第2話 鉄の皮を持つ豚と、繊細なる火加減
街道いの沿森を、小鳥のさえずりを無視するような不穏な怒声が切り裂いていた。
『暇だ!退屈だ!血が足りん!』「うるさいな。少し黙っていろ」『貴様、我を抜いてから三日だぞ?その間、切ったものと言えば倒木と藪と、あとなんだ、昨日の巨大カエルか!ヌルヌルして気持ち悪かったぞ!』
ボルグの腰に差された魔剣グラムは、鞘の中でブンブンと震えて抗議していた。魔剣の振動が腰骨に伝わり、ボルグはあくびを噛み殺しながら頭をかく。
「あのカエル、皮を剥いで唐揚げにすると鶏肉より上品な味がしただろう」『知らん!我に味覚はない!我に必要なのは恐怖と絶望の悲鳴だ!』「そうか。俺はまだ少し、昨日のニンニクの風味が恋しいがな」
平和なやり取り(一方的な罵倒だが)を続けていると、風に乗って微かな匂いが鼻をかすめた。獣臭だ。それも、強烈な興奮状態にある獣の。
「……来るな」『ほう?ようやく殺し合いか?』
直後、前方の茂みが爆発したかのように吹き飛んだ。飛び出してきたのは、一人の少女だ。軽装の革鎧に、ショートボブの赤髪。冒険者風情だが、その顔は恐怖で引きつり、左腕からは血が滴っている。
「は、速い……ッ!」
彼女が悲鳴を上げながら転倒した。その背後に、巨大な黒い影が迫る。体高は三メートル近い。全身が黒光りする金属のような剛毛に覆われた、巨大な猪だった。
「アイアン・ボア……!なんでこんな街道近くに!」
少女が絶望の声を漏らす。アイアン・ボア。その名の通り、鉄板のような皮膚を持つ魔獣だ。生半可な剣や矢は通じず、突進の一撃は城門すら破壊する。Cランク冒険者のパーティが束になっても苦戦する相手だ。
少女が死を覚悟して目を閉じた、その時。
「お前、邪魔だ。どいてろ」
ドス、という低い足音と共に、薄汚れたオッサンが少女の前に割り込んだ。手には、禍々しい紫色のオーラを放つ長剣が握られている。
『ヒャハァッ!豚だ!豚でもいい、切り刻んでやるァ!』「馬鹿野郎、みだりに傷をつけるな」
ボルグは突進してくる巨大猪を前にしても、構えすら取らなかった。ただ、鋭い眼光で、迫りくる肉の塊を「検分」する。
(アイアン・ボアか。こいつの肉は赤身が美味いが、興奮させて暴れさせると筋肉が硬くなるし、血が回って臭みが出る)
猪の鼻先が、ボルグの目前数センチに迫る。少女が「危ない!」と叫ぶ暇もなかった。
「一撃で、活ける」
閃光。ボルグが踏み込みと同時に魔剣を一閃させた。だが、それは斬撃ではなかった。剣の切っ先を、猪の眉間――分厚い頭蓋骨の隙間にある、針の穴ほどの神経の集約点へと「突き刺し」、そして瞬時に引き抜いたのだ。
ズプッ、という湿った音がしただけ。巨大な猪は、自分が死んだことに気づかないまま、慣性だけで数メートル滑り、ボルグの足元でゴロンと横倒しになった。痙攣一つしない。即死だった。
『……あ?』
魔剣グラムが呆気にとられた声を出す。
『貴様……今、脳幹だけを正確に破壊したな?我の切れ味を使うなら、頭ごと叩き割ればよかろうに』「頭蓋骨を割ると脳漿が飛び散るだろ。あとで脳ミソのバターソテーを作る時、下処理が面倒になる」『……』
ボルグは少女の方を振り返ると、無愛想に言った。
「怪我はないか、嬢ちゃん。……ああ、その様子だと立てそうにないな。ちょうどいい、飯にしていくか」
「い、いただきます……」
少女――新人冒険者のリズは、震える手で木皿を受け取った。目の前では、命を救ってくれた恩人が、巨大な猪を手際よく解体している。伝説の魔剣グラム(リズはそれが何か知らないが、とにかくヤバそうな剣)が、鉄よりも硬い猪の皮を、まるで完熟トマトの皮のようにスルスルと剥いていく光景は、ある意味でモンスターより怖かった。
だが、漂ってくる匂いは凶悪だった。焚き火の上で焼かれているのは、骨付きのあばら肉。香草と一緒に焼き上げられ、滴り落ちる脂が炭火で燻され、香ばしい煙を上げている。
「アイアン・ボアは皮が硬いが、その分、中の肉は蒸し焼きにされたように柔らかいんだ。ほら、食え」
ボルグがナイフで切り分けた肉を差し出す。リズはおずおずと口に運んだ。
「ん……ッ!?」
言葉を失った。カリッと焼かれた表面を噛み破ると、中から熱々の肉汁が奔流となって溢れ出す。野生の獣特有の臭みは全くない。血抜きの完璧さと、下味に使われたハーブ(そこら辺の雑草に見えたが)の香りが、肉の甘みを極限まで引き立てている。
「おいひい……!なにこれ、美味しいです!」「そうか。そりゃよかった」
ボルグ自身も肉にかぶりつき、満足げに頷く。
「やはり魔剣の切れ味のおかげだな。肉の繊維を押し潰さずに切断してるから、舌触りが滑らかだ」『褒められても嬉しくないぞ!我は「貴様の血は鉄の味がする」とか言われたいのだ!「舌触りが滑らか」とかいう感想はいらん!』
脳内で喚く剣を無視し、ボルグは干し肉を入れた袋から、小さな瓶を取り出した。
「仕上げに、この『特製スパイス』をかけると味が化ける」「スパイス……ですか?」「ああ。戦場の瓦礫の下から見つけた古代の文献に載っていたんだがな。乾燥させた唐辛子と、柑橘の皮、あと数種類の木の実を砕いて混ぜたものだ」
パラパラと赤い粉末をかける。脂っこい肉の味が、ピリッとした辛味と爽やかな香りで引き締められ、いくらでも胃袋に入りそうだ。
「おじさん……いえ、ボルグさん。あなた、一体何者なんですか?あんな剣技、騎士団長クラスでも見たことありません」
リズの問いに、ボルグは肉を飲み込んでから、短く答えた。
「ただの無職だ」『嘘をつけ!世界を滅ぼす魔王候補だと言え!』「これからは、ただの料理人になりたいんだがな……」
ボルグは遠い目をして、森の奥を見つめる。その視線の先には、新たな「食材」の気配があるのかもしれない。リズは、この不思議な強面の男と、絶品の猪肉を交互に見つめ、それから夢中で肉にかぶりついた。生きていてよかった、と心から思いながら。




