冷たい手
待ち合わせに少し遅れてやってきた彼女が駆けてくる。俺は手にしていた文庫本に栞を挟みバス停のベンチから立ち上がった。彼女は軽く息を切らしている。
「ごめんなさい。待ちましたか」
形式上、首を横に振る。栞を挟んだページは213ページであることは告げない。
「それにしても今日はとても寒いですね。それに暗いときに二人きりで会うのってちょっとドキドキしませんか」
俺は一昨日の天気予報で今日は最高気温が三十二度になると言っていたことを思い出した。今日は七月二十六日の朝、九時半だ。それを言うべきか迷ったが多分言っても無駄だろう。
俺の彼女は俗に言う電波さんである。
見た目はとてもかわいらしい。きつくない化粧は元々形のいい目鼻を際立たせて美しく見せている。背の高い彼女にベージュのロングコートはとてもよく似合っていて、そこからすらりと伸びた黒いズボンに覆われた足は年に不相応な魅力を感じる。
しかし常々何か受信してるようでさっきみたいな訳のわからない言動や行動を取り始める。俺はそれを付き合うまではしらなかった。別れようと思わなくもなかったが、十人に訊いたら十人が「お前とは釣り合ってない」と断言する容姿とたまに見せるやたらとかわいい仕草が決断を先延ばしにさせている。十八年生きてきたけど俺には彼女ができたのが初めてなのだ。
「あの、えーと、どこ行きますか?」
黙りこくっていた俺を覗き込んでくる。鎖骨がモロに視界に入り思わず顔を背ける。女の子耐性が薄い。疑問符を浮かべている彼女。「どこ行きたい?」言葉が浮かばなかったのでとりあえず聞き返した。文庫本読んでるくらいならデートプランぐらい考えてろといまさら自分を叱責する。初デートなんだから仕方ない気がしなくもない。いままではずっと図書室で普通に喋ってただけだったからな……。彼女、最近までよく電波なことを隠し通したものだ。
「んーそうですねー」
彼女は顎に手を当てて悩み顔。
とりあえずここは大通りなので大抵のものはある。映画か、カラオケかな、と男友達と行く店の場所を脳内で検索した。
彼女は「じゃあ学校行きましょうか」と言った。
とてもとても明るい声だった。
夏休み中に?
わざわざ学校に?
デートに?
行くのか?
「あの、まじで言ってますか?」
「ん? 私、なんか変なこと言いました?」
彼女の表情は「何をバカなことを、夏休みのデートと言えば学校が定番でしょう」とでも言いたげに見える。堂々とそんな顔をされると俺が間違ってる気がしてくるから不思議だ。彼女、健康用品の訪問販売員とか向いてるかもしれない。白い息を吐く。
「えっと、私は別にどこでも構いませんよ。あなたと二人っきりで歩くのもとても楽しそうですし、そこにラブがあるなら」
フォローされているのだろうか。
嬉しいのが半分、気を使わせてしまったことが申し訳ないのが残り半分。
「いや、行こう。学校」
微笑む彼女は最高にかわいい。
「あーでもちょっと喉が渇いたな」
「あ、私もです」
丁度緑色の看板が掛かったコンビ二があったので二人で入る。普段はあまり素行のよろしくない学生のたまり場になっている辺りだが誰もいなくて助かった。
店内に入ると足元がぐらついた感じがした。暑いとこから急に冷房の効いた店内に入ったからか。入り口で思わず立ち止まってしまう。先を行く彼女はレジの方を一度見てすぐに陳列されたペットボトルに視線を戻す。
彼女は素早くジュースを二本、自分のバッグの中に入れた。
あまりのことに声も出なかった。
咎める気持ちよりも呆気に取られた。
すたすたと僕のほうに引き返してくる。
「な、なにしてんの……?」
「まあまあ」
悪びれる様子もない。
「まずいって。戻しなよ」
俺は少しきつめの声を出そうとしたが、女の子を怒った経験なんかあるはずもなく声の出し方がわからない。
コンビ二を出る彼女の背中を追う。
「はい。どうぞ」
ボトルにジュースを渡してきた。
「……いつもこんなことしてんの?」
「いつもはしませんよ、流石に」
彼女がわからなかった。
振り返るが店員さんが追いかけてくる気配もない。そして成功してしまった万引きを咎めて謝らせるほど俺は人間ができている訳でもない。あとでさりげなくやめるように言おうと思い、キャップを開ける。炭酸の泡と一緒に猛烈に罪悪感が浮かんだ。
「じゃあ、学校いきましょうか」
鼻歌でも歌いだしそうだ。彼女の足取りは軽い。
「まったく……、君にはどんな景色が見えてるのかなぁ」
一人言を呟いたつもりが彼女の耳に届いてしまったみたいだ。彼女が振り返る。
「何って、んーと……、今日はとても寒いです。ちょっと暗くてドキドキします。二人っきりがとても楽しいです。ほんの少しだけ不安ですけど、心細くはない。あとこれ、その辺りの洋品店でパクってきたんです。一度着てみたかったんですよ。こういうの」
益々わからなくなった。
「寒くありませんか?」
むしろさっきからあなたが近くにいるので頬を中心に熱っぽいです。
「顔、赤いし。風邪とかじゃありませんよね?」
彼女が右手を伸ばして俺の頬に触れてきた。その手は冷たくてとても心地いい。彼女の顔が近くにあるのが気恥ずかしくて俺は目を閉じてしまう。
恐る恐る目を開ける。彼女の顔があった。
その後ろに倒壊した建物が並んでいた。歩道橋は潰れて道路に横たわっている。車が下敷きになって中に人が死んでいる。よく見ると辺りには建物に下敷きになったり事故を起こしたりしたらしい、死体死体死体死体死体、どこかの空が燃えていた。そのどこか以外は灰色で塵と水の混じったような厚い雲が浮かんでいて光を遮っている。光が届いていないせいか、ひどく空気が冷たい。俺達がいま出てきた建てつけの歪んだコンビ二が隣のビルに支えられてなんとか立っていた。看板が割れてそこに書かれた字が読めない。レジの奥には降ってきた二階に潰されて首から上のない店員がいる。商品の大半が床に落ちていた。誰かに踏まれたのかへしゃげている。
彼女の手が俺の頬から離れた。
「嘘だろ」
そんな世界は嘘だ。
なぜこんな時に彼女といるのかとか両親があの店員さんと同じ感じで潰れてしまったとか恐くなって友達を訪ねたらやっぱり死んでいたとかそんなのは全部嘘だ。
俺は今日デートの待ち合わせをしていた。昨日の夜からバス停で待っていたなんてことはない。待ち合わせ場所に遅れてやってきた彼女に俺は暑いと愚痴を溢そうか考える。喉が渇いているのでジュースを買う。彼女は万引きなんてしない。あれ?
「学校にいけば、他に生き残ってる人と会えるでしょうか」
生き残ってる? 何を言ってるんだろう。
そろそろ彼女の電波発言に付き合うのも疲れてきた。