I, my, me, myself
化粧品のCMが好きだった、っていうのはよく覚えている。特に好きだったのは、きりっとした黒い目に真っ赤な唇の女の人が出てくるやつ。きれいだな、って思いながら見ていた。女の人っていうのはこうやってきれいになれるものなんだなって。
別に女に生まれたかったわけじゃない。男に生まれたことを恨む気持ちなんか微塵もないけど、きれいになるって行為は女の人の特権なんだって割と最近まで思ってた。
だから今日は。――だけど……。
「リップ塗っとくかい?」
いよいよ横断歩道の向こう側に劇場が迫ってきた時、坂井が急に言った。
「……え?」
「リップ。塗る?」
どういう意味か分からない。リップって、さっき塗ったんじゃなかったっけ。ていうか、その上からグロスも塗ったよな。塗ったはずだ。この、ベタベタぬらぬらするこれ。上から塗っていいもんなんだろうか。
「……塗った方がいい?」
「あ、ごめごめ、そうじゃなくて! 崩れてはないけどさ。こういうのはね、見た目ってよりも自分に気合入れるために塗るの」
「ああ」
「なんていうのかなあ。口紅グッて引いて、鉢巻ギュッてするみたいなこと。っしゃおらあ!って」
わざわざ鉢巻をギュッてするジェスチャーまでした坂井の笑顔に、やっぱ塗った方がいいのかな、とか思ってる間に信号が青に変わって、ろくに返事もできないまま歩き出してしまった。緊張が静電気みたいに全身をぴりつかせている。ヒールにはだいぶ慣れたけど、粗いアスファルトの上は足首がかくつきそうになって神経がとがった。会場の入り口の小さな段差も慎重に越えて、中へ。
カバンの中のチケットに触れる。
……いや、大丈夫。いつもと変わらない。チケット出して、半券ちぎられて、終わり。向こうだって流れ作業でこっちの顔なんか大して見てないんだから。大丈夫。大丈夫だ。
俺が、女の格好してたって、別に――。
「チケット拝見しまーす」
指が力んで、抜き去られるチケットがちょっとだけ引っかかった。
びりっ。
「全席指定席でーす」
半券を差し出した女性スタッフさんの手は小さくて、控えめなピンクのネイルがつやつやしてきれいだった。受け取った自分のごつい手を見られたくなくてすぐ隠した。狭い通路。足元だけに意識を集中する。大丈夫。バレなかった。多分。何も言われなかったもんな。顔見られた感じもしなかったし。
今のは多分大丈夫――。
「――バレないじゃーん?」
びくっ、と体が跳ねる。危うくつまずきかけたのをどうにか気合いで踏みとどまったけど、心臓がとんでもない勢いでばくばくなっている。思わず非難がましい目を向けてしまった割に坂井は全然気にしてないみたいで、俺の目を気負うことなく見返しながらただ楽しそうににやにや笑っていた。
「さすが。気合入れただけあるじゃん」
「……うっさい」
なるべく抑えた声は間違いなく男の低さで、今日はもうなるべく喋りたくないなと改めて思った。バレてこそこそ話されたりとかしたら本当にキツい。軽く想像しただけで具体的な文面が浮かんできて、慌ててぶんぶん頭を振る。無理だ。本当に耐えられない。
やっぱこんな格好で来るんじゃなかった。
「へへへ、ごめごめ」
こいつ絶対わかってない。マジで絶対分かってない。
今日ばかりは、坂井という人間の寛容さというか、なんでもかんでも「いいじゃん」の一言で肯定する大雑把さみたいなのが、心底恨めしかった。
席は最後列の端っこだったけど、小さな劇場だし、傾斜は結構ついてるから、ステージは十分見える。つまり、ステージからもこっちが十分見えるってことだ。そういう意味では、後ろの端っこでよかったかもしれない。内側座ったら、って坂井は勧めてくれたけど、断って端っこに座った。
……これはこれで通路側の視線が気になる……。
いやもう、いい。仕方ない。こうなることは分かってたんだ。腹くくるしかないだろ俺。今日は単独ライブだぞ。「あのドリ」の初単独ライブ。ずっと楽しみにしてきたんだ。楽しまなくてどうすんだ。
緊張で手が冷える。でも、隣に座った坂井はとにかく劇場中きょろきょろ見回して、すごいなあ、とか感心しながらえらく楽しそうだった。楽しいのはいいけど……ああそうか。お笑いのライブ見るの初めてなんだっけ。誘ったとはいえよくついてきたなとは思う。初めて見る芸人の、それもこんな小さなハコでやる単独ライブに。
「てかめっちゃ狭いね? お笑いってこういう劇場でやること多いの?」
「……まあ、そんなに売れてる人じゃなければ割と」
極力小さく、でも低くなりすぎないように細心の注意を払って答えた。はぇー、となんだか締まりのない返事が返ってくる。
「いやあ、あたし『ライブ』って名前ついてるもの全然行ったことなくてさぁ……劇場って言われたら国立劇場とか帝国劇場とか、なんかそういうおっきいとこ想像しちゃった。こんな狭いって印象なくて――あごめん、悪い意味じゃなくて! なんていうの? ジャストフィット感っていうか? ちっちゃいけどあたしこういうの好きだな!」
ヤバい、声がデカい。このサイズ感の劇場でその声量はホントにその、まずい、何やってんだこいつ、前の人振り返ったらどうすんだ――。
なんかうまく黙らせる方法、って考えた割に結局それしか出てこなくて、そのまま人差し指を立てた。あっ、と反射的に返したその声までデカかった。
「ごめごめごめ、テンション上がっちゃって」
小声で言うと、ちらっと俺を盗み見て、なんとも楽しそうににやあと笑う。
「だーいじょぶだって! 女の子なんかみーんなその恰好で堂々と外出てるんだから」
いやそういう問題じゃないだろ。
「それに、今日のあなたマジできれいだし」
だからそういう問題じゃないんだって。マジで。
「……やめて」
ありったけの不快感を三文字に込めた。ごめ、と笑った坂井は全く聞いてなさそうで、でっかい溜め息を押し殺す。
心強い味方ではあるのは間違いないんだけど……。
少しずつひとが入ってきて客席が埋まっていく。通路を上がってくる客の視線がふわっと自分の上をかすめるのが分かる。目が合うのが怖くてずっとうつむいて、でもそうしてたら今度はウイッグがずれてないか心配になってきた。触って確かめたらもっとずれそうで、膝の上のネイルをじっと見た。ライラック色のマグネットネイル。ほんの少し角度をつけるだけで、浮かび上がる光の輪がゆらゆら動く。
ネイルサロンをおすすめしてくれたのは坂井だった。
高校の同級生がやっているお店で自分も行ったことがある、個人経営の小さなお店で他のお客さんも気にしなくていいし、と。思えば的確な提案だった。
サロンの人はサロンの人で、友達の紹介だからとハンドマッサージもサービスしてくれたし、使うジェルも親身になって選んでくれた。どうせなら華やかにしたいけど目立ちすぎるのも避けたいと言ったら提案してくれたのが、このライラック色のマグネットだった。男の人は手が大きいから爪も大きくてネイル映えするんですよと、まあお世辞かもしれないけど、そう言ってにこにこ笑ってくれて、ほっとした。
だからたぶん今、人生で一番きれいな手をしている。
坂井が一緒にやってくれた化粧やウイッグや、通販でおみくじ引くみたいに買った割には結構よかった今日の服や靴なんかも、ダメだと思ってるわけじゃない。華奢に見えるとネットで見て決めたダークグレーのオーバーサイズニットも、ベージュのロングスカートも、チョコレートブラウンの少しだけヒールのあるパンプスも。思えば随分地味にまとまっちゃったなとも思うけど、気に入ったものだけを選んだ。
でも、客観的に見れない分、不安ではある。
その点今の両手は、客観的に見てもきれいだと思えた。間違いなくきれいになっているパーツが自分にもあることがうれしかった。
延々ネイルばかり見ていることに気づいたのか、隣で坂井が苦笑いする。
「だいじょうぶだって。気楽にいこうよ」
「……ん」
「てか、今日出る人たちなんでしょ? 背中押してくれたの」
言われて脳裏に顔が浮かぶ。お笑いコンビ「あの日のドリンクバー」、通称あのドリ。
「まあね」
「でしょ? こういうことにも理解がある人たちだって言ってたじゃん」
そういやそんな説明もしたっけ、と思う。我ながら雑な説明だなとも。
「理解、っていうか……」
一か月くらい前。自主ラジオの単独告知回を聞いていて、何気ないやり取りにくすっと笑えた。本当はそれだけだ。
――ホンマにね、気楽に来てくれたらええですからね。俺らしか出てこん以外はいつものライブと変わらんので。
あ、服着てや、服!
お前俺らのファン全裸で来ると思てんの?
……いや、やりかねん。
やりかねるかあ! そんなん見たことない全裸の客て。
そらもう、受付の人がちゃんとはじいてくれるから。
え!? あっ、だからライブに俺らの客おらんねや!? 全裸で来てるから!?
そう。
うわーお願い服着てきてくれー! 頼む! なんでもええから! 満員のお客さん来て全員逮捕で無観客公演なんの嫌や!!
もう最悪シーツとか巻いて。
ギリシャ人? いや全然ええけど。ギリシャ人も気楽に来てやー。
あったかくしとくからな。
なー、やっぱな。おなかとか冷えるもんな。あんな布一枚で。
……。
どしたん。
……あっ、へえ~。
なんや。
ほら。意外と変わらんらしいわ。
お前ラジオ中に黙ってまで今月のギリシャの気温見さすな!!
……とか言って、けらけら笑ってた。
今思い出してもしょうもない。しょうもなくて、おかしくて、気が抜けて。だからなんか、何となくつられて笑ってしまった。少しだけ気が楽になった。
俺も「ギリシャ人」でいいのかもな、とその時思った。
それが俺の背中を押した。
「気にならない、んだと思う」
どう言ったものか悩んで、結局選んだ言葉はあんまりしっくりこなかった。
「迷惑にさえならなければ、どんな人がどんな理由で何をしても構わない、っていうか。……よくも悪くも無頓着、みたいな」
ふうん、と、いかにも楽観的な響きの返事が返ってくる。
「じゃあいいじゃん? 田中君が何着てたとしても、ちゃあんとマナー守って見てれば迷惑にはなんないもん。めちゃべっぴんだし」
もう最後の一文は無視することにした。かといってすべてを無視することもできず、視線はまた、ネイルの上に落ちる。
「――ん」
濁してうやむやにしようとする俺を、坂井はじっと見ているようだった。たわしを当てられてるみたいな、ちくちくする緊張を頬に感じる。
でもしばらくして、その緊張はふっとゆるんだ。
「まーいいけどさ」
まだ何もない舞台上を見つめて坂井は言う。
「あたしは、もっと胸張ってる方がいいと思うけどな。メイクも服も、そっちのがうれしいと思うし」
「……うん」
メイクや服の側からの意見って初めてだな、とうっすら思った。
「うん」
もっと言い募るのかと思いきや、坂井はそれきり何も言わなかった。
「……」
黙られるとそれはそれで持て余すな、と自分勝手なことを考えて、客入れの全然知らないロックを聞いてみようとしたり、スマホを見てみたりする。けど、情報は全部俺の上っ面をかすめてどっか行くみたいだった。
でも、目を上げればひとがいっぱいいる。
やり場がなくてネイルを見る。自分の爪とは思えないくらいつるつるの表面をなでて楽しむ。
少しずつ場に慣れてきた分、自分の感覚の方がいちいち気になって神経がぴりついた。息をするたびにファンデーションのにおいがする。さっきからずっと目の端がかゆい気はしてるけど、触ったら終わりだからねと釘を刺された以上手は出せなかった。まばたきする度に上下のまつげが若干くっつくのも気になって仕方がない。マスカラをした後のまつげの伸びには感動したけど、こんなにべたつくだなんて思ってなかった。
メイクしてる女子ってみんなこれ耐えてるのか。
と、思ってちらっと盗み見た坂井の横顔は、どういうわけか妙にさっぱりしていた。
自力で引くのめっちゃむずいんだからねこれ、と散々言っていたアイラインの端が、きれいに跳ね上がっている。これまでだって綺麗に跳ね上がってたんだろうそれが、今日初めて存在を主張し始めたような感じがした。
きれいだと思った。
ふわりと胸に降りてきたものを、そっとつかまえるように口をひらく。
「きれいじゃん」
「ん?」
抑えた声で言ったのに元気な返事が返ってきてちょっと面食らう。アイライン、と付け足すと、途端にスケべ親父みたいな顔でにやあと笑った。
「でっしょ~!?」
なんか、何かは分からないけど、かなり台無しだった。
「ふふん、知ってた~」
大げさなくらい胸を張り、これでもかとアイラインを見せつけてくる。
「渾身の漢気イケメンライン」
「……何だそれ」
「なんかほら、横浜流星みたいなさ。キリッ! ビシィ! かっけー!みたいな。イメージね? イメージ」
「ふうん」
熱量がよく分からないし、まず横浜流星の目元がまず思い出せないんだよな、と思う。ていうか、男の目をイメージして寄せるメイクってありえるんだ、とも思う。
――いや。
あんまり、そういうの関係ないのかな、とも。
「いいね」
へへ、と坂井は笑った。
「すいませーん」
考えてる間にも席が埋まっていく。同じ列に座る人たちが通路を上がってきては、目の前をゼロ距離で通過していった。けど誰も別に、立ち止まったりなんかしない。大きめの荷物を抱えた人のために一旦立ってあげて、座り直すタイミングでたまたま見えた前の席の人のロック画面があのドリだった。俺もちょっとにやつく。この前配信で見たライブのワンシーンだ。分かる。割と普通のコーナーだったのに、そのくだりから段々いい画になって、めちゃくちゃ面白かった。
ああそうか、と当たり前のことが腑に落ちた。
ここにいる人、全員あのドリを見に来てるんだ。
いくらも経たないうちに開演前のアナウンスが始まる。
「本日は、あの日のドリンクバー初単独ライブビューイングにご来場いただき――」
「 現 地 や ! ! 」
どっと会場が笑う。たぶん録音とかじゃない、二人の生の声だ。今まさに袖で出番を待ってる二人を感じる喋りに、熱量を持った客席が応えているのがよく見えた。気付いたら声を上げて笑ってた。一瞬はっとしたけど、もう、そのまま諦めた。誰もこっちを振り返らなかったし、気にするそぶりも見せなかった。何より、そもそも今日俺笑いに来てるんだしな、と思った。笑ったら思い出した。
「おなか冷えてるギリシャ人の方おられましたらスタッフさんに言うてくださいね」
「はい! もう最優先で対応さしてもらいます」
「てかさ、俺このギリシャの服? 一応調べたんやけどさあ――」
「お前オープニングトークを取っとこうという計画性はないんか?」
隣の坂井がけらけら笑っているのが聞こえてちょっと安心する。アナウンスが終わって、会場の雰囲気もちょっとだけ緊張を帯びたように感じる。癖で頬を掻きそうになったのをギリギリのところで踏みとどまって、ふと会場に入る前のやり取りを思い出した。
――鉢巻ギュッてするみたいなこと。っしゃおらあ!って。
「……リップ、塗っていい?」
この質問だけは何故か、返事が無音だった。眉を跳ね上げた坂井はうんうんと明るく頷いて、バッグから出したグロスを渡してくれた。
「あんまやるとべっとりなるから、おまじない程度ね。真ん中のほうに乗せて、んー、ぱ、って」
「ん」
とろりとした液体をまとったチップを、唇の上にそっと滑らせる。ほんのり冷たいそれはあっという間に体温に馴染んで、ん、と唇を合わせてしまえばもう分からなかった。
「んー、」
ぱ。
坂井の声に合わせ、小さな音を立てて唇を開く。横目で判断を仰ぐと、坂井は名門野球部の監督みたいな顔でふんふん頷いていた。
「うむ。ばっちし。マジべっぴん。もう、本当にきれい。美人。最高」
無駄に畳みかけてくる褒め言葉に、グロスのキャップを戻しながら少し笑った。
「知ってる」
ぴた、と隣の坂井が静止したのが分かった。無言でグロスを差し出しながら、思いっきり沸騰した血流が顔から耳から真っ赤にしている気配を感じた。流石に恥ずかしいことを言った。でも、不思議と後悔はない。なんならちょっと、言えてうれしい。
今横を向いたらたぶん、最高に楽しそうで最高に腹立つ顔の坂井が見られるんだろうなと思った。
「おぉ~……!?」
謎のスローモーションで伸びてきた手が、ぬるっとグロスを受け取って引き返していく。
「言うねえ~~……!!」
「ふはっ」
コメントも声量もおっさん過ぎた。流石に笑った。
「うるさい」
「ごめ」
絶対反省してない坂井にはもうそれ以上言わなかった。
サイレントモードと機内モードを三回ずつ確認したスマホを鞄にしまい込んで、膝を閉じて座り直す。最後列だからいくら背筋を伸ばしたっていい。どんな見た目でも舞台からはよく見えないし、そもそもそんなの関係なく笑って帰ればいいだけだし。……坂井によれば、今日の俺は美人でべっぴんで最高らしいし。坂井によればだけど。
グロスの感触を唇で確かめて、まばたきをして、まっすぐ舞台を見つめる。かかっていた曲がうねるように大きくなって、客席の照明が少しずつ落とされていく。
暗転していく客席で最後にもう一度、マグネットネイルのきらめきを見た。
大丈夫。楽しめる。――楽しもう。
一瞬の静寂。
――幕が上がる。
fin.




