を成長期に習得するなら、通常時の魔力量に対してさえ狭い伝達路に膨大な魔力が流れる事で身体に深刻なダメージを負う危険が出てくる訳だ。
電気で例えると、細い銅線に大電流を流すことで金属が加熱し、被膜が溶けたり基板が燃えたりする現象に近い。
「ティナの場合は元から魔力が多く成長も急激故にそれが仇となって危険度が上がっておるから、普通より強い封印が必要なのじゃ。正直、あと5年は待つべきなのじゃがな……」
「あと5年も待たされたら、私はしっとりした熟女になってしまいますよ」
「…………………………………………」
「…………………………………………」
「…………………………………………」
「…………………………………………」
「……………………すまん、歳のせいか耳が遠くなったようじゃ。発言は記録して軍で志願兵を審査する際の添付資料として残しておくからもう一度言ってくれるか?」
「…………ごめんなさい少しだけ調子に乗りました」
誰もフォローしてくれなかったのでセレスティナは素直に謝るしかなかった。そしてその謝罪は受け入れられたようで、熟女云々は無かったとこにして先に進む。
「……話を元に戻すが、誰も駄目じゃとは言っておらぬ。戦場に出る以上は皆が命懸けじゃからな。多少痛い思いしてもそれで生存率が上がるならそっちの方がマシじゃろう」
「あっ、ありがとうございます! 爺様!」
「魔術の話をしているときは師匠と呼べと言ったじゃろうに!」
願いが聞き入れられて嬉しそうな声を上げるセレスティナ。
我が子の身を案じる両親の心配そうな眼差しはまだ残っているが、それでも家長のゼノスウィルが許可した以上は覆しようが無いだろう。そのような流れで会議が終了しかけた時、それまで沈黙を保ってきたクロエが発言した。
「でも、根本的な疑問になるけど…………ティナに人間が殺せるの?」
クロエの見てきたセレスティナは常に不殺の立場を貫いており、それどころかなるべく怪我さえも負わせずに制圧する戦い方が多かった。
そもそも、彼女が外交官を目指すようになった理由も、戦争での殺し合いが嫌だったからとクロエは記憶している。
そんな彼女がいきなり戦場に出て容赦なく敵兵に向けて致死的な魔術を全力で撃てるのか? クロエの疑問はもっともであろう。
「だって、ティナは前に言ったじゃない。自分が戦場の砲台になるのは下策って! なのに、下策を選んで、自分に課してきた禁忌を破って、人間を殺すの!?」
「ええ。下策ですよ」
自分自身は殺しに抵抗感が無く今までのセレスティナの戦い方に散々「甘い」と辛口評価をつけてきたクロエだが、この時ばかりは納得行かない様子で詰め寄ってくる。彼女なりに、セレスティナが大事にしてきた信念を認めているということだろう。
そんなクロエの心意気に、セレスティナはこの場にはそぐわないような優しい表情を浮かべてクロエの猫耳を撫でた。
「……でも、無策よりマシなんです。国内で動きが封じられてますから、こうするしかないんです。軍部のせいで」
「……それで、いざ戦場に出て、手が鈍ったりしないと言い切れるの?」
撫でられて一瞬ふにゃっと目を細めたクロエだが、はっと我に返ると刃物のような鋭い目つきに戻って厳しく問いかける。
「それは……多分、大丈夫だと思います。私が本当に怖がってるのは、“人を殺しても何とも思わない自分”を確認してしまうこと、なのかも知れませんから……」
セレスティナの言葉の意味が理解できず「うにゃ?」と首を傾げるクロエ。
「遠くから魔術をぶつけるのは心理的にもそれほど難しいことじゃありませんから。ですが、それでもし自分が人を殺しても心に痛みを覚えなかったら……私に流れる上位魔族の血が他国の人間族達をただの獲物としか見なしていなかったら……それを直視するのが、怖いんです……」
「大丈夫よー。わたしも、生きてるお魚さんや鶏さんを絞めるのは今でも苦手だもの」
共感を示すセレスフィアだが、セレスティナに言わせると魚や鶏は獲物であり食料なのでやっぱり違う。
この場で口に出す事はできないが、元人間だったセレスティナの頭の中では人間は同族だから殺したら身が潰される程に重く深刻な罪悪感を抱くべき、そういう方程式が作られているということだ。
だがもしも、彼女が人間に手を掛けたとしてその時に後悔も嫌悪も良心の呵責も感じなかったら。更に酷い事に、人殺しを心が楽しんでしまったら。魔族の血が人間を同族と認識しなかったら。
その場合、セレスティナの人間としてのアイデンティティが揺らぎ、崩れてしまうだろう。
それ故に、彼女は人間族を殺すことや傷つけることを自らに禁じてきたのだ。
人を殺すことにより自分の心が痛みを感じるかどうかの実験の結果をあえて観測しない為に。
「要するに、シュレディンガーの箱を開けなければ猫は死なない。そう思い込んでいる小さい子供みたいなつまらない拘りです。戦争が避けられないのなら、割り切ります」
「……小さい子はそんな哲学にかぶれたりしないと思うわよ?」
「哲学じゃなくて量子力学です」
「同じようなものでしょ? 少なくともあたしの人生にはどっちも必要無いわ」
「いつか量子力学を修めないと店で買い物もできない時代が来ても知りませんからねっ」
クロエの指摘にセレスティナが反論するという、ここの所ご無沙汰だった会話もなんだか懐かしい。
「ってか、これだから処女は面倒臭いのよ。ティナもぐだぐだ悩んでないで適当に二、三人殺っちゃってさっさと慣れるか吹っ切れるかすれば良いのに」
「その表現は誤解を招きませんかっ!?」
そのように少しずついつもの調子を取り戻した娘二人を見て、困り顔を続けていた母セレスフィアに優しい笑顔が戻る。
そして胸の前でぱちりと手を叩くと、おもむろにこう告げた。
「さて、それじゃあわたしも気持ちを切り替えて、ティナの晴れ舞台に備えて新しい服を仕立てないとかしら」
「…………母様も大概マイペースですね……」




