hack 2
世界が分裂する――。
一つだった世界は二つになり、二つだった世界は四つになる。
四つの世界は八つの世界に化け、八つの世界は十六の世界に増殖する。
そうして世界の増殖は256にして止まり、コマ送り状態で
寧音を中心にをぐるぐる浮遊し始める。
小部屋の中に目一杯、世界が詰め込まれた異様な空間。
寧音は、本当の世界を探す旅に出る。
256の世界には良く目を凝らすと、それぞれに現実とは違う相違がある。
その中から現実世界を見つけ出す事で寧音の旅は終わり、
還るべき場所へ戻れる。
簡単に言ってしまえば間違い探しみたいなものだ。
間違い探しは、極めて難解。
虱潰しに一つずつ目を凝らして世界を探る。
256と言う数は正確ではないのかもしれない。
寧音が直感的にそう認識している数列。
実際にはもっと多いかもしれないし、少ないのかもしれない。
しかし膨大な数である事には変わりなく、本物を見つけ出す事は
困難極まりない。
時間が掛かる。
空間の中は時限付き。
焦燥感を募らせば、その分、冷静さを失い、
間違い探しは更に困難になる。
嫌な汗を感じる。 息苦しくなる。
脳その物を書き換えられ、別人へとなり果ててしまいそうな恐怖感。
叫び出しそう。
発狂しそう。
けれど、どうする事も出来ない。
次第に256の世界は、一つずつ消滅をし始める。
もし、この中で本物の世界と同時に自分も消滅したら、
寧音自身は何処へ行きつくのだろう?
自分の部屋のベッドで寝ていたつもりが、
目を覚ましたら全く別の場所に居た。
そんなのは不安の対象以外、何物でもない。
探せ――探すんだ。
確実に減り行く世界に、タイムリミットは少ない。
もしかしたら、もう本当の世界は消えてしまったかもしれない。
だとしたら、せめて本物に限りなく近い世界でもいい。
闇雲に、必死に、縋り付くように。
256の世界に味方など存在しない。
自分の存在だけが唯一の真理。
けどそれすら押し潰されそうな恐怖、不安、絶望。
寧音は――。
荒い呼吸を繰り返しつつ――。
結局、本当の世界を見つけ出す事が出来ず、
世界から自分の存在がアンインストールされるようブラックアウトする。
気を失う――。
最中、寸前、声を捉える。
響く、伝わる、外部から侵入してくる。
心に許可なく侵入してくる。
「――おっと、さっきの女子高生ちゃん」
寧音は微かに捉えた音を、死に体の精神状態で覗きあげる。
「よだれ垂れてるよ、まったくだらしなないなぁ。
お兄さんが拭いてあげよう」
気配が傍に迫り、寧音はふと、我に返る。
256の世界は強制終了した。
外部からの接触により、一先ずは助かった。
今日の発作は運の良い方だ。
最悪な時は空間と自身の境界が崩れ、、
外部からの反応に一切対応できず、昏睡状態に陥ったケースもある。
二日、三日、目を覚ますまでの入院は避けられない。
「……自分で拭きます」
ハンカチを取り出してよだれを拭った。
「眠るなら学校か病院の待合室で寝なくちゃ。
薬局は寝るのに向いていない」
寧音も今になって、しかもこの場所で発作が起こるとは思わなかった。
今日の診察が余程ストレスだったのだろうか。
寧音は子供の頃から、
「ねえ、今、地震なかった?」
と尋ねる事が多かった。
自分の周りだけ世界が揺れていると感じたのだ。
気が付いたら時間の感覚が止まり、
友人が20メートルも先で手を振って待っていた時もある。
『寧音ちゃんって、ちょっと変わってるよね』
『寧音って最近良く、ぼーっとしてるけど大丈夫?』
そう言われるのは日常茶飯事だった。
それが成長するにつれ、症状は酷くなり、今ではこの有様。
世界の分裂を味わう羽目にまで至った。
頭に妙な痺れを感じ取ったら要注意。
次第に視界が揺れ始め、世界が分裂を始めてしまう。
宇宙と精神、魂が、存在を象るあらゆる概念から切り離されたかのような、
あの256の小部屋へ招待される。
閉じ込められる――。
携帯でコメントを返す作業に夢中になりすぎたのも相俟って、
対処するのが間に合わなかった。
と、言ってもこれとした対処法もないのだが。
強いてあるとすれば、心の準備をする時間の猶予が与えられる――
ぐらいだろう。
寧音は自分でも思うが、全くもって頼りない。
正直、襟原の言う通り、
これが治る見込みはないのではないかと諦めの念を抱く時もある。
あらゆる医療機関を訪ねても、お手上げで盥回しの状態。
MRI検査なども行ったが異常はないとされた。
挙げ句の果てに辿り着いた、
襟原メンタルクリニックだけが唯一、寧音を盥回しにせず
診てくれている医者だった――。
「そう? ほんじゃ、お先に失礼」
チャラチャラした金髪の男はスマホをいじりながら薬局を去っていった。
いつもの薬を受け取り、会計を済ませる。
何故か頼んでもいない下剤まで処方されていた。
嫌な趣味をしている院長だ。
表は、徐々に夜の帳を下ろし始めている。
見上げた建築途中の高層マンションの物理的な存在感に圧倒される。
どの部屋も最低、三千万円以上。
きっと金持ちが暮らす城にでもなるのだろう。
変わり行く街の風景を、携帯で写真に収めた。
後でブログにアップしよう。
交差点の信号を待っていると、
斜め向こうに同じ学校の制服を着た女子グループ三人を遠目に発見した。
寧音は携帯のカメラをそのままそちらへ向け、ズームして顔を覗く。
案の定、最悪の三人だった。
茶髪ロングのリーダー各を気取る安達響
ショートボブで男子の間では高い人気を誇る九条愛菜
ウェーブをかけたお嬢様気質な大木奈津
寧音は思わずシャッターを切ってしまった。
雑踏に混じり、パシャリ、と鳴った音が向こうまで届くはずはないが、
相手――九条が此方を見たような気がした。
目が合った? 不意に動機が走る。
今、鉢合わせるのは非常にまずい。
特に精神科の帰りなど目撃されたらまた脅迫のネタにされてしまう。
何も別にいじめを受けているわけではないが、
女同士の複雑な事情が寧音と三人グループの間には取り巻かれていた。
寧音は方向転換する。
交差点から離れ、やむなく遠回り。
途中、コンビニの表に出してあるゴミ箱に
貰ったばかりの薬――必要のない物を処分した。
寧音は無事に帰宅した。
帰宅しても家には誰もいない。
電気一つすら付いていない。
冷蔵庫やその他家電の音が無機質に反復しているが、
気に留めなければ、ただの静寂。
今、此処には、心臓の鼓動を静かに響かせる、自分しか居ない。
直接部屋には戻らず、一旦リビングのソファーに座り込み、
疲れた身体を休める。
岩瀬家の家族構成は父母と姉が一人いる。
父は平凡なサラリーマンで、定年を約7年後に控えていた。
母親は近場のスーパーでパートをしている。
姉、明里とは歳が三つ離れ、現在は大学へ通っているが、
最近はあまり家に帰ってくる事がない。
彼氏が居て同居――している訳でもなく、
なのにたまに朝帰りしたりと怪しさ満載だ。
前に一度、姉の帰宅が遅い事に対しての自称家族会議が行われた。
明里は友達の家に泊まったり、大学のサークル――研究室で、
日々研究とレポート作成に勤しんでいると両親を説得したが、
一体何の研究をしているのかはまでは言わなかった。
そもそも大学生に門限を付ける家もどうかしている、
と争点もあり、最後は曖昧のまま終わって現在に至る。
寧音にとって明里とは時間の流れが違う、
別の次元と世界を行き来しているような、トラベラー的な
存在に映って見える。
姉は自由に生きている――密やかな憧れでもあった。
よって、岩瀬家は親子との会話など殆どない、
型のみに収まった家庭だった。
疲れが一通り落ち着いて、自室に戻った。
部屋は二階にある。
姉の部屋は向かい側。 ドアに鍵はない。
入ろうと思えば簡単に入れてしまう。
姉の部屋のドアを見つめる。 最後に入ったのは何時だっけ――?
今、部屋の中には何があるのか。
幼い頃は良く入って一緒に遊んだりもしたが、
成長するに従って、関係も希薄になっていき、
今ではパンドラ箱と化していた。
寧音は習慣的な動作で自室のドアをあけた。
ほぼ24時間付けっぱなしになっている、
デスクトップパソコンの稼動音に安らぎを覚える。
機材等が放つ匂いはアロマの代わりで癒やされる。
真っ暗な部屋でチカチカと点滅しているルーターや、
その他、赤、青、オレンジ、等に点灯したLEDランプに萌える。
乱雑に配線された蛸足から伸びるコンセントに
自分だけの為に構築された世界を感じて興奮する。
「ただいま」
誰にでもなく、つぶやく。
着替えを済ませる。 色気のない下着を脱ぐ。
さっきの発作で掻いた汗がベトついてずっと気持ち悪かった。
着替えを済ませてから、手洗いとうがい。
そして母がパートから帰宅して、夕食。
処方された薬を水道水で飲み干し、風呂に入って、
最終的に部屋へと戻る。
ここまでは日常的な予定調和。
ごく僅かな時間のズレ。
これでネットに浸る準備は万端だ。
だが、予期せぬ事態が起きた。
早速、今日一日の出来事をブログに書こうと
サイトにアクセスしたのだが、サインインが出来なかった。
ネットワークは繋がっている。
プロバイダーに障害の情報もない。
サイトのIDもパスワードも合っている。
でも何度試しても無駄だった。
依存症特有の嫌な汗や震えが寧音を襲う。
「そ、そうだ……サポート……」
混乱の最中で思い付き、サポートのページを探す。
「あった、電話番号……」
だが、唖然とした。
受付は午前10時から18時まで。
今はもう20時を過ぎている――。
「で、でもメールでのサポートもあったはず……」
寧音はメールでのサポートを見つけ、今の状況を伝えた。
返信は何時になるのだろう?
今日は遅いから、明日になるかもしれない――。
恐らく、アカウントハック――成りすまし、
乗っ取りの被害を受けたのだ。
さも珍しくない最近のネット犯罪の一つ。
寧音はパスワードを数ヶ月に一回は変更していたが確か今月は――。
「してない……」
数ヶ月前、ブログサイトでアカウント情報の流出事件が発生し、
200万のアカウントが被害にあった。
その時に変えたのが最後だ。
絶望感に見舞われる。
夕方、病院では更新出来たのに。
不幸中の幸い、ブログを閲覧する事だけは出来る。
くららのブログへジャンプした。
アカウントハックを食らい、更新出来なくなった、
サポートに連絡済み、の旨を伝え、彼女からの返事を待つ。
F5連打、F5連打、F5連打――。
幾ら待ってもくららからの返事は来ない。
くららだって人間だ。
何時だってパソコンの前に張り付いている訳じゃない。
時間も時間なだけに夕飯や風呂にでも入っているのかもしれない。
まして彼女は自分みたくネット依存していない。
偶然でもない限り、即レスはあり得ない。
落ち着かない。
メールも何度もチェックを繰り返すが、返信はない。
やはり今日は期待出来ないかもしれない。
考えれば考えるほど、どんどんネガティブな思考が生まれてくる。
出鱈目に適当なIDやパスワードを打ってログインが成功すはずもない。
為す術なく、寧音はベッドに倒れ込んだ。
玄関から音が聞こえる。
時間的に父が帰宅したのだろう。
さっき飲んだ精神安定剤も強い不安には効果を見せない。
全く役に立たないラムネも同然だ。
くららからのコメントも付かず、メールもない。
「……どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
今にも泣き出しそうな声が虚しく部屋に響く。
そしてまた――頭に痺れを感じた。
本日二度目の発作の予兆。
現実が遠くなる。
わたしが今欲しいのはくららからのコメントや、
サポートからのメールであって、256の世界は望んじゃいない。
今日は厄日かもしれない――。
寧音はそんなことを思いながら、発作の海へと沈んで行った。




