第9話 氷原の巨鯨(アイス・ホエール)と、幻の尾の身
ズゴゴゴゴゴ……!
地響きと共に、氷盤が捲れ上がった。 天ぷらの香ばしい匂いが漂っていた穏やかな湖上は、一瞬にして崩壊の危機にさらされた。
「ひゃあああっ! 氷が! 氷が割れますぅぅ!」 「馬車を押さえろ、リズ! 転覆するぞ!」
ボルグが叫ぶと同時に、砕け散った氷の飛沫を上げて、その巨体が姿を現した。 全長二十メートル。 全身が青白い氷のような硬皮に覆われた、陸生のクジラ――『氷雪クジラ(アイス・ホエール)』だ。 本来は深海に棲む怪物だが、呼吸と捕食のために氷を突き破って飛び出してきたのだ。
グオオオオオオオッ!
咆哮が大気を震わせる。 クジラは大きく口を開け、ボルグたちを氷の欠片ごと丸呑みにしようと迫る。
『デカい……! 素晴らしいぞ! これぞ我が斬るべき敵だ!』
魔剣グラムが歓喜に震える。
『さあ人間! 我が力を使え! 黒き波動でこやつを消し飛ばしてやろう!』 「馬鹿野郎、消し飛ばしてどうする!」
ボルグは魔剣を構え、真正面からクジラの巨体に突っ込んだ。
「爆破すれば肉が散る! 焦げれば味が落ちる! こいつは『刺身』で食うんだ!」 『またそれかァァァッ!』
ボルグは跳躍した。 空中で落下してくる氷塊を足場にし、さらに高く舞う。 眼下には、大きく開かれたクジラの口腔。そして、その背後に広がる広大な背中。
(狙うは一点。延髄斬りだ)
巨大な獲物を仕留める際、暴れさせれば筋肉に乳酸が溜まり、酸味が出てしまう。 美味しく食べるためには、相手に死んだことすら気づかせない「即死」が必要不可欠。
「そこだッ!」
一閃。 空中で紫色の軌跡が走った。 ボルグはすれ違いざま、クジラの首筋(にあたる部分)にある、ごくわずかな装甲の隙間を貫いた。 剣圧も、衝撃波も出さない。 ただ、針を通すような精密な刺突。
ドサァァァァァッ……!
巨大なクジラが、氷の上に横たわった。 まるで眠るように静かな最期だった。
*
「す、すごいです……あんな怪物を一撃で……」
腰を抜かしているリズの前で、ボルグは早速解体に取り掛かっていた。 巨大な包丁(魔剣)が、分厚い皮下脂肪をスルスルと切り裂いていく。
「氷雪クジラは全身が宝の山だ。皮は湯引きに、赤身はステーキに、舌は煮込みにすると最高だ」
ボルグの手が止まることなく動く。 そして、尾の付け根あたりから、ひときわ美しい肉の塊を切り出した。 鮮やかなピンク色に、雪のような白い脂のサシが網の目のように入っている。
「出たな。これが『尾の身』だ」 「おのみ……?」 「クジラの中で最も脂が乗り、かつ最も運動する部位だ。マグロで言えば大トロ以上の価値がある」
極寒の気温が、天然の冷蔵庫の役割を果たしていた。 ボルグはその場で『尾の身』を薄造りにし、皿に並べる。 取り出したのは、小瓶に入れた醤油と、すりおろした生姜。
「こいつは火を通しちゃいけない。体温で溶ける脂を味わうんだ」
リズは箸を受け取り、美しいピンク色の切り身をつまんだ。 醤油をちょんとつけ、口へ運ぶ。
「……んッ!!」
リズの目が大きく見開かれた。 噛む必要がなかった。 舌に乗せた瞬間、体温で上質な脂が「ジュワッ」と溶け出したのだ。 濃厚で甘い脂の旨味。けれど、獣肉のような臭みは全くなく、生姜醤油の香りが後味をさっぱりとさせてくれる。
「甘い……! お肉なのに、お砂糖みたいに甘いです! それに、コクがすごい!」 「全身に脂を蓄えているからな。陸の獣には出せない味だ」
ボルグも一切れ口に放り込み、唸る。 「……酒だ。熱燗がいるな」
雪原の真ん中で、巨大なクジラの死骸を風除けにして、二人は舌鼓を打った。 白い息を吐きながら食べる、冷たくも濃厚な刺身。 体の芯から力が湧いてくるようだ。
『……おい』
解体作業で脂まみれになったグラムが、疲れ切った声で呟いた。
『我、ドラゴンとか斬りたいんだけど。そろそろ「英雄」っぽい仕事しない?』 「立派な仕事だ。このサイズの肉があれば、一ヶ月は食い繋げる」
ボルグは残りの肉を丁寧にブロックに切り分け、雪の中に埋めて急速冷凍していく。 皮下脂肪(本皮)は塩漬けにして保存食に。 これでしばらく、食料の心配はない。
「さて、リズ。腹も満ちたし、保存食もできた」 「はい! お腹いっぱいです!」 「なら、出発するぞ。このクジラの皮を使って、馬車の車輪を『ソリ』に改造する」
雪原の旅はまだ続く。 目指すは雪山を越えた先にある、北の交易都市。 そこには、ボルグの過去を知る人物がいるかもしれない――そんな予感を少しだけ孕みつつ、キッチンカー(ソリ仕様)は滑るように走り出した。




