理想は、理想だけでは通らない。だが、理想を信じる人間が、制度の闇を見たまま立ち続けることで、政治に裂け目が生まれる。
このたびは、『国会の夜明け』をお読みいただき、ありがとうございます。
政治という言葉を聞いたとき、皆さまは何を思い浮かべるでしょうか。
国会で交わされる激しい議論。選挙のたびに掲げられる公約。テレビやインターネットを通して伝えられる政治家の言葉。あるいは、複雑な制度や数字ばかりで、自分の暮らしからは遠い世界だと感じる方もいるかもしれません。
しかし、国の予算も税金も法律も、決して私たちの生活と無関係ではありません。
一つの予算が削られることで、地域を走っていたバスがなくなるかもしれません。病院や学校を維持できなくなる町があるかもしれません。反対に、誰にも十分な説明がされないまま、必要性の見えにくい事業へ大きなお金が流れていることもあります。
数字の向こう側には、いつも誰かの暮らしがあります。
本作の主人公・神谷直人は、財務省で長く予算や税制度に携わった後、国会議員になります。
彼が政治家を志したのは、権力を得るためではありません。制度の内側から見てきた矛盾を、自分の手で変えたいと考えたからです。
けれども、正しいと思う政策を掲げれば、政治が動くわけではありません。
一つの制度を変えれば、利益を失う人がいます。一つの不透明な予算を明らかにすれば、それまで築かれてきた関係が崩れます。正論を語るほど、敵が増えることもあります。
そして神谷自身もまた、完全に潔白な人間ではありません。
彼はかつて、官僚として制度を支えていました。疑問を抱きながらも、組織の論理を受け入れたことがあります。見て見ぬふりをした記憶もあります。
過去に沈黙した人間に、今さら正義を語る資格はあるのか。
理想を実現するためなら、どこまで妥協すべきなのか。
自分の政治生命と、明らかにすべき真実のどちらを選ぶのか。
『国会の夜明け』は、一人の英雄が悪を倒し、すべてを解決する物語ではありません。
理想を持つ人間が現実に傷つき、自分の弱さや過去と向き合いながら、それでも立ち続けようとする物語です。
神谷の周囲には、若手記者の七瀬真琴、地方自治体職員の川畑孝行、反対派に身を置きながら良心を捨てきれない浅見、そして彼の前に立ちはだかる官僚や政治家たちが現れます。
登場人物たちは、それぞれ異なる立場にいます。
政治家には政治家の事情があり、官僚には官僚の論理があります。記者には報道機関の制約があり、地方職員には守るべき生活と家族があります。
誰もが自由に正義を選べるわけではありません。
それでも、誰かが沈黙を破ることで、別の誰かが立ち上がることがあります。
一人の言葉が届かなくても、その言葉を受け取った人が、次の一歩を踏み出すかもしれません。
夜が明ける瞬間は、突然訪れるものではないのだと思います。
最も暗い時間の中で、誰かが小さな明かりを守り続ける。その明かりが少しずつ受け継がれ、やがて朝の気配へ変わっていく。
本作のタイトル『国会の夜明け』には、そのような思いを込めました。
本作品はフィクションです。登場する人物、団体、制度、事件などは、現実の特定の人物や組織を描いたものではありません。
しかし、物語の中で神谷たちが直面する迷いや葛藤は、政治の世界だけに存在するものではないと思います。
組織の中で疑問を感じながら、声を上げられなかったこと。
正しいと思うことと、自分の立場を守ることの間で迷ったこと。
一人では何も変えられないと、諦めそうになったこと。
そのような経験を持つ方にとって、神谷直人の選択が、どこか身近なものとして感じられれば幸いです。
理想は、すぐには勝たないかもしれません。
けれども、理想を語る人がいなくなれば、変化の可能性も失われてしまいます。
神谷たちが暗い国会の中で見つけようとする、小さな夜明け。
その行方を、最後まで見届けていただけましたら幸いです。
朝霧颯
国会の夜明け
朝霧颯
※本作品はフィクションです。登場する人物、団体、制度上の出来事は創作であり、実在のものとは関係ありません。
第一章 制度の中にいる男
十一月の朝、国会議事堂の白い御影石は、冬の入口に立つ空の色を映していた。
神谷直人は正門の前で一度だけ足を止めた。議員バッジを左胸に留めた濃紺のスーツは、昨日まで着ていたものと同じ仕立てだったが、胸元にある小さな金色の印が、体の重心まで変えてしまったように感じられた。
財務省にいた頃、彼はこの門を数え切れないほど通った。予算委員会の答弁資料を抱え、国会連絡室からの電話に追い立てられ、議員会館の廊下を走った。あの頃は、議員たちは質問する側で、自分たちは答えを作る側だった。今日からは違う。少なくとも、そう信じていた。
「神谷先生、おはようございます」
背後から声をかけた秘書の小宮が、少し息を切らして追いついてきた。三十二歳。選挙期間中に政策担当として加わり、そのまま公設秘書になった男である。まだ「先生」と呼ぶたびに、どこか照れが混じっていた。
「その呼び方、まだ慣れないな」
「私もです。でも今日からは、間違えると怒られますから」
「誰に」
「この建物全体に、です」
神谷は笑った。笑いながら、もう一度議事堂を見上げた。
国を動かす建物というより、動かない国を守るための巨大な錨に見えた。
初登院の玄関には、カメラが並んでいた。新人議員たちは家族や支援者に囲まれ、花束を掲げ、万歳をしていた。神谷の周囲にも地元の後援会幹部が集まり、「財務省出身の即戦力」と書かれた旗を持っている。記者がマイクを向けた。
「神谷さん、初登院の抱負をお願いします」
「制度を国民の手に戻す仕事をしたいと思います」
「具体的には」
「税金がどこから集まり、どこへ流れ、誰の生活をどう支えたのか。それを、専門家でなくても確かめられる国にしたい。若い世代が、負担だけを押しつけられていると感じない仕組みを作ります」
「財務省を敵に回すことになりませんか」
一瞬だけ、周囲の空気が硬くなった。
「財務省も国会も、敵ではありません。制度は人を守るためにあります。守れなくなった部分を直すだけです」
記者たちはペンを走らせた。神谷は用意していた言葉を落ち着いて言えたことに安堵した。しかし、列の向こう側に見覚えのある男を見つけたとき、その安堵は薄くなった。
榊原修司だった。
財務省主計局の審議官。同期入省で、かつては同じ机を並べ、夜明けまで予算書を作った仲である。榊原は省庁側の連絡要員たちと立っていた。目が合った。神谷が軽く会釈すると、榊原も同じ角度で頭を下げた。
ただし、笑わなかった。
それだけのことが、妙に胸に残った。
取材の列を抜けたところで、携帯電話が震えた。妻の由美からだった。
取材の列を抜けると、妻の由美からメッセージが届いた。
――テレビで見ました。ネクタイ、少し曲がっていました。今日は帰れますか。
神谷は「できるだけ早く帰る」と返した。すぐに、政治家の「できるだけ」は官僚の「検討します」と同じか、と返ってきた。
立候補に最も強く反対したのは由美だった。役所に残ればいいと言う彼女へ、方針を変えるには政治へ行くしかないと説明したとき、「決める側に行きたいのか、決められない自分が嫌なのか」と問われ、答えられなかった。
当選の夜、由美は言った。正しいことをしているつもりで、周囲へ無理をさせないで、と。国を変えるという大きな言葉の陰では、家族の夕食や休日のような小さな時間が消える。その重さも自分の責任なのだと思った。
小宮に促され、神谷は携帯電話をしまった。
建物の中へ入る直前、玄関脇で一人の高齢男性に呼び止められた。選挙区から来た後援会の古参、田所だった。地元で小さな印刷会社を営んでいる。
建物へ入る直前、選挙区の古参支援者・田所が古い大学ノートを差し出した。選挙中に神谷が語った約束を、日付と場所ごとに書き留めたものだった。
「政治家も有権者も、忙しくなると忘れます。できなかったなら、なぜできなかったか聞くための帳面です」
「厳しい帳面ですね」
「商売の帳簿よりは甘い。政治は何兆円ずれても、言葉で説明できるらしいから」
神谷はノートを鞄へ収めた。後に彼が「理想の帳簿」と呼ぶ一冊だった。
「皆さんは、有権者の負託を受けた国民の代表です。同時に、党の公認を受けて当選した仲間でもあります。個性を発揮しながら、結束を守っていただきたい」
拍手が起きた。
神谷の隣に座った新人議員が、小声で言った。
「個性を発揮しろ。ただし、結束を乱さない範囲で」
「難しい条件ですね」
「難しくない。余計なことをしなければいい」
冗談のように言い、男は拍手を続けた。
総会後、党職員から委員会希望を聞かれた。神谷は財務金融委員会と行政監視を希望したが、職員は名簿を見て首を傾けた。
「財務省ご出身ですから、財務金融は調整できると思います。ただ、最初の一年は、党の方針に沿った質問をお願いすることになります」
「党の方針に反する質問はできない?」
「できないということではありません。事前に部会と国対へ相談していただくという意味です」
「相談して、認められなければ」
「そのような場合は、質問の時期や表現を調整します」
また、反対されずに消える仕組みだった。
神谷はまだ、それを自分に向けられたものだとは考えていなかった。
新人議員総会、院内手続き、会派の打ち合わせ。午前中は祝福の言葉と書類の署名で過ぎた。国会議員になったという実感より、新しい役所へ異動したような感覚の方が強かった。
午後、神谷は初めて本会議場の席に座った。
天井は高く、赤い絨毯の上に声が吸い込まれていく。テレビで見るより狭く、しかし一人の人間が抗うには広すぎた。議員たちは隣席と話し、資料をめくり、携帯端末を確認している。ここでは国家の方針が決まる。そう教科書には書いてある。だが実際には、多くのことがこの場へ持ち込まれる前に決まっていた。
神谷はそれも知っていた。知っているからこそ、変えられると思っていた。
数日後、彼に最初の質問機会が回ってきた。新人としては異例の早さだった。財務省出身という経歴を党が利用したかったのだろう。質問は予算執行の透明性と、若年層の負担に関するものだった。
登壇を待つ間、掌に薄い汗がにじんだ。官僚時代には、答弁席の後ろで何度もこの光景を見た。質問者の言葉を予測し、答弁者の手元へ紙を差し入れた。今日、紙を持つのは自分だった。
「神谷直人君」
議長に名を呼ばれ、神谷は立った。
壇上へ向かう数歩が、これまでの人生のどの廊下より長く感じられた。
「私は、財務省に十七年間勤務しました」
議場のざわめきが少しだけ小さくなる。
「予算を作る側にいた人間として、申し上げなければならないことがあります。日本の予算は、違法に使われているから分かりにくいのではありません。合法のまま、誰にも全体が見えない形に分割されているから、分かりにくいのです」
前方の閣僚席で、誰かが顔を上げた。
「国民は、税金を納めるときには一円単位で説明を求められます。しかし、国がその税金を使うとき、説明は何百ページもの資料に分散されます。制度を知る者だけが追える帳簿は、国民の帳簿とは呼べません」
野党席の一部から拍手が起きた。与党席では、指先だけを合わせる小さな拍手と、腕を組んだ沈黙が混じった。
「若者の雇用、地方の医療、公共交通、子育て支援。予算の数字の向こうには、一人ひとりの生活があります。私は、政府支出の流れを国民が検索し、比較し、検証できる仕組みを提案します。正しい政策を選ぶ前に、何が行われているのかを、誰もが見られる国にしなければなりません」
自分の声が議場の奥へ届いていく。神谷は一瞬、この場所が変わる予感を覚えた。
だが、質問が終わり、担当大臣が立つと、予感はすぐに薄れた。
「政府といたしましても、予算の透明性は極めて重要であると認識しております。現在も各種の公開制度を通じ、適切な情報提供に努めているところであります。議員ご指摘の新たな仕組みにつきましては、行政コスト、情報保護、既存制度との整合性を含め、慎重に検討してまいります」
非の打ち所のない答弁だった。
そして、何もしないという答えだった。
席へ戻る途中、先輩議員の牧野が小声で言った。
「いい演説だったよ」
「ありがとうございます」
「だから危ない」
神谷は足を止めかけた。
牧野は前を向いたまま続けた。
「正しい話ほど、通し方を間違えると敵を増やす。君は元官僚だから分かっていると思ったが」
「敵を作らないことが目的ではありません」
「そう言えるのは、敵がまだ顔を見せていないうちだけだ」
その日の夕方、神谷の質問映像は短く切り取られ、ニュースや動画サイトで広がった。「元財務官僚が予算の不透明さを告発」「与党新人、政府に異例の苦言」。事務所には激励のメールが届き、若い世代からの反応も多かった。
小宮は興奮していた。
「先生、演説動画、もう二十万回を超えています」
「再生回数で法案は通らない」
「でも、届いています」
神谷は画面を見た。コメント欄には、期待と怒りと冷笑が入り混じっていた。
――こういう人を待っていた。
――財務省にいた人間が何を言っている。
――どうせ口だけだ。
最後の一文に、神谷は指を止めた。
口だけではないことを証明したかった。早く。できるだけ早く。
翌週、神谷は党の行政改革部会へ、政府支出の可視化に関する提案書を提出した。国と自治体の補助金、委託費、基金、税制優遇の情報を共通の番号でつなぎ、国民が一つの画面から追えるようにする構想である。
会議室には二十人ほどの議員と、各省庁の担当者が集まった。神谷が説明を終えると、座長の藤岡が眼鏡を外した。
「理念は分かる。反対する人はいないだろう」
神谷は小さく息をついた。
「では、部会案として具体化を――」
「ただ、いくつか問題がある」
藤岡は指を折った。
「まず費用。次に個人情報。企業秘密。自治体の事務負担。既存システムとの重複。そもそも国民がどれだけ利用するのかという需要の検証も必要だ」
「段階的に導入できます。既存データを共通形式に変換するだけでも――」
「神谷君」
別の議員が割って入った。
「君の言うことは理屈としては正しい。だが、現場は理屈だけでは動かない。地方自治体の職員に、これ以上の入力作業をさせるのか」
「入力項目を増やすのではなく、重複する報告を統合します」
「それを誰が保証する」
「制度設計で――」
「制度設計という言葉を、現場は一番嫌うんだよ」
笑いが起きた。悪意のある笑いではなかった。長い経験から生まれた、物分かりのよい笑いだった。
神谷は資料をめくった。
「少なくとも、検討チームを設置していただければ、三か月で試案を――」
藤岡は穏やかに首を振った。
「まず関係部門と調整してくれ。税調、総務部会、デジタル部会、地方組織。皆の理解を得た上で、改めて議題にしよう」
「いつまでに調整すればいいでしょうか」
「期限を区切る話ではない」
会議は次の議題へ移った。
提案は否決されなかった。
だからこそ、消えた。
会議後、廊下で小宮が悔しそうに言った。
「反対なら反対と言えばいいのに」
「反対しない方が、確実に止められる」
「最初から分かっていたんですか」
「頭では」
神谷は資料を鞄にしまった。
「でも、自分が提案する側になれば、少しは違うと思っていた」
その夜、久我山征一から呼び出しがあった。
久我山は与党の政策調整を長く担い、閣僚経験もある実力者だった。派閥の領袖という古い呼び方を嫌い、自分を「調整役」と呼ばせている。しかし党内人事、業界団体、地方組織、官僚機構のどこを動かすにも、彼の了承が必要だった。
指定されたのは、議員会館ではなく赤坂の料亭だった。
神谷が通された部屋には、久我山が一人で座っていた。床の間に白い椿が一輪生けられている。料理はまだ運ばれていなかった。
「初質問、見たよ」
久我山は柔らかく笑った。
「立派だった。声も通る。数字にも強い。ああいう若手は党に必要だ」
「ありがとうございます」
「ただ、少し急ぎすぎている」
神谷は黙った。
「君は財務省で十七年やった。役所で、課長補佐がいきなり事務次官の決裁を変えられたかね」
「国会議員と課長補佐は違います」
「違わないよ。組織という意味ではね」
久我山は湯呑みを持ち上げた。
「国会は自由に意見を言う場所だ。だが、政策を実現する場所でもある。実現には順序がある。仲間を増やし、貸しを作り、時機を待つ。君の透明化案だって、十年かければ形になるかもしれない」
「十年待つ間に、地方はさらに疲弊します」
「十年かけてでも残すのが政治だ。明日すべてを変えようとする人間は、明後日には誰も残せない」
料理が運ばれてきた。久我山は箸を取らず、神谷を見た。
「君には将来がある。委員会のポストも、党の役職も、いずれ用意できる。まずは党の中で信用を積みなさい。改革は、それからでも遅くない」
「信用とは、何をしないことで得られるのでしょうか」
久我山の笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
「何かをしないことではない。皆が守っているものを、理解することだ」
「守っているものが国民ではなかったら」
「国民という言葉は便利だ」
久我山はようやく箸を取った。
「一億人を一つの顔にして話せる。だが現実には、国民は利害の異なる一億人だ。君が誰かを救えば、別の誰かが負担する。予算は善意の配分ではない。痛みの配分だよ」
神谷は反論できなかった。
久我山の言葉は、間違っていなかった。間違っていない言葉が、何かを隠すために使われている。その感覚だけが残った。
料亭を出ると、雨が降っていた。小宮が車を呼ぼうとしたが、神谷は歩くと言った。濡れた歩道に街灯が伸び、足元で揺れていた。
「どうでした」
「期待していると言われた」
「それは、よかったじゃないですか」
「期待というのは、便利な縄だな」
小宮は何も言わなかった。
事務所へ戻ったのは午後十時を過ぎていた。スタッフは帰り、照明の落ちた議員会館は、昼間とは別の建物のようだった。廊下の奥で警備員の靴音だけが響く。
机の上に、一通の封筒が置かれていた。
白い、厚手の封筒。宛名はワープロで印字され、差出人はない。
「これ、いつ届いた」
小宮が首をかしげた。
「夕方の郵便にはなかったと思います。秘書室の誰かが受け取ったのかもしれません」
神谷は封を切った。
中から数十枚のコピーが出てきた。古い予算要求書、補助金の配分表、事業評価書。十年以上前の日付がある。地方振興を目的とした広域基盤整備事業。その名称には覚えがあった。
主計局で担当していた案件だった。
最初の数枚は、国会にも公開された資料と同じだった。だが後半には、見たことのない表がついている。自治体ごとの要望額、査定額、最終配分額。その横に、事業者名と意味不明の記号が並ぶ。
神谷は椅子に座った。
「先生?」
「この自治体、医療圏の維持が限界で、交通網の更新を要望していた。なのに配分は三分の一に削られている」
「こっちの自治体は、満額ですね」
「必要性の評価は低かったはずだ」
満額を受けた自治体では、大型の交流施設が建設されていた。運営を受託した企業の名前を見て、神谷の胸に小さな棘が刺さった。財務省時代、業界説明会で何度か聞いた会社だった。
資料の最後に、赤いペンで一文が書かれていた。
――あなたは、この数字を知っていたはずだ。
神谷は何度も読み返した。
「脅迫ですか」
「違う」
「では、告発?」
「まだ分からない」
紙の端が、指の下でわずかに震えていた。
神谷は決裁欄を探した。局長、次長、課長、企画官。並んだ印影の下に、担当補佐の欄がある。
そこに、若い頃の自分の印があった。
神谷。
朱肉のかすれ方まで覚えていた。
十四年前、徹夜続きの予算編成で、何百枚もの資料に押した印。その一つだった。内容を精査した記憶はない。上司から回ってきた調整済みの数字を確認し、形式上の不備がないことを見て押したのだろう。
だが、印は記憶より正確だった。
自分は知らなかった。
そう言えるのか。
知ろうとしなかっただけではないのか。
窓の外で、雨が国会議事堂の輪郭をぼかしていた。昼には白く見えた石壁が、夜の中では巨大な影になっている。
神谷は資料を閉じた。
議員になって最初に突きつけられた帳簿には、敵の名ではなく、自分の名が記されていた。
第二章 理想の重さ
翌朝、神谷は誰より早く議員会館へ入った。
翌朝、神谷は誰より早く議員会館へ入り、配分表を見直した。必要性の高い自治体ほど査定が厳しく、一部の低評価事業だけが満額に近い。違法と呼ぶ証拠はないが、偶然では片づけにくい偏りだった。
小宮は封筒の受領記録がないことを確認していた。議員、秘書、職員、省庁の連絡要員。資料を直接置ける人間は多い。二人は存在を伏せ、コピーを事務所の外へ保管することにした。
神谷が財務省へ過去の配分根拠を照会すると、三十分後に榊原から電話が来た。
「古い資料を探しているそうじゃないか。今夜、会おう」
役所は遅いと思われているが、危険を察知する速度だけは速い。榊原はそう言った。
「保存年限を過ぎた文書が含まれる可能性がございます。担当課と確認の上、改めてご連絡いたします」
「事業評価書と配分根拠だけで構いません」
「配分根拠、でございますか」
電話の向こうで、声が一拍遅れた。
「はい。最終査定に至る過程が分かるものです」
「承知いたしました」
通話はそれで終わった。
三十分後、榊原から電話が来た。
「久しぶりだな」
同期の声は、昔と変わらず低く、余計な感情がなかった。
「初登院で会っただろう」
「あれを再会と呼ぶならな。今夜、時間はあるか」
「何の話だ」
「古い資料を探しているそうじゃないか」
神谷は受話器を握り直した。
「情報が早いな」
「役所は遅いと思われているが、危険を察知する速度だけは速い」
「危険なのか」
「会って話す」
指定されたのは、霞が関から少し離れた古い喫茶店だった。官僚時代、二人が残業の合間に抜け出していた店である。夕方になると客は少なく、窓際の席から官庁街の明かりが見えた。
榊原は先に来ていた。黒いコートを椅子の背に掛け、砂糖を入れないコーヒーを飲んでいる。髪に白いものが増えたが、細い目と、相手の言葉を最後まで聞いてから返す癖は変わっていなかった。
「議員バッジは」
「外してきた」
「賢明だ。ここで見せびらかすものじゃない」
神谷は向かいに座った。
「資料室へ電話しただけで、審議官が出てくるとは思わなかった」
「君の名前で、十四年前の地方振興事業の配分根拠を求められた。私でなくても気にする」
「何を」
「なぜ今なのかを」
店員が水を置いた。神谷は注文をせずに待った。榊原も急かさなかった。
「差出人不明の資料が届いた」
榊原の指が、カップの取っ手から離れた。
「どんな資料だ」
「配分表だ。公開資料とは違う数字がある」
「見せてくれ」
「先に説明してくれ」
「何を」
「なぜ必要性の低い事業に満額がつき、医療や交通の要望が削られた」
榊原は窓の外を見た。行き交う人々の影がガラスに重なる。
「十四年前の査定理由を、今ここで正確に説明できる人間はいない」
「君は当時、調整班にいた」
「君もだ」
言葉が静かに落ちた。
「だから調べている」
「調べてどうする」
「不適切な配分だったなら、今の制度を直す」
「不適切と違法は違う」
「違法でなければ正しいのか」
「その質問をする人間が一番危険だ」
榊原は神谷を見た。
「予算は、正しいものに順番に金をつける作業ではない。限られた財源の中で、自治体、業界、政党、国会日程、景気、雇用、災害、外交まで折り合わせる。ある事業だけ切り取れば不合理に見えても、全体では必要なことがある」
「その全体は、誰が見ている」
「少なくとも、国会演説の再生回数で政策を決める人間ではない」
神谷は水を一口飲んだ。冷たさが喉に刺さった。
「君は、俺が人気取りでやっていると思っているのか」
「そうは思わない。だから心配している」
「心配?」
「君は本気だ。本気の人間は、引き返す場所を見失う」
榊原は声を落とした。
「当時の君は、上から渡された数字を処理しただけだ。責任を感じる必要はない。今さら掘り返しても、誰も救われない」
「誰も救われないというのは、誰も困らないという意味か」
「違う。困る人間は大勢いる。だから救われないんだ」
神谷には、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
榊原は伝票を取った。
「資料を見せろとはもう言わない。ただし、外へ出す前に考えろ。数字は事実だが、数字だけでは真実にならない」
「十四年前、何があった」
榊原は立ち上がった。
「君は議員になった。質問する権利がある。私は官僚だ。答えない義務がある」
「そんな義務はない」
「制度の中にはある」
榊原はコートを着た。
「直人。君が壊そうとしているものの中には、君が守りたい人間もいる」
名字ではなく名前で呼ばれたのは、十年ぶりだった。
神谷は何も返せなかった。
財務省から正式な回答が届いたのは、三日後だった。公開可能な資料として、事業概要、予算額、執行実績、政策評価書が送られてきた。神谷は一枚ずつ、封筒の資料と照合した。
三日後、財務省から公開可能な資料が届いた。事業概要、総額、最終配分額は一致している。だが、自治体別の要望額と、配分を決めた根拠だけが抜けていた。
担当課は保存年限を過ぎて廃棄された可能性を口にし、廃棄記録まで残っていないという。結果は保存され、理由だけが失われている。
制度の欠陥なのか、誰かの意志なのか。答えは、配分を削られた側にあるはずだった。
人口四万二千人。合併時には六万人を超えていたが、十五年で急速に減った。駅前の商店街は半分以上のシャッターが下り、路線バスは一日数本になっている。市役所の建物は古く、暖房が効きすぎた廊下に、紙と灯油の匂いが漂っていた。
応接室で市長と幹部職員から説明を受けた。表向きの話は、どの自治体でも似ている。人口減少、税収不足、医療人材の確保、公共施設の老朽化。神谷は数字を聞きながら、壁に貼られた市内地図を見ていた。集落を示す印が、山の奥まで散らばっている。
「十四年前、広域基盤整備事業に申請されていますね」
市長の表情がわずかに動いた。
「古い話ですな」
「医療拠点への交通路と、診療所の統合整備を要望していた」
「結果はご存じでしょう」
「三分の一しか配分されなかった」
「それでも、いただけただけありがたいと申し上げるのが、自治体の作法です」
市長は笑ったが、目は笑っていなかった。
「理由を聞きましたか」
「国の総合的な判断です」
「納得されたのですか」
「神谷先生」
市長は背もたれに体を預けた。
「国会議員になられたばかりなら、覚えておかれた方がいい。地方は、国に納得を求めません。次の予算を求めます。理由を問い詰めて、翌年の要望まで削られたら困る」
市長の隣に座っていた中年の職員が、膝の上の資料を握り直した。
説明が終わり、神谷が庁舎を出ようとしたとき、その職員が追いかけてきた。
「神谷先生」
名札には、財政課長補佐・川畑孝行とある。
「少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
二人は市役所裏の駐車場へ移動した。冬の風が山から吹き下ろし、川畑の薄い髪を乱した。
「さきほどの事業ですが、市長は本当のことを全部は言えません」
「あなたは言えるんですか」
「言えば、ここにはいられなくなるかもしれません」
川畑は周囲を見回した。
「それでも、誰かに知ってほしいんです」
彼は鞄から薄いファイルを出した。中には自治体側で作成した当時の試算表が入っていた。
「国の評価では、うちの計画は費用対効果が低いとされました。人口が減る地域に大きな投資をしても、利用者が少ないという理由です」
「評価基準としては一般的です」
「一般的だから、地方が死ぬんです」
川畑の声は震えていなかった。
「人口が少ないから病院を統合する。病院が遠くなるから高齢者が住めなくなる。住めないから人口が減る。人口が減ったから、また費用対効果が低いとされる。国の計算では、衰退した地域ほど、救う価値がないことになる」
神谷はファイルをめくった。医療搬送時間、通院困難者数、冬季の道路閉鎖日数。財務省の評価表にはなかった項目が並んでいる。
「これを、当時も国へ出しましたか」
「出しました。正式な様式ではないから参考扱いでした」
「満額を受けた自治体について、何か知っていますか」
「施設を造ったところですね」
川畑は声をさらに落とした。
「あの施設を受注した企業は、事業が決まる前から現地へ来ていました。図面も、運営計画も用意していた。自治体が国へ要望するより先にです」
「証拠は」
「ありません。ただ、当時の会議記録に、企業名のない説明者が参加しています」
「なぜ今まで黙っていた」
川畑は苦い顔をした。
「予算が必要だったからです。国との関係を壊せば、別の補助金まで来なくなる。家族もいる。私は正義の人間ではありません」
「私もです」
神谷は即座に言った。
川畑が顔を上げた。
「当時、その配分に私の印がある」
風が二人の間を抜けた。
「先生が決めたんですか」
「分からない。少なくとも、止めなかった」
神谷はファイルを閉じた。
「この資料を預かってもいいですか」
「原本ではありません。持っていってください」
「あなたの名前は出しません」
「名前が出ることより、何も変わらないことの方が怖いんです」
川畑は庁舎へ戻りかけ、振り返った。
「ただし、先生。無駄をなくす、という言い方はやめた方がいい」
「なぜです」
「誰かが無駄と呼んだものの中で、暮らしている人間がいます」
帰りの車内で、神谷は窓の外を見続けた。斜面に家が点在し、細い道路を黄色い送迎車が走っていた。効率だけを考えれば、すべてを平地へ集めた方がいい。病院も学校も役所も、一か所へ集約すれば費用は下がる。
だが、人間は表計算のセルの中で暮らしているわけではない。
財務省にいた頃、神谷は「一人当たりコスト」という言葉を何度使っただろう。数字が高い事業を削り、低い事業を残す。それが公平だと思っていた。
公平とは、同じ金額を配ることではない。
同じ生活へ到達するために必要な差を、引き受けることではないのか。
翌週、神谷は若手議員の勉強会で、地方交付と補助金配分の見直し案を示した。人口と税収を中心にした評価へ、医療アクセス、交通空白、災害リスク、人口流出の速度を加える。さらに、配分理由を公開し、自治体が異議を申し立てられる仕組みを作る。
翌週、神谷は若手議員へ、医療アクセス、交通空白、災害リスクなどを地方配分基準へ加える案を示した。賛同の声はあったが、予算が減る選挙区や支援団体への影響を恐れ、共同提案を申し出る者はいなかった。
「効果の薄い租税特例と基金を見直せば、財源は作れます」
神谷がそう言うと、室内の空気が変わった。租税特例には業界団体があり、基金には所管省庁がある。
会合後、相田は案の必要性を認めながら、「政治家は、正しいことを言うだけで次の選挙を失う。あなたは自分が正しいという方しか見ていない」と告げた。
神谷は反論できなかった。
見出しは大きかった。
――元財務官僚の冷血改革 地方を切り捨て、都市の若者へバラマキか。
記事には、神谷が地方向け予算の配分見直しを計画していること、人口減少地域への投資を非効率と考えていること、財務省時代に地方予算の削減に関わったことが書かれていた。
「逆です」
小宮がページを叩いた。
「先生の案は、人口が少ない地域にも必要性に応じて配るためのものです。それを、地方切り捨てだなんて」
「資料が漏れている」
「勉強会の誰かが?」
「記事を書かせた人間は、案の中身を知っている」
記事には川畑から受け取った資料の具体的な数字まではない。だが、神谷が租税特例の見直しを財源に考えていることまで触れられていた。勉強会の出席者か、配布資料を受け取った秘書か、党職員。漏洩経路はいくらでもある。
電話が鳴り始めた。
地元後援会から、地方を見捨てるのかという抗議。テレビ局から出演依頼。党本部から説明を求める連絡。神谷の動画を支持していた若者からも、「結局、弱いところを削るのか」という書き込みが相次いだ。
神谷は記者団の前に立った。
「記事は、私の提案と正反対です。私は人口の少ない地域を切り捨てるのではなく、人口だけで配分を決める仕組みを改めたいと考えています」
「では、予算が減る自治体はないのですか」
「限られた財源ですから、配分が変わる自治体はあります」
「誰かの予算を奪うということですね」
「必要性と効果を公開し、説明できる形にするということです」
「短期的には痛みが出る?」
「制度変更には調整が必要です」
「つまり、痛みは否定しない?」
質問が矢のように飛んだ。
神谷は、自分が官僚時代に作ってきた答弁を思い出した。質問に答えながら、言質を与えない。正確で、何も伝わらない言葉。
「痛み、という言葉で曖昧にしたくありません」
神谷は一度、息を吸った。
「予算を変えれば、利益を失う人がいます。だからこそ、誰の利益を守り、誰の生活を支えるのかを公開しなければならない。私は、見えないところで痛みを押しつける今の仕組みを変えたい」
記者たちの手が止まった。
その発言は翌日の記事で、「神谷氏、改革で利益を失う層の存在を認める」と報じられた。
小宮は記事を見て、机に置いた。
「何を言っても、こうなるんですね」
「言葉は、話した人間のものではない」
「それでも話すんですか」
「話さなければ、相手の言葉だけが残る」
党内の空気は目に見えて変わった。廊下で会えば挨拶していた議員が、神谷を見て携帯電話を耳に当てる。会議の案内が届く時間が遅くなり、懇親会の名簿から名前が抜けた。
ある夜、牧野から短いメッセージが届いた。
――今夜の会合には来るな。
神谷は理由を尋ねたが、返事はなかった。
その会合は、久我山に近い議員たちの非公式な集まりだった。後になって出席者の一人から、久我山の発言を聞いた。
「正義を振り回して党を壊す新人がいる。若い支持を集め、党の看板を使いながら、組織の恩を忘れている。危険なのは、悪意のある者ではない。自分だけが善だと信じている者だ」
神谷の名は一度も出なかった。
だから、全員に伝わった。
事務所へ戻ると、机の上に古い配分表があった。小宮が別の場所へ移したはずの原本ではなく、作業用のコピーである。神谷は自分の押印を指でなぞった。
久我山の言葉が胸に引っかかった。
自分だけが善だと信じている者。
神谷は、自分を善だと思ったことはない。少なくとも、そう考えていた。だが、財務省を辞め、選挙に出て、改革を語るとき、自分は制度の外へ出たつもりになっていたのではないか。
帳簿には、自分の印がある。
地方の予算を削られた人々から見れば、神谷もまた、数字を決めた中央の人間である。
携帯電話が震えた。
登録されていない番号からだった。
「神谷です」
「七瀬真琴と申します。東央新聞の政治部です」
若い女性の声だった。落ち着いているが、言葉の間に迷いがない。
「取材なら、事務所を通してください」
「週刊誌の記事についてではありません」
「では、何です」
「十四年前の地方振興事業についてです」
神谷は椅子から立ち上がった。
「なぜ、それを知っている」
「あなたが受け取った帳簿の、差出人を知っています」
窓の外では、国会議事堂の灯りが一つずつ消えていった。
神谷は時計を見た。午後十一時四十七分。
「どこで会えますか」
「今夜なら、国会図書館の南側にある公園で」
「今夜?」
「明日になると、話せないかもしれません」
電話は切れた。
小宮は帰宅していた。神谷はコートを取り、机の引き出しへ帳簿を戻した。鍵をかけ、廊下へ出る。
エレベーターを待つ間、背後に人の気配を感じた。
振り返ると、廊下の角に黒い影があった。だが、すぐに消えた。
神谷は追いかけようとして、やめた。
この建物では、誰もが誰かを見ている。
そして、誰も見ていないことになっている。
第三章 仲間の声
公園には、冬枯れの木々と白い街灯しかなかった。
国会図書館の壁沿いを歩くと、ベンチの前に一人の女が立っていた。膝まである灰色のコート。肩に小さな革の鞄を掛け、携帯電話を両手で持っている。年齢は三十歳前後だろう。神谷を見ると、画面を消した。
「七瀬さんですか」
「神谷議員ですね」
「電話で名乗ったでしょう」
「本人かどうか確認しただけです」
近くで見ると、化粧は薄く、髪は後ろで一つに結ばれていた。政治部記者にありがちな、人に割り込む鋭さより、言葉を逃さず拾う静けさがあった。
「差出人を知っていると言いましたね」
「知っています」
「誰です」
「今は言えません」
神谷は眉を寄せた。
「明日には話せないかもしれないと言って、夜中に呼び出した。名前を言わないなら、何のためです」
「あなたが、資料を受け取った事実を確認するためです」
「こちらを試したんですか」
「はい」
七瀬は悪びれずに答えた。
「差出人は、資料があなたに届いたか確信を持てていません。連絡を取れば、自分の立場が分かる可能性がある。だから私が確認しました」
「あなたは、その人の代理人ですか」
「記者です。誰の代理人でもありません」
「では、記事にするつもりですか」
「証拠が揃えば」
「資料を見てもいないのに、なぜ私へ連絡した」
七瀬は数秒、神谷を見た。
「見ました」
風が吹き、木の枝が乾いた音を立てた。
「原本を?」
「同じ資料の一部です。あなたのところへ送られたものが完全版かは知りません」
「何が書かれている」
「それを私に答えさせれば、あなたが持っている内容を明かさず照合できますね」
神谷は口を閉じた。
七瀬の目に、わずかな笑みが浮かんだ。
「元官僚らしい質問です」
「記者らしい警戒だ」
「警戒ではありません。仕事です」
二人は少し距離を置いてベンチに座った。夜の車道から、タイヤの音が絶え間なく流れてくる。
「七瀬さん。あなたが知っていることを、話せる範囲で教えてください」
「十四年前の広域基盤整備事業では、自治体から上がった要望が、表向きの評価とは別の基準で並べ替えられました。特定の事業者が関わる案件が優先され、その調整に複数の政治家と官僚が関わっています」
「違法な金の流れがある?」
「分かりません」
「そこが分からなければ記事にはならない」
「政治家は犯罪だけを不正と呼ぶんですか」
神谷は七瀬を見た。
「合法なら問題がない、とは言っていません」
「でも、違法性がなければ追及しにくい。国会も新聞も同じです。誰かが法律を破った瞬間だけ、大きな見出しにできる。法律を作る側が、法律に触れない形で利益を分けていたら、誰も責任を取らない」
七瀬の声には、怒りより疲れがあった。
「あなたは以前から追っていたんですか」
「三年前からです。地方支局にいたとき、閉鎖された診療所の記事を書きました。住民は、国の補助がつかなかったから仕方がないと言っていた。でも同じ年度に、隣県では利用者の少ない交流施設が建っていた。調べると、同じ事業枠でした」
「会社名も同じだった?」
「関連会社を含めれば」
「記事にしなかったのは」
「できなかったんです」
七瀬は鞄から小さなノートを出したが、開かなかった。
「文書は断片的。関係者は匿名を条件に話し、会社は適法な入札だったと答える。省庁は総合的に判断したと言う。政治家は記憶にない。一本の記事にしても、偶然の積み重ねとして否定される」
「だから帳簿を私に送った」
「私は送っていません」
「差出人は、私に何をさせたい」
「それは、あなたが決めることです」
「責任だけ渡すのか」
「議員バッジは、責任を引き受けるためのものではないんですか」
神谷の胸に苛立ちが湧いた。
「あなたは安全な場所から言える。私は党内で法案を通さなければならない」
「安全?」
七瀬の目が初めて鋭くなった。
「取材源を守りながら、会社と役所と政治家を相手に記事を書くことが安全に見えますか」
「そういう意味では――」
「あなたは演説で、国民が検証できる帳簿を作ると言いました。私は、その言葉が本物か確かめに来たんです」
「本物なら、名前を教える?」
「いいえ」
「何をすれば本物になる」
「私に資料を渡すことでも、記者会見で正義を語ることでもありません」
七瀬は立ち上がった。
「あなたが知っていることを、誰でも確かめられる形にしてください」
「制度を変えろと?」
「まず、数字を開いてください。どの自治体が何を求め、どの基準で削られ、最終的に誰へ金が流れたのか。政治家の言葉を信じなくても、国民が自分でたどれるように」
「それが簡単なら、もうやっている」
「簡単なことを頼むために、夜中に呼び出しません」
七瀬は背を向けた。
「待ってください」
神谷は立った。
「差出人は、国会にいる人間ですか」
七瀬は足を止めたが、振り返らなかった。
「あなたの近くにいます」
それだけ言って、暗い歩道へ消えた。
神谷はしばらく公園に残った。
あなたの近く。
党内の議員、議員秘書、国会職員、財務省の連絡要員。あるいは、かつての同僚。
榊原の顔が浮かんだ。だが、榊原なら直接警告するはずだ。匿名で資料を送り、自分の押印を突きつけるだろうか。
翌日、神谷は七瀬の過去の記事を調べた。地方医療、公共交通、自治体財政。派手なスクープではなく、数字と住民の声を丁寧につないだ記事が多い。三年前に書いた診療所閉鎖の記事には、一人暮らしの高齢女性が登場していた。
翌日、神谷は七瀬の記事を調べた。地方医療や交通を、数字と住民の声で追う記事が多い。川畑の資料、国の公開資料、匿名の配分表を並べると、足りないのは金の出口だと分かった。
「採択自治体の受注企業と契約額を、公開情報から集めてくれ」
小宮は、作業量の多さを指摘しながらも引き受けた。七瀬とも、互いを信用しないまま協力することにした。
「それを仲間と呼べます?」
「政治では十分だ」
数日後、神谷、七瀬、川畑は、都内の貸会議室に集まった。川畑は有給休暇を取り、朝霧市から新幹線で来た。三人が顔を合わせるのは初めてだった。
「記者さんがいるとは聞いていません」
川畑は入口で立ち止まった。
「名前は出しません」
七瀬が言った。
「録音もしません。今日は取材ではなく、資料の照合です」
「記者が取材ではないと言って、信じろと?」
「信じなくて結構です。私の資料も見てから判断してください」
七瀬は机にファイルを置いた。
中には、採択自治体の契約情報、法人登記、政治資金収支報告書、業界団体の役員名簿が整理されていた。川畑はページをめくるうち、表情を変えた。
「この会社、うちにも説明に来ました」
「事業採択の前ですか」
「半年前です。国の新しい支援枠ができるから、今のうちに計画を作った方がいいと」
「支援枠の公表前ですね」
「当時は、中央とつながりのある会社なら情報が早いんだろうと思っていました」
神谷は法人関係図を見た。中心に東亜地域開発。その子会社、コンサルティング会社、施設運営会社。役員をたどると、久我山の元秘書や、複数の省庁OBの名前がある。
「違法ではない」
神谷が言うと、七瀬がうなずいた。
「だから続いています」
「政治献金は」
「会社本体からは少額です。業界団体と関連会社、役員個人に分散している。久我山議員だけではなく、与野党の複数議員へ出ています」
「一つの陣営の話ではないということか」
「予算には思想より広い仲間がいます」
川畑が、市の資料から一枚を抜き出した。
「この記号」
匿名の配分表には、自治体名の横にA、B、Cと数字を組み合わせた記号がある。川畑の市はC2。満額配分を受けた自治体はA1かA2が多い。
「当時、国の担当者が、事業の熟度を三段階で評価していると言っていました。うちは計画が未成熟だからCだと」
「公開された評価は、あなたの市もBです」
七瀬が別の表を示した。
「では、この記号は熟度ではない?」
「Aの自治体には、すべて東亜地域開発か関連会社が入っている」
神谷はペンで丸をつけた。
「Bには半分。Cにはほとんどいない」
「会社の関与度?」
川畑がつぶやいた。
「いや」
神谷は表を見つめた。
「会社が入っているからAになったのか、Aになると知っていたから会社が入ったのか。それを示さないと因果関係は証明できない」
七瀬が言った。
「そこで止まるから、今まで記事にならなかった」
「止まらない」
神谷は配分表を裏返し、白い面に線を引いた。
「国の予算番号、自治体の事業番号、契約番号、法人番号をつなぐ。時系列も入れる。要望、内示、入札、契約、支払い。どの時点で会社が関与したかが分かれば、少なくとも偶然かどうかは見える」
「そんなデータベース、今はありません」
「ないから作る」
「国会議員が?」
「国会議員だから作れる。各省庁へ資料要求できる」
川畑は不安そうに神谷を見た。
「大きく動けば、向こうにも分かります」
「もう分かっている」
「先生だけの問題ではありません」
その言葉に、神谷のペンが止まった。
川畑は続けた。
「資料要求が自治体へ来れば、誰が昔の話をしたか調べられます。私の部署は小さい。隠し通せません」
「あなたの名前は出さない」
「名前を出さなくても分かるんです。中央にいる人は、地方を大きな塊で見ます。でも地方の役所では、誰がどの書類を持っているか、皆知っています」
神谷は答えに詰まった。
「では、どうすればいい」
「私に聞かないでください」
川畑は視線を落とした。
「私は、変えてほしいと思って資料を渡しました。でも、家族を危険にしたいわけじゃない。自分でも矛盾していると分かっています」
七瀬が静かに言った。
「矛盾しない人間はいません。問題は、誰がその矛盾の代償を払うかです」
神谷は、その言葉を自分へ向けられたものとして聞いた。
三人は、公開情報だけで追える範囲から始めることにした。川畑の内部資料は、公開情報の欠落を確認するためだけに使い、直接の出典にはしない。神谷の事務所では契約情報を集め、七瀬は法人と政治資金を追い、川畑は自治体側の事業番号の仕組みを説明する。
作業は地味だった。
華やかな国会演説とは正反対に、数字をコピーし、名称の揺れを直し、同じ会社が別名で記載されていないか確かめる。株式会社が前につくか後ろにつくかだけで検索結果が分かれる。合併前の自治体名、変更された事業名、分割された契約。
夜になると、議員会館の会議室に弁当の空箱が積まれた。学生インターンたちは、何のための作業か完全には知らないまま、古い入札公告を探した。
「先生」
小宮が画面を指した。
「同じ金額があります」
ある自治体に配分された国費二億四千万円。その自治体は二つの契約に分け、東亜地域開発の関連会社へ一億八千万円と六千万円を支払っている。合計は配分額と一致した。
「工事と運営準備で分かれているだけかもしれない」
「他も見てください」
別の自治体では、国費三億一千万円が、設計、施工管理、システム導入の三契約に分かれ、同じ企業グループへ流れていた。
七瀬が持ってきた政治資金データを重ねると、企業グループの役員が、事業採択の前年から複数の議員の政治団体へ寄付を始めていた。
「これでも違法とは言えない」
神谷が言った。
「はい」
七瀬は答えた。
「でも、国民が見る価値はあります」
「記事にするのか」
「まだです。会社側の説明も必要です。採択前に情報を得ていた証拠もない」
「慎重なんだな」
「あなたよりは」
川畑が小さく笑った。初めて見せた笑いだった。
そのとき、会議室の扉がノックされた。
小宮が開けると、浅見隆一郎が立っていた。元総務官僚で、現在は久我山に近い政策グループに所属する四期目の議員である。党の部会では、神谷の提案に最も厳しい質問をしていた。
「ずいぶん遅くまで勉強熱心だな」
浅見は室内を見回した。七瀬と川畑の顔に一瞬目を止めたが、知らないふりをした。
「何かご用ですか」
「廊下の明かりがついていたから、忠告に来た」
「何の忠告でしょう」
「公開情報を集めるのは自由だ。だが、数字を勝手につなげると、事実でない物語ができる」
「記事になる前から、内容をご存じなんですね」
七瀬が言った。
浅見は彼女を見た。
「記者は、名刺を出す前に質問するのか」
「議員は、名乗らなくても顔が知られています」
浅見は鼻で笑い、神谷へ向き直った。
「君の地方配分案は乱暴だ。中央の数字だけで現場を理解したつもりになるな」
「今は、現場の資料も見ています」
「一つ二つの自治体を見て、全国を語るな」
「では、全国の資料を出してください」
「出せないものもある」
「なぜです」
「国家運営には、公開すれば調整できなくなる情報がある」
「その言葉で、何年隠してきたんですか」
浅見の顔から表情が消えた。
「言葉に気をつけろ、神谷」
「何を知っているんです」
「何も知らない。君もだ」
浅見は扉へ向かった。出る直前、資料を落としたふりをして、神谷の足元へ一枚の紙を滑らせた。
誰にも見えないほど自然な動きだった。
「委員会へ出る資料だけが、資料だと思うな」
そう言って、浅見は去った。
神谷が紙を拾うと、国会の委員会提出資料の管理番号が書かれていた。その末尾に「別冊」とある。
「知り合いですか」
川畑が尋ねた。
「敵だと思っていた」
七瀬は紙を見た。
「敵だから、近づける場所もあります」
神谷は翌日、国会図書館と衆議院事務局を通じ、該当する管理番号を照会した。正規の提出資料は閲覧できたが、別冊は公開対象外とされた。
「委員会理事の許可が必要です」
「理由は」
「関係者の個人名および企業情報を含むためです」
個人名と企業情報。
浅見は、そこに何があるか知っている。
神谷は若手議員たちを再び集めた。今回は完成した政策案を見せるのではなく、問題点と作業途中のデータを示した。
神谷は若手議員たちへ、完成案ではなく作業途中のデータを示し、選挙区ごとの問題を聞いた。税優遇を急に廃止すれば設備投資が止まる地域もあれば、人口当たりの金額だけでは医療や交通を説明できない地域もある。
議論は結論へ届かなかったが、神谷は以前のように無駄だとは感じなかった。案が削られ、修正されるたびに、理想が現実の形を得ていく。
宮坂絵里は、前回の神谷が皆を賛成票として見ていたと指摘した。
「完成した正解を持つ人より、間違いを直せる人の方が信用できます」
だからこそ、攻撃も早かった。
川畑から連絡が入ったのは、週明けの早朝だった。
「担当を外されました」
電話の声は平静を装っていた。
「理由は」
「長期在任による人事上の配慮だそうです。財政課から、市民窓口の施設管理担当へ」
「資料のことが知られた?」
「はっきりとは言われていません。ただ、昨日、県から過去の補助事業に関する照会がありました。誰が書類を閲覧したか、確認されたそうです」
「私の資料要求が原因かもしれない」
「先生だけのせいではありません。私が渡したんです」
「家族は」
沈黙があった。
「昨夜、自宅に電話がありました。妻が出ました。相手は何も言わず、子どもの学校名だけを口にして切ったそうです」
神谷は立ち上がった。
「警察に相談してください」
「証拠がありません」
「こちらからも動きます」
「やめてください」
川畑の声が強くなった。
「大きくすれば、家族がもっと怖がる。私は、しばらく連絡を控えます」
「川畑さん、一人で抱えないでください」
「先生に言われたくありません」
言葉が胸を打った。
「あなたは国会議員です。守ってくれる人もいる。私は地方の職員です。明日も同じ町で、同じ人たちと暮らします」
「守ります」
「どうやって」
神谷は答えられなかった。
「先生の理想を否定するつもりはありません。でも、理想が前へ進むとき、踏まれる人間がいることを忘れないでください」
通話は切れた。
神谷は携帯電話を持ったまま、窓の外を見た。朝の議員会館には、出勤してくる人々が列を作っていた。警備員、秘書、官僚、記者。皆が制度を動かすために働き、その制度の隙間で誰かが脅されている。
昼、七瀬が事務所へ来た。
「川畑さんのこと、聞きました」
「本人から?」
「いいえ。自治体の人事は公開されます。異動時期ではないのに担当が変わった」
「あなたが取材したからではないですか」
「責任を押しつけたいなら、どうぞ」
「そういうつもりでは」
「ありますよ」
七瀬は椅子に座らなかった。
「あなたは今、自分が彼を危険にしたことに耐えられない。だから、誰かと責任を分けたい。でも、責任を分けることと、相手を責めることは違います」
「では、どうしろと」
「川畑さんに決めてもらうしかありません。続けるか、離れるか。私たちが正義のために必要だと判断して、彼の人生を使ってはいけない」
神谷は机の上の法案メモを見た。
「国会では、誰かが決めなければ進まない」
「だから、国会の外にいる人の声を聞くんでしょう」
七瀬は少し間を置いた。
「神谷さん。あなたは一人で戦っているつもりかもしれません。でも、一人で立っている人の陰には、名前の出ない人が大勢います。その人たちは、あなたが倒れたとき一緒にニュースになるわけではない」
神谷は、初めて自分の焦りの形を見た気がした。
早く成果を出したい。
口だけではないと証明したい。
制度を変えられる人間だと示したい。
その「自分」が前へ出るほど、川畑や小宮や若手議員たちを、自分の物語の登場人物にしていたのではないか。
「法案の作業を、いったん止めます」
神谷が言うと、七瀬は首を振った。
「止めれば安全になるとは限りません」
「では」
「決め方を変えてください」
神谷はその夜、関係者へ一通ずつ連絡した。今後の作業内容、公開する情報、想定される危険を書き、参加を続けるか本人に選んでもらった。離れる者を責めないこと。情報は必要最小限で共有すること。誰か一人に証拠を集中させないこと。
法案づくりは、神谷の事務所の仕事ではなくなった。
地方職員、研究者、若手議員、記者。立場の違う者が、それぞれの理由で関わる作業になった。
川畑からは返事がなかった。
三日が過ぎた。
四日目の深夜、神谷の携帯電話に短いメッセージが届いた。
――数字の入口ではなく、出口を見てください。そこに同じ名前があります。
神谷はすぐに電話をかけた。
呼び出し音が続き、留守番電話へ切り替わる。
もう一度かけた。
出ない。
小宮に連絡し、川畑の自宅と市役所へ確認させた。翌朝、市役所から返ってきた答えは、川畑は前日から出勤していないというものだった。家族も所在を知らず、携帯電話は電源が切られていた。
机の上に、川畑が作った自治体の試算表があった。
数字の入口ではなく、出口。
そこに同じ名前。
神谷は東亜地域開発の関係図を開いた。会社名、子会社名、役員名、政治団体名。線の先に、まだ見落としている名前がある。
窓の外で朝日が昇り始めていた。
夜明けは、闇を消すのではない。
闇の中にあったものを、見えるようにするだけだ。
神谷は、その光が川畑を救うのか、それとも追い詰めるのか、分からなかった。
第四章 動き出す法案
川畑の失踪は、事件として扱われなかった。
家族が警察へ相談したものの、成人が自分の意思で姿を消した可能性が高いとされた。自宅から通帳と数日分の衣類がなくなっており、争った形跡もない。市役所には、「体調を崩したため休む」というメールが届いていた。
メールが本人のものかどうかは分からない。
神谷は朝霧市へ行こうとしたが、七瀬に止められた。
「今、あなたが行けば、報道が集まります。川畑さんの家族は、失踪した公務員の家族ではなく、神谷議員へ内部資料を渡した人物の家族になる」
「では、何もしないのか」
「警察でも探偵でもない私たちが動けば、かえって痕跡を消されるかもしれません」
「何者かに連れ去られたと思っている?」
「決めつけてはいません。ただ、自分で身を隠したとしても、そうしなければならない理由がある」
神谷は机の上の携帯電話を見た。何度かけても、電源が入ることはなかった。
小宮が言った。
「先生、川畑さんが最後に送った言葉を調べるべきです」
「数字の出口か」
「彼は、何かを見つけた。だから消えたのかもしれない」
「その考え方は危険です」
七瀬が即座に返した。
「人が消えたことを、物語を進める手掛かりにしてはいけない」
小宮は唇を結んだ。
「でも、止めたら、川畑さんが危険を冒した意味がなくなる」
「意味を決めるのは私たちではありません」
「では、どうすればいいんです」
七瀬は少し考えた。
「彼が戻ってきたとき、選べる状態にしておく。続けるか、やめるか。資料を公開するか、引き取るか。そのために、私たちは自分たちの仕事を進める」
神谷は二人の顔を見た。
「法案を作る」
自分の口から出た言葉が、以前とは違って聞こえた。
「川畑さんの資料を根拠にはしない。公開情報と、全国の自治体から正式に集めた意見で作る。裏の帳簿は、法案の必要性を考えるために使うが、存在を前提にしない」
「それで核心へ届きますか」
小宮が尋ねた。
「届かせる。誰か一人の告発がなければ成立しない制度なら、その人を犠牲にする制度になる」
神谷はホワイトボードに三つの言葉を書いた。
予算公開。
地方配分。
租税特例。
「この三本を一本の法案にする」
七瀬が眉を上げた。
「敵を三倍にする法案ですね」
「別々に見えるから守られている。税の優遇で減った歳入を、見えにくい基金で補い、地方への配分を調整する。入口と出口を分けたままでは、全体が見えない」
「法案の名前は」
「まだ決めていない」
「名前が一番大事ですよ。政治は中身より先に名前で攻撃されます」
「記者らしい意見だ」
「有権者らしい意見です」
作業は、議員会館の小さな会議室から始まった。
予算公開の仕組みについては、国の支出に共通番号をつけ、予算要求から執行、契約、成果評価までを一つの流れでたどれるようにする。各省庁が別々の書式で公開しているデータを統一し、自治体の負担を増やさないため、既存システムから自動連携する。
地方配分については、人口と税収だけでなく、医療への到達時間、公共交通の空白、災害リスク、地理的条件、人口減少の速度を基準へ加える。配分理由を公開し、自治体が異議を申し立てられる審査制度を設ける。
租税特例については、一定期間ごとに効果を検証し、国会が延長を決めなければ自動的に終了する仕組みを入れる。雇用、投資、地域経済への効果を、業界団体の自己申告だけでなく第三者が検証する。
言葉にすれば簡単だった。
法文にすれば、例外と定義と経過措置の海になった。
「公開対象となる支出の範囲に、安全保障関連をどこまで含めますか」
「契約先を出せない場合でも、総額と非公開理由、監査結果は出すべきです」
「地方自治体の小規模契約まで即時公開させると、事務負担が大きい」
「金額基準を設ける。ただし、同一事業を分割して基準を下回らせる場合は合算する」
「租税特例の効果が景気に左右される場合、何年で判断しますか」
「原則五年。例外は国会で理由を明示する」
研究者、自治体職員、弁護士、システム技術者。神谷は、紹介を頼りに専門家を集めた。正式な検討会ではないため、報酬も十分には出せない。それでも参加する人間がいた。
「国が何に金を使ったか調べるのに、今は探偵の技術が必要です」
公共データを研究する大学准教授は言った。
「公開されていないのではなく、公開の仕方が発見を拒んでいる。PDFの画像、年度ごとに変わる項目名、削除されたリンク。透明な壁を何枚も重ねて、向こう側を見えなくしているんです」
神谷はその表現を法案の説明文に入れた。
透明な壁。
見えているようで、たどり着けない。
若手議員たちは、自分の選挙区の事例を持ち寄った。宮坂は、離島の医療搬送費が人口当たりでは「高コスト」とされる問題を示した。相田は、地元の中小企業が設備投資減税を利用して雇用を守っている例を出し、租税特例を一律に敵視しないよう求めた。
「なくすことが目的ではありません」
神谷は言った。
「効果があるなら残す。効果が説明できないものを、毎年同じ理由で延長しないだけです」
「業界団体は、説明できる資料を作ってきますよ」
「だから、元データを公開する」
「企業秘密だと言われたら」
「個社名を伏せても、集計方法と検証可能な数値は出せる」
「それを決める第三者が、結局省庁の天下り先になったら?」
相田の問いに、会議室が静まった。
神谷は答えた。
「委員の選任過程を公開し、利害関係を申告させる。完全には防げない。でも、見えないよりはいい」
「先生」
宮坂が言った。
「完全ではないと、法案の説明に書きましょう」
「弱点を自分から出すのか」
「万能だと言えば、万能でないことを理由に潰されます。これは、国民が数字へたどり着く最初の道だと説明するんです」
神谷はうなずいた。
以前の自分なら、法案の欠点を外へ見せることを恐れただろう。制度は精密でなければならない。反対派に突かれる穴を残してはいけない。官僚時代、そう教えられてきた。
だが、穴のない制度は、誰にも触れられない制度でもある。
法案は、少しずつ彼の手から離れていった。
それを寂しいと思う自分がいることに、神谷は驚いた。
ある夕方、浅見から連絡が入った。
「五分だけ時間を空けろ」
「どこへ行けばいいですか」
「君の事務所の非常階段」
非常階段は冷え切っていた。浅見は踊り場の小窓の前に立ち、煙草を吸っていた。国会施設内は禁煙だと神谷が言うと、浅見は火を消した。
「規則にうるさいな。元官僚は」
「元官僚だから、破るなら見つからない場所を選びます」
「政治家らしくなった」
浅見は薄い封筒を差し出した。
「委員会資料の別冊ですか」
「そうだ」
「なぜ私に」
「君のためではない」
神谷は封筒を受け取らなかった。
「では、誰のためです」
「まだ国会が、自分で間違いを直せる場所だと信じたい人間のためだ」
「あなたは反対派でしょう」
「君の案には反対だ」
「資料は渡す?」
「人間は、賛成か反対かだけで生きていない」
浅見は封筒を神谷の胸へ押しつけた。
「私は総務省にいた。地方の現場を知らず、数字で自治体を並べたこともある。議員になってからは、その数字を利用して地元へ予算を持ってきた。君を批判する資格はない。だが、君のように全部を公開すれば正しくなるとも思わない」
「何が怖いんです」
「数字は、説明を失うと武器になる。人口一人当たりの予算が高い自治体は、無駄だと叩かれる。事情を知らない者が、安い方だけを正義にする」
「だから、成果と理由も公開する」
「国民はそんなに丁寧に読まない」
「読まないから隠すんですか」
「読まれ方を考えろと言っている」
浅見は階段を下りかけた。
「別冊の三十二ページ。記号の意味がある」
「差出人は、あなたですか」
浅見の足が止まった。
「何の話だ」
「最初の帳簿を、私の事務所へ置いた」
「証拠があるのか」
「ありません」
「なら、政治家らしく断定するな」
浅見は振り返らずに下りていった。
事務所へ戻り、封筒を開いた。
別冊は、当時の関係省庁と与党議員による調整会議の参考資料だった。表紙には「取扱注意」とある。三十二ページには、自治体ごとの事業評価と調整区分が載っていた。
A――重点調整案件。
B――通常査定案件。
C――財源調整案件。
さらに脚注がある。
重点調整案件とは、政策上の波及効果、関係団体との調整状況、国会審議への影響等を総合的に勘案し、優先的な予算措置を検討するもの。
神谷は何度も読み返した。
「関係団体との調整状況」
小宮が言った。
「会社が入っているかどうか、という意味でしょうか」
「そう書いてはいない」
「でも、Aの自治体には同じ企業グループが入っている」
資料の後半には、調整会議の出席者名簿があった。
官僚、与党の政策責任者、関連団体代表。榊原修司の名がある。久我山征一の政策秘書の名もある。
そして、事務局補佐として、神谷直人の名があった。
胸の奥で、古い扉がきしんだ。
長い会議室。灰皿の煙。机に積まれた資料。上司の声。
――この案件は上で調整済みだ。数字だけ合わせろ。
神谷は、記憶の断片をつかもうとした。会議に出たことはある。議事録を取り、差し替え資料を配った。だが、重点調整案件の意味を知っていたか。
「先生、大丈夫ですか」
「榊原に会う」
「危険です」
「今さらだ」
榊原は面会を拒まなかった。財務省近くの会議室で、二人だけで会った。
神谷が別冊のコピーを置くと、榊原の顔から血の気が引いたように見えた。しかし、それは一瞬だった。
「どこで手に入れた」
「答える必要はない」
「これは公開資料ではない」
「違法な資料か」
「機密性のある内部資料だ」
「何を隠すための」
「調整を成立させるための」
榊原はページを閉じた。
「政策上の優先順位をつけることは、どの国でもやっている。議員から要望があり、業界から情報を聞き、省庁が実現可能性を判断する。それを犯罪の設計図のように扱うな」
「なぜ同じ企業が入った案件ばかり優先された」
「実行能力があったからだ」
「採択前から情報を得ていた」
「制度に詳しい企業ほど準備が早い。当然だ」
「政治献金もしている」
「合法だ」
「全部、合法だな」
「そうだ」
「では、なぜこの資料を国民に見せられない」
榊原は椅子に深く座った。
「国民、国民と簡単に言うな。調整過程を全部見せれば、誰も本音を言わなくなる。業界は要望を隠し、政治家は裏で圧力をかけ、役所は責任を避ける。記録に残らない調整が増えるだけだ」
「今も裏でやっている」
「記録があるだろう」
榊原は別冊を指で叩いた。
「それが、制度がまだ機能している証拠だ」
「公開できない記録が?」
「監査や内部検証のために残す。すべてを公開することと、責任を残すことは同じではない」
「その責任を誰が取った」
榊原は答えなかった。
神谷は名簿の自分の名前を示した。
「私は、どこまで知っていた」
「覚えていないのか」
「断片しか」
「なら、そのままにしておけ」
「君は覚えている」
「記憶は証拠にならない」
「俺を守っているつもりか」
榊原の目が揺れた。
「君を守るほど、私は親切ではない」
「では、制度を守るために、私の記憶まで管理するのか」
「直人」
榊原は低い声で言った。
「君は、当時の全体を知らなかった。それで十分だ」
「知ろうとしなかった」
「若い補佐が、上の調整を全部疑っていたら予算は作れない」
「それが免罪符になるのか」
「免罪符が必要な罪ではない」
榊原は立ち上がった。
「法案を作っているそうだな」
「誰から聞いた」
「この国で、法案は提出されるまで秘密だと思っているのか」
「止めるつもりか」
「忠告する。予算公開と地方配分だけなら、議論の余地はある。租税特例へ触れるな」
「なぜだ」
「そこは、国会と役所だけの問題ではない」
「企業と業界団体がいるから?」
「雇用がある。投資がある。市場がある。君が数字の上で一つの優遇を切れば、工場が一つ海外へ移るかもしれない。その責任を取れるのか」
「効果がある優遇は残す」
「効果の測り方を変えれば、結果はどうにでもなる」
「だから公開する」
「公開すれば正しくなるという信仰を捨てろ」
「隠せば安定するという信仰もな」
二人はしばらく向き合った。
かつて、同じ試験を通り、同じ研修を受け、同じ国を支えようとした。その二人が、同じ制度を見ながら、まったく違うものを守ろうとしていた。
法案の骨格が整った頃、久我山から再び呼び出しがあった。
今度は議員会館の久我山の部屋だった。壁には歴代総理との写真が並び、棚には地方から贈られた工芸品が置かれている。
「ずいぶん大きな法案を考えているそうだね」
「まだ検討中です」
「検討中の紙が、業界団体へ回っている」
「私が回したものではありません」
「誰が回したかは問題ではない。回った後、どうするかが政治だ」
久我山は三枚の資料を机に並べた。
一枚目は予算公開制度。二枚目は地方配分基準。三枚目は租税特例の自動失効制度。
「最初の二つは協力できる」
神谷は久我山を見た。
「条件は」
「三つ目を外す」
「やはり、そこですか」
「租税特例を一括して悪者にするのは乱暴だ。産業政策は国際競争だ。毎回国会で延長審議をすれば、企業は将来の投資計画を立てられない」
「一括して廃止する案ではありません。効果を検証し、延長理由を公開するだけです」
「それが不安定さを生む」
「説明できない優遇を続ける安定ですか」
「神谷君」
久我山は諭すように言った。
「政治は百点を取る仕事ではない。六十点を積み重ねる仕事だ。予算公開と地方支援が通れば、君は大きな実績を得る。国民も利益を受ける。残りは次の機会にやればいい」
「次の機会は来ますか」
「君が党に残れば」
その一言で、条件の本当の形が見えた。
法案を削るだけではない。
神谷自身が、順序を守る人間だと証明すること。
「予算公開だけでは、入口が見えません。地方配分だけでは、財源の選択が見えない。租税特例を外せば、国民は支出だけを見て、なぜ収入が減っているかを追えない」
「国民がそこまで見る必要はない」
久我山は、初めて明確に言った。
「政策は専門家が作る。国民は結果を選挙で判断する。それが議会制民主主義だ」
「判断するための材料が見えなければ、選挙は人気投票になる」
「材料が多すぎても同じだ」
「だから隠す?」
「整理するんだ」
「誰に都合よく」
久我山の目から笑みが消えた。
「君は、自分が何と戦っているか分かっていない」
「教えてください」
「国を動かすために必要な信頼だ。企業は制度が続くと信じて投資する。自治体は国が支援すると信じて計画を立てる。役所は政治が最終責任を取ると信じて調整する。君の法案は、すべてを疑い、すべてを公開し、すべてを毎回説明させる。疑われ続ける制度は、動かなくなる」
「説明できない信頼は、従属です」
「若いな」
「四十一です」
「政治では若い」
久我山は資料を重ねた。
「三つ目を外しなさい。委員会の席も、党内手続きも、私が整える。予算公開は君の名前で実現できる」
神谷の脳裏に、法案成立後の光景が浮かんだ。国民が支出を検索できる画面。地方が異議を申し立てられる制度。二つだけでも、何もない今より前進する。
川畑なら、どう言うだろう。
完璧を求めて全部を失うより、一部を通してほしいと言うかもしれない。
宮坂や相田も、現実的な妥協だと考えるだろう。
神谷は長い時間、黙っていた。
「お断りします」
久我山は表情を変えなかった。
「理由を聞こう」
「租税特例を全部守りたいのなら、効果を示せばいい。それを拒むということは、公開できない理由がある」
「推測で政治をするな」
「公開を拒む側が、推測を生んでいます」
「後悔するよ」
「すでに、いくつかしています」
神谷は立った。
「これ以上増やさないために、議員になりました」
部屋を出ると、足が震えていることに気づいた。
正しい決断をしたという確信はなかった。
ただ、自分の名前で二つの改革を通すために、最も見えにくい金の入口を残せば、その二つもいずれ同じ闇に飲まれる。そう思った。
法案を国民へ説明する作業は、七瀬が主導した。
法案を国民へ説明する作業は七瀬が主導した。租税特例の減収を路線バスや給食費へ置き換え、計算の前提と元データも同時に示す。
「見出しだけで分かる説明と、調べたい人が元へ戻れる資料。その両方が必要です」
概要を公開すると、若者、自治体職員、中小企業、研究者から賛否が殺到した。神谷は批判も含めて掲載した。
「これは税金を減らす法案ではありません。何を減らし、何を残すかを、見える場所で決めるための法案です」
支持と反発は同じ速度で膨らんだ。提出の見通しさえ立たないのに、法案は国会の外で動き始めていた。
ある夜、神谷は修正だらけの法案と、党の正式な警告を前に一人で座っていた。無断で提出すれば委員会ポストを失い、次回公認も保証されない。
生き残らなければ次の改革はできない。だが久我山の取引を拒んだのは、核心を守るためなのか、妥協した政治家と思われたくない自尊心のためなのか。
この法案は完全ではない。それでも、何も見えない今よりはいい。
神谷は答えの出ないまま、午前一時の廊下へ出た。
神谷は足を止めた。
廊下には誰もいない。
郵便受けを開けると、茶色い封筒が入っていた。差出人はない。
事務所へ戻り、封を切った。
中には財務省時代の内部文書が入っていた。十四年前の調整会議後に作成された、配分案の差し替え指示。重点調整案件の予算を確保するため、複数自治体の査定額を減額する内容だった。
文書の余白に、手書きのメモがある。
――上記方針、了解。各係と数字を調整のこと。
署名は、神谷直人。
自分の字だった。
記憶の中で、古い会議室の扉が開いた。
当時の上司が言った。
――このくらいは皆やっている。全体を止めるな。
若い神谷は、何と答えたのか。
紙の上では、了解していた。
封筒の底に、もう一枚、小さな紙があった。
――改革者を名乗る前に、自分の帳簿を開け。
神谷は椅子に座り、長い間動けなかった。
法案の敵は、久我山でも榊原でもない。
最初から、自分の中にもいた。
第五章 攻める側の焦り
神谷の手書きメモが世に出たのは、その二日後だった。
神谷の手書きメモは二日後、朝のニュースで公開された。
――改革派・神谷議員、過去に地方予算削減を指示か。
封筒を受け取った時点で流出は予想していた。それでも、テレビ画面の赤枠の中に自分の字を見ると、過去が現在へ引きずり出されたように感じた。
小宮は九時の会見を手配した。党本部、記者、後援会から着信が続き、妻の由美からも「大丈夫?」と届いた。神谷は大丈夫とは書けず、会見するとだけ返した。
「神谷さん、文書は本物ですか」
「地方予算の削減を指示したんですか」
「改革法案は撤回しますか」
「政治家として責任をどう取りますか」
神谷は立ち止まらず、「会見で説明します」とだけ答えた。
事務所には、宮坂と相田が来ていた。二人とも険しい顔をしている。
「文書は本物なんですか」
宮坂が尋ねた。
「私の字です」
「内容を覚えていますか」
「完全には。ただ、配分変更の事務を進めたことは否定できない」
相田が資料を机に置いた。
「党は、法案作業からいったん離れるよう求めています」
「君たちにも?」
「共同提案を続けるなら、公認へ影響する可能性があると言われました」
「離れて構わない」
宮坂の目が鋭くなった。
「また、それですか」
「何が」
「私たちの選択を、先生が先に決める。守っているつもりですか」
「今回は、現実に影響がある」
「前からありました」
宮坂は声を抑えた。
「私は法案に賛成したい。でも、先生が過去を隠していたなら、その説明を聞かないまま一緒には立てません」
「隠していたわけではない。記憶が――」
「記憶がないことと、向き合わなかったことは違います」
七瀬と同じ言葉だった。
神谷は、自分が何度も同じ場所へ戻されていることに気づいた。
「会見で、分かっていることを話す」
「分かっていないことも話してください」
相田が言った。
「政治家は、分からないと言うと叩かれる。でも、分からないことを分かったように説明する方が、後で全部失う」
午前九時、会見室は満員だった。
神谷は文書の写しを手元に置き、正面を向いた。
「報道されている文書の手書き部分は、私が財務省在職中に記したものと考えています」
フラッシュが一斉に光った。
「考えています、とは。断定できないのですか」
「筆跡は私のものです。ただし、原本の保管経緯と、文書全体が当時の状態のままかは確認できていません」
「改ざんの可能性を主張する?」
「そうではありません。現時点で確認できた事実と、確認できていない点を分けて説明しています」
「あなたは地方予算を削る指示を出したのですか」
神谷は喉の奥に乾きを感じた。
「当時、私は担当補佐として、上司が決定した配分方針を各担当へ伝え、数字を調整する事務に関わりました」
「責任は上司にあると?」
「責任を上司へ押しつけるつもりはありません」
「では、ご自身の責任は」
「疑問を持ちながら、決定の根拠を深く確認せず、処理を進めた可能性があります」
「可能性?」
「十四年前の具体的な会話を、正確には思い出せません」
「都合よく忘れたのでは」
記者席の後方から声が飛んだ。
「そう受け取られても仕方がありません」
室内がわずかにざわついた。
「法案を撤回しますか」
「しません」
「自分が関与した仕組みを、今になって批判するのは矛盾では?」
「矛盾しています」
今度は、はっきりとざわめきが起きた。
「私は制度の外から石を投げているのではありません。その中で働き、疑問を見過ごし、結果として支えた側です。だからこそ、同じことを繰り返さない仕組みが必要だと考えています」
「過去を告白して支持を得ようとしているのでは」
「支持を得られる内容ではないと思います」
「政治責任を取る考えは」
「事実を調べ、法案を国会へ提出し、国民の判断を受けることが、まず果たすべき責任です」
「辞職はしない?」
「現時点では考えていません」
会見は一時間を超えた。
神谷は、答えるたびに自分が少しずつ削られていくのを感じた。言葉を慎重に選べば逃げていると言われ、断定すれば根拠を問われる。分からないと言えば無責任、覚えていないと言えば隠蔽。
それでも、官僚答弁へ逃げないようにした。
会見後、テレビは「神谷氏、矛盾を認める」と報じた。
支持率は落ちた。
地元事務所には、後援会の退会届が届いた。長年支援してきた建設会社の社長は、電話で言った。
「先生には期待していた。でも、地元へ予算を持ってくるのが議員の仕事でしょう。過去に削っておいて、今度は透明化だと言われても、信用できない」
「配分の理由を見えるようにしたいんです」
「理由より金です。病院も道路も、金がなければできない」
「だからこそ、必要なところへ――」
「必要かどうかを決めるのは、また東京の人でしょう」
通話が切れた。
若者からの支持も二つに割れた。「過去を認めたのは誠実だ」という声と、「結局は元財務官僚だ」という失望。法案の内容を議論していた画面は、神谷の人格を裁く言葉で埋まった。
共同提案を検討していた若手議員の半数が離れた。
理由を伝えず、連絡が途絶えた者もいた。
相田は事務所へ来て、資料を返した。
「離れるのか」
「共同提案者からは外れます」
「分かった」
「でも、法案に反対するとは言っていません」
神谷は顔を上げた。
「地元の支援団体から、公認を失えば何もできないと言われました。私もそう思います。今は、先生と並んで記者会見に立つ覚悟がない」
「責めない」
「責めてくださいよ」
相田は苦く笑った。
「責められた方が、自分は圧力に負けただけだと思える。でも、先生が理解した顔をすると、自分で選んだことになる」
「実際、君が選んだ」
「そうです」
相田は扉へ向かった。
「だから、採決のときも自分で選びます」
宮坂は残った。
「なぜだ」
「先生のためではありません」
「それなら安心した」
「この法案が必要だと思うからです。ただし、先生が過去の説明から逃げたら、私が最初に追及します」
「望むところだ」
「強がらないでください。顔色、ひどいですよ」
宮坂は机の上に栄養補助食品を置いて帰った。
七瀬との衝突は、その夜に起きた。
その夜、神谷は七瀬へ、流出文書の日付と正式決裁が一日ずれていることを示し、改ざんの可能性も報じてほしいと求めた。
「可能性だけでは書けません。文書の日付差が、あなたの責任を消しますか」
「攻撃の仕組みを明らかにする必要がある」
「攻撃された被害者になる前に、当時何を見ないことにしたのか話してください」
「覚えていないと言っている!」
机を叩いた声が響いた。七瀬は動かず、「思い出したくない、ではなく?」と返した。
帰り際、彼女は言った。
「記者は味方ではありません。でも、あなたが自分に都合の悪い事実を出すなら、その事実を守ることはできます」
机の引き出しから、流出した文書を取り出した。自分の手書きメモを見つめる。
上記方針、了解。
その文字を書いたときの感覚が、指に戻ってくるようだった。
十四年前の冬。
主計局の会議室は、暖房と人の熱で息苦しかった。予算編成の最終盤。机には弁当の空き箱と栄養ドリンクが並び、誰も日付の感覚を失っていた。
上司の黒田主計官が、差し替え資料を配った。
「重点案件へ三十億追加する。各係で減額を割り振ってくれ」
若い神谷は資料を見た。
「朝霧市の医療交通整備は、すでに大幅に削っています」
「地方単独でもできる部分がある」
「財政力指数を考えると難しいと思います」
「県と調整させろ」
「追加する交流施設は、政策評価が低かったはずです」
会議室が静かになった。
黒田は疲れた目で神谷を見た。
「上で調整済みだ」
「どことですか」
「君が知る必要はない」
「査定理由を記録に残す必要があります」
「政策上の総合判断でいい」
「それでは、自治体へ説明できません」
「自治体への説明は担当省がする」
隣にいた榊原が、神谷の袖を引いた。
「直人、今は止めるな」
「でも――」
「全体が遅れる」
黒田は次の資料へ進もうとした。
神谷はまだ紙を見ていた。
「納得できません」
声に出した記憶があった。
黒田はため息をついた。
「神谷。予算は、君が納得するために作っているんじゃない。国会を通し、四月から執行するために作る。ここで一つの配分を止めれば、関連する何百の事業が遅れる。君はその責任を取れるのか」
若い神谷は黙った。
「このくらいは皆やっている。違法な指示ではない。全体を止めるな」
榊原が小声で言った。
「後で確認しよう」
後で。
神谷は資料の余白に書いた。
上記方針、了解。各係と数字を調整のこと。
その後、確認しなかった。
忙しかった。別の案件があり、国会対応があり、翌年には異動した。疑問は、処理済みの書類と一緒に棚へ押し込まれた。
記憶は失われていたのではない。
必要がないものとして、自分で閉じていた。
神谷は椅子から立ち、窓を開けた。冬の冷気が部屋へ流れ込み、積まれた紙を揺らした。
七瀬へ電話をかけた。
「思い出しました」
「録音していいですか」
「今は、聞いてください」
神谷は十四年前の会議を話した。黒田の言葉、榊原の制止、自分の疑問、そして了承のメモ。細部は不確かであることも伝えた。
七瀬は途中で口を挟まなかった。
「記事にしますか」
「裏づけが取れれば」
「取れなくても、会見で話します」
「なぜ」
「私が法を破った証拠ではない。だから黙っていても、法的には逃げられる。でも、私は疑問を持った。持ったのに、止まらなかった」
「倫理的責任を認める?」
「言葉にすると、軽く聞こえるな」
「言葉にしない責任は、存在しないのと同じです」
神谷は目を閉じた。
「明日、もう一度会見します」
「支持はさらに落ちますよ」
「分かっています」
「法案も、神谷さん個人の贖罪だと批判される」
「それでも、話す」
七瀬は少し黙った。
「今の話を、できるだけそのまま話してください。きれいにまとめないで」
翌日の会見で、神谷は過去の記憶を語った。
翌日の会見で、神谷は十四年前の記憶を語った。配分変更へ疑問を持ちながら、予算全体を遅らせること、上司へ逆らうこと、自分の評価を損なうことを恐れ、確認を先送りした。その後、確かめなかった。
「違法性を認識していたのですか」
「違法だとは考えていませんでした。私が謝罪するのは、法律に触れなければ責任は終わると思っていたことです」
制度の中では、誰も悪意を持たなくても、上司、担当者、政治家、企業が各自の役割を果たした結果、声の弱い地域が削られる。自分はその連鎖の一部だった、と認めた。
支持はさらに落ちた。それでも朝霧市の住民から、「正しい人でなくていい。隠さない人でいてください」という手紙が届いた。神谷は、それを免罪符にしないよう引き出しへしまった。
連絡もなく現れ、小宮へ「五分で帰る」と言った。
「会見を見た」
榊原は立ったまま言った。
「記憶を話す必要はなかった」
「必要だった」
「黒田さんはもう亡くなっている。反論できない人間の名前まで出した」
「役職だけだ。名前は出していない」
「同じだ。分かる人間には分かる」
「君は反論できる」
「私を国会へ呼ぶつもりか」
「必要なら」
榊原は薄く笑った。
「昔から、追い詰められると他人まで同じ場所へ引きずり込む」
「昔の俺を知っているなら、なぜ止めなかった」
「止めた」
「後で確認しようと言った」
「全体を止めるな、とも言った」
「なぜ」
「それが仕事だったからだ」
榊原は椅子に座った。
「今なら、まだ収められる。法案を取り下げろ。文書の流出は、保存手続き上の問題として省内で調査する。君の決裁も、上司の指示に従った通常業務だったと説明できる」
「見返りは」
「見返りではない。事実だ」
「法案を取り下げれば事実になり、出せば疑惑になる?」
「政治とはそういうものだろう」
「官僚が言うのか」
「君が教えてくれた。国会議員になってからな」
榊原は神谷を見た。
「君が壊そうとしているのは、不正ではない。不完全でも動いている国家そのものだ」
「不完全だから、直す」
「直す途中で止まったらどうする。予算公開システムのために自治体が新しい事務を負い、租税特例の見直しで投資が凍り、配分変更で事業が中断する。制度は実験室じゃない。失敗すれば生活が壊れる」
「今も壊れている」
「今の壊れ方は、皆が対処の仕方を知っている」
神谷は言葉を失った。
榊原の論理は冷酷だった。しかし、政治と行政の現場では、それが現実的と呼ばれる。未知の混乱より、既知の不公平。急な改革より、管理可能な衰退。
「朝霧市の人間に、それを言えるか」
「言える」
榊原は即答した。
「全員を救える政策はない。救えない人へ、救えるふりをする方が残酷だ」
「救えないと決めたのは誰だ」
「数字だ」
「数字を決めたのは人間だ」
二人の間に沈黙が落ちた。
「法案は取り下げない」
神谷が言うと、榊原は立った。
「次は、君だけでは済まない」
「川畑さんを知っているのか」
榊原の表情は変わらなかった。
「誰だ、それは」
「朝霧市の職員だ。連絡が取れない」
「地方公務員の所在まで、財務省は管理していない」
「脅しを受けていた」
「警察へ行け」
「君は何も知らない?」
「知らない」
榊原は扉を開けた。
「ただし、失踪と君の法案を安易につなげるな。自分が主人公の物語に、他人の人生を使うことになる」
七瀬と同じ警告だった。
榊原が去った後、神谷は長く扉を見つめた。
攻撃している側も、自分が正しいと思っている。
あるいは、正しいと思わなければ続けられないのかもしれない。
七瀬は、川畑の最後の言葉を手掛かりに、金の出口を追っていた。削除される前に保存した自治体の支払データ、法人登記、再委託先。数週間後、彼女は神谷へ分厚い資料を持ってきた。
「同じ名前がありました」
表の最終列に、一般財団法人・国土未来研究機構とある。
「研究法人?」
「東亜地域開発の関連会社から、調査研究費やシステム評価費の名目で支払いを受けています。金額は一件ごとには大きくない。でも、複数の自治体事業から流れている」
「役員は」
七瀬は名簿を示した。
理事長は元国土行政官。理事には複数の省庁OB。評議員の一人に、榊原修司の名があった。
「榊原は無報酬の非常勤評議員です。これだけでは利益を得たとは言えません」
「研究機構の設立に関わっている?」
「設立時の準備委員会に参加しています」
「久我山との関係は」
「研究機構の設立記念講演で、久我山議員が挨拶している」
「また合法か」
「全部、表に出ている情報です。別々の場所に」
七瀬はパソコンを開いた。
「問題は、昨日まで公開されていた支払データの一部が消えたことです」
「消えた?」
「自治体のサイトから、過去の契約一覧が削除されています。保存期間の見直しという説明です。国土未来研究機構への再委託が確認できる三自治体すべてで」
「同じ日に?」
「二日間のうちに」
偶然ではない。
だが、削除自体が違法とは限らない。保存期間を過ぎた公開情報を整理しただけだと説明できる。
また、合法の壁だった。
「保存したデータは」
「あります。ただ、改変されていないことを証明する必要がある」
「自治体へ正式に資料要求する」
「川畑さんの件がある」
「では、国会図書館の収集記録やウェブ保存を確認する」
「すでに依頼しています」
七瀬は疲れた顔で笑った。
「信用しないまま組む、と言いましたよね。私も同じです」
その夜、神谷の携帯電話に公衆電話から着信があった。
「神谷です」
雑音の向こうで、呼吸音がした。
「先生」
川畑の声だった。
「川畑さん、どこにいるんです。無事ですか」
「家族は」
「警察に相談しています。あなたを探している」
「家族には、私から連絡します」
「今すぐ居場所を教えてください」
「まだ戻れません」
「誰かに脅されているんですか」
沈黙。
「川畑さん」
「帳簿は二つあります」
神谷はペンを取った。
「何の帳簿です」
「国へ出す方と、調整に使う方です。私が見たのは、自治体側の写しです」
「どこにある」
「もう、元の場所にはありません」
「あなたが持っている?」
「表に出ている方を信じないでください。数字は同じでも、意味が違う」
「調整用には何が書かれている」
「事業者だけではありません。誰が頼み、誰がつなぎ、何を返すか」
神谷の背中に冷たいものが走った。
「証拠を持っているんですね」
「先生」
川畑の声が震えた。
「私は、正しいことをしたかったわけじゃないんです。最初は、自分の市へ金を取り戻したかった。同じことをしている自治体があるなら、うちも仲間に入れてほしかった」
「それでも、資料を渡してくれた」
「断られたからです。私たちは、使える側ではなかった」
神谷は何も言えなかった。
告発者が、純粋な正義から動くとは限らない。
排除されたから、仕組みを暴こうとする。自分の利益が得られなかったから、不公平を訴える。それでも、示された事実の価値は変わらない。
「居場所へ迎えに行きます」
「まだ駄目です」
「一人で持っていても危険です」
「だから、分けました」
「誰に」
電話の向こうで、車の音がした。
「次に連絡するとき、場所を伝えます」
「待ってください」
「法案を止めないでください」
「あなたの命より大事な法案ではない」
「私のために止めたら、私は戻れなくなる」
通話が切れた。
神谷はすぐに番号を確認したが、発信場所までは分からない。警察へ伝えるべきか迷った。川畑は自分の意思で身を隠し、証拠を分散したと言った。警察へ動けば、その情報がどこへ伝わるかも分からない。
神谷は七瀬と小宮を呼んだ。
三人で、録音していなかった通話の内容を一語ずつ書き起こした。
「帳簿は二つ」
七瀬が言った。
「国へ出す方と、調整に使う方」
「自治体側にも写しがあった」
小宮が続けた。
「誰が頼み、誰がつなぎ、何を返すか」
神谷はホワイトボードに書いた。
要望者。
仲介者。
見返り。
それは、単なる予算配分表ではない。
政治と行政と企業の関係を記した地図だった。
「次に連絡が来たら、必ず居場所を聞き出す」
小宮が言った。
七瀬は神谷を見た。
「それまでに決めておくことがあります」
「何を」
「帳簿を受け取ったら、どうするかです。法案のために使うのか、記事にするのか、捜査機関へ渡すのか。全部同時にはできないかもしれない」
「なぜ」
「公表すれば、証拠隠滅を促す。捜査へ渡せば、非公開になる。法案審議で使えば、政治的な資料だと扱われる」
「事実は一つだ」
「でも、事実の入口は一つではありません」
神谷は、二つの帳簿という言葉を見つめた。
国の帳簿と、調整の帳簿。
公開される事実と、動かすための事実。
そして、自分の中にも二つの帳簿がある。
改革を語る現在と、沈黙した過去。
どちらか一方だけを見せれば、また同じことになる。
「全部、開く」
神谷は言った。
「私の過去も含めて」
七瀬はすぐにはうなずかなかった。
「開くことで、守れなくなる人がいます」
「では、どうする」
「順番を考えましょう」
神谷は窓の外を見た。
夜の議事堂は、変わらず静かだった。
だが、その静けさの下で、攻める側も焦り始めている。
公開データが消え、過去の文書が流出し、川畑が身を隠した。
誰かが何かを守ろうとしている。
そして、守ろうとするほど、その輪郭が見え始めていた。
第六章 誰も見ていない夜
川畑から二度目の連絡が来たのは、雪の予報が出た夜だった。
午後十時十三分。前回とは別の公衆電話からだった。
「明日の午前零時、青梅線の古里駅へ来てください」
「一人で?」
「先生一人では来ないでください」
「誰を連れていけばいい」
「七瀬さんを」
「小宮は」
「議員秘書は記録が残ります」
「記者も同じです」
「七瀬さんなら、記録の残し方を選べる」
川畑はそれ以上説明せず、電話を切った。
神谷は七瀬へ連絡した。彼女は少し考えただけで、「行きます」と答えた。
「危険かもしれない」
「だから行くんです」
「警察へ知らせるべきでは」
「川畑さんが望んでいない。現時点では犯罪被害も確認できていません。私たちの居場所だけ、小宮さんに伝えておきましょう」
「あなたは、いつも慎重なのか大胆なのか分からないな」
「慎重に大胆なことをするのが、取材です」
二人は別々に東京を出た。神谷は議員車を使わず、帽子とマスクで顔を隠して電車に乗った。立川で七瀬と合流し、さらに西へ向かう。
乗客は少なく、窓の外は暗かった。住宅の明かりが途切れ、山の影が近づいてくる。七瀬は膝の上に小さな鞄を置き、何度も後方の車両を確認した。
「尾行されていると思いますか」
神谷が小声で尋ねた。
「思うかどうかではなく、確認します」
「いたら?」
「降りません」
「川畑さんを待たせることになる」
「私たちが連れていく方が危険です」
古里駅に着いたとき、雪はまだ降っていなかった。無人に近いホームへ冷たい風が吹き込み、山あいの川の音が聞こえた。
改札の外に、川畑はいなかった。
神谷たちは十分待った。十五分。二十分。
「場所を間違えた?」
「零時と言いました」
七瀬は駅前の公衆電話を見た。受話器の下に、白い紙が挟まっている。
――川沿いを上流へ。赤い橋の手前。
二人は街灯の少ない道を歩いた。川の音が大きくなり、やがて小さな駐車場が見えた。奥に古い軽自動車が止まっている。
運転席の扉が開いた。
川畑が降りてきた。
十日ほどの間に、ひどく痩せていた。無精ひげが伸び、コートの肩に細かな汚れがついている。
「無事だったんですね」
神谷が近づくと、川畑は一歩下がった。
「誰にも、つけられていませんか」
「確認しました」
七瀬が答えた。
「家族へ連絡を」
「昨日、しました。しばらく帰れないとだけ」
「なぜ、そこまで」
川畑は車の後部座席から、布に包んだファイルを取り出した。
「これを持っていたからです」
三人は、川沿いの閉鎖された観光案内所へ入った。川畑が管理会社から借りた鍵を持っていた。室内は電気が止められ、懐中電灯を机に置いた。古いパンフレットと木の椅子。窓の外に暗い川が流れている。
川畑は布をほどいた。
厚いファイルが二冊現れた。
一冊は青。もう一冊は赤。
「青い方は、国へ提出した事業管理台帳の控えです。赤い方は、県と関係自治体の担当者が、調整会議で使っていた資料の写しです」
神谷は手袋を外し、赤いファイルを開いた。
表には、自治体名、事業名、要望額、査定額、最終配分額がある。ここまでは、最初に届いた帳簿と同じだった。
違うのは、右側の列だった。
要望ルート。
調整担当。
協力団体。
対応事項。
各欄には、人名ではなく記号が記されている。KG、SK、TK。団体名も略号だった。対応事項には、「研修受入」「推薦枠」「会合協力」「次年度検討」といった言葉が並ぶ。
「見返りですか」
七瀬が尋ねた。
「そう断定できる書き方ではありません」
川畑は答えた。
「予算を通す代わりに何かを要求した、とは書いていない。支援を受けた関係者が、その後どう協力するかを確認した一覧だと説明できます」
「KGは久我山か」
神谷は指で記号を追った。
「おそらく。SKは榊原かもしれません。でも同じ頭文字の人はほかにもいる」
「記号表は」
「ありません。ただ、別の会議資料と照合すれば分かるものがあります」
七瀬は一ページずつ撮影を始めた。定規とページ番号を一緒に写し、連続性が分かるようにする。
「原本ではなく写しですね」
「はい。原本は県の担当部署にあったはずです。数年前、書庫整理で廃棄されたことになっています」
「この写しは、どこから」
川畑は視線を落とした。
「当時の上司が持っていました。退職した後も、自宅に」
「その方は」
「去年、亡くなりました。遺族から、役所関係の書類を処分してほしいと頼まれた。私が見つけて、持ち出しました」
「遺族の許可は」
「ありません」
七瀬の撮影する手が止まった。
「それは、法的に問題になる可能性があります」
「分かっています」
「なぜ、すぐ神谷さんへ渡さなかったんです」
「最初は、使うつもりだったからです」
川畑は椅子に座った。
「うちの市へ予算を戻すために。赤い帳簿を持っていると中央へ伝えれば、次の配分で配慮されるかもしれないと思った」
「脅迫に使うつもりだった?」
「そんな大げさなものではないと、自分に言い聞かせていました。過去の不公平を、次の予算で少し直してもらうだけだと」
「誰に接触したんです」
「県の元幹部を通じて、国土未来研究機構の人間に」
神谷と七瀬は顔を見合わせた。
「返事は」
「帳簿には価値がないと言われました。写しで、記号しかなく、違法性もない。それでも、持っていることを誰にも話さない方がいいと忠告された」
「その後、脅しが?」
「市役所の異動、自宅への電話。子どもの学校名。ある夜、帰宅すると、机の引き出しが少し開いていました。何も盗まれていない。でも、ファイルを置いていた場所だけが触られていた」
「警察へ行かなかった」
「帳簿を盗んだことを説明できませんでした」
川畑は両手を見た。
「正義の告発者なら、堂々と行けたんでしょう。でも私は、これを取引に使おうとした。自分の市だけ救おうとした」
神谷は赤い帳簿を閉じた。
「それでも、今は渡そうとしている」
「怖くなっただけです」
「動機で事実は変わりません」
「先生は、そう言って自分を許したんですか」
川畑の問いは静かだった。
神谷は答えられなかった。
自分もまた、国を変えたいという理想だけで動いているわけではない。過去の罪悪感、正しいと証明したい焦り、政治家として名を残したい欲。動機は混ざっている。
七瀬が撮影を再開した。
「帳簿を三つに分けましょう」
「三つ?」
「原本に近いファイルは、安全な場所へ保管。画像データは複数の人間へ暗号化して預ける。内容を検証する作業用データは、個人名や出所を外す」
「記事にするのか」
「今すぐはしません。記号の特定と、各項目の裏づけが必要です」
川畑が不安そうに言った。
「私の名前は」
「あなたが同意するまで出しません。ただし、資料の入手経緯を問われたとき、完全には守れない可能性があります」
「記者は取材源を守るものでは」
「守ります。でも、絶対に守れると約束する記者は信用しないでください」
七瀬は神谷を見た。
「政治家も同じです」
神谷はうなずいた。
「法案の材料には使いません。少なくとも、出所を明らかにせず国会で振り回すことはしない」
「では、何のために」
「調査と告発のためです。ただし、法案は法案として、公開情報で必要性を示す」
川畑は長く息を吐いた。
「先生。法案を通すために、これを隠すことはありませんか」
「ない」
「久我山先生と取引すれば、法案の一部は通るんでしょう」
「なぜ知っている」
「地方にも話は回ります。租税特例を外せば、予算公開は認めると」
神谷は答えを選んだ。
「法案を通すために事実を隠せば、その法案は最初から同じ仕組みに組み込まれる」
「でも、全部失うかもしれない」
「その可能性は高い」
「それでも?」
「あなたに法案を止めるなと言われた」
川畑は首を振った。
「私のせいにしないでください」
「そうだな」
神谷は苦笑した。
「私が決めます」
夜明け前、三人は観光案内所を出た。雪が降り始めていた。細かな白い粒が、川面へ触れる前に闇へ消える。
川畑は家族のもとへすぐには戻らず、弁護士が用意した場所へ移ることになった。七瀬が信頼する弁護士を通じ、警察への相談と資料保全を同時に進める。川畑の家族にも、安全を確認した上で本人から連絡する。
駅へ向かう途中、神谷は振り返った。
「川畑さん」
「はい」
「戻ってきてください。法案のためではなく」
川畑は何も答えなかった。
ただ、初めて少しだけ肩の力を抜いた。
東京へ戻る電車の中で、七瀬は眠らず、撮影した画像を確認していた。
東京へ戻る電車で、七瀬は記号と公開資料を重ねた。KGの案件は久我山事務所の行事直後に動き、SKの時期は榊原の担当と重なる。研修受入も、配分を受けた自治体だけ参加率が高い。
「録音でもなければ、見返りとは証明しにくい」
「でも、誰が誰とつながり、何を慣行としていたかは分かります」
法律を作る政治が、法律に触れない形で利益を配る技術を磨いてきた。赤い帳簿は、その支配の地図だった。
法案には、政治家や団体の要望を記録し、面会、意見書、再委託先、利益相反を追える仕組みが加わった。行政を止めないよう、一定額以上と評価順位が変わった案件に対象を絞り、例外には事後検証を義務づける。
深夜の会議へ浅見が現れ、監査委員を与党だけで選べない仕組みを提案した。
「味方という言葉を政治で使うな。明日、採決で反対票を入れるかもしれない」
それでも、法案の穴を埋める手は貸した。
「最初の帳簿を送ったのは、あなたですね」
浅見は窓の外を見た。
「七瀬から聞いたのか」
「彼女は何も言っていない」
「なら、知らないままでいろ」
「赤い帳簿が見つかった」
浅見の顔が動いた。
「どこで」
「それは言えない」
「記号表はあるか」
「ない。あなたは意味を知っている?」
浅見は長く黙った。
「一部なら」
「なぜ」
「私も、その調整に関わったからだ」
神谷は浅見を見つめた。
「総務省時代ですか」
「議員になってからもだ。地方から要望を受け、関係省庁へつなぎ、業界に協力を求めた。違法な金は受け取っていない。私腹も肥やしていない。地元へ必要な予算を取るためだと思っていた」
「思っていた?」
「最初はな」
浅見は椅子に座った。
「一度、ルートを使えば、次も同じ人間へ頼む。向こうは見返りを明示しない。講演会へ出る。研修を紹介する。業界の要望を部会で取り上げる。全部、議員の通常業務だ。だが、断れば次の要望が通りにくくなる。いつの間にか、頼んだ側と頼まれた側が分からなくなる」
「久我山が中心ですか」
「中心という言葉は正確ではない。久我山先生は、散らばった利害を結ぶ。誰かに命令する必要はない。皆が、先生ならどう判断するかを先回りする」
「榊原は」
「役所側の調整役だ。数字と法令を合わせ、どこまでなら説明できるかを設計する」
「犯罪か」
「おそらく、多くは違う」
「では、何を告発する」
「国会が、自分で決めていないことだ」
浅見の声は低かった。
「表では委員会が審議し、採決する。だが、その前に、誰へいくら配るか、何を残すかが決まる。議員は資料を渡され、党議拘束で票を入れる。違法ではない。だからこそ、変えにくい」
「あなたは、なぜ今になって」
「妻が死んだ」
突然の言葉だった。
「二年前、地方の病院でな。専門医が足りず、治療の開始が遅れた。予算だけが原因ではない。早く治療しても助からなかったかもしれない。それでも、病院の統合計画が国の評価で何度も落ちていたと後で知った」
浅見は手を握った。
「私は、別の地域へ施設予算を持っていくため、その配分に賛成していた。自分の地元を救うことが政治だと思っていた。だが、帳簿の反対側にも人間がいる。当たり前のことを、妻が死ぬまで理解しなかった」
神谷は何も言わなかった。
「私は君の法案に全面賛成ではない。公開で救えないものもある。だが、今のままでは、誰が何を選んだのかすら残らない」
「国会で証言してください」
「できない」
「なぜ」
「証言すれば、私が関わった自治体まで疑われる。必要だった事業も止まる。職員や住民が巻き込まれる」
「また、誰かを守るために黙る?」
「そうだ」
浅見は神谷を正面から見た。
「君は、黙らないことだけが勇気だと思うな」
「では、何ができる」
「委員会で質問する。政府が赤い帳簿の存在を否定できない形で、文書番号と記号を国会記録へ残す」
「あなたも終わります」
「君ほど華々しくは終わらない」
浅見は乾いた笑いを浮かべた。
「政治家は、表で倒れる者より、役職を一つずつ失う者の方が多い」
その夜から、会議室の空気が変わった。
神谷たちは、法案を完成させるだけでなく、自分たちの一人が離れても作業が続く仕組みを作った。資料を分散し、更新履歴を残し、誰がどの修正を提案したかを記録する。法案の解説は、専門家向け、自治体向け、一般向けの三種類に分けた。
神谷たちは、誰か一人が離れても作業が続くよう資料を分散し、修正履歴を残した。広報から神谷の名を外し、表題を「予算を見える言葉にする共同提案」へ変えた。
全国の自治体職員から、緊急契約、離島の一社入札、公開作業の人手不足など、中央が想像しなかった問題が届いた。例外規定は増えたが、利害を隠すためではなく、生活を無視しないための複雑さだった。
「理想は短い言葉で言えるのに、現実にすると附則が増えますね」
「附則の数だけ、人が暮らしている」
浅見に気取っていると笑われ、会議室に久しぶりの笑いが起きた。誰も見ていない夜に、法案は形になっていった。
原稿は一万五千字を超えた。
七瀬は編集会議へ提出した。
翌日、政治部長に呼ばれた。
「このままは出せない」
「どこが問題ですか」
「資料の入手経緯。記号の特定。違法性が明確でない」
「違法性だけを記事にしているのではありません。予算調整の実態です」
「読者は、結局何が悪いのかと聞く」
「国会に提出されない基準で配分が変わり、関係者の協力関係が記録されている」
「協力関係は違法ではない」
「違法でなければ報道しないんですか」
部長はため息をついた。
「七瀬、新聞は運動団体じゃない。事実を積み上げろ」
「積み上げています」
「取材源が持ち出した資料なら、所有権の問題もある。会社と議員から訴えられたら、勝てる保証がない」
「反論も併記しています」
「それだけじゃない」
部長は机の上の原稿を閉じた。
「上から止まっている」
「上とは」
「聞くな」
「政治部長が、政治家と同じ答えをするんですね」
「君を守っているんだ」
「誰から」
「自分が何と戦っているか分かっていない若さからだ」
久我山と同じ言葉だった。
七瀬は原稿を持って部屋を出た。
その夜、彼女は神谷の事務所へ来た。
「記事が止まりました」
「理由は」
「証拠不足。法的リスク。上の判断」
「個人で公開するつもりか」
「まだ決めていません」
「新聞社に残った方がいい。あなたが辞めれば、内部で情報を取れる人間が減る」
「政治家の都合で、記者の進退を決めないでください」
「そういう意味ではない」
「分かっています」
七瀬は疲れた目で笑った。
「でも、どちらを選んでも、何かを失います。残れば、記事を止めた組織の一員になる。出れば、新聞社が持つ取材網と信用を失う」
「私には、答えられない」
「答えを求めていません」
「では、なぜ話した」
「仲間だからでしょうか」
七瀬自身が、その言葉に戸惑ったようだった。
神谷は少し笑った。
「信用していないまま?」
「ええ。だから、ちょうどいい」
そこへ、小宮が駆け込んできた。
「川畑さんから、データが届きました」
弁護士を通じ、暗号化された音声ファイルが送られていた。川畑の元上司が残した古い録音で、赤い帳簿と一緒に保管されていたという。
録音日は十四年前。場所は、県庁内の会議室。
雑音の中に複数の声がある。
自治体側の担当者が、指定された事業者を使わなければ採択されないのかと尋ねている。
低い男の声が答えた。
「指定という言い方は正確ではありません。実績のある事業者を活用した方が、計画の熟度を説明しやすいということです」
「別の会社では駄目ですか」
「駄目とは申し上げません。ただ、次回の調整日程には間に合わない可能性があります」
「では、実質的には――」
「配分を受けたいのであれば、国が評価できる形に整えてください」
神谷は音声を止めた。
「榊原だ」
声は若いが、間違いなかった。
再生を続ける。
別の男が、神谷の担当する自治体について尋ねた。
「神谷補佐が、朝霧市の減額に納得していません」
榊原の声がする。
「あいつはこの件から外してください。細かい理屈へ入ると止まります」
「気づかれるのでは」
「全体調整だと説明します。神谷に余計な資料は見せないでください」
録音はそこで途切れた。
室内に、誰も言葉を発しない時間が流れた。
榊原は、神谷を利用したのか。
それとも、守ったのか。
余計な資料を見せず、決裁だけさせた。
神谷の印を使いながら、全体を知らせなかった。
「これで、榊原さんの関与はかなり強く示せます」
七瀬が言った。
「録音の真正性を確認する必要があります。元データ、録音機器、保管経緯。声紋だけでは争われます」
「国会へ出せば」
小宮が言った。
「政府は、非公式会議の一部を切り取ったものだと答えるでしょう」
「記事なら」
「会社が止める可能性があります」
「捜査機関へ渡す?」
「違法行為の立証はまだ難しい」
また、入口の選択だった。
神谷は録音機の画面を見つめた。
榊原の声が、過去から自分を外そうとしている。
あいつはこの件から外してください。
その結果、神谷は全体を知らず、疑問を押し込み、決裁印を押した。
守られた無知は、責任を消すのか。
むしろ、最も便利な共犯の形ではないのか。
神谷の携帯電話が震えた。
榊原からだった。
メッセージは一行だけ。
――法案を出せば、次に消えるのは資料ではなく、君だ。
小宮が画面を見た。
「脅迫です」
「そうとは限らない」
「ほかに、どう読めるんです」
七瀬が言った。
「政治的に消される、という警告かもしれません」
「どちらでも同じだ」
神谷は携帯電話を机に置いた。
「法案を提出する」
「党の了承は」
「得られない」
「委員会へ付託されない可能性があります」
「それでも提出する」
「録音と帳簿は」
「法案とは分ける。浅見先生には委員会で存在を記録してもらう。七瀬さんは、記事にするか自分で決めてください。川畑さんの安全を最優先にする」
七瀬は神谷を見た。
「神谷さんは?」
「何が」
「自分の安全は」
神谷は答えようとして、やめた。
自分を犠牲にすれば正義になる、という考えもまた傲慢かもしれない。倒れれば、周囲に負担を残す。
「守れる範囲で守る」
「曖昧ですね」
「政治家らしくなったんだろう」
夜は明けかけていた。
窓の向こうで、空の色が黒から濃い青へ変わる。議員会館の各階に、少しずつ照明がつき始めた。
誰も見ていない夜に作られた法案は、ようやく人の目にさらされる。
神谷は完成稿の表紙をめくった。
法案名は、何度も議論した末に決まっていた。
国家予算透明化・地方再生法案。
その下に、共同提案者の名前が並ぶ。
神谷の名前は、一番上ではなかった。
宮坂、複数の無所属議員、野党の若手、そして最後に神谷。
法案は、もう彼一人のものではない。
それでも、提出の責任は引き受けなければならない。
神谷は署名欄にペンを置いた。
十四年前、彼は全体を止めないために、了解と書いた。
今度は、全体が止めようとする法案へ、自分の名を書いた。
第七章 国会の火種
法案提出の日、東京は朝から雨だった。
法案提出の日、東京は雨だった。
神谷と宮坂は、正本と共同提案者の署名を入れた鞄を持ち、地下通路を歩いた。法制局との調整で、初年度費用は既存基金の整理から捻出する形に修正している。
「現実へ落とすと、理想は細かくなりますね」
「細かくならない理想は、標語だ」
提出窓口には記者が待ち、「成立の見込みがないのに、パフォーマンスでは」と問うた。
「成立の見込みがなければ提出できないなら、少数意見は永遠に法案になりません。審議されれば、賛否の理由が記録に残る」
受付印が押された。十四年前の決裁印とは違う。誰かの指示ではなく、自分たちが選んだ印だった。
その午後、党は神谷を役職から解任し、共同提案者へ撤回を求めた。業界団体は、国際競争力、企業秘密、地方雇用への危険を掲げ、テレビは法案を「全予算公開」「企業減税一律廃止」と単純化した。
神谷たちは本文、要約、誤解への回答を公開した。市民や専門家が条文を読み、解説と批判を始める。欠点も容赦なく指摘された。
「欠点がないと装う方が無責任です。審議は、法案を直すためにある」
国会外の注目が高まり、執行部は審議を拒む方針から、短期間で否決する方針へ変えた。委員会は三日間だけ開かれる。
神谷と榊原は、委員席と答弁席を隔てて向き合った。
かつて神谷は、榊原とともに答弁資料を作る側だった。質問者の意図を読み、最も安全な回答を準備した。今日は、その安全な回答を崩す側にいる。
最初の質問者は宮坂だった。
「政府に伺います。現在、国民が一つの公共事業について、予算要求、採択理由、契約先、再委託先、成果評価までを、一つの番号で追跡できる仕組みはありますか」
担当大臣が答えた。
「各段階におきまして、法令に基づく情報公開を適切に実施しております」
「質問は、一つの仕組みがあるかです」
「各省庁および自治体において、必要な情報を――」
「あるのですか、ないのですか」
大臣は答弁資料へ目を落とした。
「一元的な仕組みは、現時点ではございません」
傍聴席で小さなどよめきが起きた。
「では、法案が提案する共通番号について、技術的に不可能なのですか」
「行政コストや情報保護を含め、慎重な検討が必要です」
「不可能かどうかを聞いています」
「技術的に不可能とまでは申し上げません」
宮坂はうなずいた。
「不可能ではない。現在は、やっていない。それが政府答弁ですね」
一つ目の記録が残った。
相田は共同提案者から外れていたが、委員として質問席に立った。
「租税特例について伺います。直近十年間、延長された特例のうち、政策効果が目標を下回ったことを理由に廃止されたものは何件ですか」
政府側は数字を即答できなかった。
「後ほど提出いたします」
「効果を把握せず、延長しているものはありますか」
「所管省庁において適切に検証しています」
「適切という言葉ではなく、統一した評価基準があるかを聞いています」
「個別の政策目的に応じて――」
「つまり、統一基準はない」
相田は神谷を見なかった。
それでも、質問は法案を支えていた。
二日目、反対派の議員たちは神谷の過去を集中して追及した。
「あなたは十四年前、地方予算の減額を了承した。その責任を曖昧にしたまま、同じ制度を批判している」
「関与した責任を認めています」
「認めるだけで済むのですか」
「済みません。だから、調査と制度改革を進めています」
「法案を、自分の免罪符にしているのでは」
「法案が成立しても、私の過去は消えません」
「では、まず辞職すべきでは」
「辞職すれば過去が明らかになるなら、そうします。しかし、辞職だけを求め、制度の議論を終わらせることには同意できません」
反対派席から野次が飛んだ。
「地位にしがみついているだけだ」
「改革ごっこだ」
神谷は壇上の時計を見た。限られた答弁時間が削られていく。
「私個人への追及は、別の場でも受けます。今は法案の内容を審議してください」
「提案者の信頼性も法案の一部だ」
「ならば、私を信頼しなくて構いません。条文と数字を検証してください」
委員会室が一瞬静かになった。
政治家は信頼を求める。自分を信じて投票してほしいと訴える。
神谷は初めて、自分を信じるなと言った。
七瀬は記者席でその言葉を聞いていた。
彼女の記事は、まだ新聞に載っていなかった。会社は追加取材を理由に掲載を延期し続け、赤い帳簿の存在を他社がつかみ始めていた。
委員会二日目の夜、七瀬は編集局長に呼ばれた。
「原稿は見送る」
「延期ではなく?」
「現時点では掲載しない」
「理由を文書でください」
「社内判断だ」
「政治家と業界団体から抗議があったんですか」
「答える必要はない」
「では、私が個人で出します」
局長は眼鏡を外した。
「会社の取材で得た情報だ」
「地方支局時代から、私が追ってきた取材です」
「会社の名刺と経費を使った」
「事実は会社の所有物ですか」
「記者としての規則を言っている」
「規則を守って、記事を消すんですか」
「七瀬」
局長は声を落とした。
「君が思うほど、単純な圧力ではない。資料の違法取得、関係者の安全、損害賠償、会社全体の信用。一本の記事のために、何百人もの社員を危険にできない」
「神谷と同じことを言うんですね」
「何だと」
「全体を止めないために、一つの疑問を処理する」
局長は黙った。
「退職届を出します」
「感情で決めるな」
「三年考えました」
「会社を出れば、君の記事は個人の主張になる。政治部記者としての信用も、法務も、取材網も失う」
「それでも、資料と検証過程を同時に出します。私を信用しなくていい形で」
七瀬は頭を下げ、部屋を出た。
翌朝、委員会最終日の開会一時間前、七瀬の記事が公開された。
題名は、「二つの予算台帳――合法の内側で、誰が配分を決めたのか」。
記事は、赤い帳簿を全面的な真実として提示しなかった。入手経緯、写しであること、記号の特定方法、未確認部分、関係者の反論を明記した。元資料の画像は個人情報を伏せて公開し、計算表と法人関係図も添えた。
最後に、こう書かれていた。
――本稿が示すのは、特定の人物の犯罪ではない。犯罪と認定されない手続きの積み重ねが、国会に示されない基準を生み、予算の優先順位を変えた可能性である。読者は記者を信じる必要はない。公開した資料を、自ら確かめてほしい。
記事は瞬く間に拡散した。
国土未来研究機構は、資料が不正確で名誉を毀損すると声明を出した。久我山事務所は、記号と本人を結びつける根拠がないと否定した。財務省は、正式な行政文書か確認できないとコメントした。
否定の言葉が出るたび、記事へのアクセスが増えた。
委員会室へ入る直前、神谷は七瀬からメッセージを受け取った。
――会社を辞めました。後悔は、まだしていません。
神谷は返信した。
――後悔する権利も残してください。
すぐに返事が来た。
――政治家らしくない、いい言葉です。
委員会最終日。
浅見が質問席に立った。
反対派の議員たちは、彼が法案の問題点を追及すると考えていた。久我山も委員ではないが、後方の傍聴席に姿を見せていた。
浅見は最初に、法案の欠点を並べた。
「公開情報が誤解を生む危険。自治体の事務負担。企業の正当な秘密。災害時の迅速な契約。提案者は、理念を優先し、現場の複雑さを軽視している」
神谷は答えた。
「ご指摘の危険はあります。だから、例外規定、事後検証、自治体支援を加えました。なお不十分な点は、審議で修正したいと考えています」
「法案は完全ではないと認めるのか」
「はい」
「不完全な法案を国民へ出すのか」
「現在の制度も不完全です。違いは、不完全さを見える場所で直せるかどうかです」
浅見は資料をめくった。
「では、政府に伺う」
空気が変わった。
「平成二十年代初頭の広域基盤整備事業に関し、正式な事業管理台帳とは別に、調整区分、要望ルート、関係団体への対応事項を記載した資料が作成された事実はあるか」
政府側がざわついた。大臣の後ろで官僚たちが紙を回す。榊原は動かなかった。
「ご指摘の資料が具体的に何を指すのか、承知しておりません」
「文書管理番号、地基調二一―別二。通称、調整用管理表だ」
浅見は番号を読み上げた。
委員会室が静まり返った。
神谷は、その番号を知らなかった。赤い帳簿の表紙にもない。浅見は内部の正式名称を知っている。
「当該番号の文書が存在したか、確認して答弁されたい」
大臣が榊原を振り返った。
榊原が答弁席へ立った。
「十四年以上前の文書であり、現時点で存在の有無を即答することは困難です」
「存在しなかったとは言わないのか」
「確認を要します」
「では、確認結果を本委員会へ提出されたい」
「保存年限を経過している可能性が――」
「廃棄したなら、廃棄記録を出せ。存在しないなら、なぜ管理番号が付されているか調査せよ」
浅見の声が震えていた。
「もう一つ伺う。資料の調整区分A、B、Cは、政策評価の順位ではなく、政治家、官僚、関係団体による事前調整の進捗を示すものではないか」
榊原は数秒、黙った。
「そのような区分について、私は承知しておりません」
「承知していない?」
「はい」
浅見は一枚の紙を掲げた。
「当時の調整会議出席者名簿に、あなたの名がある。それでも承知していないと」
「会議へ出席したことと、すべての資料を作成、認識したことは同じではありません」
神谷は、自分が会見で使った言葉を思い出した。
記憶にない。
すべてを知らない。
組織の中で責任を薄める、正確な言葉。
「分かりました」
浅見は資料を置いた。
「政府は、文書の不存在を否定できず、管理番号の調査を約束した。これを国会記録へ残します」
反対派席から、「何をしている」と怒号が飛んだ。
久我山は傍聴席から立ち、静かに退室した。
浅見は最後に、神谷へ向き直った。
「私は、この法案のすべてに賛成ではない。公開すれば政治が正しくなるとも思わない」
「はい」
「だが、公開されない調整が、公開された審議を空洞にしていることは認める。提案者に問う。法案が否決された場合、どうする」
神谷は答えた。
「修正し、再提出します。私ができなければ、別の人が」
「君の名前が消えても?」
「法案は、私の名前を残すためのものではありません」
浅見は小さくうなずいた。
「なら、最後までそうしろ」
質問時間が終わった。
委員会採決では、法案は反対多数で否決された。
賛成票は、予想より多かった。
与党から宮坂を含む数人が賛成し、相田は棄権した。野党も一枚岩ではなく、行政コストや企業活動への影響を理由に反対した議員がいた。
それでも、法案は本会議へ送られることになった。少数意見として記録を残すため、野党が手続きを求めたからである。
本会議の採決は一週間後に決まった。
その一週間で、攻撃は頂点に達した。
川畑が公文書を不正に持ち出した疑いが報じられ、朝霧市は懲戒調査を開始した。七瀬には、国土未来研究機構と関連企業から法的措置を検討する通知が届いた。浅見は党の政策役職を解かれ、次回公認を再検討すると通告された。
宮坂の地元事務所には、支援団体からの抗議が殺到した。
「怖くないのか」
神谷が尋ねると、宮坂は言った。
「怖いですよ。落選したくない。政治家を続けたい。だから、賛成したことを美談にしないでください」
「しない」
「先生もです。自分が消されることを、英雄の結末みたいに考えないで」
「考えていない」
「顔に出ています」
神谷は苦笑した。
宮坂は真剣だった。
「残ることも責任です。負けた後、次の法案を作る人が必要なんです」
神谷は答えなかった。
党からは最後の提案があった。
本会議前に法案を撤回し、赤い帳簿と録音について公表しないこと。その代わり、神谷への処分を軽減し、予算公開制度の一部を政府案として検討する。
使者は牧野だった。
「久我山先生からだ」
「牧野さんは、どう思います」
「受けるべきだ」
「なぜ」
「君が国会に残れる。宮坂たちも守れる。予算公開も一部は進む」
「赤い帳簿は」
「七瀬の記事で出た。国会でも記録された。それ以上、何を求める」
「録音がある」
「榊原を告発するつもりか」
「まだ決めていません」
「決めるな」
牧野は声を落とした。
「榊原一人を切れば終わる話ではない。省庁は組織防衛に入る。文書は非公式、録音は不正取得、証言者は信用できないとされる。君自身の過去も、もっと出る」
「もっと?」
「君が知らないと思っていることを、知っていた証拠が出るかもしれない」
「脅しですか」
「忠告だ。君を国会へ送り込んだ地元の人間もいる。家族もいる。自分だけの命だと思うな」
神谷は窓の外を見た。
「牧野さん。政治家は、いつから残ることだけが仕事になったんですか」
「残らなければ何もできないからだ」
「残るために何もしなければ」
「六十点でいいと言っている」
「その六十点が、誰かの零点の上にある」
「全員を救うな!」
牧野が机を叩いた。
「政治家は神じゃない。救えない人間を選ぶのが仕事だ。君は、選ばなかった責任から逃げている。全部公開し、国民に選ばせると言えば、自分は手を汚さずに済むと思っている」
神谷は息を呑んだ。
痛いところを突かれた。
公開は、責任を共有する仕組みである。
だが、責任を国民へ押し返す言い訳にもなり得る。
「それでも」
神谷は言った。
「選んだ理由を隠す権利は、政治家にはない」
「君は終わる」
「終わらせるのは、私ですか。党ですか」
牧野は答えず、部屋を出た。
本会議の日、傍聴席は満員だった。
雨は上がり、冬の青空が議事堂の窓から見えた。
神谷は自席に座り、壇上を見た。法案趣旨説明のため、最後に演説する機会が与えられていた。持ち時間は十五分。
原稿は用意していた。
しかし、壇上へ上がる直前、神谷は紙を閉じた。
「神谷直人君」
議長に呼ばれ、立った。
議場のざわめき。与党席の冷たい視線。野党席の期待と警戒。傍聴席に七瀬、川畑の弁護士、小宮。川畑本人の姿はない。浅見は後方の席に座り、腕を組んでいた。榊原は官僚席にはいない。
神谷は壇上に立った。
「本法案について、多くの批判をいただきました」
議場が静まる。
「行政を停滞させる。企業活動を萎縮させる。地方へ新たな負担を押しつける。公開された数字が誤解を生む。いずれも、無視できない批判です。本法案は完全ではありません」
反対派席から、「なら撤回しろ」と声が飛んだ。
「完全でないからこそ、審議していただきたいのです」
神谷は議場を見渡した。
「私は十四年前、財務省の職員として、地方向け予算の配分変更に関わりました。疑問を持ちながら、全体を止めてはならないという理由で、上司の方針を処理しました。その結果、必要な支援を受けられなかった地域があります」
自分の声が、以前より低く聞こえた。
「私は制度の被害者ではありません。制度を支えた一人です。悪意があったとは思いません。私腹を肥やしたわけでもありません。だからこそ、長い間、自分に責任はないと考えることができました」
傍聴席で、七瀬がじっと見ていた。
「政治の帳簿には、金額が書かれます。予算額、契約額、執行率。しかし、その数字のために何が選ばれ、何が切り捨てられたかは、ほとんど残りません。誰が要望し、誰が調整し、なぜ順位が変わったのか。法律に違反していなければ、説明されないまま次の年度へ進みます」
与党席の何人かが俯いた。
「私は、すべてを公開すれば政治が正しくなるとは申しません。国民がすべての資料を読むとも思いません。公開された数字が、乱暴な批判に使われる危険もあります」
浅見がわずかに顔を上げた。
「それでも、選択の理由を隠したまま、国民に結果だけを受け入れさせる政治を続けてはなりません。専門家にしか読めない帳簿は、国民の帳簿ではない。政治家だけが知る調整は、国会の審議ではない」
神谷は原稿を置いた演台に手を添えた。
「この法案は、私を信じていただくためのものではありません。私を信じない人でも、国の支出を確かめられるようにする法案です。政府を支持する人も、批判する人も、同じ数字へ戻れるようにする法案です」
野党席から拍手が起きた。与党席では沈黙が続いた。
「政治は、誰かを選び、誰かを救えない決断をします。私は、その残酷さから逃げません。ただ、救えなかった人に対し、なぜその選択をしたのか説明する責任まで捨ててはならない」
持ち時間を示すランプが点滅した。
「本法案が否決される可能性が高いことは承知しています。私自身、次の選挙で公認を得られず、この席を失うかもしれません。しかし、否決は、問題が存在しないことを意味しません。今日ここで反対する方にも、どの条文に、なぜ反対するのかを記録へ残していただきたい」
神谷は一度、息を吸った。
「理想は、一人の政治家が完成させるものではありません。修正され、批判され、別の人に受け継がれて、初めて制度になります。どうか、この法案を神谷直人の法案としてではなく、国民が国家の帳簿へたどり着くための最初の道として、審議してください」
演説を終え、頭を下げた。
拍手は議場全体には広がらなかった。
だが、以前の初質問とは違った。
誰が拍手し、誰が腕を組み、誰が視線を逸らしたかが見えた。
採決が始まった。
記名投票。議員たちが一人ずつ投票札を持ち、壇上へ進む。
宮坂は白票を入れた。
浅見は最後まで札を見つめ、白票を入れた。法案に全面賛成ではないと言っていた。それでも、記録へ残す方を選んだ。
相田の番が来た。
彼は青票と白票を手にしたまま、数秒止まった。党席から鋭い視線が向けられる。
相田は白票を入れた。
神谷は目を閉じた。
賛成票は委員会時より増えた。
しかし、可決には遠かった。
議長が結果を読み上げる。
「本案は、否決されました」
木槌の音が響いた。
それだけだった。
数か月の作業、川畑の失踪、七瀬の退職、浅見の告白、若手議員たちの決断。すべてが、一つの音で手続き上の終わりを迎えた。
神谷は自席に座ったまま、手元の法案を見た。
負けた。
言葉にすると、意外なほど単純だった。
法案は法律にならない。予算の共通番号も、地方の異議申立ても、租税特例の自動検証も始まらない。明日からも、同じ資料が別々の場所に公開され、同じ調整が見えない場所で行われる。
議員たちは次の議題へ移った。
国会は、敗北した者のために止まらない。
本会議後、久我山が廊下で待っていた。
「立派な演説だった」
「ありがとうございます」
「これで終わりだ」
「法案は再提出できます」
「君にはできない」
久我山は穏やかに言った。
「党紀委員会を開く。無断提出、党議違反、党の信用を傷つけた行為。次回公認はない」
「それが、消すということですか」
「自分で消えたんだよ」
「赤い帳簿は消えません」
「写しと記号だ。世間は、次のニュースが来れば忘れる」
「国会記録に残った」
「記録は、読まれなければ墓石と同じだ」
「墓石には、誰が死んだか書いてあります」
久我山は初めて苛立ちを見せた。
「榊原を告発するつもりか」
「まだ決めていません」
「彼を切っても、君は助からない」
「助かるためではありません」
「なら、何のためだ。復讐か」
神谷は答えなかった。
久我山は一歩近づいた。
「録音を出せば、君が当時何も知らなかったという話も崩れる。榊原は、君を外したと言っているかもしれない。だが別の会議では、君が説明を受けた記録がある。証拠は選び方で意味が変わる」
「その記録を出してください」
「自分から首を締めるのか」
「自分の帳簿も開くと言いました」
久我山は神谷を見つめ、やがて背を向けた。
「理想で死ぬ人間は、自分だけが美しいと思っている」
神谷はその背中へ言った。
「死ぬつもりはありません」
「政治家としては同じだ」
久我山は去った。
夜、神谷の事務所に仲間たちが集まった。
誰も乾杯をしなかった。法案が否決されたことを祝う理由はない。だが、沈黙だけでは終われなかった。
宮坂が言った。
「賛成票は、予想より二十七票多かったです」
「否決は否決だ」
「でも、次に必要な票の数が分かった」
相田が、党からの処分通知を机に置いた。
「私は党員資格停止になるかもしれません」
「後悔しているか」
「しています」
相田は笑った。
「でも、反対票を入れていたら、別の後悔をした」
浅見は来なかった。短いメッセージだけが届いた。
――妻に、少しだけ説明できる票を入れた。
七瀬はパソコンを開き、記事への反応を見せた。全国の自治体職員や研究者が、公開資料を検証し、新たな関連契約を見つけている。赤い帳簿の記号についても、複数の証言が寄せられていた。
「法案は否決されました。でも、資料は動いています」
「久我山は、世間は忘れると言った」
「忘れますよ」
七瀬は淡々と答えた。
「人は生活があります。毎日、国会の帳簿を追えない。でも、必要なときに戻れる場所が残ればいい」
小宮が録音データの入った端末を机に置いた。
「これを、どうします」
部屋の空気が重くなった。
榊原の録音。
指定事業者を使うよう示唆した声。神谷へ余計な資料を見せないよう命じた声。
七瀬が言った。
「公表すれば、榊原さんへの調査は避けられません。同時に、神谷さんが過去の調整へ関わった範囲も、改めて調べられます」
「公表しなければ」
「記事だけでは、制度慣行の問題として流される可能性が高い。政府は、赤い帳簿を正式文書と認めないでしょう」
宮坂が尋ねた。
「捜査機関へ渡すだけでは駄目なんですか」
「渡せます。ただ、贈収賄や入札妨害などの明確な構成要件に届くかは分かりません。捜査中として長く非公開になる可能性もある」
「国会の証人喚問は」
「与党が認めない」
全員の視線が神谷へ集まった。
彼が決めるべきではない。
本来、資料は川畑のものであり、記事は七瀬の仕事であり、捜査は捜査機関が判断する。神谷一人の所有物ではない。
「川畑さんの意思を聞く」
神谷は言った。
弁護士を通じ、オンラインで川畑につないだ。画面の向こうの川畑は、以前より落ち着いて見えた。
「録音を公開すれば、あなたが資料を持ち出した経緯も明らかになるかもしれません」
「分かっています」
「家族にも影響が出る」
「妻と話しました。怒られました」
川畑は少し笑った。
「勝手に消えたことも、正義の人間みたいに振る舞ったことも。でも、隠したまま戻っても、また同じ電話に怯えると言われました」
「公開していいんですか」
「私が許可する話ではないと思います。録音したのは元上司で、話しているのは榊原さんです」
「あなたの名前が出る可能性がある」
「出してください、とは言えません。でも、止めてくださいとも言いません」
七瀬が尋ねた。
「記事の取材源として、あなたの身元を守ることはできます。ただし、完全ではありません」
「分かっています」
画面の川畑は、神谷を見た。
「先生。法案が否決されたから、録音を出すんですか」
神谷は言葉を失った。
「成立していたら、出さなかった?」
「分からない」
正直に答えた。
「成立のために、政府と交渉する材料にしたかもしれない。公開を遅らせたかもしれない」
「今は、失うものがなくなったから?」
「議席はまだある」
「でも、公認はない」
「そうです」
川畑はゆっくりうなずいた。
「なら、復讐になっていないか考えてください」
久我山と同じ問いだった。
神谷は録音を何度も聞いた。
榊原の声。
国が評価できる形に整えてください。
神谷に余計な資料は見せないでください。
怒りはあった。
自分を無知なまま使ったことへの怒り。地方の必要性より調整を優先したことへの怒り。今も制度を守るために、川畑や七瀬を追い詰めているかもしれないという疑い。
だが、録音を出す理由が怒りだけなら、告発は復讐になる。
神谷は、法案の第一条を読み返した。
国の財政に関する意思決定の過程を明らかにし、国民の検証可能性を確保する。
意思決定の過程。
そこには、自分に都合の悪い過程も含まれる。
神谷は決めた。
「録音を公表する」
宮坂が息を呑んだ。
「同時に、私の議員辞職願を提出します」
「待ってください」
小宮が立ち上がった。
「辞職する必要はありません。党の処分を待って、無所属で活動すればいい」
「録音で、私の過去の関与も調査対象になる。議員の地位を使って告発し、自分だけ席に残れば、相手を倒すためだと見られる」
「見られ方で辞めるんですか」
「それだけではない。私は、知らなかったと言ってきた。だが、疑問を持ち、処理した責任はある。法案が否決された今、議席へ残ることを優先すれば、また『後で確認する』ことになる」
「辞めたら、何もできない」
「議員でなくてもできることはある」
「それは、残る責任から逃げることかもしれません」
宮坂の言葉が刺さった。
「そうかもしれない」
「なら、決めないでください」
「明日の会見で公表する」
「早すぎます」
七瀬が言った。
「音声の真正性確認、関係者への再取材、法的検討が必要です」
「どれくらい」
「少なくとも数日」
「その間に消される」
「データは分散しています」
「私の政治生命が終わる前に出したいだけかもしれない」
「なら、なおさら待ってください」
神谷は目を閉じた。
急ぐな。
最初から何度も言われてきた。
焦りが、周囲を危険にした。
「分かりました。七瀬さんの検証が終わるまで待つ。ただし、会見の準備は進める」
七瀬はうなずいた。
「公表するときは、録音だけではなく、反証可能な形で全部出します」
三日後、音声の編集痕がないことが専門家によって確認された。録音機の機種と保存日時、元上司の所持品から見つかった経緯も、弁護士の立会いで記録された。榊原と財務省へ質問状を送り、回答期限を設けた。
榊原からは、直接電話が来た。
「会おう」
「質問には文書で答えてくれ」
「録音を出せば、取り返しがつかない」
「何が」
「君もだ」
「分かっている」
「分かっていない」
榊原の声に、初めて明確な焦りがあった。
「今夜、昔の店で待つ」
「行かない」
「直人。最後だ」
電話は切れた。
神谷は迷った末、喫茶店へ行かなかった。
会えば、また二人の間の物語になる。
これは、友情や裏切りだけの問題ではない。
翌日の午後十一時、記者会見場が用意された。
昼ではなく深夜を選んだのは、党の正式な処分発表が翌朝に予定されていたからだった。処分される前に告発し、告発への報復だと演出したいのではないかと小宮は反対した。
神谷は、順番に意味があることを認めた。
それでも、党の処分後に出せば、追放された議員の恨みだと言われる。
どちらにしても、見られ方から逃げられない。
会見場の机に、二冊の帳簿の写し、音声データ、検証報告書、そして議員辞職願を置いた。
開始五分前、神谷は一人で壇上に座った。
記者席のざわめきが扉の向こうから聞こえる。
小宮が隣へ来た。
「本当に出すんですね」
「ああ」
「先生の議席は、先生一人のものではありません」
「分かっている」
「分かっていません」
小宮の目は赤かった。
「選挙で何万人も名前を書いた。スタッフも、家族も、支援者もいる。辞職は潔さではなく、その人たちの選択を捨てることになる」
「では、どうすればいい」
「辞職願は、今夜出さないでください。録音と資料を公表し、国会の調査を求める。その結果、自分の責任が明らかになったとき辞める」
「地位にしがみついていると言われる」
「言わせればいい。先生は、自分を美しく見せるために政治家になったんですか」
神谷は辞職願を見た。
辞めることは、代償を引き受ける行為に見える。
だが、辞めれば追及の席からも降りる。残って泥をかぶり、批判を受け続ける方が、重い責任かもしれない。
宮坂の言葉がよみがえる。
残ることも責任です。
神谷は辞職願を裏返した。
「今夜は、公表だけにする」
小宮は大きく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない。これで正しいか分からない」
「分からないまま決めるのが政治でしょう」
扉が開いた。
フラッシュの光が、まだ始まっていない会見場へ差し込んだ。
神谷は立ち上がった。
法案は否決された。
政治家として消される手続きも始まっている。
それでも、最後の選択はまだ残っていた。
神谷は二冊の帳簿を持ち、記者たちの前へ進んだ。
第八章 残された光
記者会見は、午前零時三分に始まった。
神谷が席へ着くと、百を超えるレンズが一斉に向けられた。机の上には、青と赤、二冊の帳簿の写しが置かれている。その横に、録音データの検証報告書、法人と政治団体の関係図、公開情報が削除された時系列表。
裏返した議員辞職願は、資料の一番下に隠した。
「本日は、十四年前に実施された広域基盤整備事業の予算調整に関する資料と音声記録を公表します」
室内のざわめきが止まった。
「公表する資料には、国および自治体が正式に管理した事業台帳の控えと、予算配分の調整過程で使用されたとみられる別の管理表があります。後者には、要望を仲介した人物、関係団体、予算措置後の対応事項を示すと考えられる記号が記載されています」
「裏帳簿ということですか」
前列から質問が飛んだ。
「裏帳簿と断定する表現は使いません。資料は写しであり、すべての記号を特定できていません。ただし、公開資料、会議記録、契約情報、政治資金資料との照合により、一部の記号が特定の議員事務所、官僚、関係団体を示す可能性が高いと判断しています」
「久我山議員を指す記号がある?」
「資料をご覧ください。根拠と未確認部分を分けて示しています」
「逃げずに答えてください」
「断定できないことを断定しないのは、逃げではありません」
神谷は用意した説明を続けた。
音声には、当時の財務省職員とみられる人物が、自治体側へ実績のある事業者を使うよう促し、別の事業者を選べば予算調整に間に合わない可能性があると伝える会話が記録されている。さらに、神谷を当該調整から外し、資料を見せないよう求める発言がある。
「声は、現在の財務省審議官、榊原修司氏のものと考えています」
フラッシュが激しく光った。
「榊原氏を告発するのですか」
「私は本日、資料を検察当局と会計検査院へ提出しました。刑事上の違法性については、捜査機関が判断すべきです。また、国会に対し、予算調整過程と資料管理に関する調査、関係者の参考人招致を求めます」
「贈収賄の証拠がある?」
「現時点で、金銭の授受を示す直接証拠は確認できていません」
「では、何の疑惑ですか」
「国会に示されていない基準で予算の優先順位が変えられ、特定の事業者と関係団体が継続的に利益を得た可能性です。違法かどうかだけでなく、行政の公正性と国会審議の前提に関わる問題です」
「神谷さん自身も、調整文書へ了承と書いている」
「はい」
「自分の責任を榊原氏へ押しつけるための会見では」
神谷は、机の下で手を握った。
必ず聞かれると分かっていた。
「その批判は当然です。音声に、私へ資料を見せないよう求める発言があったとしても、私が疑問を持ちながら配分変更を処理した責任はなくなりません。私は本日、自分に関する文書と当時の記憶も、同じ調査機関へ提出しました」
「辞職しますか」
視線が集まった。
神谷は資料の下にある辞職願を意識した。
「直ちに辞職はしません」
記者席が大きくざわめいた。
「地位にしがみつくのですか」
「昨日まで、辞職するつもりでした」
小宮がわずかに顔を上げた。
「しかし、辞職して責任を取った形を作り、調査の場から去ることも、逃げになり得ると考えました。国会の調査と、自分自身への審査を求めます。その結果、議員として職務を続ける資格がないと判断された場合は、辞職します」
「自分で決めないのですか」
「自分の美学だけで、選挙で与えられた議席を捨てるべきではないと考え直しました」
「党の処分から逃れるためでは」
「明日、除名される可能性があります。それでも、無所属議員として調査を求めます」
神谷は一度、水を飲んだ。
「本日の公表は、誰か一人を悪人として切り離すためのものではありません。榊原氏にも、久我山氏にも、反論する権利があります。資料の解釈が誤っている可能性もあります。だからこそ、元資料と検証方法を公開します。私の言葉を信じる必要はありません」
七瀬が記者席の端に立っていた。今は新聞社の腕章をつけていない。小さな独立メディアの名札を首から下げ、録音機を持っている。
「資料を提供した人物は誰ですか」
別の記者が尋ねた。
「取材源と資料提供者の安全に関わるため、回答しません」
「違法に持ち出された公文書では?」
「所有権および文書管理上の問題についても、弁護士を通じて関係機関へ説明しています。入手方法に問題があれば、適切な手続きを受けます。ただし、入手方法の問題だけで、資料が示す行政上の問題を消してはならないと考えます」
会見は三時間続いた。
音声が再生されると、室内の空気が変わった。榊原の若い声が、十四年前の会議室から響く。
――配分を受けたいのであれば、国が評価できる形に整えてください。
――神谷に余計な資料は見せないでください。
その声は、露骨な脅迫ではなかった。命令とも言い切れない。丁寧で、合理的で、逃げ道を残している。
だからこそ、聞く者を不安にさせた。
明確な悪意の声ではない。
制度を効率よく動かそうとする声だった。
会見終了後、神谷は控室の椅子へ沈み込んだ。
小宮が水を渡した。
「終わりました」
「始まっただけだ」
「先生、政治家みたいなことを言いますね」
「政治家だ」
「明日まで、ですか」
神谷は笑えなかった。
午前七時、財務省は声明を出した。
音声については真正性を確認中。発言は事業実施能力を高めるための一般的助言であり、特定事業者の利用を強制したものではない。調整用管理表とされる資料は、正式な行政文書であることを確認できない。
榊原は職務を離れ、内部調査へ協力すると発表された。
久我山事務所は、記号との関連を全面的に否定した。
――神谷議員は、否決された法案への注目を維持するため、出所不明の資料を政治利用している。久我山議員は、いかなる不適切な予算調整にも関与していない。
午前十時、党紀委員会は神谷の除名を決定した。
宮坂と相田は党員資格停止。浅見は役職停止と次回公認の白紙化。
神谷は議員バッジを外さなかった。
除名されても、議員ではある。
廊下を歩くと、昨日まで同じ党だった議員たちが距離を取った。中には、無言で頭を下げる者もいた。握手を求めてくる野党議員もいたが、神谷は警戒した。彼らにとって、与党の内紛は攻撃材料でもある。
国会は調査委員会の設置を拒んだ。
与党は、財務省の内部調査と捜査機関の判断を待つべきだと主張した。野党は証人喚問を求めたが、久我山だけを標的にする政治的演出も混じっていた。
神谷は会派を持たない無所属となり、委員会の質問時間も大幅に減った。
国会で残ることを選んだのに、発言する場所が消えていく。
「これが、消されるということか」
議員食堂の隅で、神谷がつぶやくと、浅見が向かいに座った。
「まだ序の口だ」
「あなたも公認を失う」
「地元へ帰れば、県議に戻れと言う人間もいる。政治家は、肩書が一つ消えても、次の椅子を探す生き物だ」
「探すんですか」
「分からん」
浅見は蕎麦をすすった。
「妻が生きていたら、馬鹿なことをしたと言うだろう」
「後悔していますか」
「毎朝している。夜になると、少し減る」
「私は逆です」
「若いな」
「四十一です」
「政治では、まだ若い」
久我山と同じ言葉だったが、浅見が言うと少し違って聞こえた。
赤い帳簿の公表後、全国から情報が届き始めた。
過去の補助事業で、採択前に特定企業から計画案を持ち込まれたという自治体職員。
業界団体の要望が、どの議員を通じて税制改正項目へ入ったかを記したメモ。
国土未来研究機構の研修参加者名簿。
多くは匿名で、真偽不明だった。
七瀬は、小さな事務所を借り、検証報道を続ける組織を立ち上げた。名前は「余白」。公表された資料と、公表されなかった部分の間を調べるという意味だった。
「人が足りません」
七瀬は神谷の事務所で、段ボール箱を見ながら言った。
「情報は増えたのに、確認する人間がいない。新聞社なら地方支局へ一斉に問い合わせられた。今は電話代も自分で考えます」
「後悔していますか」
「朝はします。夜になると、もっとします」
「浅見先生と逆だ」
「でも、翌朝また机へ座ります」
七瀬は一通の封筒を開けた。
「これ、朝霧市の住民からです。川畑さんを罰するなという署名」
川畑は市役所へ戻っていた。
資料の持ち出しと長期無断欠勤を理由に、停職処分を受けた。赤い帳簿が公文書に当たるか、遺族の所有物か、市の管理物かを巡って法的な争いも残った。
記者会見で、川畑は自分の動機を隠さなかった。
「最初は、市へ予算を取り戻す交渉材料にするつもりでした。公益のためだけに持ち出したのではありません。処分は受けます。ただ、同じ仕組みが続くことまで受け入れるつもりはありません」
その発言は、英雄的な告発者を期待していた一部の人々を失望させた。
神谷には、それがよかった。
正義の人だけが告発できる社会では、ほとんどの事実が埋もれる。
人間は、怒り、嫉妬、恐怖、利益、罪悪感、理想を混ぜたまま動く。その不純さを理由に事実を捨てれば、制度はいつでも告発者の人格を攻撃して逃げられる。
捜査は、すぐには進まなかった。
検察は資料を受理したが、捜査の有無を明らかにしない。会計検査院は、一部事業の契約と再委託について検査を始めた。財務省の内部調査は、当時の文書の多くが保存年限を過ぎ、関係者の記憶も不明確であるとして、三か月後に中間報告を出すとした。
世間の関心は、別のニュースへ移っていった。
大きな災害、芸能人の不祥事、外国市場の急落。神谷の会見映像は再生数を伸ばさなくなり、国会前の取材陣も減った。
久我山の言った通りだった。
人は忘れる。
忘れなければ、生活できない。
神谷は、忘れられることへ怒りを感じた。そして、その怒りが傲慢だと気づいた。国民には、国会の問題だけを考えて暮らす義務はない。病院へ行き、子どもを迎え、仕事をし、食事を作る。その生活を支えるために、政治家と官僚と記者がいるはずだった。
忘れられても戻れる記録を残す。
それが必要だった。
神谷は法案作成の全資料を公開した。修正履歴、反対意見、没になった条文、計算の誤り、会議の議事要旨。共同提案者の一人が不適切な働きかけをした箇所も、本人の了承を得て記録した。
「ここまで出す必要がありますか」
小宮が尋ねた。
「法案だけ出せば、完成品に見える。次に作る人が、同じ失敗を繰り返す」
「政治家の舞台裏は、見せない方が信頼されることもあります」
「その信頼を失うために、ここまで来た」
神谷は笑った。
「強がりですか」
「半分は」
若手議員たちは、否決された法案を三つに分けた。
予算情報の共通番号制度。
地方配分基準の説明義務。
租税特例の期限付き検証。
一本の大法案では通らなかったものを、小さな改正案として個別に提出する。野党の一部と、与党内の穏健派も協議へ加わった。
神谷は中心から外れた。
自分が前面に出れば、法案が「神谷問題」と結びつき、内容より対立が注目される。宮坂たちは、神谷の名を共同提出者から外すことを提案した。
「賛成です」
神谷は即答した。
宮坂は意外そうな顔をした。
「少しは抵抗すると思いました」
「してほしいのか」
「本音が見たいだけです」
「悔しい」
神谷は言った。
「自分が作った法案だと言いたい。演説もしたい。成立したとき、名前を呼ばれたい」
「安心しました。人間ですね」
「それでも、外してくれ」
「分かりました」
宮坂は資料を閉じた。
「ただし、助言はしてください。先生の失敗を全部利用します」
「高い授業料だ」
「国民が払った授業料です。無駄にしないでください」
神谷はうなずいた。
半年後、会計検査院の報告が出た。
半年後、会計検査院は、配分変更の理由が十分に記録されず、特定企業への契約集中と事前情報が競争性を損なった可能性があると報告した。明確な違法性は認定しなかったが、「変更理由が記録されていない」という一文が公式文書に残った。
財務省は榊原の発言を不適切とし、彼は審議官を辞任して減給処分を受けた。久我山の倫理審査は、記号との直接的な証拠がないとして見送られた。
結局誰も裁かれなかったという批判は強かった。それでも神谷は、一人を罰して終われば、誰もが役割を果たすだけで同じ結果を作れる制度は残ると思った。
便箋には、場所と時間だけが書かれていた。
財務省近くの、古い喫茶店。
神谷は今度、行くことにした。
店は以前より暗く見えた。窓際の席に榊原が座っている。スーツ姿ではなく、灰色のセーターに黒いコート。頬が少しこけていた。
「来ないと思った」
「前回は行かなかった」
「知っている。閉店まで待った」
神谷は向かいに座った。
「処分は軽かったな」
「もっと重くしてほしかったか」
「分からない」
「正直になったな」
「高い授業料を払った」
榊原はコーヒーを見つめた。
「録音を出す前に、なぜ会わなかった」
「会えば、君を理解したくなると思った」
「理解したら、出せなかった?」
「出したかもしれない。でも、君を許すか、裏切るかという話になる。それは違うと思った」
「違わない」
榊原は顔を上げた。
「制度は、人間が作る。友情も恐怖も出世も、全部入る。君は、制度の問題にすれば、自分と私の問題から逃げられると思っている」
神谷は反論しなかった。
「君は、俺を守ったのか」
「余計な資料を見せるなと言ったことか」
「そうだ」
榊原は長い時間、答えなかった。
「半分は」
「残りは」
「君が止めると面倒だった」
神谷は苦笑した。
「それが一番、納得できる」
「直人。私は、不正をしているつもりはなかった」
「今は?」
「今も、法的には多くが不正ではないと思っている」
「では、何を反省した」
「記録を残さなかったことだ」
榊原は窓の外を見た。
「君の法案には反対だった。全部を公開すれば、調整ができなくなると思った。今もそう思う部分はある。ただ、公開できないなら、少なくとも後から検証できる記録を残すべきだった」
「内部の記録はあった」
「責任者の名前と、変更理由がなかった。皆が関わり、誰も決めていない形にした。私が設計した」
榊原は自嘲するように笑った。
「誰か一人が責任を問われれば、国家運営が止まる。だから責任を薄くした。結果、間違いを直す場所までなくした」
「なぜ、そこまで制度を守ろうとした」
「制度しか信じていなかったからだ」
店内に、食器の触れる音がした。
「父は町工場をやっていた。景気が悪くなるたび、銀行と取引先に頭を下げた。政治家の約束も、会社の善意も、何一つ信用できないと言っていた。だが、税の納期限と法律だけは変わらない。私は、人間より制度の方が公平だと思った」
「制度を人間から守った」
「そうだ」
「人間のための制度なのに」
「君は逆だ。人間の声を聞きすぎて、制度を壊す」
「まだ、そう思うか」
「思う」
榊原は即答した。
「君の大法案が通っていたら、現場は混乱した。自治体は報告作業に追われ、企業は投資を止め、数字だけを見た炎上が増えたかもしれない」
「だから、分割した改正案を作っている」
「それなら、通る部分もあるだろう」
「最初から、そうすべきだった?」
「政治的には」
「法案が否決されなければ、赤い帳簿はここまで注目されなかった」
「それは結果論だ」
「政治は、結果で判断されるんだろう」
榊原は笑った。
「議員らしくなったな」
二人は、しばらく昔の話をした。
入省一年目の研修。初めて徹夜した予算編成。上司に叱られ、屋上で缶コーヒーを飲んだ夜。国を支えるという言葉を、まだ疑わずに使えた頃。
和解はしなかった。
神谷は録音を公表したことを謝らず、榊原も調整を正しかったと言い続けた。
ただ、互いが何を守ろうとしていたかを、以前より少しだけ理解した。
店を出ると、夜明け前の空が薄く明るんでいた。
「これから、どうする」
神谷が尋ねた。
「役所には残れないだろう」
「辞めるのか」
「自分で決める。調査の結論ではなく」
「そうか」
「君は」
「選挙に出る」
榊原が驚いた顔をした。
「公認はない」
「無所属で出る」
「落ちるぞ」
「その可能性は高い」
「残ることを選んだのか」
「残れるかどうかを、有権者に決めてもらう」
榊原は首を振った。
「やはり、君は政治家に向いていない」
「君も官僚に向いていなかったのかもしれない」
二人は別々の方向へ歩いた。
神谷は次の選挙へ無所属で立候補した。
選挙戦は厳しかった。
党の組織も、業界団体の支援もない。後援会の多くが離れ、事務所の人員も減った。街頭演説では、「自分の疑惑を晴らしてから出ろ」と怒鳴られた。「よくやった」と握手を求める人もいたが、拍手が票になる保証はない。
神谷は、法案の話だけでなく、自分の過去を毎回説明した。
「私は、財務省時代に疑問を見過ごしました。国会議員になってからも、一人で正解を持っているつもりで、協力者を危険にしました」
選挙スタッフは、失敗を繰り返す演説はやめた方がいいと言った。
「有権者は、反省会を聞きたいわけではありません」
「では、何を聞きたい」
「これから何をするかです」
神谷は演説を変えた。
「失敗したから、次は小さく始めます。予算の共通番号を、すべての支出ではなく、一部の補助事業から導入する。地方配分の変更理由を、まず国のモデル事業で公開する。租税特例は、廃止ではなく、効果測定の共通書式を作る」
理想は小さくなったのではない。
歩幅を得た。
投票日、神谷は落選した。
当選者との差は、四千八百六十二票。
事務所に集まった支援者を前に、神谷は頭を下げた。
「力が及びませんでした」
テレビカメラの赤いランプが光っている。
「しかし、法案と資料は残っています。私が議員でなくなっても、公開された記録は消えません。今日で政治への関わりを終えるつもりもありません」
小宮は、隣で涙をこらえていた。
神谷はバッジを外した。
初登院の日には、金色の印が体の重心を変えたように感じた。
外してみると、胸が軽くなるのではなく、空洞ができた。
政治家でなくなった自分に、何ができるのか。
答えはなかった。
だから、できることから始めた。
神谷は、自治体の予算データを市民向けに整理する非営利の研究組織を立ち上げた。七瀬の「余白」、大学研究者、自治体職員、技術者と協力し、公開資料を共通形式へ変換する。
最初に参加したのは、朝霧市だった。
停職を終えた川畑が、担当者として戻ってきた。
「市長は、よく認めましたね」
オンライン会議で神谷が言うと、川畑は笑った。
「全国に名前が出た以上、透明化の先進自治体になる方が得だと判断したようです」
「政治的ですね」
「政治は、使えるものを使います」
朝霧市の公開ページでは、国から受けた補助金、市の負担、契約先、事業の進捗、住民からの意見を一つの番号で確認できるようにした。
利用者は多くなかった。
公開初月のアクセスは、予想の半分にも届かない。
「失敗ですかね」
技術者が言った。
「一人でも、必要なときに見つけられればいい」
神谷は答えた。
「ただし、使われない理由は調べよう。自己満足の公開になれば、透明な壁が一枚増えるだけだ」
住民説明会では、高齢者から「画面を見られない人はどうする」と指摘された。市役所に紙の閲覧窓口を設け、電話でも説明を受けられるようにした。契約金額だけでなく、診療所への移動時間が何分短くなったか、利用者数がどう変わったかを載せた。
数字の向こうに生活を置く。
川畑から教えられたことだった。
一年後、宮坂たちが提出した「公共支出識別番号導入法案」が国会で可決された。
対象は、国の全予算ではない。
まず、一定額以上の補助事業と基金事業だけ。地方自治体への義務化ではなく、希望する自治体への財政支援を伴う試行制度。神谷の当初案から見れば、小さな一歩だった。
租税特例の自動失効も、地方配分の異議申立ても入っていない。
それでも、予算要求から契約までを共通番号でつなぐ仕組みが、法律になった。
採決の日、神谷は国会の傍聴席にいた。
議員ではないため、正門ではなく一般傍聴の入口から入った。手荷物検査を受け、許可証を首から下げる。かつて自由に歩いた廊下の多くへ、もう入れない。
本会議場を上から見ると、議員席は以前より小さく見えた。
宮坂が壇上に立った。
「本法案は、国家のすべての支出を直ちに公開するものではありません。行政の現場へ新たな混乱を生まないよう、対象を限定し、試行と検証を重ねます」
神谷は、少しだけ苦笑した。
自分の大法案を批判するときに使われた言葉が、今は成立させるための説明になっている。
「しかし、小さく始めることは、目的を小さくすることではありません。国民が、一つの予算がどこへ流れたかを確かめる。その最初の道を作るものです」
宮坂は原稿から顔を上げた。
「この制度は、一人の議員が作ったものではありません。地方自治体の職員、記者、研究者、技術者、そして、過去の制度の中で疑問を見過ごした人々の記録から生まれました」
神谷の名は出なかった。
それでよかった。
採決の結果、法案は賛成多数で可決された。
議場に拍手が起きた。
神谷は傍聴席で手を叩いた。
自分の法案が勝ったのではない。
当初の理想の、ごく一部が、別の人間の言葉と手続きによって法律になった。
悔しさはあった。
壇上に立ちたかった。成立の瞬間に、自分の名前を呼ばれたかった。
その欲を否定せず、神谷は拍手を続けた。
本会議後、宮坂が傍聴席の出口まで来た。
「先生」
「もう先生ではない」
「私にとっては、面倒な元先生です」
「可決、おめでとう」
「ありがとうございます」
「よく、あそこまで削ったな」
「削ったんじゃありません。通る大きさに切り分けたんです」
「政治家らしい」
「誰に教わったと思っているんですか」
宮坂は一冊の薄い冊子を渡した。
公共支出識別番号導入法。公布用の条文冊子だった。
「神谷さんの名前は載っていません」
「知っている」
「でも、附帯決議に、地方配分と租税特例の検証を今後の課題として入れました」
神谷は最後のページを開いた。
政府は、地方財政配分の変更理由の記録および租税特別措置の効果検証について、国民の検証可能性を高める観点から検討を進めること。
法律ではない。
義務でもない。
だが、国会の記録に残った。
「墓石ですかね」
宮坂が冗談めかして言った。
「いや」
神谷は冊子を閉じた。
「道標だ」
二人は国会議事堂の外へ出た。
東の空は、朝の色を残していた。可決は午前中だったが、神谷には長い夜が終わったように感じられた。
階段の下で、七瀬と川畑が待っていた。小宮もいる。浅見は次の選挙へ出ず、地元で妻の名を冠した医療基金を作ったと聞いていた。榊原は財務省を退職し、どこにも再就職せず、しばらく家族と暮らすという短い手紙を送ってきた。
「成立しましたね」
川畑が言った。
「一部だけです」
「昔の私なら、少ないと言ったでしょう」
「今は?」
「少ないと思います」
全員が笑った。
七瀬が冊子を手に取った。
「記事の見出しを考えています」
「『神谷法案、一年越しで成立』はやめてくれ」
「そんなに売れない見出しはつけません」
「では」
「『否決された帳簿が残したもの』」
「気取っている」
「浅見先生みたいなことを言いますね」
神谷は議事堂を振り返った。
白い石の壁。中央塔。何度も見上げた建物。
初登院の日には、国を動かす場所だと思った。
法案が否決された日には、変化を拒む巨大な錨に見えた。
今は、建物そのものに意味はないように思えた。
中にいる人間が、何を記録し、何を隠し、何を次へ渡すか。
制度は石ではない。
人間の選択を、次の人間が読み直せる形にしたものだ。
神谷は鞄から、一冊の古いノートを出した。
議員会館を退去するとき、空になった机に残そうとして、持ち帰ったものだった。法案の最初の構想、川畑の言葉、七瀬の批判、宮坂たちの修正、浅見の文書番号。失敗と迷いが、乱れた字で書かれている。
「これを国会図書館へ寄贈しようと思う」
小宮が覗き込んだ。
「恥ずかしいことも、かなり書いてありますよ」
「だからだ」
「読まれないかもしれません」
「必要な人が、必要なときに戻れればいい」
七瀬がうなずいた。
「記録は、読まれるまで待てます」
数か月後、国会図書館の資料室に、否決された国家予算透明化・地方再生法案の審議記録と、公共支出識別番号導入法の成立記録が並んだ。
その間に、神谷のノートの複製が収められた。
表紙には、彼の字で題名が書かれている。
理想の帳簿。
閲覧する者は、ほとんどいなかった。
ある春の日、一人の若い女性がそのノートを請求した。地方自治体の職員採用試験に合格し、財政課へ配属されたばかりだという。彼女は、予算の共通番号制度について研修資料を作るため、過去の法案を調べていた。
ノートの最初のページには、神谷が議員になった直後に書いた一文がある。
――制度を国民の手に戻す。
その下には、後から別の色のペンで書き加えられていた。
――制度は、誰か一人が国民へ返すものではない。見える場所に置き、皆で直し続けるものだ。
若い職員は、その文章をノートへ写した。
国会の外では、朝が始まっていた。
通勤する人々が駅へ向かい、店がシャッターを上げ、自治体の窓口に照明がつく。予算の数字を一度も見ることなく一日を終える人がほとんどだった。
それでいい、と神谷は思う。
人が帳簿を見張り続けなければ守られない国ではなく、必要なときに誰でも開け、問い直せる国であればいい。
理想は勝たなかった。
法案は否決され、神谷は議席を失い、赤い帳簿のすべてが裁かれたわけでもない。久我山は政治家として残り、別の有力議員が調整役を引き継いだ。見えない取引は、形を変えて続いている。
それでも、一つの番号がついた。
一つの変更理由が記録された。
一人の職員が、疑問を書類へ残すようになった。
一人の記者が、元資料へ戻れる記事を作った。
一人の議員が、反対票ではなく賛成票を入れた。
小さな裂け目から、光は入った。
理想は勝たなかった。だが、それを信じて立ち続けた者の代償は、国会の歴史の中に、静かに刻まれていく。
了
最後まで『国会の夜明け』をお読みいただき、誠にありがとうございました。
神谷直人が国会議員として歩んだ道は、決して華々しい成功へ続くものではありませんでした。
彼が提出した法案は否決されました。
所属していた政党から追われ、議員としての立場を失い、自らの過去も世間へさらすことになりました。
物語の結果だけを見れば、神谷は敗北した人物です。
法案を成立させることも、政治の中枢に残ることもできませんでした。彼が問題視した仕組みも、告発によってすべて消えたわけではありません。
久我山や榊原が築いてきた構造は、一度の会見や一人の辞職だけで崩れるほど単純なものではありません。
それでも、この物語を完全な敗北で終わらせたくはありませんでした。
神谷の法案は成立しませんでしたが、その内容は記録に残りました。
浅見の質問は国会の議事録に刻まれました。
七瀬が公開した資料は、人々が自分で政治を検証するきっかけになりました。
川畑が守ろうとした数字は、地方で暮らす人々の現実を示す証拠になりました。
そして、神谷の後に続く若い議員たちは、否決された法案を分け、修正し、再び国会へ提出しようとします。
大きな理想が一度で実現しなくても、その一部が誰かに受け継がれることがあります。
私はそこに、政治だけではなく、社会や組織を変えていく一つの現実があるのではないかと考えました。
本作を執筆するうえで大切にしたのは、神谷を最初から最後まで正しい人間として描かないことでした。
彼は制度の矛盾を知っていました。
けれど、官僚時代の彼は、そのすべてに立ち向かったわけではありません。疑問を抱きながら、上司の説明を受け入れました。組織を止めないためという言葉に従い、自分で調べることをやめました。
その沈黙が、後に彼自身を追い詰めます。
過去の神谷が弱かったからこそ、現在の神谷が行う告発には大きな代償が必要でした。
自分は何も知らなかった。
自分は命令されただけだった。
自分には責任がなかった。
そう言ってしまえば、彼は議員として生き残れたかもしれません。
しかし、それでは彼が批判してきた政治家や官僚と変わりません。
神谷が最後に行ったのは、榊原一人を悪人として告発することではなく、自分もまた制度を支えていた一人だと認めることでした。
責任を認めることは、過去を消すことではありません。
謝罪によって失われたものがすべて戻るわけでもありません。
それでも、自分の過ちを記録に残すことが、次の過ちを防ぐ最初の一歩になる場合があります。
作中に登場する「二つの帳簿」も、そのような責任の象徴として描きました。
一つは、国民に公開される表向きの帳簿です。
そこには、正しく整理された数字と、説明可能な支出が並んでいます。
もう一つは、誰が要望し、誰が調整し、誰が利益を受けたのかを示す、隠された帳簿です。
しかし、本当に存在する三冊目の帳簿は、人の心の中にあるのかもしれません。
あのとき何を知っていたのか。
なぜ黙ったのか。
誰を守り、誰を切り捨てたのか。
自分の選択によって、何が起きたのか。
法律や公式文書には残らなくても、本人だけが知っている記録があります。
神谷は物語の最後に、その帳簿を閉じるのではなく、開いたまま次の世代へ渡しました。
本作には、神谷以外にも、それぞれ異なる形で制度と向き合う人物が登場します。
七瀬真琴は、真実を知っただけでは記事にできない記者です。
証拠を確認し、反対意見を調べ、報道によって傷つく人の存在も考えなければなりません。組織に所属している以上、編集方針や政治的圧力から完全に自由ではありません。
それでも彼女は、神谷を信じるのではなく、数字と資料を検証し続けます。
川畑孝行は、国の制度によって苦しむ地方の現場を知る人物です。
彼が守ろうとしたのは、抽象的な正義ではありません。学校へ通う子ども、病院へ行く高齢者、地域で働く家族たちの日常です。
しかし、内部資料を持ち出す行為には責任が伴います。
正しい目的があれば、どのような手段も許されるわけではありません。
川畑はその境界で苦しみながら、自分にできる選択をします。
浅見は、反対派の中にいながら神谷へ情報を渡します。
彼は最初から勇気のある人物ではありません。
過去の調整に関わり、長い間沈黙してきた人間です。
だからこそ、彼が国会の記録へ質問を残す場面には、遅すぎたとしても責任を果たそうとする人間の姿を込めました。
榊原修司も、単純な悪人としては描きませんでした。
彼は、自分が国家を支えていると本気で信じています。
すべてを公開すれば行政は動かなくなる。
利害を調整しなければ予算は成立しない。
不完全な仕組みでも、止めるより動かし続けるほうが国民のためになる。
その考えには、一定の現実性があります。
しかし、制度を守ることを理由に、国民に説明できない仕組みを作り続ければ、やがて制度そのものが信頼を失います。
神谷と榊原の対立は、正義と悪の戦いではありません。
「制度は何のために存在するのか」という考え方の衝突です。
榊原は、国家を止めないために秘密が必要だと考えました。
神谷は、国民から隠さなければ維持できない制度は、すでに壊れ始めていると考えました。
二人が最後まで和解しないのは、どちらかが相手を理解できなかったからではありません。
互いの論理を理解したうえで、選ぶ道が違ったからです。
政治を描く物語では、分かりやすい悪役を置くほうが、読者にとって読みやすいかもしれません。
しかし、現実の問題は、悪意のある一人だけによって生まれるとは限りません。
誰かが少しだけ妥協する。
誰かが問題を先送りする。
誰かが上司の命令に従う。
誰かが自分の選挙区だけを守ろうとする。
誰かが、今は仕方がないと沈黙する。
それぞれの判断には理由があります。
けれど、その小さな判断が積み重なり、やがて誰にも止められない大きな仕組みになることがあります。
『国会の夜明け』で描きたかった政治の闇とは、秘密の部屋で悪人たちが計画する陰謀だけではありません。
普通の人間が、自分の立場を守るために行う小さな沈黙の積み重ねです。
そして、その積み重ねを変える力もまた、特別な英雄だけが持つものではありません。
一つの資料を残す人。
疑問を記事にする人。
議会で質問する人。
反対されても法案を書く人。
公開された数字を自分で確かめる人。
そのような小さな行動がつながることで、閉じた制度に裂け目が生まれます。
神谷は当初、自分が国を変えようとしていました。
自分が正しい法案を作り、自分が国会で説明し、自分の力で成立させる。
その考えには、理想と同時に傲慢さがありました。
物語を通して彼が学んだのは、理想は一人の所有物ではないということです。
誰かが理想を語り、別の誰かが欠点を指摘する。
現場にいる人が修正し、次の人が受け継ぐ。
そうして初めて、理想は現実の中で生き続けることができます。
タイトルにある「夜明け」は、神谷が勝利する瞬間を意味しているわけではありません。
彼が辞職した後も、国会は劇的には変わりません。
不透明な制度も、既得権も、政治的な駆け引きも残っています。
それでも、昨日まで語られなかった問題が語られるようになる。
隠されていた数字を、国民が見るようになる。
否決された法案を、別の議員がもう一度提出する。
その小さな変化こそが、夜明けの始まりなのだと思います。
夜明けは、一瞬で世界を明るくするものではありません。
暗闇の中に、わずかな光が差し込みます。
最初は、それが朝なのかどうかも分からないほど小さな光です。
けれど、一度生まれた光は、暗闇が永遠ではないことを教えてくれます。
本作を読み終えた皆さまが、神谷の行動を正しいと感じるか、無謀だと感じるかは、それぞれ異なると思います。
もっと賢く立ち回るべきだったと思う方もいるでしょう。
議席を守り、時間をかけて改革すべきだったと考える方もいるかもしれません。
反対に、もっと早く告発すべきだったと感じる方もいるでしょう。
その答えを一つに決めることは、本作の目的ではありません。
正しさと現実の間で、何を選ぶのか。
組織の中に残って変えるのか、立場を失っても真実を明らかにするのか。
自分が神谷の立場だったら、どのような選択をするのか。
読後に少しでも考えていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
物語の最後で、神谷の名前は新しい法案の中心にはありません。
それは、彼が忘れられたということではありません。
彼の理想が、彼一人のものではなくなったということです。
誰かの行動が次の人へ渡り、その人が自分の言葉で語り直す。
そのとき、理想は初めて個人の限界を超えていきます。
理想は勝たなかった。
けれど、消えもしなかった。
神谷が残した小さな火種が、いつか本当の夜明けへつながることを願いながら、この物語を閉じたいと思います。
ここまで神谷たちと歩んでくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。
朝霧颯




