第七話:開けし門
――――長すぎて長すぎて、数えることに飽きてしまったから、あれからどのくらいの時間が経ったのかは分からない。だけど、信じられないほどの長い時間が経ったことは分かる。久しぶりの外の世界。まるで、再び生れ落ちたかのような開放感。
思い切り、腕を伸ばして深呼吸をすると、背骨が歓喜の叫びを上げるようにパキパキと鳴った。お世辞にも、ここの空気は良いとはいえないが、久しぶりともなればおいしく感じてしまうから不思議だ。
感謝すべきはイヴの魂。
意識体をあの木のところまで飛ばすのに、かなりの力を使ってしまったけど、この狭苦しい檻から出られることを考えれば、それは些細なことでしかない。イヴの彼には悪かったけど、上手く木の実を食べさせることに成功したことで、天使たちの目は彼に向いて、私から逸らされた。その隙に、長い時間を掛けてやっと見つけた檻の小さな綻びを残った力で抉じ開けて、なんとか脱出することに成功した。
外に出ることさえ出来れば、力を使い切った今でも、従者たちを呼べば何とかなる。上手くすれば、人間の世界まで逃げ切れるかもしれない。
上を見上げれば、遥か頭上にいつもよりも濃度の高い瘴気が渦巻いている。見張りの亡者は、瘴気を吸って酔い潰れてしまったのか、二匹ともが寝息を立てている。流れが、私に傾いているのを感じた。
「……必ず、逃げ切って見せるから。待っててね」
ポツリと一言呟いて、私は、瘴気に紛れる漆黒の翼を広げた。
▽
透き通った青空の下、俺はどんよりとした気分で学校へと繋がる道を歩いている。傍らでは、幼馴染である皆村春香が俺に同じ質問を繰り返している。
「ねぇ、さっきの声って誰?」
何度も聞いたその質問に、母親の声だと答えると、もっとずっと若い声だったと言い。テレビだと言うと、あんなにはっきり聞こえるわけが無いと言う。本当のことを言うわけにもいかず、かといって今日に限って何故か頭の回る春香を煙に巻くことも出来ずに、適当に答えては春香の疑心を煽ってしまっている。負のスパイラルだ。
正直、なんでそこまで気になるのか理解ができない。まあいっかで済ませてくれればどんなに楽なことか。
意固地になった春香のしつこさを良く知っている俺は、早く学校について話を有耶無耶にさせるべく足を速める。すると、
「あ、速くなった。やっぱりなんか隠してるんでしょ」
とか言いやがる。
勘のいい春香など春香ではないはずだから、今日はもしかして何かと入れ替わっているんじゃないかという訳の分からない考えを頭をよぎるほどに、春香の質問攻めに俺は辟易していた。
「ねぇなんで隠すのよ。別に良いじゃん教えてくれたって!」
「だぁから、何にも隠してねえっての。お前の考えは全部妄想。聞いた声っていうのは幻聴。ほら、これで全部解決だ」
春香は全く納得がいっていないのだろう。むーと唸って俺の横顔を睨めつける。童顔なために全く怖くは無いのだが、妙なプレッシャーを放つのはやめて欲しい。胃に穴が開きそうだ。
「……ん〜、ぜーったい何か隠してるのになぁ」
「隠してないっての」
動物的勘で何かを本能的に感じ取っているのか、春香の疑念は一向に晴れる気配も見せない。これが濡れ衣ともなればキレるなり何なりやりようはあるのだろうが、なまじ後ろめたいことがあるのでそういうわけにもいかない。
やがて、俺の口から聞き出すことは諦めたのか、質問をしてくることはなくなったが、学校につくまで終始背中に視線が突き刺さるのを感じることになるのだった。
▽
しかし、今更だが、あのアダムを家に置いてきても良かったのだろうか。これでもしあいつが強盗だったりしたらどうなるかと考えると、その想像に背中が寒くなる。だけど、あいつは俺を助けてくれたわけだし、あの良く分からない話の真偽は別にしても悪いやつではないと思う。というよりも、雰囲気的に悪いことをするという発想自体が頭の中から抜け落ちているような、そんなタイプのやつのような気がする。まあ、ここでこうやってゆっくり考えている時点で、ある程度信用してる証拠なんだろうけども。
「よう、たけちゃん」
「よう、はげちゃん」
「ひでぇっ!?」
なんだか崩れ落ちる秀明を尻目に、俺は自分の席につく。全く、学校じゃゆっくり考え事もできない。とはいえ、この喧騒を嫌っていない自分がいることを否定することは出来ないわけだが。
「だから、何で俺だけいつもハゲなんだよ! 野球部のやつみんなそうだろ!? お前、山下のことは山下って呼んでるじゃんよ!!」
ハゲが何か言っているが、俺の頭の中にあるのは、昨日突然現れた、あの白い女のことだ。
昨日の夜、幼稚園児の粘土工作のような白いやつらに襲われていた俺を助けてくれた変な女。いや、変だと気付いたのは、その格好に気付いたときからで、俺の前に現れた時点での第一印象は全く違ったものだ。
――――女神
月光にその身を染めた白銀の髪の女は、そう形容してもおかしくないほどの美しさを持っていた。変さに気付いた今ではそれほどにも思えなくなったが、それでも顔の造形やスタイル、それから少し低めの澄んだ声も、普通の人間のレベルを超えているようにしか思えなかった。
そして、その感情に答えを出すように、彼女は自らをゴーレムだと言った。自分はただの土の塊だと。もしそれが本当であいつが聖書のアダムだとしたら、イヴの魂を持っていると言われた俺は、一体何になるのだろうか。
いや、これは考えるまでもない。俺は、ただの伊藤武史だ。本当にイヴの魂を持っていたとしても、そんなものは関係ない。
「お〜い、たけちゃ〜ん。無視ですか〜。……ふむ、あれか。急にそっけない態度を取ることで、逆に相手に自分のことを考えさせる作戦か。ちくしょう、俺フラグなんか立てて何がしたいんだたけちゃがふぁっ!?」
「死ね」
「ま、さか……鉄山靠……とは、な……ぐふぅ」
全く、本当に考え事も出来やしない。