第三話:無音の町
なんだか背中に薄ら寒いものを感じながら職員室に続くドアを引くと、畑山先生の嫌な笑顔が待ち構えていた。
嫌な笑顔というのは俺の主観であって、校内の評判で言えば畑山先生の女生徒からの評判は決して悪くなく、それどころか良かったりする。だというのに、なぜ俺ばかり呼び出すのか。それも怒るならともかく、ただ書類整理を手伝って欲しいだとか、田舎からリンゴが送られてきたから食わないかとか、はっきり言えば私事でしかない用事でことあるごとに呼び出される。……ウワサが嘘であって欲しいものだ。
それで、今回畑山先生が俺を呼び出した理由は、新入生用のオリエンテーリングのプリントを作るのを手伝って欲しい、だそうだ。
「いや〜、先生、パソコンとか苦手なんだよ。伊藤は、パソコンできるもんな、去年やってもらったし。手伝ってくれたら昼飯もおごるし、単位もやるぞ」
勝手に単位とかあげて大丈夫なのだろうか。
この先生の怖いところは、こうして何かを頼むときなど、すぐに単位の話をしてくることだ。それが、単位をあげるという話ならまだいいのだが、今ここで俺が断ったりすると、笑顔でそうかしょうがないなと言いながら、成績表に1がついていたりする。だから悲しいかな。この先生の頼みを断ることは、決して良策とはいえなかった。
「じゃあ寿司おごってくださいよ」
「おお、いいぞ! 寿司か、じゃあ駅前の回転寿司で……」
「良美先生ー! 畑山先生が寿司おごってくれるそうですよー!!」
「えっ、お寿司!?」
「それも値段が時価のところですってー!!」
「ええっ、カウンター!?」
「いや待て、誰もそんなこと……」
「私、カウンターでお寿司食べるの夢だったのよ! 畑山先生、ありがとうございます!!」
「だから俺は……」
「俺も夢だったんですよ! いやぁ畑山先生は太っ腹ですね!!」
「ま……」
「ホントね! それじゃ先生、校門に車回してくるね!」
「お願いしまーす」
物凄い上機嫌で鼻歌を歌いながら、スキップで良美先生は職員室を出て行った。畑山先生は、燃え尽きた感じで「カップラーメン」と呟いている。
「さあ行きますよ、畑山先生。あ、途中で銀行によってもらいましょうか?」
この先生には、いろいろと言いたいことがあるが言えない俺だ。これくらいのことは、許してもらえるだろ。
▽
寿司屋を出たときには、畑山先生は屍と化していた。さすがに俺は遠慮して、露骨に高いと思われるものには手を出さず、尚且つ腹八分目で食べるのをやめたのだが、良美先生は鬼だった。大トロ、中トロ、ウニ、イクラなど、およそ高いと思われるものは殆ど良美先生の腹に落ちていった。だんだんと青くなっていく畑山先生の顔を見ていると少し可哀想になってくるのだが、良美先生にはそんなことは関係ないらしい。ご愁傷様だ。少しくらいは同情しておこう。
そして、夜の帳が下りた頃。ようやくプリント作成の手伝いが終わった。手伝いといっても畑山先生の機械音痴は並外れていて、実質は俺一人で作ったようなものだ。それなのに色々と駄目出しをしてくるものだから、気付いたらこんな時間になってしまっていた。ちなみに、良美先生は三時頃に帰っていった。
「お〜、出来てる出来てる。ありがとうな伊藤!」
プリンターから吐き出されるプリントを見てはしゃいでいる畑山先生の横で、俺は目頭を揉む。さすがに、五時間近く作業していると目が痛くなってくるな。
「それじゃあ帰るか。伊藤、車で送って行こうか?」
「あ〜……いえ、いいです。歩いて帰ります」
疲れてはいるが、なんだか、夜空を見ながら帰りたい気分だった。
▽
月明かりを浴びながら、俺は家への道を辿る。帰宅部な俺は、あまりこの時間に帰ることが無いので、見慣れたはずの道も少し新鮮だ。道の両脇に並ぶ家々から、いつもは聞こえない家族の団欒の笑い声が聞こえてくる。
「……ちょっと寒いな」
吹き付ける風に、思わず言葉が出る。いくら地球温暖化の世の中とは言っても、四月頭はまだ寒い。残暑に対して残寒とか言うのだろうか、などと、下らないことも考えてしまう。
それからしばらく、独り言の趣味も無いので無言で歩く。
「……おかしいな」
歩を止め、前後を見渡す。人一人いない静かな道が、ゆっくりとカーブして見えなくなっていた。
誰もいない。この辺りは住宅街で、今はサラリーマンの帰宅時間と重なるというのに。誰とも、すれ違わない。たまたまかもしれないが、それにしては妙な感じがする。何か、違和感がある。
とりあえず、また歩き出す。違和感は消えない。
それから、二十分が経過する。家には、まだ着かない。それどころか、さっきから景色が変わっていない気がする。
「道、間違えたのか?」
いや、それはありえない。いくら夜道では昼間と違って見えるとはいえ、ここには街灯もあるし、なにより学校からはほぼ一本道だ。間違えるはずが無い。
なら、なぜ家に着かない。頭をひねって考えるが、理由は分からない。そして、気がついた。
音が、消えている。窓から明かりとともに漏れてくる、明るい声が聞こえない。まるで、町中が全て眠ってしまったかのようだ。
「そんなバカな!」
地面を蹴り、ブロック塀に張り付いて中を覗く。明かりの漏れる窓の向こうには――――誰もいなかった。
食べかけの茶碗や皿、ついたままのテレビ。まるで、突然人が消えてしまったかのようだ。
違う家を覗く。一軒、二軒、三軒……誰も、いない。
「なんなんだよ……!」
怖くなって塀から離れ、家の方へと走り出す。全速力で走り続ける。が、周りの景色は変わらず、家には着かない。なんだこれは、一体何が起こったんだ。混乱する頭で考えるが、答えなど出てくるはずも無い。
そのうちに、体力が尽きて足がもつれた。勢い良く身体が投げ出される。
「……痛っ!」
両腕をついて、身体を起こす。そして、顔を上げると、一瞬、何か白い物体が視界の端で電柱の影に消えた。
痛む身体をなんとか起こして、白いものが消えた先を見つめるが、何もない。
「おいっ、誰かいるのか!!」
呼びかけた声に、答えは無い。
仕方なく、恐る恐る白いものが消えた辺りまで歩いていく。投げ出されたカバンを拾っている余裕も無い。電柱の影を覗き込む。だが、何も無い。
「なんだ、見間違いか……」
安堵と落胆がない交ぜになった何とも言えない心情で、俺は、後ろを振り返った。
「――――っ!!」
いた。白い何か。目の前に。
その瞬間、頭を衝撃が貫いた。視界が揺れ、脳が揺れる。バランスを崩して、倒れこむ。なんだ、何をされた。理解が追いつかない。
ひりひりと痛む頬に手を当てて前を見て、ようやく理解した。こいつに、殴られたんだ。
目の前にいるのは、文字通り『白い何か』。俺と同じような大きさで、一応は人の形だが、その真っ白な身体は粘土で作ったように滑らかで、顔には目も鼻も口も耳も髪の毛もない。まさに、白い何かだった。
そして、白い何かは、座り込む俺に近づくと手も指も無い腕を振り上げる。
「う、うわっ!?」
俺に向けて振り下ろされた白い腕を、俺は転がって何とか避ける。白い何かは、緩慢な動きで顔をこちらに向けると、また近づいてくる。
恐怖に駆られ、俺は無様にも這いつくばって逃げようとする。が、なんと、俺が逃げようとした方向にもう二体、白い何かが立っていた。二体より一体の方が逃げやすい。そう考えた俺がまた振り向くと、白い何かは三体に増えていて、また振り向くと、四体、五体、六体……。
そのうち通りは、白い何かに埋め尽くされていた。




