8話
聡子はひたすら走っていた。
今朝。
着付けや化粧をしている最中に母が顔を覗かせた。
「まー。聡子。とても美人よ。」
「…母様。ありがとう。」
娘の晴れ姿に涙を落とす母を見て胸がちくりと痛む。
母の目尻のシワを見つめた。
「母様。泣くのはまだ早いわよ。向こうで父様達と待っていて。」
そうね、と母は向きを変えた。その後ろ姿を聡子は記憶に焼き付けることにした。
(…もう両親には二度と会えないかもしれない。)
今日聡子は櫻木家を捨てるのだ。
母が行った後、しばらくして別の部屋で着付けをしていた光子が姿を表す。
「山田のおばあちゃん。協力してくれてありがとね。」
聡子の着付けをしていたのはいつも聡子が野菜を持って行っていた村のおばあちゃん達だった。
聡子の着付けをするフリをして、別室ではそっくりに光子にも着付けをしていた。光子の部屋に人が入らないように見張っていたのは小太郎だ。
「私、皆になんて感謝したらいいのか…。」
「水臭いですよ。聡子お嬢ちゃんに今までたくさん親切にしてもらったんですから。」
そうそう、と山田のおばあちゃんを始め皆が笑顔で聡子を見つめる。
「姉様!早くお逃げになって!後は私がなんとかしますわ!」
「うん!」
白無垢を脱ぎ、麻布に着替える。顔が白いままなのが少しおかしい。だが落とす時間がない。
「姉様!早く!」
前日に用意していた少しの荷物を手に裏口から外へ出た。
小太郎は辺りを見回し、人影がないことを確認する。
「では姉様!ご達者で!着いたらどうか手紙ぐらいは送ってください。」
「ええ。ありがとう。本当にありがとう。」
お互い涙は見せまいと必死で笑顔を作った。
(よし!)
聡子は櫻木家を見上げた。
ーー今まで大嫌いだった櫻木家。もう見ることはないだろう。
聡子は櫻木家に一礼し外へ飛び出した。
「…え!?」
裏口から歩くとしばらくして村人が集まって来た。
「聡子嬢ちゃん。達者でな。幸せになってくれよ。」
「今までありがとな。」
「聡子嬢ちゃん。私たちは嬢ちゃんの味方だからさ。追っ手が来ても食い止めてあげる。」
聡子に親切にしてもらった村人が最後の別れを言いに集まってきたのだ。
「皆…。知ってたの?」
「小太郎坊ちゃんが先日一軒一軒回って来たのよ。村中皆知ってるさ!知らないのは櫻木家当主様達だけよ!こんだけ人が多ければ追っ手も手こずりるぞ!」
村の人の暖かさが胸に響いた。
(なんて私は幸せなんだろう。)
「ささ、早くお行き!何も心配せんと愛する人とお幸せにね。」
「皆さん、ありがとう!大好きです!!」
「ウチらも聡子嬢ちゃん大好きよ!!」
村人に暖かく見送られながら聡子は前を向いて走り出した。
汗が出て化粧は落ち、結っていた髪も解けた。それでも聡子は平気だった。
(恭平さん!恭平さん!)
ーー1分でも1秒でも早く貴方に会いたい。
隣村までは男の足で半日かかる。
聡子は今まで隣村まで歩いたことは当然ない。ましてこれほど歩いたこともなかった。
次第に足の裏のマメが潰れ痛みが走る。
「…ッ!」
我慢して走っていたがあまりの痛さにその場にへたりこんでしまった。
(どのくらい歩いたかしら。)
2時間は歩いたり走ったりしてきたように思う。
(後どのくらいだろう。)
隣村へは山をひと山越えるのだ。
あまり人通りもなく針葉樹が立ち並び昼間だと言うのにほんのり薄暗い。
(もしここで熊に出くわしたら…。)
足を負傷している聡子はあえなく熊の胃袋に収まるだろう。
「だ、大丈夫。大丈夫。何も恐れることはないわ。」
自分に言い聞かせていたその時!!カサカサっと草むらをこちらに向かって来る音がした。
(ま、まさか…!)
音はだんだん近づいてくる。
「い、いやーーッ!!来ないでーー!死にたくないのー!!恭平さんのトコへ行くまで死にたくないーッ!!!」
音は一瞬止まったがまたこちらへ近づいているようだ。
(…もうダメだ。)
やっと恭平に会えると思ったのに。神様の意地悪。こんなとこで死んでしまうんだ。
あまりの恐怖に聡子は気を失った。