第十話:守る
アダムの動きは、目に見えて鈍くなってきていた。もはや、天使一体を倒すのに二発ほど拳を撃ち込まなければならないようだ。
だが、それも当然の話。
例えどんなに強くても、数に勝つのは難しい。ましてや、何かを守りながら戦うなど、無謀としか言えないだろう。
俺は、戦っているアダムの後ろで強く唇を噛む。
どんなにアダムが弱っていても、俺が前に出れば足手纏いにしかならないし、何より、やつらの狙いは俺なのだ。弱い俺が前に出てやられてしまえば、アダムの決死の行動を無駄にすることになる。
情けない。
自分を守ろうと戦う女の後ろで、それを見ているしかないなんて。
何かできることはないかと周囲を見渡しても、そこはただの教室。武器などあろう筈もない。椅子で殴るなどの選択肢はあろうが、俺の腕力では高が知れている。上手く倒せたとしても、この数だ。焼け石に水どころか、溶岩に水をかけるようなものだろう。
「が……っ!!」
そして、遂に天使の腕がアダムの顔面を捉えた。
「おいっ!?」
アダムはその衝撃に体勢を崩して一歩交代するが、すぐに立て直してまた天使と対峙する。
「来るな」
そして、駆け寄ろうとした俺を、静かな、しかし強く耳朶に響く声で制した。
「あなたを守る。絶対に」
――――その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが弾けたように感じ、そして一気に映像が流れ込んできた。
▽
――――それは記憶。セピア色にくすんだ、見たこともない景色。
広い草原の中を、俺とアダムが走っている。
『くそっ、もう来やがった!!』
知らない声で、俺が叫ぶ。
勝手に動いた視線の先には、空から舞い降りる無数の白い影。
白い翼で羽ばたいて、右手に白い槍、左手に丸い盾を構え、俺と隣を走るアダムに向けて降下を始める。
それは、俺の前に現れた、人形じみた天使じゃない。まさに”天使”だった。
天使たちの群れを見て、速度を上げた俺の隣で、アダムが逆に速度を落とした。それに気付いた俺は、慌てて振り返り、走れと叫ぶ。
『イヴ、あなたは逃げて。ここは、我が』
今と変わらないアダムの無機質な、だが静かな感情の篭った優しい声。
『ふざけるなっ、いくらお前でもあの数の天使相手に勝てるわけないだろっ!!』
俺ではない俺が、アダムを止めようと叫ぶが、アダムはこちらを振り向こうともしない。
不意に、アダムの目の前の空間が歪んだ。
『――――楽園、開放』
直径30センチほどの丸い歪みは、風景を絵の具のように掻き混ぜ螺旋を描き、アダムが躊躇うことなくそこに手を差し入れた。そして、その手を勢い良く引き抜くと、その白い手には、巨大な剣が握られていた。
そのとてつもなく重そうな剣を片手にぶら下げて、アダムが振り向く。
『あなたを守る。絶対に』
▽
夢から覚めたように、目の前の光景が学校のものに戻る。
(今のは、なんだ?)
見たこともない場所で、俺が俺ではない声で喋り、アダムは俺をイヴと呼んだ。
『あなたがイヴの魂を持っているからだ』
不意に、今朝のアダムの話が蘇る。
そこでアダムは、俺がイヴの魂を持っていると言った。それがアダムとイヴの話で、それが男女の違いはあっても実際にあったことだとしたら。
(……イヴの記憶)
恐らく、この想像はあっている。俺は、イヴの記憶を垣間見たのだ。
中途半端で終わった映像の、その先を思い出すことは出来ない。だが、イヴの狂いそうなほどの悲しいという感情が湧き上がってくる。その大きな感情は、あの後、二人が会うことが無かったことを意味していた。
「はあっ!!」
気合一閃、アダムの拳が天使を砕く。
「見ろ、イヴ。アダムはまだ生きてるぞ」
俺は、俺の中のイヴに語りかける。返ってくる声は無かったが、それでも、語りかけずにはいられなかった。
「悔しかったんだよな、守りたかったんだよな」
守られるだけ守られて、そして何も返すことが出来なかったイヴ。死んでしまった後も、その記憶だけを魂に刻み込み、無念を叫び続けたイヴ。そして、そんなイヴをまた守ろうとするアダム。
「……だったら、俺が代わりにやってやる」
それが、奇しくも魂を受け継いだ、俺だけができることだ。
足手纏いかもしれない。だから、俺が何をしてもそれは自己満足にしかならないかもしれない。だが、それがどうした。
1足す1はゼロにはならない。負けたと決まったわけじゃない。そして、やらなきゃ何も出来るはずが無い。
決意を込め。俺の前で戦うアダムの背中を見る。
そのとき、アダムが僅かに足を滑らせた一瞬の隙に、タイミング悪く天使の腕が振り下ろされた。
俺は咄嗟に、近くにあった椅子の背を掴む。そしてそのまま、天使の足を狙って椅子を地面ギリギリに振りぬいた。
突然の衝撃に、天使の上体が揺れる。そして、アダムがその天使の首を足で薙いだ。
「なぜ出てきた。下がっていろと――」
「いいや、下がらねぇ」
椅子を持ち上げて、振り下ろされた天使の腕を受け止める。予想以上の衝撃が走ったが、何とか耐え切り、椅子を振り上げて天使の頭に叩きつけた。
「一方的に守られるなんて許さねぇ。お前が俺を守るなら、俺もお前を守ってやる」
それが、イヴの望み。そして、幾度か窮地を救われた、俺の望みだ。