囚われ姫の愛する人
これはいったいなんなのでしょうか。
私は眼下にある懐かしい顔を思わず魅入っている自分に気づきました。
「姉さん」
「アル…アルベルトなの?」
まさか。
どうして。
疑問詞を押し止め、困惑をただ浮かべている私と対称的に、弟…であるはずの美形の若者は――この状況をしごく当然と受け止めているような、そんな蕩けるような微笑をうかべています。
金髪碧眼の人外な美形です…アルベルトが私を見上げてきます。
熱情を隠そうともしない様子に私は思わず後ろへ一歩下がりました。
忘れていました。
「あっ」
階段の途中だったのです。
バランスを崩し、長いスカートの裾を思い切り踏んずけた反動で、私の身体は前へ大きく傾きました。
―落ちる!
当然襲ってくるだろう衝撃を覚悟しました。
とっさに目を閉じ、身構えましたが…。
「相変わらずそそっかしいね、姉さん」
「アルベルト…」
まず驚くべきでしょうか?
私は階段から…しかも30以上はある段数から足を踏み外したんです。
アルベルトは抱き抱えていた私を床に下ろすと、再び私を見つめてきました。
もちろん、完全に離してもらえるはずもなく、左腕でしっかりと抱え込まれています。
はたからみれば、感動の姉弟の再会、といったところでしょうか。
いっきに玄関付近にまで…助けられたとはいえ連れて来られた私としてはただただ目を丸くするばかりです。
一瞬ふんわりと身体が軽くなったかと思ったら、私は弟の腕の中でお姫様だっこ状態だったのですから。
これが、魔法という力なのでしょうか。
初めてみるわけではないけれどなかなか手際がいいですね。
驚きつつも感心していると、弟は私を抱きしめ、頬にキスを降らせてきます。
やや、ジットリとした感触がしますが…気のせいだと思いたいです。
「姉さん…逢いたかった」
やや息が荒いのも魔王との戦いで魔力を消耗したせいだと思いたいです。
「ああ姉さん、姉さんのいい匂いだ。この髪の匂い…すべすべの肌…懐かしすぎるよ。俺がどれだけ姉さんに逢いたかったかわかる?」
「あの、アル…?」
あまり密着していると…気づかなくていいことにいろいろと注意が向いてしまいそうなので、私は両腕でやんわりと彼を押し止めました。
「着替えて、きますね。帰るのでしょう?家に。これではみなに心配をかけてしまうわ」
「そうか…そうだね」
血のついた私のスカートを笑顔で眺め、王族らしい飾り立てられた衣装を弟は冷やかしてきました。
「姉さんにはよく似合ってるけど、旅をするには少し目立つな」
――旅?
アルベルトを窺いましたが彼は楽しげに微笑んでいるのみです。
確かに私と弟の故郷エドワルドは遥か遠いのでしょう。大陸の辺境の弱小国です。
その国の、いち子爵家の長女に過ぎない私がいえる立場ではありませんが、けれどここは、大陸にある訳ではないのです。
どうやってこの…異次元に浮かぶ魔王の城に入って来たのか。
おそらく、なにがしかの魔法で結界を破ってきたはずです。
帰るとすれば、その結界の綻びから出るのですから、わざわざ旅なぞせずまっすぐに結界からエドワルドへ降りればいいのではないでしょうか。私の問い掛ける視線を無視して、弟は着替えるなら手伝うとあいかわらずの強引さで近くの部屋へと連れてゆき、どこからか取り出した簡素な服を私に着せました。
王族の衣装は一人では着脱できませんので、助けは欲しかったのですが…
その…肌着である白い薄手のワンピース一枚の姿をバッチリ見られてしまったのは相手は弟とはいえ恥ずかしかったですね。
「姉さん…この白い肌にあいつは…傷をつけたりはしなかった…?」
あいつ…とつぶやくとき、弟は私のうなじをそっと撫で下ろしました。
なんとか声をあげずにすみましたが、思わず弟のたくましい胸にもたれ掛かってしまいました。
「姉さん…かわいそうに、こんなに震えて…あいつのことを思いださせたみたいだね…ごめん」
「アル…ちが…」
やはりなぜだかジットリとしています。
弟は謝罪のつもりかなんどもうなじをキスしてくるのですが…。
なんだかその…舌の感触までしてきた気がします。
気のせいにしてはあまりに肉惑的な感触です。
「アルベルト…あの、早く帰りましょう」
動揺する私を温かな眼差しで見つめ、弟は言ったのでした。
「そうだね。もう姉さんを…」
くすりと光る碧の瞳は、引き込まれそうな輝きで、それは何か楽しい事を思い付いた時の弟の表情でした。
「誰の嫁にもしないですむからね」
アルベルトの全身からは血の臭いがします。
汚れは魔法で取り除けても、微かに残った血の分子が魔王の血を主張するのでしょうか?
いえ、弟の魔法は完璧です。魔王は弟に破れてしまったのです。
臭いなど、弟にとって消し去るのは造作もない――
これは、だからわざとなのでしょう。
先程、私の衣装に夫の血を着けたのも意図してのこと。
その意味がわからないほど、子供ではありません。
私はすでに26。
女性の一般平均寿命が60、同じく平均初婚年齢は15のエドワルドでは私はすでに中年から壮年にあたります。三度も結婚しそして今回、三度目の夫の『不慮の事故』
すでに未亡人として実家の片隅でひっそりと生きてゆく他はない身です。
「私は、魔王の妻として幸せでしたよ、アル」
弟は不機嫌そうな碧の瞳をぎらりと私に向けました。
「…あいつは姉さんを渡したくないと頑張っていた。俺の命令を拒んでね。
まさか、姉さんはあいつを愛していたのか?」
美しい魔王。
純粋すぎる魔王。
もうあの長く美しいぬばたまの黒髪に触れられない。
私を優しく見つめる瞳にも逢えない―――
弟のたくらみは完璧でした。
一度目の…幼なじみで許婚の男爵家の息子との縁組は、結婚披露宴後すぐに出兵した夫の行方不明により離縁に。喪があけた三年後、今度はその兄との再婚は、結婚式の途中で現れた魔王により私がさらわれたため破談になったとのことを弟から聞きました。
ですので二回目は正式に籍には入っていないのでしょうか?
そして。
「魔王をそそのかしたのはあなただったんでしょう?」
アル。
私の弟。
魔王の城での三年間、私が聞きたかったのは、ただの真実だけでした。
魔王からの讒言でもいたわりの言葉でもなく。
睦言も要らない。
ただただ、本当のことが知りたかったのです。
「あなたは私を世間から消してしまうつもりだったのでしょう?どうして?」
弟の答えは明瞭でした。
「あなたを愛しているからだ」
暗く輝きを増す碧眼が、私を射抜きます。
「いまさらだけど、あいつは俺の使い魔に成り下がっていたんだよ。あなたを妻に出来ない俺に変わって、この空間で暮らすのはすべて俺の命令だった。
もう誰にも盗られないですむように。
魔王の妻ならば、誰もあなたを欲しがらない。
ほとぼりが冷めたら、あなたを迎えて一緒に旅をする計画をたてていたんだよ」
弟を愛していたんですね。
憐れな魔王。
心優しい魔王。
弟に心奪われた…哀しい魔王。
「これから二人でずっと旅をしよう。魔王を倒した魔術師とその姉…楽しい旅になりそうだね」
逃げられませんでした。
あなたがせっかく戦って下さったのに。
いつまでもここにいたいと言った私に構わないと言って下さったのは本当だったのですね。
「愛してるよ、姉さん」
魔王。
これから先、私は弟と生きてゆくのでしょう。
「姉さん…」
弟に抱き寄せられ、あなたの血の香りに恍惚となる私は本物の魔族になってしまったのかもしれません。
「アル…」
「俺を裏切ったあいつは姉さんにも魅了されていたんだね…姉さんは俺だけでなくあいつも…愛してるんだろう?」
そうでしょうか?
私にはそうは思えません。
弟が愛した私を、慈しんで下さったあなた。
私が愛したあなたを嫉妬する、私の弟。
私の意思なんて誰も求めてはいないのです。
泣きたいくらいに不幸なはずなのに、いま私は思い出されて仕方がないのです。
庭の花をあなたと見つめていたとき、温かな光と風に揺れる花を。
ふと顔を見つめてお互いに笑い声をあげたなんでもない瞬間を。
懐かしくて苦しくて微笑むことしか出来ないのです。
それともこの感情もまたすぐに色褪せてしまうのでしょうか。
かつて弟と交わった時の感情が、すでに今…過去でしかないのと同じように。
――私はあなたのもの。
――あなただけのもの。
――私はあなたのもの。
――あなただけのもの。
私はあなたを――――――
――愛しています。